紅蔑のバルバロイ
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夏の終わりごろ、俺は彼女と出会った。
常識的に考えて速すぎる。視線で追えるのは遠距離までだ。航空戦圏内に入れば見たと思った時には交錯している。接触事故を起こさないのは向こうのパイロットの腕がいいからだ。いままでも、機銃による出会い頭のショートパンチで面白いようにこちらの戦闘機が落とされてきた。空まで来ているものだから、人の命なんて軽いものだ。
俺はラダーを踏み抜いて操縦桿を傾けた。教練でやったら墜落判定を出されそうな錐揉み回転をさせて一瞬失速、航空戦から離脱する。相手が速すぎるのにこちらもそれに付き合う必要はない。しかしマトになるわけにはいかないから、すぐに最低限の航空揚力は翼から再生産する。俺も上手になったものだ。
ゴーグルは邪魔なので外した。どこかから隙間風でも入っているのかやたらに目が染みる。整備の連中め、ネジを節約しやがって。おかげで涙で霞む視界の中でベースボールの速球のような敵機を追跡する羽目になった。そして俺は再び敵機を見つける。
単座式の単葉機だ。俺たちが乗っているベリクシスよりも小型で、非武装の練習機に近い。が、向こうのはおそらく7.7mmと20.5mmのガンを積んでる。いったいなにをどうしたら充分な弾薬をあの小型な腹に収められるのか知りたい。大食いなのか? 金曜日になったらディナーでジョークにしてやる。
やつらが護衛している輸送船団と俺たちの間には、まだかなりの距離がある――逃げられる前に敵機を落とし、同行している爆弾女を空の死骸にしてやる必要があるというのに、俺の僚機はすでに一機撃墜されていた。敵の爆撃機の機銃に煙を噴かされ、それを目印にした敵の二番機に落とされた。五年も兵隊やって爆撃機に落とされてちゃ世話がない。俺が手本を見せてやる。
スライドマヌーバしながらベリクシスの左翼を振り、ドッグファイトに持ち込むことを三番機とクアルガ(水上機)に伝達。翼に指でもあればもう少し気の利いたサインの交換が出来るのだが、そんな未来は訪れそうもない。
後続機に『俺』を撃たせながら、俺はベリクシスを上昇させる。間髪差で機体の腹をかすった銃弾が敵機の進路方向に弾幕を張る。そんなものはかわされて当然だが、その間に俺は高空位置を手に入れる。三番機と水上機なんかくれてやる。その間に本命を撃墜させてやる。
敵爆撃機はなぜか逃げない。どうやら俺の二番機を落としたシングルファイターを援護するつもりらしい。ずいぶんと情に厚いことだ。猟銃をぶっ放しても逃げない獲物がいるとは驚きだが、俺からすれば落とせればなんでもいい。――とにかく、あの戦闘機を討つ。それしかない。
高空指数三千八百、俺はそこでベリクシスをターンさせ、急降下姿勢を取った。八百メートル下では俺の三番機が泡を噴きながらあの戦闘機とやりあっている。もう少し重なってくれれば――そう思ったところでちょうど二機が交錯しそうな瞬間があった。クアルガの姿はない、俺が見ていない間に落とされたらしい。まあいい――俺は子供の落書きのように急降下しながら、ガンの引き金を引いた。
撃てば僚機に当たるところで奇襲を喰らうとは思わなかったろう。
「!」
だが敵機は直前でストールして俺の斜線から逸れていった。無茶な動きだ、翼が自壊したらどうする――だが、敵機はそれをやり、俺はまんまと自分の部下機を火だるまにして青い海に落とした。白い波飛沫が上がるのを見た時には、俺は高度二千二百まで流れ落ちてきてしまっていた。俺は頭上を見た。敵戦闘機が凱旋するかのようにターンしている。
眼がいいのか、カンがいいのか、読みが鋭いのか、それとも――
俺はチラッと敵機が守り抜いた爆撃機を見た。俺の水上機を落としたのはやつらかもしれない。復讐に出向いてもいいが、あの戦闘機とタイマンを張る気にはなれなかった。もうすぐ新型も届く。こんなオンボロ戦闘機で敵のエース相手に心中は御免だ。俺は生きる。
俺は高度をさらに下げた。敵戦闘機は当然、敗残の兵である俺を追うそぶりを見せてくる。だがどうだ――今日は雲も多いし増援だってまだあるかもしれない。それなのに爆撃機を置き去りにできるかな? 任務と戦果、どちらを取るタイプの戦闘機乗りなのかこれで分かる――来るなら相手をしてやる。俺は死ぬが。
だが、敵機は来なかった。俺は海面すれすれまでベリクシスを下ろし、翼で波を切るように滑空した。ほとんど自殺行為だが、接近してくれば巻き込んで海に引きずりこんでやる。――直下が海ではヒットアンドアウェイはできない。俺と本気でやるなら、死ぬことは覚悟してもらう。
太陽の光が波に乱反射し、視界が効かなくなった頃に振り返ると、もう敵の戦闘機も、爆撃機も、輸送船団も見えなくなっていた。任務失敗――僚機全滅。だが俺の知ったことじゃない。作戦報告書なんかいくらでも捏造してやる。
燃料を惜しんで海上飛行を続けながら、俺はうとうとした。ホルダーにストックしてある炭酸水の栓をゴーグルの金具でぶち壊し、一気に煽る。戦闘圏内から外れ、いよいよ緊張の糸がだめになると、さっき見たものが蘇ってきた。
一瞬だった。
だが、俺は確かに見た。
あの戦闘機のキャノピの向こう側、パイロットの顔を。
若い女だった。
「戦果より任務、自分より仲間か」
俺は、俺を追って来なかった戦闘機が帰っていったであろう海の先を振り返った。
「――俺には分からんね」
空き瓶を振って、俺はシートに思いっきり背中を預けた。
基地に戻ったら、有給申請をくれてやる。