92話 考古学者ハルドゥ・アンローム
アルフヘイム軍の大半が寝返っていた。
問答無用とはこのことで、アルフヘイム軍の面々とは以前の大戦でも仲間同士だった者たちが決死の覚悟で呼びかけをするが、まったく聞く耳を持たれなかった。
どれだけ呼び掛けても、無言で攻撃魔法、矢、手槍などが飛んでくるだけである。
甲皇軍は「それ見たことか、やはり亜人どもなど信用できなかったのだ」としたり顔であり、かくなる上は立ちふさがるアルフヘイム軍を砲撃し、蹂躙すべきだと主張した。
「だがそれでは、かつての大戦を再開することになってしまう。三国協調も終わりであり、我らSHW軍も君たちと同盟を結んだままではいられなくなるぞ」
「ふん、日和見主義者どもが。ならば人類の敵である獣神帝とアルフヘイム軍がのさばるのを、手をこまねいて見ているだけか? 貴様らSHW軍も主要構成種族的には人間であろうが…!」
「SHW軍にも亜人兵はいるが……」
「そうだ、寝返った連中をちゃんと見たのか? SHW軍にいた亜人兵も寝返っているではないか! 人間だけで構成された我が軍は誰一人欠けてはおらんぞ!」
「確かに、それはそうだが……」
寝返ったのはSHW軍の亜人兵もであった。
それを言えば、アルフヘイム軍に所属する僅かな人間兵なども別に寝返ってはいなかった。
つまり、寝返ったのは亜人兵ばかりであり、人間兵は正気を保ったままであるのだ。
「亜人を狂わせる何かが起きたとしか思えないな」
と、アーベルが呟くと、ゴンザも同意するよう頷いた。
「ええ、そうでしょうな。そういえば、獣神帝に味方していた例の竜人アメティスタや、黒兎人のディオゴなど…。彼らは甲皇軍に対して恨みを抱いたり、獣神帝と同盟することで利得があるから寝返ったのだと思われていましたが、操られている可能性が高まってきました」
「……いずれにしても、甲皇軍が主張するようにこのままアルフヘイム軍と戦う訳にはいかない。幸い、寝返った彼らは立ちふさがるだけであり、こちらに積極的に襲い掛かってはこない。ここは一時退却し、作戦を練り直すのが得策だろう」
「はっ。甲皇軍の指揮官にそう打診してまいります」
ゴンザが甲皇軍を指揮するゲル・グリップに打診したところ、彼も同じ意見だった。さすがに大戦を生き延びた指揮官は冷静であった。
「我が軍としては亜人を殺すことにまったく躊躇はない。だが、無駄な損耗は避けるべきである」
実に平たい声である。
亜人絶滅主義者である甲皇軍の陸軍大将ホロヴィズの腹心であるゲル・グリップ大佐は、ユリウス亡き今、最もホロヴィズの意を汲んで動く軍人でもある。
「これを機に、裏切ったアルフヘイム軍と全面的に戦っても良いとすら思っている。そうなれば我が甲皇軍も必要性が本国に認識され、更なる軍備拡張も図れる。そう、君も傭兵なのだから、戦争は望むところではないのか? ハイランドのゴンザ?」
「……それは魅力的な申し出ですが、俺はあの一騎当千の精霊戦士なんかと戦うのはごめんですぜ」
「ふん、確かにな。この装備だけで連中と一戦交えても、勝てる保証はない。ゆえに、無駄な損耗は避けるべきと判断した」
「ええ、賢明ですな」
結局、甲皇軍とSHW軍は、その場からの撤退を決めた。
幸い、アルフヘイム軍は追撃はしてこなかった。
ただ、アルドバランへ通じる最後の洞窟を守るように、戦闘態勢を維持したまま彫像のように動かなかったのである。
撤退もまた命がけであった。
来た道をそのまま撤退するものの、アルフヘイム軍の魔道士の協力はないため、魔物の中でも物理的な攻撃が効きづらい固い敵に苦戦するし、味方の三分の一がいないというのは心細い。
傷ついても治癒魔術師が充実していたアルフヘイム軍に対し、軍医が僅かにいるだけの甲皇軍やSHW軍は心もとなかった。
ミシュガルド大交易所に戻った時には、行きの倍はたっぷりと時間がかかってしまったのだった。
大交易所の市民たちは、帰還した甲皇軍とSHW軍が予想以上にボロボロな有様であることに驚愕していた。
三大国が協力した世界最強であるはずの軍隊があっさりと敗北したことにも…。
市民たちは歓呼をもって迎え入れるのではなく、獣神帝の恐ろしさを噛み締めた沈痛な表情で、帰還した軍を迎え入れた。
───その屈辱的な帰還から、一週間ほどが過ぎた。
アーベルとゴンザは、市長舎へと足早に向かっていた。
「考古学者ハルドゥ・アンローム? 何だか聞いたことがあるようなないような名前だが……」
アーベルの言葉を受けて、ゴンザが憮然とした表情で返す。
「あるでしょうとも。先の大戦の最終局面、アルフヘイム軍による禁断魔法が発動されたことで終戦に至りましたが、その禁断魔法を解読したのが、かの考古学者なのですから」
「禁断魔法か……」
アーベルも顔をしかめた。五年前のことが咄嗟に脳裏をかすめていた。禁断魔法により、死してなお忌まわしい姿となった兄の姿が。父ゲオルクにも、自分にもどうすることもできず、巨大な闇の魔物と化したユリウス。その後、突如現れた光の巨人との激突によって消え失せていったが…。
頭の理解が追い付かないというか、悪い夢を見ているかのようであった。アーベルも今では思い出したくもない出来事として、すっかり忘れかけていたところ、禁断魔法という単語ですっかり思い出していた。
「そも、あの戦争は禁断魔法など発動されなくとも、ゲオルク陛下の働きにより、アルフヘイム側が勝利を収めつつあったのですよ。それなのにあの忌まわしい禁断魔法のために…。まったく、余計なことをしてくれたもんです」
ゴンザが罵るのも無理はなく、禁断魔法を発動したアルフヘイム軍も忌々しいが、元を正せば大昔に封印されていた禁断魔法を現代に蘇らせた考古学者も憎悪の対象となっていた。
ゴンザがいうように、禁断魔法発動直前、ゲオルクによってユリウスが討たれて甲皇軍に和平を促せる状態になっていた。何を言っても後の祭りだが、もしユリウスの死がアルフヘイム上層部に伝わっていれば、禁断魔法は発動されなかったかもしれないのである。
そうはならず、禁断魔法が発動してしまい…それによって甲皇軍とアルフヘイム双方が痛み分けという形での和平が成った。
ゲオルクの働きも、ハイランド軍の働きも、それによって過小評価されてしまった。ゴンザはそのことが口惜しかった。あれだけ苦労して戦ったのに、驚くほど何も得られなかったのだから。
平和という果実は得られたが、まだ五年である。まだ多くの人々が、その味のありがたみも旨味も実感できていない。
むしろ平和によって仕事を失ったハイランドの傭兵としては、苦味しか感じないところだ。が、獣神帝という敵を得て、ハイランド軍の陣営は明らかに盛り上がっている。一度の敗戦程度では、まだまだ士気は保たれたままだ。であるから、ここでまた強制的に平和をもたらした考古学者の話を聞くというのは、ゴンザも不本意なのであろう。
アーベルはそうした現状に思いを馳せつつ、嘆息する。
傭兵というものの因果なものだ。
件の考古学者にしても……。
そうだ、ハルドゥ・アンロームにしても、あのような恐ろしい魔法を蘇らせ、多くの人命を奪おうと思って解読したわけではないだろう。何らかの因果によってそうせざるを得ない運命であったなら、賞金を懸けて天下の大悪党のように扱うこともなかったのでは……と。
「……確か、件の考古学者は、戦後行方知れずとなり、莫大な懸賞金がかけられて国際的なお尋ね者となったのだったな」
「そうです。元はSHW人であったようですが、祖国にも戻れず、かといって他国にも身を置くことができず、どこかへ逃れたのですよ。三大国以外のどこかとなれば──」
「ミシュガルドという訳か」
「はい。禁断魔法を解読しただけのことはあり、彼は古代ミシュガルドに詳しい。これから我々が戦おうという獣神帝や天空城アルドバランについて少しでも情報が得られるならと、ハルドゥ・アンロームを捜索したのです」
「見つかったのか?」
「ええ。ハルドゥの娘であるハレリア嬢が──彼女もまたお尋ね者だった訳ですが、ゼトセという偽名を使い──ミシュガルド大交易所の近くに広がる大森林を捜索し、保護したのです。ハレリア嬢はSHWに裏切られたと感じており、我々への協力を頑なに拒否しておりましたが、獣神帝と戦おうとする我らにとって古代ミシュガルドについての情報は不可欠であり……」
ハルドゥ・アンロームとその娘ハレリアの処遇を巡って一悶着はあったものの、SHWのデスク・ワークがアンローム親子へ賞金を懸けることを取りやめ、彼らの罪状を取り下げたことによって、頑なだったハレリアの態度も軟化したのである。
ハルドゥが長年かけて調べ上げた古代ミシュガルドについての情報は、それほど貴重なものだった。
古くから生きているアルフヘイムのエルフを探しても一万年以上も昔から生きている者はいない。かつてない大規模な戦争により、百歳を超えるエルフすら珍しいものになっていた。アルフヘイムでも長老といえるダート・スタンやガイバル・キルデリックといったエルフでさえ、一千歳に届くかどうかというぐらいだそうだ。
そもエルフは、元々建造物や書物などに執着しない自然と共に生きる種族である。古くからの伝承なども書物ではなく口伝によって伝えられてきた。それらの内容は、曖昧で不正確なものが多い。
よって、誰も読めない古代ミシュガルド語で書かれた古文書を解読し、一万年以上昔の歴史をありありと語れる考古学者は、世界でもハルドゥ・アンロームをおいて他にはいないのだった。
大交易所にある市庁舎の市長執務室には、多くの書物と巨大なミシュガルドの地図が広げられていた。
そこに、ハルドゥ・アンロームとその娘ハレリア嬢がいる。神経質そうな顔をした考古学者は、神経質そうな顔つきで書物に目を向けている。娘のハレリア嬢は、父親を守るように腰に手を当て、大きな胸を張って周囲を睥睨している。
市長の大きなデスクに目を向けると、親子の庇護者となったデスク・ワークがカルファのかぐわしい香りを楽しみながら、いつもの余裕の笑みを浮かべていた。
「遅くなった。失礼する」
執務室の扉を叩いてから、アーベルが入室した。
室内には、アンローム親子とデスク・ワークだけではなく、甲皇軍代表として何と陸軍大将ホロヴィズが、子飼いの腹心ゲル・グリップと共にいた。
また、大交易所自警団の代表としてキルク・ムゥシカが。
そして……寝返ったアルフヘイム軍からは主要な将軍が不在でああるから、代わりにアルフヘイム首相ダート・スタンがいる。
市長室の空気が張り詰めていたのは、犬猿の仲と言われるホロヴィズとダート・スタンが列席していたからであった。
だがそれだけではなく、アルフヘイム大陸からこの場のためにわざわざ竜人族族長ヴァルギルアが呼ばれていた。どうも、アルフヘイム軍の大半が離脱し、精霊戦士や主力の僧兵などがいなくなったが、それでもアルフヘイム側にはまだ戦える用意があることを示すため、武力の象徴的となる人物が必要だったようだ。
竜人族族長ヴァルギルア。
金髪に赤い衣服をまとっていて上半身だけ見れば若い人間の女のようであるが、その背中には巨大な翼があるし、体の一部をいつでも巨大な竜に変化させられるようだ。威圧的なオーラをまとっており、雷を自在に操れるようで、ビリビリと物理的に空気を震わせている。
彼女は、かつての大戦の南方戦線において、精霊戦士エイルゥや、竜人の戦士アメティスタらと共にゲル・グリップと交戦したこともある。それもあって、ゲルの方を殺気だって睨んでいた。
寝返ってしまったアメティスタだけでなく、レドフィンも彼女の同胞であるから、その責任感もあってミシュガルドに来たのであろう。
そしてSHW軍代表…実際には中核となるハイランド軍のアーベルを加え…。アルドバラン攻略のための合同軍の主要な顔ぶれが揃い踏みしていた。
「戦いは情報だ」
ホロヴィズは顔ぶれが揃ったのを見てから言った。
「かび臭い伝説など役に立つかは分からないが、古代ミシュガルドについては殆ど何も分かっていない。ここは学者の話も聞いてみようという事になった訳だが……」
平坦な口調で語っていたが、段々と嘲笑が加わる。
「それにしても、こたびの裏切りには驚かされた。散々偉そうに魔法に精通しているとうそぶいていたエルフどもが、精神操作か何か知らんが操られてしまうとはな。あまつさえ───常々長命と文化を誇っていたのに、実は古代ミシュガルド時代について何も分かっていないとはな」
「誤解しないで頂きたいが」
ダート・スタンが険しい目つきとなる。
「魔法に秀でていると言っても、ミシュガルドには未知の病原体やら魔法が数々眠っている。そのすべてに対応するのは、いくら我々でも不可能だ。それに───かの戦争で、甲皇軍の非道により、古くから生きる長老たちの多くが死んだのじゃ。彼らは口伝によって若者に古代の伝説も伝えていたが、その伝達のいとまもなく、だ」
「だとしても、だ。普段から書物ぐらい残しておくぐらいの知恵も回らなかったのか?」
ホロヴィズの挑発に、ダート・スタンは益々険しい目つきとなる。
両者はどちらも武器を持っていないし、腕組みをして座っているだけだが、今にも殴り掛からんとする勢いで、上半身だけ前のめりになっている。
だん、とダート・スタンは机を叩いた。
「エルフは物に執着することはない。自然と共に生きるのが古くからの習わしなのじゃ!」
「ふん、それでは……」
ホロヴィズは更に挑発をしようと口を歪めるが、ふと不思議そうに眼を瞬いた。
「……では、古代ミシュガルド時代についての書物の数々は、誰が残したというのだ? エルフでないとすれば、一体、誰が…」
「それは無論、古代ミシュガルド人じゃろうが…彼らは…」
受けて、ダート・スタンも戸惑いの表情を浮かべる。声に張りが消え、小さくなっていく。
「……そのあたりのことを説明するために、私の罪が赦されたのですよね?」
両者が黙るのを待ち、静かに言ったのはハルドゥ・アンロームであった。
保護する際に、正気を失っていたそうだが、今や何事もなかったかのように平静を取り戻している。
いや、平静を通り越し……。
かつての戦争により、未だに甲皇国とアルフヘイム、ひいては人間とエルフの仲が険悪であるのは言うまでもないことだが、ハルドゥはそれに対し何も感じていないのか、超然としている。
まるで、それらの種族間対立が他人事であるかのように…。
大交易所の東に広がる大森林で、何か大いなる精霊の意志と遭遇したとの噂があるが、悟りでも開いたかのようだった。
「説明を。アンローム博士」
まとめるのはデスク・ワークである。
「古代ミシュガルド時代について、確かな物証や書物を元に論理的に語れるのは貴方だけだ。私達はこの未知の大陸、未知の敵である獣神帝に戦いを挑むにあたり、知っておかねばならない」
「分かりました……」
ハルドゥは長く溜息をつき、覚悟を決めたように語り出した。
古代ミシュガルド帝国について。
その真実を───。
つづく