黒兎物語
89 血と名乗る男
「はぁっ・・・・・・・・はぁっ・・・・・・くそっ・・・・・・くそっ・・・・・・」
真っ黒なトレンチコートに身を包んだエルフ族の男・・・・・・
その男は逃げていた。大通りは既に民衆とクローブ派のレジスタンスによって埋め尽くされている。
もはや、男に逃げ場は無い。
「くそっ・・・・・・もう地下に逃げるしか手は・・・・・・!」
男が地下に逃げ込もうとしたその時だった。
男の目の前で地下へと続く鉄板がひしゃげ、はじけ飛ぶ。
一瞬、それが踏まれたものであることに気付くのには数秒の時間を要した。
一点集中だったその男の視野が徐々に広がっていくにつれ、
その鉄板を踏みつけた者の足が写っていく。
その者の足は丸太のように太く、熊のような真っ黒な毛で覆われていたが、
今にもその毛皮を内側から突き破らんばかりの筋肉がはっきりと分かった。
「・・・・・・はぁっ・・・・・・はぁっ・・・・・・!!」
エルフ族の男は絶望のあまり、息をつまらせる。
「・・・・・・諦めろ シャロフスキー。逃げても貴様に明日は訪れない。」
そこにはあの狼と熊の獣人であるローがいた。
体格こそかつて故郷に居た頃とは変わってはいないが、その風貌は大きく様変わりしていた。
そこには不器用で口下手で、愛するアンジェに言葉をかけることすら出来なかったウブな獣人の青年だった頃の面影は無い。
両目には大きな切り傷がつけられ、目は白濁色に濁りきり、完全に失明しているのが
素人面にも分かった。全身の至るところに刻まれた傷は刀や剣や斧による切り傷や刺し傷から、
銃創や弓矢によるものと様々であり、それらが決して軽傷では無いことは明らかであった。
致命傷か重傷以上の怪我を負って何度も生還を果たしてきたことは一目瞭然だ。
それほどの傷を負い、両目を失明し、それでもなお生き延びてきたのは
彼の前に居るこのエルフ族の男・・・・・・ニコラエ・シャロフスキーをこの世から抹殺するためである。
傷跡を突き破って溢れてきそうな怒りという怒り。
その怒りは傷跡以上に顔中に刻まれている。顔からはもうとっくに笑顔など消え失せ、
頬の笑い皺はなく、顔立ちはカミソリのように鋭く尖り、精悍な顔立ちになってしまっていた。
悲しいことではあるが、彼は最愛の妻アンジェと、その子供たちであるアドラーと、その後に生まれたミッシャを
失った。彼のその悲しみたるや想像を絶するだろう。もはや、心の一部と化していた愛する者の死……
その死が理不尽で、報われないものだったことは、ローのニコラエ・シャロフスキーを睨みつけるその
表情から分かる。ただそれだけのために、彼は死ぬに死ねずに生きてきたのだ。
「おまえの肉体をこの地上から消し去ることだけを考えて生きてきた……」
ローは歩み寄る。憎き仇のもとへと歩み寄るために……。
「・・・・・・くっ・・・・・・くそっ・・・・・・!!」
ニコラエ・シャロフスキーは近くに落ちていた鉄の棒を拾い、ローに投げつける。
失明しているローが避けられるハズはなかった。だが、ローはそれを首を動かしただけでかわし、
シャロフスキーに歩み寄る。
「貴様を殺すのに両目は要らん。貴様の血の鼓動を心で感じる……それだけで十分だ。」
ローは、かつての故郷を失った日からロー・ブラッドと名乗っている。
それは、彼が得た血の力が理由である。彼は自身の血が生み出す心臓の鼓動を地面を通じて行き渡らせ、
相手の心臓の鼓動と共鳴させることで、相手の位置を探り出すことが出来る。
さらに盲目であることによって鍛え上げられた嗅覚と聴覚で
相手の大体の情報を探り出すことが出来た。
「おまえを叩き潰す……潰れたトマトのように五臓六腑全てをすり潰してやる。」
そう言いながら、ローはありったけの力を込め、棍棒を握る。
その棍棒の丈は彼の背の丈や体格ほどある巨大なものだった。
その棍棒を動かすために、どれほどの力が要るのか……それを動かすことを可能にしている力が
何なのかは想像に難くない。
「まっ……待ってくれ……俺は!」
シャロフスキーが何やら命乞いをしようと言葉を発したのと同時に、
ロー・ブラッドは何らかの違和感を感じた。
「・・・・・・なるほど・・・・・・そうだったか。」
ローは先ほどまで棍棒を握るが故に最大限の怨念を込め、握り締めていた右手の
力を緩めると、棍棒を下げ、呟いた。
「……?」
「すっかり興醒めだ・・・・・・お前に用は無い。さっさと消え失せろ。」
「……わっ……わかってくれたのか!」
両者の間には言葉には出さずとも、伝わる何かがあった。
ローの鋭い嗅覚や血の鼓動を感じ取れる心にシャロフスキーは安堵したかのようだった。
「・・・・・・そうか、ではここで失礼す」
そう言って立ち去ろうとしたその時だった。
シャロフスキーの胸は赤い物体で串刺しにされていた。
「か・・・・・・は・・・・・・」
シャロフスキーは自身の胸を貫いた物体を見つめ、
こんな状況ではあったが驚いていた。なんせ、その物体は剣どころか物体ですらなく、
なんと真っ赤な液体だったのだ。
「……この詐欺師野郎が……誰が生きて帰すと言った・・・・・・?
俺を欺いた罪……死んで償え!!」
どうやらローはこのシャロフスキーに何か嘘を付かれていたらしい。
いずれにしろ、シャロフスキーは自分の胸を串刺しにしたこの真っ赤な液体の
の原理を知ることなく、シャロフスキーはその真っ赤な液体で更に深く貫かれ、
数メートルほど高くまで持ち上げられると、そのまま地面に全身を叩きつけられ、即死した。
「ぎぱ!!」
うめき声とも、身体が叩きつけられた音とも取れそうな
肉体の潰れる音がしてシャロフスキーの亡骸はそのまま地面へ叩きつけられた。
シャロフスキーを串刺しにした真っ赤な液体は巨大なドラゴンの尻尾のようであり、
なんとそれはロー・ブラッドの足元から伸びていた。
よくよく見れば、ローの足首に巻かれた包帯は血で滲んでいる。
彼は自分の血を使って、それを鋭利な刃物に変え、レドフィンの尖った尻尾の原理で
敵を串刺しにするのが得意だった。ただ、この能力を出し続けている間はローは失血している。
このまま、能力を使い続ければいずれ失血死する。ローは血の尻尾を足首の方に引っ込めた。
それと同時に彼の出血は止まったのだった。
ロー・ブラッドがシャロフスキーを抹殺するのを見届けていた黒騎士が
建物の屋上から飛び降り、颯爽と現れる。
着地の衝撃で石畳が砕けたが、それを気にすることなく黒騎士は歩み寄る。
「・・・・・・アドラーとミッシャ、そしてアンジェ・・・・・・彼等の無念は晴らしたな。」
復讐を遂げたロー・ブラッドに対し、黒騎士にささやかな祝福を授ける。
だが、ローのその表情は浮かない。
「・・・・・・違う。こいつはニコラエ・シャロフスキーじゃあない。」
ローは白く濁った両目でニコラエ・シャロフスキーを悔しそうに見下ろした。
「どういうことだ?」
「こいつは替え玉だ、追うのに必死で気付かなかった。
クソ・・・・・・・・・・・・こいつの臭いも心臓の鼓動も まるっきり別人だ!」
そう言いながら、先ほどまでローはニコラエ・シャロフスキーだった遺体を
乱暴に蹴り飛ばし、壁を殴りつけ、悔しさを噛み締める。
「そんな馬鹿な・・・・・・根拠はなんだ?」
「本物のシャロフスキーは心臓にリズムの狂いがあった。
奴は水難事故で胸を岩に強打して、胸骨を骨折した。その時の破片が心臓に突き刺さったままだったからな。
だが、こいつの心臓は全くの健康体だ・・・・・・!ちくしょう!」
かつてニコラエ・シャロフスキーは甥のフェデリコに襲われた際に、川へと飛び込み難を逃れたが、
漂流の途中で胸を強打し、胸骨を骨折した。その衝撃で、意識を失い浮遊していたのを発見した
ローの妻アンジェとその子供達アドラーとミッシャによって救い出された。
今ほど精密には聞いていなかったが、確かに心音に違和感はあった。
ドックン、ドックン…といったリズムではなく、
ドックン、ドックン、ドドドックン、ドドックン、ドックンという感じである。
心臓の筋肉の収縮と拡張が破片のせいでうまく、いかずバグを起こしていたのだ。
「・・・・・・奴が影武者を用意しているのは本当だったか・・・だが、妙だな。
こいつは元々表舞台に立ちたがらない存在だった筈だ……こいつにはクラウス将軍暗殺の罪で
銃殺刑が言い渡されていた。刑の執行を免れたのも、死亡扱いされていたからだ。
だから、影武者なんて用意したら元も子も無い筈だ。」
黒騎士は合点がいなかなかった。理由は彼の言葉のとおりである。
今、ここで影武者を出すメリットなどないからだ。
「……事はそう上手くはいかないものさ、思惑だらけのアルフヘイムの軍部で
駒を動かすのはそう簡単じゃない。仲の良いラギルゥ一族を通して動ける駒じゃ奴も安心は出来ない。
その証拠に奴は独自の駒を持っていたからな。となると当然、シャロフスキーの名を出さなけりゃあ
重いケツをあげねェ連中が出てくる……名前だけ聞いて信じない奴も何人か居るだろうから、
会って取引きしたいって連中も出てくるわけだ。もちろん、シャロフスキーの奴も罠かもしれねぇ取引にノコノコ出てくるつもりは無い。
だから、影武者を代理人としてよこす。」
「……いざ始末されても罠だと見抜く毒見に使えるというわけだな。」
「……そうだ。影武者を始末した奴は省いて、本当に口が固い奴等かどうかを見抜けるわけだ。
だが、そんな姑息な真似も長くは続かない。何処かでクローブ派伝てに生存の情報が流れ、とうとう民衆にまで騒がれだした。
いよいよ銃殺刑の執行が検討されて、奴は急いで抱えていた影武者を"処分"しなけりゃならなくなった。」
「影武者たちはたまったもんじゃないだろうな。」
「……こいつの死体から手掛かりを探ろう。本物の居場所について何か手掛かりを
知っているかもしれん。」
そう言うと、もうすでにこと切れた影武者の脳みそへと手を当てると、
その振動を通じてローは情報を探り出した。
「……死にかけちゃいるが、まだ脳みそは死んでなかったようだな。
本物は東側の地下水道からセントヴェリアを抜ける気だ……おそらくクローブの情報は間違っちゃいなかった。」
「急いで奴を追うぞ。」
ローは先ほど踏みくだいた鉄板を遠くへ投げ捨てると、
そこから通じる地下道へと飛び込んでいく。
(……影武者は民衆にくれてやる。だが、本物だけは絶対に俺の手で仕留めてやる……!
……俺の生き甲斐だったアンジェ、アドラー、ミッシャを死に追いやった恩知らずのイヤップ野郎……
ニコラエ・シャロフスキー。おまえをこの世から消し去ってやる。
腕をもがれようと、足をもがれようと……必ずおまえの息の根を止めてやる。)
ローは奥歯を噛み締め、水路を駆け巡る。