引き戸の開く音がした。僕以外は誰もいなかったもの静かな生物室に、36度の熱気、忘れかけていた森の幾数万の虫たちの声が響く。首が痛いので僕は振り向かず、素知らぬふりで友達へのラインの返事を続ける。
「今日は、暑いねぇ」
わざとらしいぐらいの口調で樋口は言う。僕は眼下の画面に目を落としながら、そうやねえ、とか言って返事をする。
空調の効いているか効いていないかよくわからない室内。不自然なほど真っ白な蛍光灯の下、沈黙を続けるカーテンは光を反射しない灰色で、時計の短針は3時過ぎを示している。生物室の黒机は備え付けで、20卓が規則正しく整列している。まるで時の流れを感じさせないような室内を、樋口の牛歩が一秒ずつ時を刻み、彼女は真夏の中から取り出して来た採集物を僕に手渡す。
「今日はまぁまぁやね。もしかして、干からびてるんかと思ったけど」
カスミサンショウウオの卵のうを見るのは三度目で、それを見ると、僕はいつもうざったい気分に駆られる。その度なぜうざったくなるのだろうと考えたりもするけど、すぐにどうでもいいかと思考を放棄する。緑色の透き通った水饅頭みたいな卵のうは、ポリ袋の水の中に重たげに浮かんでいる。目を凝らさずとも中で何かが蠢いているのがわかった。
「他の部員はどうしたん」
「ああ、まだ沼にいるわ。私、このあと用事あってなぁ」
水道の蛇口を捻り、ジャージの袖をまくって、腕に付いた泥を落とし始める。少し焼けたかな、と聞いてきたが、インドアな彼女の白い肌は変わらずそこにあり、冷たい水の水滴がつつと流れるところはいつ見てもきれいだ、と思う。
「さっき用事って言ったけど、なんの?」
石鹸を取りながらそのままこすって泡をたて、僕には向かずに言う。
「うん、もう三年やでな、最近塾通いだしたんよ。別に私は行きたくないんやけどな、ほら、そんな私賢くないで、親とかにな、急かされるんよ。急かすっていっても、遠まわしやけどな」
樋口は丁寧に手の汚れを落としていく。指、その間、爪、その内側。手の薬指にある指輪との間にも緑色の泥が堆積していたが、僕は言わなかった。鈍く輝くシルバーのその指輪に気づいたのはつい最近のことで、薄く何か文様が彫られたそれは、実際の輝き以上にまぶしく思える。
「もう部活来れるのも数えるぐらいやわ」
「どうでした、三年間。というか、部活」
「んー、もちろん楽しかったよ。というか、楽しくなかったらやめてるしな」
「具体的に言えば、何が楽しかった」
「そうやなぁ」
蛇口を閉め、手を洗い終わると彼女は困ったように薄く笑ってこちらを振り向いた。壁にひっかかってあったタオルを投げつけてやると、それを取った後彼女は愉快そうに笑い声を出した。小首を傾げて、腕の付け根までタオルを回しながら。
「両生類の研究っていいたいけど、ほんまは部員の、卒業した先輩とか朴くんみたいな後輩たちと、笑いあって話せたことが楽しかったよ。うん、楽しい、楽しかった」
そろそろ制服に着替えたいなと樋口が言って、気を使って僕は入り口のドアの向こうへ一時避難しようかと腰を上げた。しかし、彼女はそれを慌てたような態度で制した。
いいよ、だいじょぶ。気遣わんといて、悪いし。あ、でもあっちのほう向いといてな。
そういって無機質な窓辺の方向を指差す。森の色が一面に塗りたくられたそこからは、太陽の黄金色に通る日差しがこちら側へうっとおしいぐらいに主張している。たぶん、森を深く行ったここから覗くあの木々らの僅かな隙間には、ぎっしりと色とりどりの虫たちが集団を作っていると思った。視力0,1以下の僕には見えるはずも無いが、でも確かにそう感じる僕はそこにいた。
耳の中は、布と布の擦れ合う音が幾重にも木霊している。
背後には、下着姿の彼女がいる。
最後にいつ切ったかもわからない僕の爪はそれこそ白い部分が三日月みたいな立派な形をしていて、見ずとも両拳を握っているとその存在が確かにわかり、ぬるぬるする手汗のせいで、三日月のそれは留まらずに浮いているような錯覚を覚える。ごめんね、時間取らせて。と彼女は小さな声で言ったが、僕はなにも答えなかった。
「なぁ、朴君て身長何センチ?」
カバンのチャックを開ける、ヂーという音がする。背後で彼女は何かをとりだした。
「175センチ」
「へぇ、それならクラスで一番ちゃう」
「いや、それが3番なんやな」
「まだ大きい子、いるん?」
「一番でかいやつは183センチ・・・・・・」
僕はうつむく。またカバンのヂーが部屋に響く。乾いてざらざらと唾を欲する舌は、呼吸のせいでさらに乾いていく。
「ああ知ってる。確か野球部の子やんな。なんやろ、運動すると背伸びるんかな」
「どうかな」
ずいぶんと布の擦れる音がしないことに気がついて、ぱっと後ろを振り返ると裸の樋口がそこにいる。眼前といっても差し支えないほどの距離で。なにかに対して、僕は深く溜め息をつく。彼女の髪からは鼻を刺す安物のフレグランスの香りがして、脱ぎ捨てられた下着は清澄な黒机の上に散っていた。
「別に、誰にでもこういうことするわけちゃうんよ」
樋口の一重の涼しげな目は潤んでいる。メガネの奥で。出入り口のドアの鍵は内側から閉まっていて、僕は何もいわず頷き、傍の窓の揺れないカーテンを閉めた。部屋は昼と夜ともわからない密室になり、僕の眼差しは彼女の体へと注がれている。
「いいん?」
声にならない声で彼女は言った。その細い体の呼吸に合わせて肩は静かに上下し、ほのかに上気して赤く染まった皮膚からは青い、半透明の血管が透けて見え、それらは冷静だった僕に小さな興奮を呼び覚ました。
近づいて軽く唇と唇を重ね合わし、彼女を黒机の上にゆっくりと押し倒す。樋口の目にも興奮の色があるのがわかる。荒くなっていく互いの息遣いが心拍数と重なり、気のせいか、彼女の息は泥の匂いがした。不快感はない。細く伸びる彼女の両足に指を這わせ、腹を滑り、つつましく薄い両胸を愛撫する。するとぴくっと、彼女が一瞬震えたのがわかった。
「もしかして初めてなん」
数秒の間を空けて彼女はほんのわずかに頷いた。
「嫌やった?」
「別に」
恥部に指をやると、彼女のそれは温かく、そして濡れている。僕はもう一度深く溜め息をついてベルトをはずし、学ランのズボンとパンツを脱いで、興奮したペニスを出した。見なくとも彼女もそれを見つめていることがなんとなくわかる。
すっと指が伸びてきて、彼女は僕の少し汗ばんだ額を腹の膣の位置の真上に寝かせた。僕は少しの間だけ目を瞑る。彼女の熱が、額を通って僕の四肢の末端まで流れ込んでくる。それは水のような爽やかさでもなく、べたついた汗のような鬱陶しさを持っていない。意識の中の額は開いて、ゆっくりと熱を食べていく。
「なぁ、わかる? 私のお腹の中、いつからか、今もずっとぐるぐるしてること。胃とか、内臓の調子が悪いとかって意味じゃないで。なんかこう、色んなこと考えたり、悩んだりしてるとな、すごいそう感じるんよ。そうなるとなんかこう、あーってなってさ、走り出したくなる感じでさ、わからんかなぁ」
校庭のほうからは運動部達の練習が聞こえてくる。どこかそこは遠い異世界に感じたが、きっと僕たちのいるこの部屋が異世界なのだろうと思った。ポリ袋に詰められた卵のうは、くたびれてスライムのように向こうの机に寝そべっている。あの卵の中の無数のカスミサンショウウオから見れば、僕たちはどう写るのだろう。果たして何が見えているのだろう。
「朴君、はやく」
僕は曖昧に返事をする。そして大きく反り返ったそれを、彼女の空洞に深く埋め込んだ。
空を仰いで青と白
まとめて読む
「なぁ、模試何位やった」
梅雨の小雨に打たれるねずみ色のアスファルトの道路は、いつの間にか真っ黒に塗りなおされていて、中学の頃に通学路だったこの道はまるで見知らぬ町のどこかのように見える。米原ではない、別の田舎町の風景だ。半歩後ろを着いてくる栗本は、校舎を出てから執拗にずっと僕に聞いてくる。
「なぁ、聞いてるやんけ」
「やから言いたないって言ってるやろが、わかれやボケ」
「はあ? 俺は別に聞いてるだけやん。そんな声荒げることないやろ」
僕は何も答えない。無言で先へ進んでいくと、ちょお待てや、と駆け足で追いかけてくる。信号の前に出ると、栗本はまた僕の半歩少し後ろで青に切り替わるのを待った。しばらく二人そうして立ち止まっていると、視界の隅をまばゆい水色の車体が止まる。僕が振り向く前に、栗本の声が先に出る。おぉ、遅いでお前ら。見ると自転車に乗って、傘の下、澤渡と小松が並んでいる。
「なぁ今日はユチョルは来れへんって。あいつまた引きこもっとるみたい」
小松がそう言い、横で澤渡はどうでもよさそうに自分の服のほつれを眺めている。僕はそうかとだけ返して、青になった信号を一足早く渡る。背中越しに栗本の声が耳まで届く。
「まじで、あいつ大丈夫なんかなぁ。な、小松、お前同じ三組やろ。もう学校もずいぶんきてないやろ」
「アイツ、あれ、クラスのやつらから気味悪がられてるわ。浮いてるもん、アイツ。なんとなく察してるんやろ」
韓国人やしな、と澤渡が呟いた。カラカラと小松たちのタイヤの回る音がする。僕たちが渡り切るのを待っている軽の自動車の目からは金属的な黄色の閃光が閃いていて、降りていく雨の一粒一粒を丸く筒状に切り取られた光の空間に映し出している。僕たちが渡りきれた直前、自動車は堰を切ったように走っていった。
「今の車の運転してたやつ、すごい顔してたなぁ。いや元々ブサイクやろうけど、めっちゃイライラしとって、余計ブサイクやった」
澤渡がそう言うと、栗本は機嫌良さげに笑った。イライラするくらいなら車に乗るなよな、といってやると二人はより笑い、小松は無言で車の去っていった方向に目をやっていた。
図書館に着くと、僕は皆より先に中に入り、栗本は自転車置き場に向かった二人についていった。空調の効きすぎた館内は外より寒く、僕の両腕を鳥肌が包む。切り立った崖のようにそびえ立つ本棚の列を横切り、半分壊れかけた扇風機が音をたてて回転するほうへと向かう。円卓のような大きな木の机に外の湿気をたっぷりと吸ったナイロンのカバンを置くと、滴るしずくが線を引きながら木の卓上に落ちて消えていく。机を囲む八席の、窓際のそれに僕は腰掛けた。外の雨の勢威が増している。
入ってきた入り口へと目をやると、まだ栗源たちは見えない。机に広げたノートと参考書の横にペンケースから取り出した愛用のシャープペンを一本添えて、僕は本棚の森へと足を伸ばす。鬱蒼と生い茂る木の葉は本達だ。児童文学、西洋文学と並んでいる棚を通り越しミステリの方へ行き、僕はその中から適当な一冊を抜き出す。聞いたことも無い作家の名前に見たこともない荘丁。その隅で緑色の鳥が羽ばたいているのが目に付いた。表紙をめくり作者の経歴欄に目を通すと年は僕の5つ上で、関西在住。著者近影で地味な雰囲気のメガネの若い女が犬歯を見せながら薄く笑っている。どことなく樋口に似ていると僕は思う。その本を持って席に戻ると、三人が荷物を置くところだった。小松が僕の手に ある本を見て言う。
「お前が本借りるん、珍しいな」
「たまにはいいかなって」
「現代文の点は良かったよなお前、いいんちゃう、読書」
向かいに座った栗本は僕たちの会話を横目にスマートフォンを弄っている。シャープペンを器用に指先で回しながら。俺、その作家知ってるで、確か隣の市の東高卒や。そう無表情で言う。
「やっぱ偏差値高いやつは違うねん。東の偏差値70はあるやろ。しかもその作家の大学京大やで、法学部の」
「別に大学とか頭とか、関係ないやろ」
「馬鹿じゃ書けんやろが小説なんか」
栗本は吐き捨てるようにそういうと、トイレに行くといって席をたつ。小松に連れションに行こうと馴れ馴れしく肩に手を置くが、いや、ええわ、と小松は少し鬱陶しそうに断る。澤渡はイヤホンで音楽を聴き自分の世界に入っていて、栗本は一人でトイレに行った。
「なぁ、ユチョルのやつどうしたん」
弁当箱ほどの分厚さをした英和辞典をバッグから取り出しながら僕が聞く。小松の表情が少し曇り、そうやなぁ、と視線をどこか遠くにやって、数瞬の間を空けてから言う。
「お前も知ってると思うけど、あいつ、クォーターやろ、韓国と日本の、国籍はどっちかしらんけど、在日ってやつか。そんでまぁ、色々あるやん」
「色々?」
「うん、まぁ、あんま言ったらあれやけど」
小松はジーパンのポケットから板ガムを出して、僕に食うか、と一枚差し出す。企業のロゴがたくさん箔押しされてある銀紙を開くと毒々しい色のガムがある。聞くと小松はブルーベリー味と答え、自分も美味そうにそれを噛み締めた。
「他のやつら、クラスのやつらはあいつが学校こーへんのは単に、サボってるだけやとかおもっとるけど、ちゃうんよ。ほらあいつの苗字って朴やろ、だから俺らもなんとなくあいつが韓国人やわかったやろ、一年とき、出会ったときさ。そんであいつにさ、皆聞くやろ、国籍のこととかさ」
「うん、俺も聞いたで」
小松は降りかかる前髪を人差し指で払い、くちゃくちゃとガムを口の中で砕く。
「俺もよう分からんけど、なんかそういうのがすごい苦痛やった、いや苦痛らしいわ。あと自分のそういうことについて、こそこそ噂立てられたり」
「なんでそれが苦痛になるん?」
「俺に聞かれてもなあ・・・・・・」
僕と小松は気づかない間に同じ場所を見ている。小学校低学年くらいの子供、少年と少女二人。二人は絵本やぬいぐるみ等が固まる児童用のたまり場のような場所で遊んでおり、時折何か大声を出したりして、その度にまた大きな声で笑いあっている。兄弟かな、と小松が呟き、僕は友達かも知れん、と答える。おかしいなぁ、俺、あんな年のころ女子と遊んだことあったっけなぁ、と不思議そうにもらした。
「そういや思い出したけど、俺が小学生のときクラスに外国の女の子いてさあ、たしかヨーロッパとかの子やったと思うけど、たぶん親御さんの転勤かなんかやろな。薄い茶髪で目もそんな色で、まぁ洋画とかで見るような可愛い子じゃなかったけど、目だってたな」
「見た目が? 性格が?」
「どっちも。アクティブな子やったよ、社交的で。んで白人やからさ、クラスの女子とかかまうんよそいつに。ほら女って西洋とか白人とかなんか憧れみたいなんあるやん、なんでか知らんけどさ。そんなわけで人気者みたいな感じやったけど、そう長くは続かんかったな。一回、なにがきっかけかは忘れたけど一人の女子とその子がケンカしてさ、それ以来ずっとクラスで浮いた。一部のやつなんか、別にケンカしたわけでもないのに国に帰れとか白豚とか悪口言ってたもん」
僕はシャープペンを置いた。隣の澤渡は音楽を耳に詰めている。激しく貧乏ゆすりをしながら、ペンを走らせながら。
「今、その子はどうしてるん」
「うん、風の噂で、インターナショナルスクールとかいうとこにいったって聞いた。なぁ、あれって高校なんかな」
知らない、とだけ僕は返した。栗本が手の水滴を空中に払いながら帰ってきて、窓の外を眺めて驚きの声をあげる、その瞬間部屋の中を真っ白な閃光が充ちて、割れるような轟音の雷鳴が図書館へと飛び込んでくる。時はその時だけ動くことをやめ、そこら中から悲鳴があがり、天井の窓が幽霊みたいに鳴いて、目を丸くして澤渡はイヤホンをはずし、栗本は本能的に手を頭の上に被せて、僕と小松だけはただ、静かに雷鳴の方向を見据えていた。