Neetel Inside 文芸新都
表紙

拝啓クソババア
一話

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親のいない人間はいない。これは別に何かの格言や大層なものじゃなく、至極当たり前の普遍的な事実であって、俺たち人間は皆それを知って生きている。直接聞いたわけじゃないがたぶんそこらへんの動物だってそんなことわかってるだろうし、道を歩く通園途中の幼稚園児だってなんとなくそれを知っている。別に自分の産まれた瞬間を見たわけでもないけど両親らしい人物を知っていて、なんの疑いもなくパパ、ママなんて呼んで甘える。とにかく俺の言いたいことは、皆母親の子宮の中で誕生して大きくなって大体ハンドボールくらいの大きさになったら産道を通っておぎゃあと顔を出すんだってこと。誰にだって親はいる。親なら子供がいる。当たり前だ。だからこそ俺が小学2年になるかならないくらいのときに親父が蒸発したときは俺もお袋もこの世の終わりみたいにして悲しんだし、それを契機にお袋が俺に対して暴力を振るうようになったとき俺はこの母親から産まれたという事実を認められなくなった。実際にはどこか知らないところに自分の本当の母親がいて、今目の前で俺を心ない表情で殴るこいつは俺のおふくろじゃないって具合に。そんなことを考える俺は出生記録の存在も知らない本当に愚かなガキだったし、むしろ小学生らしいとも言えた。でもその時はそれぐらいしか俺を救ってくれるような真実はなかったのだ。
そんな子供でもいつかは大人になる。人は誰でも大人になる。正確に言うとならざるをえない。身体的な意味じゃなく、精神的な意味で、ということはわかっているけど具体的に大人って、なんて聞かれると上手く答えることのできるやつは少ないだろう。俺もそうだ。タバコが吸える、風俗に行ける、手に職がある、なんてことはとても些末なことに過ぎなくて、きっともっとすごいことなのだろうと思う。俺は今年で26になる。世間的には大人と呼ばれる歳だけど、まだそんな実感は正直ない。もしかしたら他人から見れば俺は精神的にも大人なのかも知れないけれど、当の本人にその気がないんだから、たぶんまだ子供なのだろう。
大人ってやつにいつならなきゃならないのかというとそれも人それぞれバラバラで、早いやつはもしかしたら中学生でなっているのかも知れないし、逆に還暦を過ぎてもアダルト・チルドレンなんてやつもいる。ただ一つわかるのがなるべく早い方が良いのだろうなということ。たぶん俺にもそういう時期みたいなのが近づいてて、もうそこにあるんだろう。そしてそれがお袋を許すことにも繋がるのだろうと思う。東京に出て来てお袋と縁を切ってもう8年とちょっとの冬になるけど、俺の心の奥の少し仄暗いところでは、まだ憎しみの感情が巣を作って棲み付いてる。

     

穂花からの着信を一方的に切ってベッドにケータイを投げるとまたもブブブと着信が来て振動で布団が揺れる。穂花の家から出て来て今に至るまでもう着信の数は数十件にも及んでいるけど、一度もまだ受けた試しはない。苛立ちのまま羽織っていた上着をベッドに脱ぎ捨てて椅子に腰掛ける。諦めたのだろうか、しばらくして着信は止まり、代わりに耳を刺すような鳥の鳴き声が無音の部屋に木霊する。SNSの通知音だ。見る気にはなれなかったけど、トイレで用を足し風呂で髪と体を洗って穂花のことをてっきり忘れ、何気無くケータイを手に取ったとき俺の目に通知の文面が飛び込んでくる。
『電話出て。今日の誤解解きたいし絶対啓介勘違いしてるから』
返信するべきか迷ったけどしなかったらしなかったで後々面倒なことになりそうではある。穂花は少し精神的に弱いやつであるしちょっと参るとなにをしでかすかわからなかった。とりあえず俺は文章を打ち込んでいく。
『誤解ってなんやねん俺は俺の見たままに対して怒ってるから誤解もクソもないやろ』送った即座に既読が付いて数秒で返信が来る。
『クソとかそういうのやめて。そういう汚い言葉使わないでケンカみたいになるじゃん』
俺はまた送る『俺はお前に対してムカついてるし怒ってるしケンカやろもう、つか話逸らすなや』
『私は別に啓介に怒ってないしケンカしたくないよ。だから誤解っていうかまず説明させてよ』
『何を』
『だから啓介がさっき私の家に来て見たこと』
『他の男彼氏に内緒で家連れて来てヤることの誤解も説明もそれ以上ないやろが』
既読がつくもしばらく返信がなくなる。穂花は今この画面の向こうでどんな顔でいるのだろう。きっと明るくはないのだろうが。それとも数十分前にいたあの間抜けヅラの男に励まされているのだろうか。どっちにしろ馬鹿げている。馬鹿げすぎている。2分程して返信がくる。
『私が全部悪いの、それは自分だってわかるし反省もしてるよ。でも私がそうしちゃった理由がわかる? 啓介は何も思ってなかったかもしれないけど私だって女の子だし寂しくなるときだってあるよ。それでも私が悪いよ、それはそうなんだけど』
『何その言い方、明らかに自分に全部否があるなんて思ってねえやろ』
『言ってないよ』
『いや言ってるから。読みかえしてみろよ、俺がいつ寂しくさせたよ、寂しかったら浮気すんのかよ』
『啓介話聞いて』
『バイバイ』
電源を切って、俺はもうそれ以上会話することをやめる。こうなることがわかっていたから俺は電話もしたくなかったんだ。俺はどんな理由があってもあいつを許す気にはなれないし、あいつはあいつで自分の過ちを少しでも正当化させようとする。こんな会話にゴールなんてあるわけがない。
きっと今頃穂花は俺に連絡を入れようとしているのだろうが俺のケータイの画面は真っ暗に明かり一つなく沈黙している。それまでのあいつとの記憶を持ったそれをそのまま捨てることも考えたけど、それは今後の生活に支障が出るからやめておく。濡れた髪のまま、俺は枕に顔をうずめる。時間はもう正午を過ぎていたし何よりすごく疲れていたから。たぶん俺はあいつと2度と顔を合わせることはないだろうし復縁なんてもっとない。寂しさが浮気で埋められるのなら、浮気相手のアホ男と一緒に勝手に色々やってくれ。

     

高校卒業を期に俺は半ば家出のような形で滋賀の実家を出て東京の大学に入り一人暮らしを始めた。日常的に母親から虐待を受けていたから、まぁ当たり前の行動と言っていい。お袋は多少の支援をするつもりだったらしいが、家に金が無いことはわかってたし何よりそんなやつの金なんてもらっても使うつもりなんてさらさらなかった。俺はお袋を憎んでいた。お袋の方はと聞かれると言葉に詰まるが、正直なところそれは今でもよくわからない。本当に憎まれているのなら俺はとっくの昔に殺されて墓石の下にでも眠っているのだろうし、支援を申し出たりもしないだろう。愛されているのなら虐待に手を染めたりはしないだろう。端的に言うなら複雑な愛と言ったところなのかもしれない。親父に捨てられたお袋の当時の心境は察するに余りあるし、同情もするがそれでも俺はお袋を許せないでいた。俺は奨学金を借りまくり人一倍バイトに励んで経済的に自立した。時折お袋から仕送りが送られたりもしたがそっくりそのまま全て送り返した。添付された手紙も含めて。実家から出るだけではなくて、それは俺からの、お袋とそれまでの過去への明確な決別の証だったんだ。
穂花と出逢ったのは大学三回生の四月の春のことでどこにでもあるような新歓コンパでの事だった。やつはピカピカの大学一年生で俺の入っていたこれもまたどこにでもあるようなボランティアサークルのコンパに参加し、そこでたまたま隣に座っていた俺と知り合ったのだ。俺は自慢じゃないけど女にモテたためしはないし自分でも良い容姿だと考えたことは一度もなく、性格だって捻くれた方だと思うが、それからというものやつは俺のどこを気に入ったのか頻繁に俺に遊びの誘いをかけてくるようになった。俺も悪い気はしなかったからほいほい遊びに付き合っているといつの間にかよくわからない内に俺たちは書いて字の如く付き合ってしまっていた。本当になぜ付き合うことになったのか今でもよくわからない。穂花は変わったやつで見た目は俗に言うギャルに近いものなのに対してギャルを毛嫌いしていて、以前原宿を歩いていたときに道を塞いでいたコギャル達を厚底のブーツで蹴り散らして通ったし家にあるCDは浜崎あゆみや湘南の風ではなくゴダイゴやビリーバンバンだし、ゴツいヘッドフォンで何を聴いているのかと聞いたとき毒蝮三太夫の落語全集を聴いていた。俺のどこを好きになったのか一度質問したときもまつ毛が長いからとか理由になってないような理由を平然と口に出して答えるようなやつだった。
卒業したあともずっと俺たちは別れることなく関係を続けていたし、今日だって俺はバイトを早めにあがれたからあいつを驚かすつもりで前約束もなく訪問したのだ。俺は穂花のことを確かに愛していて、それまで上手くやれていると思っていた。あいつがいつから浮気していたのかは知らないしもう今となってはもうどうでもいいが、今まで築いてきたものが崩れ去るということが一瞬なんだって誰かのポエムみたいな言葉が延々とまどろむ頭の中をぐるぐる巡って離れなかった。もう元には戻らないし戻れない。口を開けば怨嗟の言葉が漏れる。俺は一体どうしたいんだ?

     

気づかない間に俺は眠ってしまっていて、泥の中にいるみたいにはっきりしない意識の底にインターホンの音が連続して、はっとして目を覚ました。壁の時計を見上げると短針は午後の2時を振れ、慌ててカレンダーを見て今日が土曜なのを思い出す。土日休日で心底良かったと感じた瞬間だ。ケータイの電源が落ちているから、そのせいでアラームが鳴らず起きるのが遅れたのだ。
玄関のドアの向こうからは変わらずインターホンのチャイムがマシンガンのように飛び込んでくる。連打しているのだろう、俺の知ってる郵便配達やセールスはこんなことはしない。少し警戒しながら壁の受話器をとる。
「どちら様」低い声で言うと向こう側の人物は甲高いトーンで返す「啓介か、おい、お前啓介か」聞き覚えのある声だった。ずいぶん会っていないから、多少喉が経年劣化しているかもしれない。沈黙している俺に苛立ちを募らせたのか少し怒鳴るように叫ぶ「おい聞いてるやろ」「コーちゃん久しぶりやな」
伊角光太郎は俺の母方の従兄弟で俺より二つ上の男だ。近所に住んでいたから幼い頃は毎日のように遊んだけれど、親父が蒸発して行方をくらませてお袋が精神不安定になってから大人たちの間で色々あったのか疎遠になり、俺たちも2人で仲良くすることは少なくなった。それでもちょくちょく顔を合わせることはしていたけど高校に上がるぐらいの時期にどこか他府県に引っ越したとお袋から告げられた。突然いなくなるもんだからショックを感じなくもなかったが、時間も経つにつれて記憶の片隅に追いやられていた存在だった。
「コーちゃんやろ」「おう、久しぶりやな啓介、いやちゃうねん」「東京引っ越してたんか、知らんかったわ。あれ、なんで俺の家知ってんの」受話器からボリボリと頭をかいた音が伝わってくる。「まぁちょっと待って、話すと長なるから。お前の部屋片付いてるか」俺は部屋を見渡した。昨日のムシャクシャで床は物やゴミで散乱している。「少なくともキレイじゃないな」「なら外出るで、早よ用意して出てこい」「用意って」「あああるだけの金、あとなんか大きめのカバン。全部いれや
。あと今寝巻きやろ、着替えてな」「え、今金ないからあとでコンビニ寄って。つかなんやねん旅行でも行くみたいやんけ」「まぁ旅行やわな」俺は久々にあった従兄弟の言ってることがわけがわからない。言っちゃなんだけど昔はもう少し単純なやつだったはずだが。「早よ出てこいや、俺下で待ってるで」何か言おうとする間にドンドンと足音を鳴らしながら光太郎が階段を降りていく。問答無用というわけか。
わけがわからないままとりあえず俺は言われた通りに適当なカバンに適当な物をほおり込んでいく。服と替えの下着、ノーパソと充電器、あとそこらに散らばっている無駄なもの。こうしていると小学生だった頃の遠足にいく前日の夜を思い出した。あの時のワクワクはもうどこへ行ってしまったのだろうかと考えるけど、俺には皆目見当がつかない。

     

カバンを背負って部屋を出て通路を90度左に曲がると階段があり降りて行くと約10年ぶりの伊角光太郎がそこにはいた。
「何年ぶりやろな啓介、懐かしわ」
車で来たらしい光太郎は真っ黒に日光を吸い込んで静かに照り返すその扉を背もたれに俺に手を上げて挨拶する。俺より2歳上だからまだ28のはずだが、久しぶりに会った光太郎の頭には白い髪が目立っている。よく見ると顔にシワも細く線を引いていた。
「急にコーちゃんが引っ越すからや。あんときめっちゃ驚いたんやで俺」
「あーすまんかったな、あんとき親父が広島転勤なったからよ急に」喋りながら光太郎は助手席の扉を開き、俺に乗るように促した。
「叔父さん確か土建屋やっけ」いくら冬とはいえ三月にもなると太陽の日は肌を軽く焼ける温度を持っている。段差を越えて黒のワンボックスカーに乗り込むと絶妙なバランスで保たれた車内の空調が俺の肺にスーッと入り込んだ。カーラジオからはノリのいいテクノポップが流れ、車内の後方に目をやるとファンシーなぬいぐるみのキャラクターたちが仲良く横並びに整列している。荷物を食って重さを持ったカバンを後ろの席に投げると車が小さく一度揺れて、それを抑えるようにして光太郎が運転席に乗った。
「俺はようわからんけど、まぁそうなるんかな。今でも西に東に駆け回って橋の建築やってるわ」「へぇ」気の抜けた世間話だった。俺は聞きたいことを聞く。「ほんでこれからどこ行くつもりなん」光太郎がエンジンを掛け直しながら言う「滋賀」
話がよくわからなくて混乱することはたまにあるけど、わからなすぎて唖然としたのはこれが初めてだった。思考に奔流する空白の波。なんだって、滋賀?「ちょお待てや、なんで滋賀やねん、実家?」車は緩やかに発進して脇の国道に出る「お前ほんまになんも聞いてないんやな」「何をやねん」「もう少しゆっくり話したかったんやけどな、啓介、落ち着いて聞けや」休日だからか道がかなり混雑している。俺たちの車が交差点で止まり、深い溜息をついたあと光太郎はダッシュボードの上の煙草を一本抜いて口に咥えて火をつけた。「叔母さん倒れたらしい、昨日の話や」
何秒間の間言葉を失っていたかはわからないが、次に口を開いたとき、俺の声はわずかに上ずっている。
「え、あ、冗談やろ」冗談のわけがないことはこうして光太郎が訪ねて来たことでも光太郎がこういう嘘をつくわけがないことでもわかっていたが、何故か俺はその時そう言った。「なんでや」「俺もようわからんけど、なんか持病があったらしいな」信号が変わって再び車が動き出す。光太郎は短くなった煙草を窓の外へ投げて捨てる。「叔母さん一人暮らしやろ、たまたま玄関開けっ放しにしてて、夜になってもそうやから不審に思って見に来た近所の人が気付いたのが運が良かったな。最悪の事は免れられたみたいやけど、まぁまだどうもちょっと状態がまずいみたいや」
俺はパニクって先程言われたことを聞いてしまう。「いつの話や」「やから昨日や、昨日の22時。倒れたのはもう少し前みたいやけど、お前連絡なかったか」
驚愕して俺はズボンのポケットからケータイを取り出した。電源は昨夜消したままだ。慌てて電源をオンにすると、穂花からの大量の通知の中に数件非通知の電話が入っていた。しまった。
「お前と連絡つかんて言うからよ、埼玉住んでる俺が迎えに来たんや。住所は叔母さんがお前に送った手紙でわかった。啓介、お前、まだ喧嘩してるんか」
光太郎や親戚連中は俺が虐待を受けていたことを知っていた。はじめのうちは皆それを咎めたが、お袋の親父との事もあったし、表向きにはお袋はまともにしていたからそれ以上俺たちに干渉することはなかった。皆厄介事になんてなるべく関わりたくないのだ。そのことに対して何も思わない俺じゃないけど、何をしたってどのみちお袋は変わらなかっただろう。
「許せると思うか」
「そんなん言ったってずっとそれ続けるつもりか、死ぬまでか」
「わからんよそんなん、でも許す気はないって言ってんねん」
「お前の叔母さんかて可哀想な人や。辛いのはわかる。息子やったらそこらへん理解したれや」
「途中でどっか行ったお前に何がわかんねん」
俺は上着を脱いで上半身を裸にし、背中を運転中の光太郎に向ける。
「何なんや」「お前が広島だか行ったんは確か高校入る前やったな。俺のあんときの傷痕の数なんてお前知らんやろうけどよ、あのクソババアその頃から煙草吸い始めたんや。見ろよ」俺は腰骨の上にある、そこだけ肌がボロボロの焦げ茶色の円を指す。「これは煙草の火突っ込まれた跡や。消そう思って引っ掻いたりしたら肌が崩れて余計大きい跡なったわ」「......」他にも俺の傷痕はたくさんあったが、もう言わなくたって光太郎は全てを察していただろう。「傷痕ってのは残って消えんから傷痕なんや。俺の傷痕は全部あいつにつけられた。一つ一つ見るたびに俺はあいつをもっと許せんくなる」

     

光太郎はこちらを一瞥して、もう2度と俺の身体には目を向けようとはしなかった。俺も黙って上着を着直す。四車線に広がって伸びる国道は端から端まで色とりどりの車だらけで隙間もなく混んでいた。まっピンクのもあるが、そんなカラーリングのどこが良いのだろう。車体の横スレスレを白の丸いヘルメットを被った原付おばさんが通って行く。渋滞は向こう数百メートルに及んでいるようで、遅々として車列は進まない。「工事かなぁ」と光太郎が誰ともなくぼんやりと呟くけど、俺は何も言わなかった。

     


渋滞をしばらく進んでから横道に入り抜け出して光太郎が言った。
「これから新横浜行くでな」「新幹線か」「おう」
八王子に新幹線は通ってないから新横浜まで行って東海道・山陽新幹線に乗る必要がある。調べると約3時間ほどで米原にとまるらしい。数百キロとあるというのにも関わらず速い。俺が東京に出て来たときは貧乏だったし深夜バスでノロノロと一晩かけて来たのだけれど、歳を重ねて多少金があると違うものだ。あ、そうだ金だ。
「そやコーちゃんそこらでちょっとコンビニ寄ってや。金おろさんと」おーうと返事をして光太郎がカーナビをいじって周辺の地図を出す。赤いピンがポンポン刺さっていって七個くらいに店舗が絞られると「セブンでええか」と言うから「それでいいで」と言う。ものの五分と経たずにセブンイレブンに着く。機械を使っているというよりはまるで機械に動かされている感覚になる。そんな風に呆けていると光太郎が千円札を数枚俺の眼前に差し出して言う「ボーッとすんな。ほれ」「え、なにこれ」「ついでに昼飯買うてきてくれ。あとなんか適当な缶コーヒー」
俺は少し昔を思い出すような気分でなんだか嬉しくなった。こいつは人をすぐパシリに使おうとしてこんな風に金を渡す悪癖があったのだ。久しぶりに会って白髪が生えたり暗い会話をしたりしていたから昔と変わったと思わされたけど、中身の方は何も変わっていないのかもしれない。「どうしてん鳩が豆鉄砲くらったような顔しやがって」「いや変わらんな思ってよ」「はあ?」そうだ光太郎はこんなやつだったな、昔からちょっと傲慢なんだ。「なんでもねーわ」俺は笑ってドアをバンと閉めてさっさとコンビニの自動ドアを潜る。きっと光太郎は不思議そうな顔で俺の背中を見ていただろうけど、俺はまだ少し笑っていて、コンビニの若い女の子の店員が不気味そうな視線を向けていた。

     

そんな風にしてコンビニに入り弁当や鮭やまぐろなんかの妙に金額設定が高いお握りを物色していた時だった。レジのほうから怒号が聞こえてくる。振り返ると肩にかかるぐらいの長い金髪の男が足元にいるガキに向かって何事か怒鳴り散らしていた。黒いレザージャケットに趣味の悪いワインレッドのカーゴパンツでその服装は昔のハードメタルバンドを連想させられた。おそらく察するに息子であるだろうガキは糸のほつれたジャージで俯いて目線を白い床に落としている。人目もはばからず男が叫ぶ。
「だから家いろっつったよな俺よおい!」ガキは何も言わない代わりに肩を震わせて大粒の涙をボタボタ落としている。履いているプーマの薄汚れたスニーカーに濃い染みが出来ていく。周りの人間はスーツのおっさんや店員も含めてチラチラと様子を窺っていたがすぐに自分の世界に意識を戻していく。例え男の行為を止めにいったとしても逆に絡まれたりするのが嫌なのだろう。臭いものには蓋、君子危には〜なんて言葉が往々とまかり通る日本じゃ珍しくもないし当たり前。俺も何も思わないわけじゃないしイライラするけど飛び火するのは嫌だ。でもな〜うーんなんて腕を組んで悩んでると泣きじゃくるガキが180度方向転換して自動ドアの方へ歩いていく。家とやらに帰るのかななんて俺や周囲の人間が横目で眺めていると、金髪の男が「待てケンタこっち来い」なんて言って俺たちも来るなとか来いとかどっちなんだよとか心の中で突っ込んでいたら男はガキの肩を掴み勢いよく振りかぶった右拳でガキの頬に一発入れた。店内を骨を打つ鈍い音が走ってガキが床に叩きつけられる。
「なぁ、なんで俺のゆーこと聞かねーのよ、なあおい聞いてんのかカス!」ガキの口からは色の濃いドロッとした血がつつと唇を濡らしながら垂れてくる。その光景を見た瞬間俺は俺の中の何かが飛ぶ。手に提げていた買い物カゴを捨てて男の方に駆け寄りやつがガキにしたように男の細い肩を掴み、男が驚いて振り返り俺に何か言う前に俺は奴の頬を思い切りぶん殴ってしまう。男のモヤシのような体は勢いで飛んで近くのお菓子の商品棚にぶつかって棚ごと床に倒れる。
「テメーのガキに何してんじゃゴラ!」
倒れてひかれたカエルみたいな体勢になった男は目を白黒させて起き上がらない。ふと周りを見渡すと店内は静まり返って皆一様に俺の事を目を丸く、驚愕して見ていた。鼻と口から血を流すガキも含めて。ここで俺はやっと冷静になって自分のやった事の重大さに気付いた。倒れたままピクピクしている男に近づいて肩を叩き「あの、大丈夫ですかー」と言ったけど反応はピクピクで変わらない。やべーこれ警察沙汰じゃねーのとか冷や汗をかきながら考えていると外から事態を目撃していたらしき光太郎がダッシュで入ってきて俺の手を取る。光太郎の目も丸い。
「おいなにしてるんやアホ!」
「いや、こいつがなんか」
「ええから来い!」俺は光太郎に引っ張られて唖然とする店内を尻目に車に向かう。どこかから「もしもし警察ですか」なんて聞こえてきて俺は気が気でない。「逃げるぞ啓介!」急いで駐車場の車に乗り込み光太郎がエンジンをかけた。助手席の俺はなるべく顔を伏せながら、元いた所を見返す。店内は騒然と沸き立っていてどこかの国のパーティみたいだ。猛然と出発する車からその光景をヒヤヒヤしながら眺めてると、さっき殴られた男のガキが店内から出てきて笑って手を振っていた。
「おいアホ啓介、あんま外見んな!」
不機嫌全開の光太郎の声。俺はまだ殴った時の不思議な感覚が残る拳をさする。あのガキはまるで昔の俺を見ているようだった。何も言わなくても殴られ誰からも救いの手を差し伸べられず、1人泣いていたガキの俺だ。俺はさっき男を殴って正解だった。俺はあいつを殴らなければいけなかった。俺のやったことは暴力罪でもしかしたらあの男にもなんらかの後遺症とかが残るかもしれない、でもそんな事はまるで関係が無い。あのガキは俺なのだ。俺はあのガキを守るためでなく俺を守るためにこの拳を振るったのだ。言うなれば心の正当防衛だ。トラウマとかではなく、俺の中に残る僅かなプライド、過去のガキの俺を守るために。

     

「ほんまどうかしてるでお前」しかめっ面をしながら光太郎がいう。両手はハンドルに添えて。「昔から変わったやつやとは思ってたけど、さっきはやりすぎや」
「そうかな」
「俺も一部始終見てたけど、ムカつくけどあんな殴ることないやろう」
俺は窓の外に目をやる。もう午後の3時を過ぎた東京の空はいつしか磨りガラスのように平板で、不透明で薄暗い。
「人殴ったんなんていつぶりやろ」
俺は拳を摩る。あのとき確かにあの金髪の男の顔を思い切り殴った拳だ。いまだ骨の感触が遠く響いているような気がする。
「うん、そりゃあ俺だってできるならあんなやつ殴りたいわ。バコーンてお前みたいにな。でもそれができてたのは俺らがガキの時の話やで。気に食わんからすぐ手出すのは、なぁ」
光太郎は割と真面目な顔をして言う。そういえばこいつはなにしてるのだろう、職的な意味で。
「光太郎」
「うん?」
「お前教師みたいやな」
「まぁ実際教師やからなぁ」
えっ。俺は声に出して驚いた。意外だ「嘘やろ」
「ああ嘘や」光太郎はびっくりしている俺を見て朗らかに笑う。「教員免許は持っとるけどな」
俺は舌打ちして白髪の光太郎を睨みつける。面白くない冗談は嫌いな性質なのだ。「じゃあ何やってんねん」
俺の質問に口の端を少しだけ上に吊してうーんと唸る。口元のシワが束ねられて10歳は老けたように見える。
「なんやろなぁ、まぁ強いて言うなら詩人?」
「はぁ?」俺は呆れてムカつきもしない「おもろないぞその冗談」「まぁそうやわな」
そういえば当然だけど8年振りに俺達は会ったわけで全然そんな気はしないけど俺は光太郎の今をまったくと言っていいほど知らなかった。8年もあれば人が環境も性格も変わるには十分過ぎる長さだ。俺は目の前の光太郎に興味が湧いてくる。
「そういやコーちゃん結婚とかしてんのか」独り身でワンボックスに乗る奴は少ない。車内にあるクレーンゲームのプライズみたいなぬいぐるみも含めて光太郎の趣味にしては可愛すぎる。
「おう、してるで」「マジか、いつからなん」「もう3年くらいになるわ、見るか」
車が交差点で止まって、光太郎が懐からケータイを取り出してアルバムを開いてこちらに見せてくる。何十枚もの光太郎と若い女の姿。俺と同年代か一つ二つ年下に見えた。
「仕事で知り合ってな、もう意気投合してすぐ籍いれたわ」
「今日は仕事かなんか?」
その瞬間光太郎がねっとりした笑みを浮かべる。にや〜って擬音が付いてるようだ。「実はな」「何やねん気色悪い」「いや実は妊娠中やねんうちの嫁さん」
これもまた俺は驚いて大げさなくらいのリアクションを取ってやる。「ええ〜うっそーん」光太郎は満足したらしく俺の肩に手をやってうんうんと頷く。
「これで俺も一児の親ってやつや」
「嬉しいもんか?」
「うーんなんやろな」元から細い目を更に細めて光太郎はどこか遠い所でも見るかのように視線を宙に浮かせた「いや嬉しいっちゃ嬉しいけどなんかいまいちな、実感ないわ」
「親としてのか?」と俺が訊く。光太郎は笑いながら頷き、ゆっくりと言葉を選ぶようにして口を開く「うん、まぁ、正直俺が腹痛めて産むわけじゃないからよ、なんかこうそれこそコウノトリが運んでくるんちゃうかっていうかな、それにこう、何してやればええんかもわからんしな」
視線を浮かせたまま光太郎は何か悩むような表情をした。なにを考えているか全然つかめない。信号が黄色くなってもそうなので、俺は見兼ねて言う。
「そんなに考えることもないやろ今はよ。実際に産まれたとこに立ち会って、子供と顔合わせてみれば良いと思うで」
それでも何か考えていたようだが、やがてまた深く頷いて光太郎は笑った。「それもそうやな」
そのうち車が動き出して光太郎は運転を続け俺がうとうと首を揺らしている間に新横浜に着く。そして改札を通る直前俺はさっきのコンビニで金をおろしていないことに気づき呆れた顔をする光太郎に両手を合わせて拝み倒して片道分の交通費をゲットする。光太郎の奢りで適当な駅弁と酒を買って新幹線の座席に腰を下ろした時にはもう時刻はもう五時を回っていて太陽が灰色の空に半分浸かっている。新幹線が動き出す頃には運転の疲れが出たのか光太郎は上着を布団がわりに座席を斜めに寝てしまっていて、喋り相手のいない俺は1人グイグイ酒をあおりながら暗くなっていく東の空を見てぼんやりと考え事をした。天気予報では滋賀の湖北は雪が降っているらしかった。8年振りの俺の故郷。2度と行くとは思っていなかったのに今こうして向かおうとしているのはなんでだ? 俺は寝ている光太郎の分の酒も空けてすぐに飲み干してしまう。 脳裏にお袋の姿と無駄に多い思い出が顔をちらつかせるのでそれを必死に酒で紛らわせているのだ。親か。

       

表紙

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