Neetel Inside 文芸新都
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雨の観察
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雨のはじまりは誰でも知っている。だけど、雨の終わりを知る人は少ない。
ぽつぽつと落ちた水滴が地面に染みをつくり、やがて勢いを増して滝のようにあたり一面を濡らす。そんな体験は何度もあった。
だけど雨は去るときは不思議と素早く、まるでその気配を感じさせない。訪れるときの緩慢さが嘘のように、清められた空だけを残していつの間にかいなくなる。
雨はいったい、どの瞬間に終わるのか。
それをふと、疑問に思ったのだ。

黒くふさがれた空から透明な細い線が絶え間なく落ちてくる。それはたちまち地上にたどりつくと、街の灯を滑らかに照り返す路面を叩いては無数の透明な花を咲かせる。稲光が傘の群れをストロボのように切断し、少し遅れてどこか遠慮がちな遠雷が空気を振るわせる。
夕方の商店街は豪雨の中で溺れていた。足早に行き交う人々はみな無表情の奥に舌打ちを隠していた。俺はそれを人形の目で見つめ、それからまた、焦げた鍋底みたいな空を見上げた。
いくら観察しても、止む気配は少しもない。黒一色だった空に、わずかにムラが出てきたくらいか。もしかしたら夜まで続くのかもしれない。ひょっとしたら翌日の朝まで。
ポケットのスマフォを引っ張りだすと午後五時。降り始めからすでに二時間が経っている。
首の筋肉に、鋭い痛みが走りまわった。
空を見上げ続けるのが、こんなに辛いものだとは。
いや……。そもそも、何かを「見上げる」なんて動き、よく考えれば日常生活でそうそうやるものではない気がする。電車ではうつむいてスマフォを見るし、歩くときは視線を落として前の人のかかとを見るし、家では寝そべってテレビを見ている。
つまり俺の首は生活の中でいつの間にか主に下方向を見ることに特化していて、空を見上げるという不慣れな動きを続ける俺に不平不満を申し立てていると、そういうわけなんだろう、たぶん。

またどこかの空が光って、歩行者たちの首を数ミリずつ縮めさせた。ぬるっとした微風が通り過ぎ、それはアーケードを叩く雨を適当に散らして不思議なリズムを奏でる。三拍子でも四拍子でもないけれど、でもどこかに不思議な規則をにおわせる律動。
跳ね返る雨のにおいペトリコールは、いよいよ濃さをまして俺のまわりに立ち込めている。それは知らないはずの太古を思い出させるにおいだった。
ちょっと無謀な真似をしたのかもしれないと、少しばかり後悔している。
なにしろ突然のゲリラ豪雨というやつだったから、一時間もすればすぐ晴れるのだろうとたかをくくっていたのだ。だが予想に反して、スマフォで調べた天気予報は、五時も雨、六時も雨、七時も雨。雨、雨、雨続きだ。おまけとばかりに雷のマークまでくっついている。曇りのマークは、八時を過ぎあたりから遠慮がちに、降水確率五十パーセントとの文言とともに現れる。
つまり思っていたよりも長丁場になりそうなのだった。

……例えば、諦めて帰るという選択肢もなくはない。
というより、それはむしろこの状況においては妥当すぎる判断と言えた。もう夏も終わりだけれど、温暖化が騒がれる昨今、九月に入っても夕立に遭遇する機会はたぶんいくらでも残っている。今日のところは撤退して再チャレンジという考えは実に合理的で好ましい。次までに首を鍛えておくという課題も見つかった。
それもこれも、俺が傘さえ持っていればの話だが。
つまり俺は傘を持たずに出た先で突然の雨に出会って濡れ鼠にされ、おまけにそれがパチンコで大負けした帰りだから財布にはわずかな小銭しか入っておらず、商店街のアーケードの下、カラフルな石畳に一点ぐっしょりと大きな染みを作りつつ寒さに震えていると、つまりそういうわけなのだった。
そう、雨に対する興味は、本当のところを言うと実際的な要請に迫られた末のものでもある。ようするに発想の転換というやつだ。
避けられない雨に出会ったから、その雨自体を観察対象にする。それは無益なはずのものを有益に転換する試みであり、日常に隠された自然の神秘に肉薄する秘密の儀式であり、せかせかとした現代社会のなか、切り刻まれた時間を勝手きままに開放する至高の贅沢でもあり、負け惜しみとかの類では断じてない。
いや……やめよう、そんな言い訳は。きちんと正直なところを告白しよう。
実のところ、さっきから隣のコンビニが視界にチラついて仕方がないのだ。もっと詳細かつ具体的に描写するならば、その入り口前に置かれている傘立てと、そこに無造作に突き刺さっているいくつものビニール傘が。
いや、ちゃんと分かっている。
窃盗は犯罪行為である。
いくら大した額のものではないからといって、高くとも一本五百円程度の安物だからといって、仮に無くなったとしても多分きっと大抵の持ち主はちょっと眉をしかめる程度で買いなおす程度のものでしかないからといって、軽々しく拝借してよいものではない。
だが、そういった当たり前で常識的な理屈であっさり結論を下しこの問題を終わりとするのはいささか短絡的であり、あれこれ考える性質の自分としては許されざる怠惰な思考停止にも思える。ここはひとつ、俺の境遇というやつも一考に加えたうえで、この問題をもう一度考えてみようではないか。
現状を今一度把握しよう。パチンコでボロ負け。一文無し。雨に濡れたシャツに体温を奪われ、夏だというのに今にも風邪を引きそう。我ながらなんとも惨めである。そこらを行く不機嫌そうな人々と比しても、ひときわ不幸な状態をひとり甘受していることは火を見るよりも明らかだと言っていい。
一方で、コンビニに目をうつしてみよう。窓際のガラス越しには、マネキンのように立ち並ぶのんきな立ち読み客らの姿がある。スーツを着た若いサラリーマン、私服姿のたぶん大学生らしき男、四十がらみの作業着姿のおっさん、計三人がみな一様にゆるんだ顔を外へと晒していた。
さて、たとえば仮に苦労の天秤みたいなものを定義するとして、今の俺を片方に、こいつら三人をまとめてもう片方に乗せたとしたらどうなるであろうか。おそらく、それでも傾くのはきっと俺のほうに違いあるまい。
ところで人はみな平等でなければならない、というのは普遍的な理念であろう。それは例えば苦労の重さや幸せの多寡についても、同時に援用できるものであるはずだ。
だとすれば――彼らの傘によって俺が救われ、一方であの立ち読み客らの一人が苦労を負うことは、むしろ苦労の不平等を正す正当な行為と言えるのではないか? ならば俺のやろうとしていることは表面的には窃盗という犯罪行為ではあれど、その奥のところでは世の中をよくしようという崇高な理念に基づく行動とみなせるのである。
これは暴論だろうか。俺はそう思わない。だって俺は寒いし一文無しなのだ。
一方で懸念もあった。
それは、入り口に並ぶ傘のどれがあの立ち読み客のものであり、どれがそうでないか、今の俺には分からないということだ。
買い物に入っただけの客から傘をくすねるのは流石に気が引ける。拝借するのはあくまで、あのだらしない顔を並べる立ち読み客らのものでなければならない。いや、確かに買い物客のほうも一文無しである俺と比べれば恵まれた境遇にあることは間違いないのだが、だからといってあの居並ぶ傘のどれをとっても構わないと結論付けるのは、なんというかこう、美学に反するような気がするのだ。
わかるだろ?

というわけで、俺は雨空の観察にくわえて、コンビニに出入りする人たちも見張ることにしたのだった。
出入りする人間を観察し続けていれば、ほどなく、いつまでも動きのない傘を見極められるはずだ。それすなわち、あの立ち読み客らの所有物ということになる。俺はめでたくその傘を使って帰宅し、世の中は少し平等になる。実に美しい結末である。
もっと簡単なのは、新たな立ち読み客が増えることだ。例えば今ビニール傘を傘立てに放り込んだ学ラン姿で坊主の少年が雑誌コーナーに移動して漫画を読み始めたとしたら、俺はその傘を心置きなく使うことができる。残念ながらそいつは雑誌に見向きもせず、奥の惣菜コーナーに向かったようだが、まだ希望はある。惣菜を物色したついでにちょっと立ち読み……となるかもしれないではないか。
そうこうするうち、立ち読み客の一人が漫画雑誌を閉じ、入り口から出てきた。少し奥まったところにある傘を無造作に引っこ抜く。なんとなく目星をつけていたやつだった……思い切ってパクってしまえばよかったと後悔するが、もう遅い。まあこれは確信を持てないうちに動きがあったわけで、つまりタイミングが悪かっただけだ。時間はまだある。じっくりと行こう。立ち読み客は残り二人。俺は観察を続ける。もちろん、雨雲の観察の合間にだ。

空は相変わらず黒く染まっていたが、雨音はいつの間にか「ざあざあ」から「さあさあ」くらいに変わっており、さっきよりも雨脚が弱くなったことを耳のほうで理解した。遠雷の音もそういえばもう聞こえない。雨が止むのが早いか、それとも立ち読み客の傘を見つけるのが先か。個人的な気持ちは実のところだいぶ後者の方に傾いている。なにしろ濡れたシャツの感触がたいそう不愉快なのだ。一刻も早く自宅に戻ってシャワーを浴びたい。
その時、雑誌スペースにまた一人、新たな人物が現れた。その姿を見ておや、と思う。学ラン姿に坊主頭。さっきコンビニに入っていった学生ではないか。彼は手に持っているお茶のペットボトルを平棚に置くと、漫画雑誌を引き抜いてページを繰り始めた。
素早く傘立てをチェック。彼のビニール傘がどこに差し込まれていたか、俺はちゃんと覚えている。あれだ。ペラペラの安っぽい透明なビニール傘。一見してすぐ大した値段ではないと分かる。問題なし。あとはあれをお借りするだけだ。
あまり目立つのはよろしくない。傘立ては彼の側からも見える位置にあるのだ。素早く、さりげなく、通り過ぎるふりをしながら引っこ抜くのが適切だろう。頭の中でその動きを何度もシミュレーション。よし、完璧だ。
俺は彼がまだ漫画に熱中しているのを確かめてから、自然な感じで一歩を踏み出す。傘立てと傘の位置を視界の端で確認する。決してじっと見つめてはならない。盗むつもりなどまるでないように、ことさらのんびりとした人畜無害な表情で前を向く。そら、もう入り口にたどりつくぞ。傘立ては目前に迫っている。通り過ぎる瞬間、ほんの一瞬だけ歩くペースを落とし、傘のある位置へそちらを向かずに手を伸ばす。プラスチックの柄が手に触れた。それを掴んだ。あとはそのまま、少し大きめに腕をふって歩き出せば、傘は自然と引っこ抜かれ、めでたく僕のなるという算段である。

「あの、すみません」

横から声をかけられたのは、そのときだった。

さて、この耳元1メートルくらいの距離から発せられた女性と思われる高い声での呼びかけをどう解釈するべきだろうかと俺は考える。
タイミングがタイミングだ。窃盗の瞬間を見咎められたと考えるのが自然だろう。
しかしよく考えてみよう。雨の夕方、せわしなく行き交う人ごみの中で、ただ一人たたずんでいるずぶ濡れの男にわざわざ足を止めて注視するような人物がいるだろうか? いるとすればそれはよっぽどの物好きだ。
とすれば可能性をひとつに絞るのは早計に過ぎ、そのため俺はこの問いかけが意味するところがなんなのか、数パターンを素早く頭に思い浮かべた。
1.たまたま俺が傘を手にするところを目にし、窃盗ではないかと疑った。
2.傘の件とは別のなんらかの事情で声をかけた。
3.そもそも俺ではなく、近くにいる別の人物に声をかけた。
4.その他。
一番ありがたくない想定は1であるが、俺のことをずっと監視していたのならともかく、今ぱっと目にしただけなら、この傘が本当に俺のものでないかなんて分かりっこない。忘れた傘を取りにきただけと抗弁すれば済むことだ。ぬるい風と体温により、ズブ濡れだったシャツは多少は乾いており、いまは湿り気を帯びた程度になっている。生まれつきの汗っかきだという理由でごまかせなくもないだろう。
となれば、1.2.3、どのケースであろうと、俺がとる行動はただひとつ。
つまり呼びかけなど無視して立ち去ればよい。

「あの、あなたいま、傘盗りましたよね?」

おのれ。
はっきりと言及されてしまった以上、無言をつらぬくのは自分の後ろめたさを認めることになる。それはたいそうマズい。変に大声を出されでもしたら状況は余計に悪くなるのは明白である。仕方なく俺は「変な言いがかりをつけられて困惑している善良な市民」という表情を作りながら振り返り、その声の主を見た。
箱があった。
『フィリピンで被災した子供たちに支援を!』
デカデカと書かれたマジックの文字と崩れた家の前で途方にくれる褐色の人物らの写真。その後ろからぴょこんとポニーテールがのぞいている。よく見るとその根元にじっとりとこちらを睨む二つの目が燃えていた。

「それ、あなたのですか? 違うでしょ? 盗もうとしましたよね、いま。返したほうがいいんじゃないですか?」

まだ幼さの残る声色でこまっしゃくれたセリフが矢継ぎ早に浴びせられる。体を少し引くと。たぶん学校指定のものであろうジャージを着た小柄な女がそこにいた。大人びた中学生か、はたまた子供っぽい高校生か。はっきりと分からないがガキなことに変わりはない。栄養失調のキツネみたいに頬のこけた顔で、そのつりあがった一重の目は弱い犬をなぶるような正義感に輝いている。
学生……しかもボランティアとかやってる類のクソガキ。俺の一番嫌いなタイプだ。
ボランティアに身を捧げる人種というやつはおしなべて正義と平等とを追い求め、優しさと善意が世界を救うと信じている。それはそれで正しいとは思うが、奴らのどこか陶酔したような目の輝きはまるで自分たちが選ばれた高尚な存在であるかのような尊大さに溢れていて、どこかの遠くの国で苦しむ人々には優しいくせに例えば俺のような身近にひそむ落伍者には容赦なく蔑みの視線を向けてきたりする。
そして高校生だか中学生だかいわゆる思春期にあるガキというのはその若さゆえに自分の信じる思想を曲げず疑わず馬鹿の一つ覚えみたいに突っ走って他人にも平気で押し付けてそれを少しも悪いと思わないのだ。ちょうど今みたいに。

さてどうしてくれようか。当然ながら相手を説き伏せこれは俺の傘であると納得させその場をさっそうと立ち去るというのがベストの選択ではあるのだが、なにしろこいつは見知らぬ人間をいきなり傘泥棒だと断定しあまつさえ直接声をかけてそれを正そうと試みるあたり根っからの正義バカである。その未発達のおつむの中身はどうせ一方的な思想で凝り固まっているに違いなく、すなわちまともな会話が成立するとは思えない。
こういうケースで自らの潔白を強硬に主張することは事態を悪化させる結果しか生まないということは長年の経験から分かっていた。ではどうするかといえばまずは一旦引いて相手の出方を伺うのが得策であり、そのため俺はそいつの方を見て

「え、えへぇ?」

と困惑八割弱々しさ二割の顔で半笑いを浮かべるという行動に出てみることにする。

「ええ? じゃないでしょ。あたし見てたんですよ、あなたが歩くついでにその傘をつかんだとこ。それ別の人のですよね?」
「俺のですよぉ」
「ウソ。分かってるんですから。だってあんたずっと空見てたじゃないですか。あたしさっきからずっと向こうに立ってたから分かるんですよ。それって別の人が置いてった傘でしょ?」
「彼は友達だよぉ?」
「キモい。そんな言い訳が通ると思ってるんですか? なんならその友達とやらにこれから聞いてみましょうか?」

さてどうやら思っていたよりだいぶ面倒くさい相手のようだ。何様のつもりなのか、眉間にいっちょ前にしわを寄せて鼻息を荒くしてやがる。というか俺が空を見ているのもずっと見ていたとかお前はなんなんだ。ストーカーか。
しかし彼女の言葉が本当だとしたらこのままやり合ってもだいぶ分が悪い。走って逃げてもいいが、それだと俺が負けたみたいでなんだか癪にさわる。万が一捕まりでもしたとき、こいつの勝ち誇った顔を見るハメになるかと思うとなおさら不愉快だ。
というわけで俺は、半分抜けかけたそのビニール傘を元通り傘立てに戻し、手を離した。

「はい」
そうして彼女に向かってにっこりと笑う。
「これでいいですよね?」
「は? よくないに決まってるでしょ」
「返したじゃないですか」
「それって自分が盗んだって認めたってことですよね。バカなんですか?」
「盗んでないよぉ。ちょっと疲れたから一瞬よりかかって、いま手を離しただけ」
「さっき俺のっていいましたよね? さっき言ってたことと違うじゃん」
「そんなこと言ったかなあ? 覚えてないですね。証拠でもあるんです?」
「……持ち主に言いますよ?」
「どうぞ? だって俺盗んでないですし。いきなりそんなこと言われても向こうが困るだけだと思いますけど……あの、すみませんがこれ以上変ないいがかりをつけるのやめてもらえますか?」

女は心底悔しそうな顔をして、「サイテー」とカタカナ言葉で吐き捨てる。俺は何もいわず、満面の笑顔でその顔を見つめ返した。

「ていうか、さっきからなにしてるんですか? ヒマなんですか?」
「なにって、雨雲を観察してるんですよぉ」
「……キモッ。意味分かんないし」

彼女はことさらキツい口調でいい、背を向けて歩き出した。幼稚な負け惜しみだ。俺は胸を満たす勝利の感触を存分に撫で回しながら、ついでに左右に揺れて遠ざかる未発達の尻を目で犯す。
しかしながら、こちらも無傷での勝利とはいかなかった。彼女はそのまま俺の斜向かいの歩道に陣取り、募金を呼びかけながらも、時折こちらを射るような視線で見つめてくる。彼女の監視がある限り、コンビニから傘を拝借するのは難しそうだ。場所を変えて別の場所で傘を盗……お借りするという手もあるが、あの気持ち悪い正義バカのことだ、なんとか尻尾を掴んでやろうと後をつけてくるかもしれないし、何よりその選択は見咎められて逃げるのと本質的には変わらない。つまりそれは彼女の正義に気圧されて尻尾を巻いて逃げたということであり、俺の思想の敗北を意味する。断じて認めるわけにはいかない。
というわけで俺に残された方法はひとつ――引き続き、雨が止むまで空を観察し続ける。

それから「さあさあ」状態になった雨はもしかすると近いうちに止むかもしれないという希望を抱いて再び空を見つめはじめてから、残念なことにもう三十分が経過しようとしている。首の引きつりと俺の苛立ちを嘲笑うかのように「さあさあ」はかたくなに「さあさあ」状態を守り、それ以上の弱まりを見せる気配がまったくない。むしろ遠雷のアクセントも突風が生み出す律動も立ち込める太古のにおいもすべて遠くへと過ぎ去って、あとには振られた男の未練のような単調で退屈でぐじぐじと未練がましい小雨が続くばかり。
スマフォを見るとなるほど時刻はまだ五時三十分を少し回った程度であり天気予報に従うならば当然雨はあと三時間ばかりは続くはずで、つまりこの間延びした無益な時間はまだまだ終わらないとそういうわけである。あらためて思う。あのクソガキ、死んだらいいのに。

「ねえ、おじさん」
「ひょい?」

ちょうど呪詛を吐いたタイミングでふたたびあの耳に障る甲高い声が俺の近くで降って湧いたものだから、反射的に肺が縮まって妙な声を出してしまう。
振り返るとそこには果たしてあのクソガキがいた。

「な、なんですかぁ?」
「あのさ、あんた本当にマジで……雨の観察してんの?」
「そうですけど?」
「それ、楽しい?」
「もちろんですよぉ」
「……キモッ」

彼女は心底不愉快そうな三白眼でこちらを見てくる。
なるほど、リベンジマッチのつもりか。先ほど俺に完膚なきまでに言い負かされ、悔し紛れの捨て台詞を吐いたもののどうしても腹立ちがおさまらず、わざわざまた首を突っ込んできて何かしらイチャモンをつけてやろうという魂胆であろう。クソガキのモンキー同然な報復的思考など知ったこっちゃないが、口ゲンカで俺に挑もうというその考え、実に甘い。甘すぎて成人病になるくらいだ。思春期という立場を最大限利用して感情論を濫用することで大人に対し論争で常に有利なポジションを確保できるに違いないと見立てているのなら大間違いだ。それを今教えてやろう。

「そういう君は楽しいんです?」
「は?」
「楽しいんです? それ」
「は?」

俺はそのネットで拾ってきた写真でも適当に拾って印刷したのだろう、粗い解像度のフィリピン人画像が貼り付けられた粗末なダンボール箱を指差す。汗なのか雨なのか、それはよれよれにヘタって今にもどこかに穴が開きそうだ。

「いや、楽しいとか、楽しくないとかじゃないし」
「ああそうですか。楽しみではなくその心から溢れる義務感で雨のなか一人ダンボールを持ち募金を呼びかけているというわけですね。いやえらいえらい」
「なに、おっさん、喧嘩売ってるの?」
「なぜ? いいことじゃないですか素晴らしいことじゃないですか見ず知らずの人に対して慈悲の心を持ちあまつさえ自ら行動できるというのは。だからこんなところで俺みたいな雨を見ているだけの人畜無害な人間なんて放っておいて引き続きその崇高な使命に打ち込んだほうがいいと思いますよさあ早く」
「そんなこといって、あんたまた傘盗むつもりだろ?」
「ああなんということでしょう、まだそんな言いがかりにこだわって俺に絡んでくるんですね。さっきからチラチラ監視してたみたいですけどあれから傘を盗む気配を少しでも見せましたか? ないでしょう。酷いですね悲しいですね、恵まれない子供たちに思いを馳せる優しさを持ちながらその情熱を俺みたいな哀れな濡れ鼠を罪人に仕立て上げることに燃やしている。それはもともとあなたの心にあったはずの慈悲を穢す行為であり崇高な使命に対する冒涜ですらありますよ違いますかそうでしょう?」
「……なんなのあんた……まじ、ムカつく……」

女は全力で顔に力をこめてその表情を歪ませ、憤怒のあまり耳まで赤くなっている。ざまあみろ、これが大人の論法というやつだ。あいにくとこちとらピーチクパーチク感情論で議論を吹っかけてくる手合いの処理には主に同居する母親や妹やらとの論争の日々のおかげで慣れているのだった。
これだけ言えばもはやぐうの音も出ず、せいぜいがそのうつむいた状態のままひと言ふた言また弱々しい負け惜しみを言って引き下がるのが必定であり俺はそれに備えてことさら勝ち誇った表情を作ってその顔を覗き込んでやる。

「ふっ、ぐぅう、むかつく、むかつくぅ……!」

なぜだかそいつは泣いていた。
なるほど。これは新しいパターンというか長い年月を経て図太さを純粋培養した我が母やその遺伝なのかむこうから喧嘩を売ってくるくせに都合が悪くなると暴力に頼る我が妹と違ってごく普通の一般人の心というやつはどうやらもう少し繊細に出来ているようで、ひょっとしてこれはもしかすると少しばかりやり過ぎた?
ともかくどうやらこの女は俺の毅然とした態度を受け敗北感のあまり心折れすすり泣いているという事実は確認した。次なる問題はこの泣きじゃくるクソガキとその前で勝ち誇った半笑いを浮かべる齢二十七の男という構図が道行く人々にどのような印象を与えるのかという点である。それはもうわざわざ考えるまでもなく例えばいま通り過ぎたサラリーマンが投げかけた剣呑な視線を見るに明らかなのであった。

「いやあの、どうされました? あのですね別に俺に言い負かされたところで死ぬわけじゃなしそんなに泣かなくても」
「むかつくぅ……むかつくぅうううううう!」

およえやあのその、いや、ちょっと待てちょっと待て、おかしいだろう。この俺がめずらしく相手を慮って優しい言葉をかけてやったというのに、なぜそんな音程外したリコーダーみたいな裏声で叫び出すのだ? 俺が慈愛の心をもってひねり出した言葉に対してその反応は誠意がないと言えないかそれは。
しかしこの手の場において女の、特にメスガキの涙と言うやつは限りなく強い社会的な説得力をもっており、ああちょっと待てそこのお兄さん、足を止めてこっちを怪訝そうな顔で見るとかそういう態度に出るのはどうか止めてくれないか。いいか行動というやつはなにかと連鎖するものなのだ。あなたを皮切りに他の人もそれを真似しはじめたらどうするのだっていうかほらまた買い物帰りらしき主婦二人組が足を止めて顔をしかめなにやらヒソヒソと話しはじめたではないか。
まずいまずい、この状況は非常にまずい。先ほどの窮地とは比べ物にならない事態である。まずもってこのクソガキをどうにかして泣き止ませ一時的な休戦協定を結ばねばならん。なにか、なにか妙案はないか。
不測の事態に混乱した俺のニューロン細胞はこのシチュエーションに対する解法を求めてあっちゃこっちゃと乱雑な配線を繰り返し、あげく自分でもよくわからない謎の繋がりかたをしやがったようで、

「あんた、何してるの……?」

なぜだかしらんが、気付けば俺はコンビニ前に並ぶ傘を一本抜き出して彼女の頭へと差し出していたのである。
アーケードがあるから別に濡れやしないのに。雨なんて吹き込んじゃないのに。
そんなみずからのトンチンカンな行動に俺の混乱にはさらなる拍車がかかり、しどろもどろで口から吐き出した説明は、

「いやそのだってあの、ほら、涙で濡れるといけないですし……」

とかいう恥の上塗り二度塗り三度塗りレベルのアホなセリフだった。口に出した瞬間これは本当に俺が自ら考えた言葉なのかと愕然とするが、悲しいことに割とはっきりとした発音でその言葉は滑り出たし、また時間というのは不可逆の概念であるためもうこの事実は取り消せない。なんということだ。
しかし、その言葉はとにもかくにも彼女にとってある種の激烈な効果を及ぼしたようだった。あっけにとられた表情が一拍置いてなにかをこらえるように膨らみ始め、顔が先ほどの憤怒とは違う色に染まりはじめる。そしてついに耐え切れなくなったのか、その口からぶふーっと下品なつば交じりの息を吐き出して、腹を抱えて大笑いし始めた。

「なにそれ!? ちょーウケるんですけど!」

目じりから涙を垂れ流しギャハハハハと笑い声を上げるその女性らしからぬ振る舞いは低劣なことこのうえないが、しかしそのおかげでこちらに警戒の視線を向けていたくだんの兄ちゃんおよび主婦らはどうやら心に浮かぶその疑念をひとまず解いたらしく、だがそれでもアイスクリームの天ぷらを食べたようなイマイチ腑に落ちない顔をして振り返り振り返りしながら立ち去っていった。
つまり俺は自らのとった行動によって幸いにも窮地を脱したわけで、苦し紛れにハチャメチャをやらかしたとばかり思っていたニューロン配線はあながち間違っていなかったことが証明されたわけだがしかし俺の心のうちに喜びはまったくない。

「何そのセリフ!? クサッ、クッサぁ! マジキモい! キッモー! いひひひひひひひひ!」

笑い続けるクソガキを見る我が胸のうちに広がるは、ただただ敗北感のみ。
この感情、どう受け止めればよいのか。

「いやもう、死ぬほど笑ったわ~、最高だよキミぃ!」

やつは俺の傷心をたぶん見透かしたうえで笑いながら片方の手で俺の背中をばしばしと叩く。この一連のやりとりで俺と彼女との間にはなにかしら曖昧でしかし決定的なマウンティングが成立してしまっていた。こいつの行動はその確認に過ぎず、そして俺はもはやそれに抵抗する術を持たない。泣くガキというのもやっかいだが、むやみやたらと笑うガキというのも同じ程度に面倒なのだ。

「てかあんた、なにしてる人? ニートってやつ?」
「自由人と呼んで欲しいですね」
「ぶふっ」

鼻で笑われた。ああ、死ぬほど腹立たしい。

「でぇ、その“自由人”さん? はぁ、あたしがやってることをどう思うわけ?」
「はい?」
「だからこれだっつーの」

ボンと押し付けられるたぶんみかんかなにかを入れていたのだろう無駄に巨大なダンボールの箱。

「募金活動……ですか? 別にいいんじゃないですか素晴らしいことなんじゃないですか誰かに押し付けず一人で勝手にやるぶんには」
「だよねぇ? 間違ったことしてないよねぇ? あたし」

適当に返した言葉がどうやら彼女にとっては求めていた一言であったらしく、なにやら勝手にうなずきそれでも不満そうに口を尖らせている。

「ほんとムカつくんだよね、どいつもこいつも」

そこから彼女は非常にどうでもいい身の上話を勝手に喋り始めた。どうやら学校の授業で世界の貧困についてのビデオを見せられたこと。それを見て思わず涙したところクラスの男子にはやしたてられたこと。
それにムカつくあまり自ら勝手にボランティア同好会を設立し募金活動を始めたこと。
はっきり言ってその授業で受けたとかいう屈辱感がどういった理屈を経由してそんな短絡的かつ衝動的な行動に帰結するのがまったく理解できないし理解したくもない。だが俺はまだ先ほどの敗北感に打ちのめされていて、それをわざわざ指摘する気にもならず黙っていた。

「なんでさ、すごく苦しんで悲しんでる人を見て泣くのが“ダサい”わけ? ……おい、ちゃんと聞いてんのか」
「ふぁい」

うるさい黙れ俺は雨雲を観察したいんだ。そんな念を視線にこめてやるのだが奴は我関せずといった風情で、ヘタったダンボールを地面に置き、俺から奪い取った傘をアーケードの下だというのに差し、さらには時折くるくると回してこちらに水滴を飛ばしてくる。実に迷惑である。
雨はまだ続いていた。「さあさあ」からもどうやら少し落ち着き、「しとしと」くらいになってきたような、そう言い切るにはまだ雨の音が少し耳障りなような、そんな感じの雨模様。気付けば黒く低く蓋のように覆いかぶさっていた雲はだいぶ吹き去ってそれよりもいくぶん高いところにグレーの幕が広がっており、汚れた綿くずのような黒ずんだ雲のかたまりがそこかしこに散らばっている。

「そんでさ、最初は駅前でやってたんだけど、もうホンット意味わかんなくて。ケーサツがいきなり説教してきたんだよ? なんかこういうのは物乞い行為だからダメだとかなんとか言ってさぁ、ありえなくない? あたしは募金のつもりでこれもフィリピンの恵まれない人たちに使うんだって言ってもまるっきり聞く耳もたなくて、ムカつくから逃げてきたわけ」

鼻息荒く話すその横顔は危うい全能感に満ち満ちていてなんというかもうそのままあっさり道を踏み外して痛い目をみてほしいと切に望んでやまないし、顔も知らないその警察には同情するばかりである。

「で、どうなの?」
「ひょ?」
「本当いちいちキモいなあんた……だからどうなのって言ってんの。ねえ、あたし頑張ってるでしょ? 頑張ってるよね?」

そういって奴はこちらの目を覗き込んでくる。
その瞳には先ほどまでの自己陶酔はどこへやら、なんだか異様に切羽詰った気配が漂っており、つまるところこいつの活動は自己犠牲からでも博愛精神から来たわけではなく、ただ単に「誰かに認めてもらいたい」という自己顕示欲から発したものであるのだろうことが容易に類推できる。
まったくなんて面倒くさいガキなのだろう!
人様の事情なんて知ったこっちゃないし、こいつに幸せになってほしいとは欠片も思わないし興味もない。ないのだが、その一方でこのクソガキにこれ以上つきまとわれてあれこれと好き勝手なことを耳元で垂れ流されるのもストレスが溜まって仕方がなかった。
ので、もう適当にあしらってしまうことにする。

「いや、がんばってるんじゃないですか」
「……ほんと?」
「思い立ってもなかなか実行にうつせることじゃないですよ、そういうのは」
「だよね、だよね?」
「そうですそうです。はいはいすごいすごいえらいえらい」

最後の方はわりと適当な褒め方になっていた気がするがどうやら奴は相当に他者からの承認に飢えていたようで、その醜悪な顔をやや紅潮させ鼻からふんふんと息を吐いて何度もうなずき、それから、

「よし……合格!」

と脳内ボリュームを間違えたかのような唐突な大声をあげると差していた傘をたたみ、それから足元に置いていたダンボール箱を持ち上げ、その上に傘を乗せて俺に差し出したのだった。

「あげる」
「へぇ?」
「もう満足したし、あげる」
「恵まれないフィリピンの子供たちはいいんですか?」
「うーん、そりゃ良くはないけど。でもほら、遠くの子供たちを救うのもいいけど、今ここでびしょ濡れになってるカワイソーな無職のおっさんを助けるのも大事じゃん。ほら、あれだよ、ボランティア精神ってやつ?」
「……はぁ」
「どうせ傘買うお金がないとかなんでしょ? 500円くらいならそん中にあるから、それで傘買って帰りなよ」

なんだかよく分からないまま俺は無理やり大きさの割にやたらと軽いダンボール箱(とその上に置かれた傘)を押し付けられて呆然となり、奴はなんだか妙にスッキリとした顔で「じゃね」と笑うと、すったかたったと走っていった。もともと立っていた斜向かいに置きっぱなしになっている薄汚れた学生カバンのところに向かって。
ようやく頭が事態に追いつきはじめた。いやいや一体これはどういうことだ、冗談じゃない。俺はあんなクソガキに情けをかけてもらういわれはないし、あいつの勝手な自己満足の糧に利用されるのもまっぴらごめんだ。だいいち金はともかくこのダンボールは俺が捨てるのか? 体よく面倒ごとを押し付けただけじゃないか、クソガキめ!

「ちょ、ちょっと待って!」

だから俺はこいつをつき返してやろうと大声をあげて一歩踏み出し、
そして背後から肩をつかまれた。

「おい、おっさん」

振り返ると、そこには学ランを着た坊主の男。

「なあ、その傘、俺のじゃね?」
「あっその違うんですこれは」

……。

怒り狂う学ラン男にひたすら弁舌を尽くし誠意を語り、これは様々な不運と偶然が重なったいわばもらい事故のような悲喜劇であることを理解してもらうのにだいぶ時間がかかってしまった。すべてことが済んだ後、改めて奴の姿を探すも当然ながらもうすでに影も形もない。
押し付けられたダンボールを眺める。
頭を突っ込んでのぞいてみたところ、まあその軽さとか持ち上げてもまったく音がしないところから予想はついていたんだけれど実のところ金なんてほとんど入っておらず、数えてみるとしめて二百十五円であった。
傘買えねえじゃねえか。

もうなんというか今日は散々な日である。ぐったりしてせめてこれで暖かい飲み物でも買おうとコンビニに入った。レジ横の肉まんの棚のそばにある小さな飲料ケースから「ほっとレモン」を取り出してそのままレジカウンターに載せる。なかなかバーコードが読み取れず店員が四苦八苦してるのをなんとなくこっちもイライラしながら見てふと視線をめぐらし、それを目にした。

『フィリピンで被災した子供たちに支援を!』

小さなプラスチック製の募金箱。そこに書かれた文言と小さな写真には見覚えがある。
あいつ、これをそのまま引き伸ばして使いやがったのか……ネットで拾ったのか、それとも携帯で撮影でもしたのか。ともかく、どうりで画質がやたら粗いわけだ。

「お会計百三十円になります」

店員の声が俺を現実に引き戻した。目の前には制服を着て死んだ魚の目で接客をしている若者がいる。

「ああ、すみません」

俺は謝って、手に持っている小銭を数える。脳裏にあの女の姿がよみがえる。

(ほんとムカつくんだよね、どいつもこいつも)

きっとあいつは、学校でも家庭でも誰にも褒められず、どこにもロクに居場所がないに違いない。まず一緒に募金を求める仲間も見当たらなかったし、なにより一人でそれなりに苦労してせっかく集めたはずの金を、適当に褒めただけの俺によろこんで全部渡してしまうくらいなのだから。
勝手な善意に酔って、一人で空回りして、誰にも認められない。
そして、自分の活動が残したささやかな報酬すら、今、まったく関係のない用途に使われて俺の胃袋へと消えようとしている。
残念な奴だ。
哀れな奴だ。

俺は内心で彼女の行為を嘲笑いながら、持っていた小銭をカウンターに載せようとした。
……しかし、そこで異変が起きる。
小銭は手に吸い付いたようにくっついてしまっていて、なぜだろう。どう頑張っても離れていこうとしないのだ。いや、というよりこれは。

(なんでさ、すごく苦しんで悲しんでる人を見て泣くのが“ダサい”わけ?)

一度思い出したあいつの言葉が、勝手に続けて再生される。

(ねえ、あたし頑張ってるでしょ? 頑張ってるよね?)

この俺がこんな感情の動きを見せるなんて我ながら予想外で、一方では俺の理性というやつがさっきからいやいやまてまて冷静になれおかしいだろうと必死でブレーキをかけ続けている、しかし一度動き出してしまった感情のはもはや止めようがなく、むしろ止めようと思えば思うほどその強さを増して俺を駆り立ててしまう。

(どうせ傘買うお金がないとかなんでしょ? 500円くらいならそん中にあるから、それで傘買って帰りなよ)

ああもう、こんな行動に出るのはつまりあいつの言いなりになることであって、それはまたしても奴の思想に敗北したという事実を認めることでもあるわけで、結果として俺はまたぞろあの大きな敗北感を再び受け入れなければならないわけで、それは自分としても非常に腹だたしい事実であって……ええいクソ。最後まで人をイライラさせる野郎だ、あのクソガキが。



でも、だけど。



「あの、すいません、やっぱりナシで」
「お客様?」
「ごめんなさい、あのだから、これ買うのやめます」

俺はそう言って、困惑半分、迷惑半分のコンビニ店員の顔を横目で見ながら、手に持った小銭を―ー実にもったいないし無駄な行為だと自虐しつつ―ー思い切って小さなプラスチックの募金箱の開いた口にたたきつけた。
吸い込まれた小銭はすでに入れられていた千円札の上へとたどりつき、ぶち込まれた勢いとは裏腹にちゃらりとも音を立てず実に静かな着地を見せた。
つかの間の静寂のあと、俺はレジに背を向けて早歩きで出口に向かう。後ろに並んでいた客たちやあのレジの店員が自分を今どういう視線で見ているのかは絶対に見ないし死んでも見たくはない。後ろから追ってきた「ご協力ありがとうございま~す」という間延びした声にもすでに嘲笑の色がにじんでいるような気がして耳をふさぎたくなる。
自動ドアが開くのももどかしく外に飛び出しながら俺は何度も自分自身を叱責する。俺はなんということをしたんだ。一時のヒロイズムに酔っていいことでもしたつもりか。ああ気持ち悪い気持ち悪い、この俺ともあろうものが、自ら進んであの正義バカの言うことを真に受けるなんて、これは酷い敗北だ。失敗だ。そもそも今日は朝から親に説教されるわパチンコじゃボロ負けするわ雨に降られるわクソガキに絡まれるわ。きっと今日のふたご座の運勢は最低最悪に違いなく、俺は部屋から出るべきなどではなかったのだ。布団にくるまってダンゴ虫状態でこの襲い来る不幸の気配に抗するべきだったのだ。ああ今からでもあのお金取り戻せねえかなあ、寒いしシャツは気持ち悪い、ああ嫌だ嫌だと声に出してぶつくさ言いながらふとあたりが妙に静かなことに気付いた。

「……止んでる?」

見上げた空から、あの透明な糸はもう落ちてきていない。
耳元でささやくような雨音が突然消えたせいか、なんだか雪の日の朝のように、物音がすべて濡れた世界に吸い込まれてしまったような感じがする。アーケードから出て、手のひらを空に向けると風が吹いた。目の覚めるような爽やかな湿度を含んだ夕暮れの風。やがて西の方から緩やかに、少しずつあたりをうかがうようにして陽光が差し込んでくる。それは宝石のように赤い夕暮れの気配だった。
道行く人は傘を閉じ、みな少しだけ夕暮れにみとれてからまた歩き出す。静寂は少しずつ破られ、雨音に変わって、乱雑な、でも穏やかさに満ちたざわめきがあたりを満たし始める。
結局……俺は当初の目的であった雨の終わりすら見れなかったわけだ。
まったくもってつくづくタイミングが悪いったらない。やはり今日の俺の運勢は最悪であり、外に出たことそれ自体がそもそもの間違いであったのだと俺の理性は確信を新たにする。
だけど、なぜだろう?
この雨上がりの町並みを見ていると、俺はつかの間、さっきまでの恥ずかしさとか苛立ちとかを嘘のように忘れ、もしかしてもしかすると、実は今日は意外と悪くない一日だったのかもしれないなあ……と、そんなことを、なんとなくだが思ってしまったのだった。
まあ、こんな感傷はただのくだらない気の迷いだし戯言だし明日になればすぐ忘れてしまう類の自己満足だし、そもそもあんな行動に出たのは本当にたまたま起きたイレギュラーでしかないから、そこから生まれる充足感に身を任せる行為は自らの日常とか行動を壊すことに繋がるわけでそれは危険ですらあるから止めておいたほうが賢明に違いないのだが。
きっと、たぶん。

時刻は六時。
予報より二時間早い、雨の終わり。

       

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Neetsha