「母上……いや、ミハイル4世! まだ愚行を繰り返そうというのですか!」
宙へ向かい、クローブが叫ぶ。
ミハイル4世は、眼下のクローブは見えているが、見えていないかのように、酷薄に笑った。
「百年に及ぶ幽閉から解き放たれても、なおわらわに物申すか。小生意気な。もはや、お前など息子とは思わん」
二人に血縁関係はないが、ごくごく少数の生き残りしかいないエンジェルエルフ族。
その最長老の族長たるミハイル4世は、すべての一族の者たちを我が子と思い、慈愛をもって育ててきた。
中でも優秀なクローブには愛情を注いできたつもりだったが、最も歯向かったのも彼であり…今や、情は残されていない。
「慈悲を与えてくれる」
それは、死である。
宙に舞い上がったミハイル4世。
両手に薄紫色の霧のようなものがまとわりついていく。
生物としての許容量を超えて強すぎる魔素は、オーバーヒートして自身をも傷つけかねない。
ミハイル4世自身も膨大な魔素を体内に宿しているが、なお余りある魔素は体外に放出し、周囲に留めおき、使用する時には集束させているのだ。
世界樹頂上にあるこの部屋はかなり広い。縦横それぞれ20メートル以上はあるし、高さはかなりあって30メートルほどもある。その室内一杯に漂っていた薄紫色の霧(魔素)が、すべてミハイル4世の手中に集められていた。
そして、誰も手出しできないような高さにまで舞い上がったミハイル4世は、天井を背にして手の平を地上へとかざす。
「アルカス・クルタス・エイギアス。疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ。バルエル・ザルエル・ブラウゼル」
ミハイル4世は詠唱する。
その魔法は、誰も見聞きしたことのないものだったが、やはり古代ミシュガルド時代から伝わる、対軍隊用の禁断魔法であった。
「神の裁きを受けよ…
ミハイル4世の手が、強烈に、黄金に光る。
次の瞬間、無数の黄金魔法矢が現れ、地上へと降り注いだ。
通常、アルフヘイムの魔道士らは、数百から数千人が隊を組んで同じ魔法を放ち、軍隊として運用されている。ミハイル4世は、ただ一人で、それに匹敵…いや凌駕する魔法を放ったのである。
マジックミサイルを放つ魔法は現代のアルフヘイムにおいても幾つかあり、
だが、ミハイル4世が放ったそれは、
まさに、軍隊を殲滅するための大魔法。
かわしようがなかった。
「
クローブが魔法障壁を張り、黄金魔法矢を防ごうとする。
しかし、クローブもかなりの魔法の使い手であるにせよ、20平方メートル四方もの面積をカバーすることはできない。せいぜいその半分ほどである。
「ふ…甘いわ」
ミハイル4世は残忍な笑みを浮かべる。
黄金魔法矢は、クローブが張った魔法障壁に防がれる寸前、軌道を変え、障壁をすり抜けていったのである。
「なっ……!」
ホーミングしてきた黄金魔法矢が、アルフヘイムの戦士たちに襲い掛かった。
「いかん…光の精霊よ、聖なる衣で我らを守り給え!
咄嗟に、ヤーヒムが中級魔法による魔法障壁を張った。
生き残っていた者たちはヤーヒムの周囲に集まって魔法防御を得ようとする。
しかし。
「~~~~ッ!」
「ぐおおおっ!」
「づああああ!」
全員が、苦悶の声を上げた。
幽閉から解放されたばかりのダート・スタンや、クローブのような体力の無い者は、瀕死となっていた。魔法障壁が破られ、手足が千切れた者や、大量出血している者や、骨が砕けている者、死んだ者も続出していた。
まだ体力は有り余っていたディオゴでさえ、床に突っ伏して全身に走る激痛と戦っていた。
例えるなら、全員が高さ10メートルぐらいの空中から受け身も取れずに固い床に叩きつけられたぐらいの衝撃を受けている。人がそれほどの衝撃を受ければ、運が悪ければ死ぬし、死ななくても何らかの障害が残る危険がある。
本来なら高さ30~50メートルほどから叩きつけられ、ひとたまりもなく即死だったところを、ヤーヒムのおかげでその程度に済んだのである。
だが、そのヤーヒムも声が発せられないほど苦悶に喘いでいた。打ち所が良かったのか悪かったのか、出血や骨折はせずとも、胃の中のものをすべて嘔吐し、酸っぱそうな胃液まで口から垂らしている。とてもまともに魔法が使える状態には見えない。
クローブも瀕死である。体をびくびくと震わせ、白目を剥いて床に倒れている。法衣が濡れ、耐えがたい刺激臭を放っている。どうやら小便と大便も漏らして糞太郎となっていた。
つまり、もう誰も、魔法障壁を張ることはできない。
(───次、同じ攻撃が来たら、間違いなく……)
死の予感。
もはや、何をしようが無駄ではないか…。
あれほどミハイル4世を倒すのだと気勢を上げていた戦士たちだが、ただの一撃で、その心は挫けようとしていた。
「ふふふ、まだ死んでおらぬか。しぶとい虫けらどもよ……」
ミハイル4世が、戦士たちの頭上に浮かびながら、不敵に笑っている。
「もはや、わらわが手を下すほどでもあるまい。後始末はおまえに任せよう、ニツェシーアよ……」
夢遊病者のようにふらりと棒立ちになっているニツェシーア。
彼女は体内の魔素の大半をミハイル4世に奪い取られ、脳を支配されており、死ぬまで戦わせられる操り人形になってしまっていた。
虚ろな目をしたまま、腕を上げる。
その手の先に、どす黒い色をした闇の魔素が集まって来る…。
あたりには死体がいくつも転がっていた。
ラギルゥー族三兄弟。
チャラガ・ラバ。
十六夜隊員のクォッサ、アベル、カイン、ドーガ、ジェイガン…。
エリート弓兵隊のゴードン、ライアン、カシム、トーマス、ジョルジュ…。
などなど──およそ二十名ほど。
それらの死体は、これまでの激しい戦闘と、先程のミハイル4世の大魔法によってバラバラになって原形を留めないほどに損傷していた。
だが、それらがのそり、のそりと立ち上がる。
足も失った死体や、頭だけになった死体さえも、何かに操られるかのごとく奇妙に直立を始める。
「かたまれ」
抑揚のない声で、ニツェシーアは命じる。
死体の群れは、一番大きなクォッサの死体を中心に集まりだす。
腕が、足が、頭が、何本も何頭もある不気味な死体のキメラができあがっていく…。
やがて、二十人名程度の死体が集まってできた巨大なゾンビが誕生するのだった。
「行け、“人肉屋”よ」
巨大なゾンビは、ニツェシーアに命じられ、クォッサが持っていた巨大な鉄槌を手に動き出す。
「くそったれが……」
よろよろと…。足元もおぼつかな様子のディオゴが、たった一人だけ、ようやく立ち上がろうとしていた。
相手は二十人力の巨人ゾンビ。
だが他に、立ち上がれるだけの気力と体力のある者は……いない。
いくらディオゴに不屈の闘志が宿っていようが、叩き殺されるのは目に見えている。
そして、その時であった。
「────我らの旗は夜明けから夕日まで」
その声は、朗々と室内に響き渡った。
「……!? 何じゃ……この不快な声は」
この時、初めてミハイル4世は戸惑いの表情を浮かべた。
竪琴の音がかき鳴らされ、勇壮な調べが響きわたった。
「────全ての風に翻る。
────我らは剣を手に取って。
────あらゆる場所で戦った。
────遠くの雪降る北国で。
────遥かな灼熱の南国で。
────恐れを知らず、常に戦う姿を見るだろう。
────おお 我らはアルフヘイムの戦士たち」
ダニィである。
黒兎人の吟遊詩人は、勇壮な調べで、力の限りに歌った。
「……ええい、忌々しい歌だ。やめよ!」
ミハイル4世が手をかざし、ダニィへ向けて魔法を放とうとする。
しかし、その手に矢が突き刺さった!
「ぐああ!」
キルクである。
ディオゴに続き、彼も立ち上がり、見事にミハイル4世へと矢を当てたのである。
地上から天井までおよそ30メートルだが、普段から100メートルもの先の的にも命中させる彼ほどの名手なら容易い距離だった。
「
ヤーヒムである。
嘔吐して悶絶していたはずの彼が、目に力を取り戻し、治癒魔術で仲間たちを回復させていく。
「クォッサァアアアアア!」
咆哮と共に。
リュウである。
エドマチ刀を手に突撃し、巨人ゾンビへ斬りかかる。
一閃。
見事、巨人ゾンビは真っ二つとなった。
「成仏しな!」
「南無三…!」
ナッカが、シンゲツが。
それぞれ、更に二つになったゾンビを細切れに切り刻む。
「大丈夫ですか、クローブさん」
「う……む……」
汚物と化していたクローブだが、セキーネは自身が汚れるのも厭わずに肩を貸して立ち上がらせる。
「何だ、この湧き上がるような力は。治癒魔法でも…能力を向上させる補助魔法でもない…のに、この三百年生きた心の奥底に響く…この力は…っ」
「ダニィさん。彼の歌の力のようですね…不思議なこともある」
「歌の力…だと。これは、古代ミシュガルドにも、かつての私たちにも無かった文化だ…」
「そうなのですか? ですが、効果てきめんのようだ。あの大年増も苦しんでいますよ」
「……まさか、ミハイルが?」
クローブとセキーネが見上げると、ミハイルは額に汗を流し、巨大な耳を必死に塞いでいた。
「だまれ…その、不快な声を…やめろぉ!」
アルフヘイムの戦士たちに勇気と力を与える歌が、ミハイル4世にとってはこの上なく不快なもののようだった。
「人々の希望、勇気…。そんなものが、彼女には途轍もなく目障りなもののようです」
「……信じられんが、そのようだ」
徐々に、徐々に。
ミハイル4世にまとわりついていた薄紫色の魔素が薄れていく。
そして、彼女はゆっくりと降下してくるのだった。
「────我らが誇り アルフヘイムの戦士たち」
ダニィだけではなかった。
最上階には登ってこずに、下の階で戦いの行方を祈っていたメイアたち、救出されたアルフヘイムの人々が。勇気を出して、この最上階へと昇ってきて、ダニィと共に歌いだす。
「────我らの戦士たちの勝利を祈る
────彼らが戦った多くの戦場において
────彼らは勇気を決して失わなかった
────もし戦士たちが
────天を見上げたならば知るだろう
────天への道を護るのは
────あなたがたに護られてきた
────我らアルフヘイムの民」
人々は唱和する。
その声が、ミハイル4世を、傲慢にも天使を自称する女を天から引きずり下ろす。
「それを……それをやめろぉおおお!!」
ミハイル4世は、力を振り絞り、人々へと魔法を撃とうとする。
だが、クローブが早かった。
「────すべての魔力は無に帰する。汝が言葉の一つ一つは、手かせ足かせとなってその身を縛りつけよ。精霊界も天界も、汝の前には開かれるな。汝の舌は心に届かぬ!
「………っ!」
ミハイル4世は声を失った。
つまり、魔法を封じられたのである。
クローブのゼロマナダーツは、この魔封じの魔法を込められていたものであり、彼にしか使えない独自の魔法でもあった。
狼狽し、すっかり地上へと降り立ってしまったミハイル4世へ、ディオゴがナイフを手に近寄る。
「………あんたの神への復讐劇も、これで終わりだな」
ディオゴの顔は静かだった。
かつて、妹の仇を討とうと狂気に駆られていた時の彼ではない。
ミハイル4世がすべてのたくらみの、諸悪の根源だと知ってなお。
もはやディオゴは、怒りに囚われてはいなかった。
「そして、俺の復讐も……だが、俺は復讐のためにお前を殺すのではない」
「………っ!」
ミハイル4世が何事か言おうとしているが、魔封により何も言うことはできない。
「天は落ちようとも正義は成される。神はあんたを見捨てたわけじゃねぇ…そこは安心しな。今や正義とは、アルフヘイムの人々の元にあるってだけさ」
ディオゴはナイフを振り上げる。
「あばよ、アバズレ」
「……‥っ!」
ミハイル4世は、最期に命乞いをするかのように涙を浮かべるが。
ディオゴは、容赦なく、その首を刎ねてしまうのだった。
ここに、全ての決着はついた。
ミハイル4世は死んだ。
ラギルゥー族も、偽物のダート・スタンも死んだ。
ニツェシーアは生きたまま捕えられたが狂ったように笑っているばかり。
犠牲者は多く出たが、アルフヘイムを乱すものはすべて退けられ、ここにセントヴェリアの擾乱は鎮められたのである。
だが───これで、アルフヘイムが救われた訳ではなかった。
ボルニアの地下墓所において…。
命じられる者がいなくなったとしても。
精霊の森の巫女二フィルによる禁断魔法は、今まさに、発動しようとしていたのであった。
つづく