ミシュガルド冒険譚
永久に輝け誓いの炎:4
―――――
ひんやりとした風が洞窟の中を抜け、上から落ちた水滴が肩を濡らす。
気にした風でもなくニッツェは静かに笑った。
それは喜びではなく期待に満ちた笑みである。
洞窟内は暗く、魔法による仄明かりだけが彼女を照らしている。
浮き上がる陰影は彼女の笑みの怪しさを強めている。
「麗貌の同胞ニツェシーア。……その笑みはどういうこと?」
それを見逃さず、幼い少女の風貌をしたエルフはニッツェの名を呼んだ。
容姿に似合わずその眼光は鋭く、声色も硬い。
テロ組織エルカイダの中心に坐する魂依の同胞にして漆黒の英雄、ダピカだ。
ニッツェは恭しく自らの水晶をかかげ、ささやくように告げた。
「明日、時代に1つの区切りが訪れます。神の意思。神の遺志。すべては混ざり合い、我ら亜神の悲願は一人の少年のもとに集うこととなるでしょう」
エンジェルエルフであるニツェシーアの予言が外れることはない。ここまで言い切るのならば確実に明日、何かが起きるのだ。
しかし、とばかりにダピカは眉をひそめた。
「少年、とは…前に話していたケーゴという少年のこと?」
「おそらくはそうでしょうね。」
目に険が宿る。
少女の纏う魔力が激しさを増す。
もともと探査避けとして洞窟中に満たされていたダピカの魔力がざわめく。ニッツェは肌が痛むのを感じた。
「亜神は人を許さない」
確かめるかのようにダピカはゆっくりと唱えた。
神代の時代に亜神がその身に刻んだ誓い。ヒトの世では神話と呼ばれる空想物語のような事実。
「どうして人の子供に我らの命運が握られることになるの…?」
ニッツェは応えない。予言以上の未来は彼女には読むことはできない故に答えることができないというのが正しい。
あるいは別の、自分よりも力を持つエンジェルエルフならばこの水晶が見せる未来をさらに正確に読み取ることができるのかもしれない。
しかし、それほどの力を持つエンジェルエルフをニッツェは一人しか知らない。そしてその同胞がエルカイダのために力を貸すとは到底思えなかった。
彼女、ソフィアはエルフ至上主義であり、亜神であれば誰でも受け入れるエルカイダをよしとしていないのである。
「この魔力はどうしたことだ」
不意に低く唸るような声が響いた。
ゆらりと現れた影はダピカよりもはるかに大きく、影が彼女を飲み込む。
「雑兵たちが怯えている。お前の魔力はそこに在るだけで影響が強いのだぞ」
熊の姿をした亜神、ロー・ブラッドは諫めるような口調でそう述べる。
このままヒートアップしていけば力の弱い構成員たちが無事ではない。それは彼女も不本意なので、ダピカはゆっくりと呼吸をし、心を鎮める。
「見極めるしかあるまいよ。ケーゴというその少年が我らにふさわしき未来か否か」
唸るようなローの声。ダピカは彼とて予言は不快なのだと感じた。
無理もなかろう。エルカイダの構成員は多かれ少なかれ人間に恨みを持っているのだ。
しかし、古の教義をその胸に宿すのはその中でも一握りだ。
亜神は、神は、人を決して許さない。
「見極める、か」
ダピカは顎に手を当てた。
神の力をその手の内に持つ少年。そして彼と共にいるというエルフの少女。
果たして予言の真意は。精霊樹に宿るはずの神意は。
思案の後に彼女はゆっくりと宣言した。
「ならば、私が見極めよう。この世界の行方を。我らの進むべき道を」
ダピカの言葉をエミリー・マンネルは岩陰に隠れ、何かを憂うように聞いていた。
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ひんやりとした風が洞窟の中を抜け、上から落ちた水滴が肩を濡らす。
気にした風でもなくニッツェは静かに笑った。
それは喜びではなく期待に満ちた笑みである。
洞窟内は暗く、魔法による仄明かりだけが彼女を照らしている。
浮き上がる陰影は彼女の笑みの怪しさを強めている。
「麗貌の同胞ニツェシーア。……その笑みはどういうこと?」
それを見逃さず、幼い少女の風貌をしたエルフはニッツェの名を呼んだ。
容姿に似合わずその眼光は鋭く、声色も硬い。
テロ組織エルカイダの中心に坐する魂依の同胞にして漆黒の英雄、ダピカだ。
ニッツェは恭しく自らの水晶をかかげ、ささやくように告げた。
「明日、時代に1つの区切りが訪れます。神の意思。神の遺志。すべては混ざり合い、我ら亜神の悲願は一人の少年のもとに集うこととなるでしょう」
エンジェルエルフであるニツェシーアの予言が外れることはない。ここまで言い切るのならば確実に明日、何かが起きるのだ。
しかし、とばかりにダピカは眉をひそめた。
「少年、とは…前に話していたケーゴという少年のこと?」
「おそらくはそうでしょうね。」
目に険が宿る。
少女の纏う魔力が激しさを増す。
もともと探査避けとして洞窟中に満たされていたダピカの魔力がざわめく。ニッツェは肌が痛むのを感じた。
「亜神は人を許さない」
確かめるかのようにダピカはゆっくりと唱えた。
神代の時代に亜神がその身に刻んだ誓い。ヒトの世では神話と呼ばれる空想物語のような事実。
「どうして人の子供に我らの命運が握られることになるの…?」
ニッツェは応えない。予言以上の未来は彼女には読むことはできない故に答えることができないというのが正しい。
あるいは別の、自分よりも力を持つエンジェルエルフならばこの水晶が見せる未来をさらに正確に読み取ることができるのかもしれない。
しかし、それほどの力を持つエンジェルエルフをニッツェは一人しか知らない。そしてその同胞がエルカイダのために力を貸すとは到底思えなかった。
彼女、ソフィアはエルフ至上主義であり、亜神であれば誰でも受け入れるエルカイダをよしとしていないのである。
「この魔力はどうしたことだ」
不意に低く唸るような声が響いた。
ゆらりと現れた影はダピカよりもはるかに大きく、影が彼女を飲み込む。
「雑兵たちが怯えている。お前の魔力はそこに在るだけで影響が強いのだぞ」
熊の姿をした亜神、ロー・ブラッドは諫めるような口調でそう述べる。
このままヒートアップしていけば力の弱い構成員たちが無事ではない。それは彼女も不本意なので、ダピカはゆっくりと呼吸をし、心を鎮める。
「見極めるしかあるまいよ。ケーゴというその少年が我らにふさわしき未来か否か」
唸るようなローの声。ダピカは彼とて予言は不快なのだと感じた。
無理もなかろう。エルカイダの構成員は多かれ少なかれ人間に恨みを持っているのだ。
しかし、古の教義をその胸に宿すのはその中でも一握りだ。
亜神は、神は、人を決して許さない。
「見極める、か」
ダピカは顎に手を当てた。
神の力をその手の内に持つ少年。そして彼と共にいるというエルフの少女。
果たして予言の真意は。精霊樹に宿るはずの神意は。
思案の後に彼女はゆっくりと宣言した。
「ならば、私が見極めよう。この世界の行方を。我らの進むべき道を」
ダピカの言葉をエミリー・マンネルは岩陰に隠れ、何かを憂うように聞いていた。
―――――
――もう、長くない。
――どれだけ頑張っても、人間の体は耐えられないのね。残念。せっかく――様も心を許してくれたのに。
――我は多少の興味を持っただけだ。人間に心を許すなどあり得ぬ。
――ふふ、そうですか。……結果として利用してしまっただけだった。ごめんね、ケーゴ。
――――
その気配に気づいたのはシンチーだった。
獣とは違う。足音をできるだけ立てないように動く、人のものだ。
それと、荷馬車の車輪が軋む音も。
「シンチー?」
様子に気付いたロビンが腰を上げる。
警戒しろと、目で訴える。
ちょうど戻ってきたケーゴとアンネリエも身を固くする。
少し離れてはいる。半亜人の聴覚だからこそ捉えられるものだ。だが、この夜更けになぜ移動をする。
試案したのと同時に、背筋を視線が指した。
「背後!」
叫ぶと同時に剣を振り上げた男が躍り出た。
視線は感じたが、狙いはこちらではない。注意が別のところに向けられていたのを確かめていたのだ。
現れた男が剣を振り上げた先にいたのは。
「アンネリエ!」
ケーゴがアンネリエと男の間に割り込む。短剣で男の剣を防ぐ。
「ちぃ、小僧。なかなかいい反応しやがるな。そこの亜人女がボディーガードかと思って警戒していたが…お前、本当にあの交易所の騒動を解決しただけの力があるようだな」
隻腕に義足の男。ベルトランドだ。
「アンネリエを狙ったな…!」
ケーゴが唸る。黒曜石の瞳に緋色が走った。
まためまいがした。体幹が崩れそうになるが、今はそれどころではない。
「一体何なんだよお前!」
ベルトランドはせせら笑った。月光が作る顔の印影が彼の邪悪さを増している。
「別に誰でもいいだろ、そんなもの。俺はそこのエルフ女の持ってる杖が欲しいんだよ」
「そのために仲間を?」
シンチーも剣を抜き尋ねた。
ベルトランドはケーゴから間合いを取り肩をすくめた。
「仲間というほどではないが…少し状況を利用させてもらったのさ」
「状況だと?」
ベルウッドを背後に避難させつつロビンも口を開いた。襲撃を受けるのはこの大陸で初めてではない。以前軍人に囲まれた時よりはるかにマシな状況だが、楽観視はしない。
「そうだ。今俺はお仕事の途中でね。できればさくっとそこのエルフ女を殺して杖だけ奪ってばれないうちにまた合流したかったんだが…」
どうやらそうもいかないようだな、と口元を歪める。
「お前…!」
内心で暴れる炎がケーゴの顔に紅蓮の文様として表れ始める。
すぐにでも目の前の男を殺してしまいそうなケーゴの剣幕にベルウッドが肝を冷やしたその時だ。
「…やはり信用には足りなかった」
低く、唸る声がした。口調は断定の言い切り。
「ベルトランド、これはどういうことだ?金の分は働いてもらわないと困るのだがな」
もう1つ、ベルトランドとは別の、しかし彼に似て下卑た男の声。
シンチーは瞠目した。
目の前の男に気を取られて近づいてくる気配に気づけなかった失態にではない。
声の持ち主を知っていたからだ・
「へへ、ばれちまった。だが旦那、あんたにも得な話じゃねえか。大好きな亜人の女がここには3人もいるぜ?」
「よく言う。もともと俺の仕事ではなくこっちが目的だったのだろう」
「まぁな。あの交易所の騒動を解決したガキ共を新聞で見て、そこの女の杖に気づいた。どうにか手に入れたいと考えていた時にあんたらからの依頼が入ってな。大いに利用させてもらうことにしたんだ。今日に合わせてガキ共もクエスト発注所の依頼でここまできてもらった。ここまでは完璧だったんだがな」
「ふん、抜け目のない奴だ」
まんまと嘘の依頼でこもまで釣りだされてしまったことを知ったが、今はそれどころではない。
衝撃で固まってしまったシンチーや、散々警戒しろと言われ続けた人物に出会ってしまい呆然とするケーゴ達に代わり、ロビンが重々しく口を開いた。
「奴隷商ボルトリックに…その付き人のガモか…」
それが正解であるとばかりにボルトリックはにんまりと笑った。
その特徴である金歯が月光に怪しく反射した。
――――――――
「フォビア家の子息が来た!?」
さしものドクター・グリップも素っ頓狂な声をあげた。
「先ぶれはなかっただろう?」
フォビア家は丙家の一門だ。こういった貴族が訪れる際には必ず事前に知らせが来る。
「それがお忍びで一人で来られたようでして…」
「……フォビア家ならここのことも知っているだろうから、大丈夫だとは思うが…」
戸惑うモーブ博士にではなく、自身に言い聞かせるようにそう呟く。
これが乙家や甲家の穏健派の一派なら先ぶれがないことを理由に追い返したいのだが、フォビア家はここの研究にも一枚かんでいる。
「通したまえ」
「かしこまりました」
「使える兵士が欲しい」
応接間。乱暴に来客用のいすに座ったのはフォビア家の次男であるレイン・フォビアだ。貴族らしい細緻な装飾が施された服。腰には細剣をさげている。
流れる水のように涼やかでさらさらとした灰がかった水色の髪は首のあたりでまとめられ、腰にかからない程度の長さだ。
グリップは彼の向かいに座り思案気に腕を組んだ。
先ぶれなしの来訪もそうだが、どうにも意図が読めない。
「兵士って…ここは傭兵の訓練所じゃないんだけどねぇ」
相手が貴族のはずだが、グリップの口調は変わらない。
対するレインも動じない。まだ成人には早い少年の姿であるが、眼光は冷ややかで鋭い。
「ここには改造兵士がいくらでもいるだろう。本国と関りがない兵士となるとこの研究所しかない。半竜人を脳改造して戦争に従軍させたことだってあったと聞いているぞ」
「亜人でいいってことかい?君、フォビア家の邸宅で亜人連れて歩き回る気?お父上が黙っていないよ?」
レインはそこでようやく冷静に考えるように服の装飾に手をやった。
「確かにそうかもしれないな…。だが、事態が事態だ」
数日前、兄であるウルフバード・フォビアが作った魔法の鳥が彼のもとに現れた。
水で作られた鳥はレインの手元で文字列に姿を変え、皇国内に内通者がいることを示した。
兄を疑う気はない。何か理由があってそれを悟り、そしてそれを誰にも知られぬようにレインに情報を託したのだ。
その内通者が誰なのか、それはこれから調べればいいのだが、なにせ1人だ。
情報をみだりに他のものに漏らすわけにはいかない。とはいえ1人ではできることが限られている。
故にレインは全く甲皇国とは関係ないであろう、亜人の改造兵士を求めようと考えたのだ。
なんなら脳の改造も受けていて自分に従順だろうし、ここの研究所の人間がアルフヘイムに加担していることはさらに考えにくい。なにせ主任のドクター・グリップは丙家当主ホロヴィズ将軍の右腕であるゲル・クリップの弟だ。
それに、亜人の改造兵士を使って皇国の情報を得るというのはあまりにリスクが大きい。
とはいえ、そんな事情を話す義理はない。
さて、どう説明しようかとレインが己の猪突猛進について自虐を始めようとした時だ。
「失礼いたします。お茶をお持ちしましたが…」
ノックの音とともに少女の声がした。
控えめ、というよりも単に小さな声だ。中にいる人間に聞かせる気があるのか、と文句を言いたくなる。
少なくともフォビア家の召使ならこの時点で父上が激昂するだろうと考えるレインだ。
「あぁ、入りたまえ」
グリップが入室を許可する。
恐らく正規の召使ではなくただの研究者だろう。丙家の身である自分に対してグリップが慌てて用意したのだ。
ドアが開き、どんな奴だろうとレインは目をやる。
やけに顔色の悪い少女だった。
エンジ色のワンピースタイプのドレスは研究者ではなく、どこか良家のお嬢様の様。
さらさらとまっすぐな金髪は一部三つ編みにしている。
左目を甲皇国の紋章が刻まれた布で覆っている。右目は宝石のような碧。しかし何故か宝石のような輝きとは別に、生の光を感じない。
耳の部分にある突起は一体何だろうか。エルフの耳を想起させる。
ちょっとした観察のつもりがいつの間にか睨んでしまっていたらしく、お盆を持ったその少女ひっ、と小さく悲鳴を漏らした。
女性をじろじろ見つめるのは失礼だと思い、しかし、こいつは確実にただの女じゃないだろうと自分の考えを否定する。
ここで作られた亜人の改造兵士だろうか。否、ならばこんな服装をしている必要はない。
正体をつかみかねるレインに対してグリップが意地の悪い笑みを見せた。
「ンフフ、この娘はね、死体さ」
テーブルにカップを置こうとした少女の手がびくりとこわばった。
「死体?」
レインは胡乱げに聞き返した。
「そう。前の戦争で娘を失った研究者がいてね。どうしても娘を生き返らせたいとこの研究所で色々やった結果だよ。結果として出来上がったのは死んだ娘の姿そっくりの、別人だったんだけどね。ハハハ」
「だから死体ってことか。どうせ人間の肉体だけじゃこんなことできない。エルフの肉体も使っているんだろう?」
結局亜人の改造と変わらないではないか、と思ったが研究者としてはそうではないらしい。
「亜人の改造というのはあくまでベースが亜人だからねぇ。さっきの半竜人だって、洗脳しただけだし、前に作ったカエンやイツエ…それにあの黒人魚だってそうだ」
知らない名前が並んだが、そこに興味はない。
「ベースが人間の死体だからこいつは人間ってことが言いたいのか?」
下がってよいと言われていないからなのか、少女はその場から去らない。震えながら立ち続けている。
レインはその姿に少し憐れみを感じた。
「そういうこと。ま、死んでるから人間って言えるかどうかは君の倫理観にお任せするけどね。結局お父様はこれに愛情を感じられなくてここに置いていったのさ。僕らとしても迷惑な話だけどね。仕方ないから色々小間使いとして使っているんだけど…」
そうだ、とグリップは舌なめずりをした。
「レイン君、この娘持っていきなよ。欲しかったんだろう?」
「んなっ!?」
丙家の人間たるもの、うろたえることなかれ。そんな父親の厳命を忘れレインは素っ頓狂な声をあげた。茶を口にしていなくてよかったと思う。
少女を見る。当の彼女にとっても衝撃的だったようで、震えは止まり、口をあんぐりと開けている。
「ドクター・グリップ、俺は兵士が欲しいと言ったはずだ!」
「こう見えてもフランは力だけなら亜人並みだよ?」
「そうなのか?」
フランという名前らしい少女に問うが、縮こまってしまい答えはない。
それが不満だが、作られてからずっとここにいるのなら、アルフヘイムの内通者である可能性は限りなく低い。
その博士とやらが内通者としてフランをつくり上げたのならここに置いていくことはあっても、その後連絡を取らないこともないだろうし、今の話ではフランは研究所の中枢に入り込んでいない。
こんな風に甲皇国の人間によって連れ出されるなどという偶然を待ち続けるのも非現実的だ。
多少顔色は悪いが、亜人を連れて歩くより体裁もいい。
「わかった。フラン、俺と一緒に来てもらう」
「あ、え、えぇと、はい…」
ようやく返事らしいものをもらった。
そうとなればもうここにいる理由もない。
茶を飲み干し、レインは挨拶もそこそこに部屋を出て行った。
「年のころも同じようだし、お似合いだよ!ぜひとも確かめてほしいのが、死体に生殖機能があるのか――…」
最後にグリップが何か言っていたようだが無視した。
「フォビア家の子息が来た!?」
さしものドクター・グリップも素っ頓狂な声をあげた。
「先ぶれはなかっただろう?」
フォビア家は丙家の一門だ。こういった貴族が訪れる際には必ず事前に知らせが来る。
「それがお忍びで一人で来られたようでして…」
「……フォビア家ならここのことも知っているだろうから、大丈夫だとは思うが…」
戸惑うモーブ博士にではなく、自身に言い聞かせるようにそう呟く。
これが乙家や甲家の穏健派の一派なら先ぶれがないことを理由に追い返したいのだが、フォビア家はここの研究にも一枚かんでいる。
「通したまえ」
「かしこまりました」
「使える兵士が欲しい」
応接間。乱暴に来客用のいすに座ったのはフォビア家の次男であるレイン・フォビアだ。貴族らしい細緻な装飾が施された服。腰には細剣をさげている。
流れる水のように涼やかでさらさらとした灰がかった水色の髪は首のあたりでまとめられ、腰にかからない程度の長さだ。
グリップは彼の向かいに座り思案気に腕を組んだ。
先ぶれなしの来訪もそうだが、どうにも意図が読めない。
「兵士って…ここは傭兵の訓練所じゃないんだけどねぇ」
相手が貴族のはずだが、グリップの口調は変わらない。
対するレインも動じない。まだ成人には早い少年の姿であるが、眼光は冷ややかで鋭い。
「ここには改造兵士がいくらでもいるだろう。本国と関りがない兵士となるとこの研究所しかない。半竜人を脳改造して戦争に従軍させたことだってあったと聞いているぞ」
「亜人でいいってことかい?君、フォビア家の邸宅で亜人連れて歩き回る気?お父上が黙っていないよ?」
レインはそこでようやく冷静に考えるように服の装飾に手をやった。
「確かにそうかもしれないな…。だが、事態が事態だ」
数日前、兄であるウルフバード・フォビアが作った魔法の鳥が彼のもとに現れた。
水で作られた鳥はレインの手元で文字列に姿を変え、皇国内に内通者がいることを示した。
兄を疑う気はない。何か理由があってそれを悟り、そしてそれを誰にも知られぬようにレインに情報を託したのだ。
その内通者が誰なのか、それはこれから調べればいいのだが、なにせ1人だ。
情報をみだりに他のものに漏らすわけにはいかない。とはいえ1人ではできることが限られている。
故にレインは全く甲皇国とは関係ないであろう、亜人の改造兵士を求めようと考えたのだ。
なんなら脳の改造も受けていて自分に従順だろうし、ここの研究所の人間がアルフヘイムに加担していることはさらに考えにくい。なにせ主任のドクター・グリップは丙家当主ホロヴィズ将軍の右腕であるゲル・クリップの弟だ。
それに、亜人の改造兵士を使って皇国の情報を得るというのはあまりにリスクが大きい。
とはいえ、そんな事情を話す義理はない。
さて、どう説明しようかとレインが己の猪突猛進について自虐を始めようとした時だ。
「失礼いたします。お茶をお持ちしましたが…」
ノックの音とともに少女の声がした。
控えめ、というよりも単に小さな声だ。中にいる人間に聞かせる気があるのか、と文句を言いたくなる。
少なくともフォビア家の召使ならこの時点で父上が激昂するだろうと考えるレインだ。
「あぁ、入りたまえ」
グリップが入室を許可する。
恐らく正規の召使ではなくただの研究者だろう。丙家の身である自分に対してグリップが慌てて用意したのだ。
ドアが開き、どんな奴だろうとレインは目をやる。
やけに顔色の悪い少女だった。
エンジ色のワンピースタイプのドレスは研究者ではなく、どこか良家のお嬢様の様。
さらさらとまっすぐな金髪は一部三つ編みにしている。
左目を甲皇国の紋章が刻まれた布で覆っている。右目は宝石のような碧。しかし何故か宝石のような輝きとは別に、生の光を感じない。
耳の部分にある突起は一体何だろうか。エルフの耳を想起させる。
ちょっとした観察のつもりがいつの間にか睨んでしまっていたらしく、お盆を持ったその少女ひっ、と小さく悲鳴を漏らした。
女性をじろじろ見つめるのは失礼だと思い、しかし、こいつは確実にただの女じゃないだろうと自分の考えを否定する。
ここで作られた亜人の改造兵士だろうか。否、ならばこんな服装をしている必要はない。
正体をつかみかねるレインに対してグリップが意地の悪い笑みを見せた。
「ンフフ、この娘はね、死体さ」
テーブルにカップを置こうとした少女の手がびくりとこわばった。
「死体?」
レインは胡乱げに聞き返した。
「そう。前の戦争で娘を失った研究者がいてね。どうしても娘を生き返らせたいとこの研究所で色々やった結果だよ。結果として出来上がったのは死んだ娘の姿そっくりの、別人だったんだけどね。ハハハ」
「だから死体ってことか。どうせ人間の肉体だけじゃこんなことできない。エルフの肉体も使っているんだろう?」
結局亜人の改造と変わらないではないか、と思ったが研究者としてはそうではないらしい。
「亜人の改造というのはあくまでベースが亜人だからねぇ。さっきの半竜人だって、洗脳しただけだし、前に作ったカエンやイツエ…それにあの黒人魚だってそうだ」
知らない名前が並んだが、そこに興味はない。
「ベースが人間の死体だからこいつは人間ってことが言いたいのか?」
下がってよいと言われていないからなのか、少女はその場から去らない。震えながら立ち続けている。
レインはその姿に少し憐れみを感じた。
「そういうこと。ま、死んでるから人間って言えるかどうかは君の倫理観にお任せするけどね。結局お父様はこれに愛情を感じられなくてここに置いていったのさ。僕らとしても迷惑な話だけどね。仕方ないから色々小間使いとして使っているんだけど…」
そうだ、とグリップは舌なめずりをした。
「レイン君、この娘持っていきなよ。欲しかったんだろう?」
「んなっ!?」
丙家の人間たるもの、うろたえることなかれ。そんな父親の厳命を忘れレインは素っ頓狂な声をあげた。茶を口にしていなくてよかったと思う。
少女を見る。当の彼女にとっても衝撃的だったようで、震えは止まり、口をあんぐりと開けている。
「ドクター・グリップ、俺は兵士が欲しいと言ったはずだ!」
「こう見えてもフランは力だけなら亜人並みだよ?」
「そうなのか?」
フランという名前らしい少女に問うが、縮こまってしまい答えはない。
それが不満だが、作られてからずっとここにいるのなら、アルフヘイムの内通者である可能性は限りなく低い。
その博士とやらが内通者としてフランをつくり上げたのならここに置いていくことはあっても、その後連絡を取らないこともないだろうし、今の話ではフランは研究所の中枢に入り込んでいない。
こんな風に甲皇国の人間によって連れ出されるなどという偶然を待ち続けるのも非現実的だ。
多少顔色は悪いが、亜人を連れて歩くより体裁もいい。
「わかった。フラン、俺と一緒に来てもらう」
「あ、え、えぇと、はい…」
ようやく返事らしいものをもらった。
そうとなればもうここにいる理由もない。
茶を飲み干し、レインは挨拶もそこそこに部屋を出て行った。
「年のころも同じようだし、お似合いだよ!ぜひとも確かめてほしいのが、死体に生殖機能があるのか――…」
最後にグリップが何か言っていたようだが無視した。