「はぁーっ…はぁーっ……」
深淵の底から自分の目に映る光景を覗いているような感覚に陥ったことは無いだろうか。
泥酔状態がピークに達した時や、満身創痍で意識が朦朧としている時などによくそういった状態になる。
まるで、身体ごと意識を持って行かれたようなあの感覚……今まさにダニィはそんな状態に陥っていた。
小麦色の健康的で筋肉質だった肉体には、肩から足にかけて
ムチによる擦過傷と切り傷が刻まれ、ライフルの銃口をグリグリとねじ込まれた尻の穴からは
出血している。熱く焼けた石を押し付けられた胸は皮膚の表層が焼けただれている。
平和式典のコンサートの途中で、戦況が悪化し、
各々の種族の音楽家たちは故郷へと帰らざるを得なかった。
ダニィも例外ではなく、従姉のツィツィ・キィキィから便りを受けコルレオーネ村への帰還を決意した。
義兄ディオゴが丙武軍団に敗北し、北方戦線が後退を強いられたために
直にコルレオーネ村も戦場となるだろうとツィツィ・キィキィの手紙にはあった。
何よりダニィは村に残してきた恋人のモニークのことが心配だった。
戦線はまだ村にまで到達していないとはいえ、各地では混乱が起き、略奪や強姦が相次いでいたのだから。
男性恐怖症が快方に向かい、ダニィに会いたいと呟いていることも手紙には書かれていたため、
ダニィの足取りはより一層軽くなっていた。
ようやく村まで30kmの地点に差し掛かった時だった。
ピアース3世の差金である白兎人兵に捕縛されてしまったのだ。
「何をするんだ!」
白兎軍と黒兎軍は同盟を結んでいる。味方である筈の黒兎人である自分に
何故こんな捕縛という仕打ちをするのか、ダニィは尋ねずにいれなかった。
「黒兎軍指揮官のディオゴ・J・コルレオーネ大尉がセキーネ殿下を人質にとり、
国家転覆を図ろうとしている!! よって、白兎軍は黒兎軍との同盟を破棄したのだ!
よって貴様らを反乱分子として拘束する!!」
「兄さんが……!?」
驚きのあまり、ダニィはディオゴと義兄弟の関係にあることを口走ってしまった。
それからダニィへの熾烈な拷問が始まったのだ。
「やめろ……やめてくれ……!!!やめろぉおおおおおおおおおおおお!!!」
反逆者ディオゴのテロ計画についての詳細を尋ねられ、知る筈が無いのに
しらばっくれていると見なされ、全身をムチで打たれ、肛門まで犯された。
「ぐあぁぁあああぁぁあああああぁぁぁあああぁぁあああああ!!!」
挙句の果てには焼けた石で胸を焼かれ、用済みとみなされて濁流の川へと投げ込まれたのだ。
「ぐ……ぁ……」
胸を抑えながらダニィは冷たく重い身体を引きずるように起こした。
川へと放り込まれたのが不幸中の幸いか、胸の火傷の痛みは拷問されていた時より
随分とマシになっていた。
ダニィは周囲を見渡す。
急いでコルレオーネ村へと向かわねばならない……
当然のことながら全裸であったダニィの裸足に、川辺の砂利が容赦なく喰いこむ。
「ぐ……ぁ……」
天の細やかな助けか……ダニィの目前に背中を射抜かれた黒兎軍兵士の遺体があった。
「……すまないが 借りるよ」
この冷え切った身体を温めねばならない。
また、これからコルレオーネ村へと向かわねばならない。全裸では流石に厳しい。
兵士の遺体の服を脱がし、ダニィは服をまとった。
やはり、僅かではあるが身体は温まったような気がする。
それに動きやすい……
(急がないと……)
既にコルレオーネ村の方角からは煙と炎が上がっている。
(嗚呼……糞……!嘘だ……!)
半泣き状態でダニィは険しい山道をひたすら走った。
背中の羽で飛ぶことも考えたが、どうやら拷問の時に羽の一部をへし折られたらしい……
ダニィは転がり回りながらも、ただひたすら走った。
もう既に手遅れだとは悟っていたが、ダニィは諦めずにはいられなかった。
何より信じたくはなかった。愛するモニークがもうこの世にいないのだろうという事実を……
(モニーク……生きててくれ……頼む!!)
朦朧とする意識の中、ダニィの身体は意識ではなく、魂によって動かされていた。
意識は既にかつてモニークと過ごしたあの甘い温もりの日々を走馬灯のように
思い出し、彼女のいる世界に飛ばされていた。
モニークのあのか弱い手のあの温もりをもう一度味合いたかった。
あのか弱い手を優しく握り、護ってやると言ってやりたかった。
震えるモニークを抱きしめ、大丈夫俺が護るからと言ってやりたかった。
「うぉおあぁあああぁアアああああアアああ!!!」
コルレオーネ村へとたどり着いたダニィはその惨状を前に慟哭した。
兵士だけでなく、あちこちで女子供の遺体が転がっている。
遺体だけではなく、あたりには引きちぎれた腕や足、そして生首まで転がっている。
モニークの生存など絶望的すぎた。
ダニィの意識はそこで途絶えたのだった。
「……っ?」
ダニィは真っ白な病室で目覚めた。
エルフのドクター達が目覚めたダニィの顔を覗き込んだ。
「ファルコーネさん……起きましたか?」
「……こ……こは……何処なん…です?」
意識がまだ覚醒していないためか、ダニィは言葉を紡ぎながら尋ねた。
「……ここはブロフェルド駐屯地って言う軍の病院です」
「……どうして…ここに?」
「コルレオーネ村で倒れてらっしゃったので、ゲオルクさんって方が
運んで下さったんですよ。」
ゲオルクという名前を無視し、ダニィは咄嗟に浮かんだモニークの居場所を尋ねる。
「……モニーク……モニークは何処です?」
「モニーク?」
モニークの名を呼んでいる内に、
ダニィの意識は完全に覚醒を迎え、彼はベッドから起き上がり尋ねる。
「モニーク・J・コルレオーネです! 僕の彼女なんだ!!」
「落ち着いてください 今探しますから!」
「いや!待てない!どこに居るんです!?」
ダニィはベッドから起き上がり、自身に繋がれていた点滴を引き剥がした。
「待ってください!まだ動いてはいけません!」
ダニィはエルフの看護師が静止するのも聞かず、ベッドから起き上がり
病室を抜け出した。
「モニーク!!モニーク!!」
裸の上半身に包帯が巻かれた姿のダニィの姿に
大勢の者が注目はしたが、看護師も他の負傷者の治療で忙しく
誰も静止する者はいなかった。 病院の病室ではもう足りないのか、
廊下にも負傷者が寝転がっており、医師たちがそこで彼等の治療を行っていた。
まさに地獄のような光景だった。彼等の中には肉が抉れ、頭蓋骨がほぼ露出している者も居た。
それでも、その者はう~う~と苦悶の呻き声をあげている。
生物はこれほどまで身体を傷つけられても生きていられるものか
生命の偉大さよりも、これほどまでしても死ぬことの出来ない哀しみをダニィは抱いた。
「……ダニィ?」
ふと聞き覚えのある声がダニィを呼び止めた。
振り帰るとそこには従姉のツィツィ・キィキィが居た。
「チチ姉さん!!」
ツィツィ・キィキィとは血縁上の繋がりはないものの、
恋人モニークの従姉である以上、義理の従姉である。
見知らぬ者ばかりの環境に立たされていたダニィの表情が少し解れたような気がした。
「モニークは……どこなんです?さっきから探してるのに 何処にも見当たらないんです…!」
ツィツィ・キィキィは俯きながらダニィから目をそらした。
嫌な予感がする……
よくよく見ると、ツィツィの目は真っ赤に腫れている。
頬も涙らしきもので赤く爛れている。
「……姉さん……モニークは……どこなんですか…!!」
ツィツィはダニィの必死に恋人モニークの安否を尋ねる懸命な涙を堪えきれず、
顔をおさえて涙を流した。枯れたはずの涙だったのに彼女の目からは
再び抑えきれない大粒の涙が流れた
ツィツィの態度から ダニィは込み上げてくる嫌な予感が的中してしまったことを悟った。
そして、その的中した予感を必死に信じないようにしながら
再びツィツィに尋ねる。
「ねえっ……さんっ……教えてください……!モニークは……何処なんですか……!!」
ツィツィの腕を掴みながら、ダニィは膝をつき泣いた……
モニークが死んだなどと信じたくはなかった。
だが、ツィツィのこの姿からはとてもモニークが無事だという確信は得られる筈が無かった。
ダニィはツィツィに手を引かれ、霊安室へと導かれていく
ダニィは恋人を失った喪失感と、それを信じたくない一心で霊安室が目に映らぬように床を見続けていた。
霊安室の扉が悲しく開いた。
「……ダニィ……」
そこにはやせ衰えた義兄ディオゴの姿があった。
涙などとうに枯れ果てたのだろう……白くなった唇と、荒れた目からダニィは察した。
義兄ディオゴは床を見つめながら、哀しく俯き、ダニィの視線をモニークの遺体へと
映させるように促す……
「ぁ」
ダニィは彼女の名前を叫びたくとも、声が出なかった。
クッションとシーツが敷き詰められた柩の中には、安らかに眠るモニークの亡骸があった。
モニークの許へと駆け寄りながら、ダニィはその安らかに眠るモニークの寝顔を見つめる。
「……モニーク ダニィが来てくれたぞ……」
目元をしかめながら、ディオゴが哀しく呟いた。
耐え切れず、ツィツィはディオゴの胸に抱かれ嗚咽した。
不思議と涙はもう限界まで溢れているのに、ダニィの目は涙を止めていた。
「……綺麗な顔……してるな……」
ダニィはモニークの美しい死に顔を見て哀しく微笑んだ。
そして、撫でるかのようにモニークの手に触れた
「……あぁ……クソ……冷てぇ……冷てぇよ……」
やっと触れることが出来たというのに……
温かい筈のモニークの手は氷のように冷たく冷え切っていた……
その現実に堪えきれず、ダニィの目から涙が零れ落ちた……
「どうして……こんな……冷たくなってしまったんだ……モニーク……」
再び彼女の温かい手を握り締めたかったというのに……
再び握り締めたその手はとても冷たかった……
「モニーク……お願いだ……あの温もりを……取り戻してくれ……」
静かに悲しみの涙を流すダニィの嘆きの願いも虚しく、
モニークは冷たく眠り続けた。
黒兎物語
30 あの温もりをもう一度
ひとまず、マルネは筆を置くことにした。
「ふィ~~」
溜め息をつく、マルネの側には数十冊にも及ぶ書物が置かれていた。
その書物は黒兎物語と書かれていた。
側には素足で天井の柱を掴み、逆さになった半裸姿のダニィがその黒兎物語を読んでいる。
黒兎人族でありながら、コウモリの血を引くダニィは時折こうして逆さになり翼を広げ、休憩することが多い。彼と同じ、人間タイプのディオゴとモニークには無い特徴である。
「あぁ~ こんなこともあったねぇ~・・・ それにしても、よくここまで調べあげたモンだよ。俺でも知らないことばっかりだ。」
哀しげに微笑むダニィの顔に、マルネは涙していた。
最愛の恋人を失い、辛い過去を持つダニィのことだ。過去を思い出し、涙を流してもおかしくはないのに、
むしろ過去を懐かしみ、微笑んだ。
マルネは思った、この微笑みは人生への諦めの笑みなのだと、モニークを失なった深い悲しみが、彼から涙を奪ってしまったのだと。
「泣いてくれるのかい?」
マルネの頬をさすり、ダニィは彼の涙を人差し指で拭った。そして、その涙を口へと運び、自らの喉を潤すかのように啜り、目を閉じ、飲み込んだ。
「自分の為に涙を流してくれる友を大事にせよ、そして自分の大切な人の為に涙を流してくれる友は更に大事にせよ・・・亡き義父ヴィトーの言葉だ。心の友マルネ、君と友人になれたことを誇りに思う」
黒兎人族がどうしてこれほどまでミハイル4世に恐れられたのかマルネは分かったような気がした。彼らにとって、絆は神と同等なのだと。
迫害の苦難の涙を舐め続けてきた彼らにとって、絆は狂おしい程求められてきた。故に、他者との触れ合いにおいても自然と愛情が生まれるのだ。黒兎人族の恵む友情や恋、家族愛は涙よりも辛く、血よりも濃いのだ。
マルネは尋ねた、ダニィよこれから何処へ行くのか、何をするのかと。
「・・・心の友マルネよ 君には打ち明けよう。」
ダニィは逆さになっていた自身の身体を翼の羽ばたきによる浮力でぐるりと一回転させ、戻した。
「今から・・・俺はガイシに向かおうと思ってる」
「あの甲皇国入植地ガイシか・・・?」
「ああ、そうだ。これは俺の予感だけど、あそこになら人職人人が居るかもしれない。」
人職人人という言葉を聞き、マルネの顔から血の気が引いていった。
「・・・死者すら蘇らせることの出来る あの職人人のことかい・・・?!」
言葉を紡ぎながら、マルネはダニィがガイシへ行き、人職人人を求めているかその動機を察知してしまった。
「・・・そうだ」
ダニィの人生を諦めた微笑みの顔が
焔のついた暗黒の決意の顔へと変化したのをマルネは見逃さなかった。
「・・・心の友ダニィ まさか君はモニークを・・・取り戻そうとしているのかい?」
「・・・ああ」
「・・・ダニィ! 人職人人を追い求めた者の末路を・・・君が知らない筈はない! そうまでして、モニークは生き帰りたくはないはずだ!」
マルネはダニィの両腕を握り締め、迫るように揺さぶった。
「・・・すまない マルネ。
だが、どうしても俺は・・・モニークを諦めることが出来ない。死者を取り戻すことが、神への冒涜だと言う者もいる、人の道を踏み外した行為だと言う者は言う・・・だが、俺は愛した者のことを忘れて自分一人だけ幸せになれる程、薄情な恋をした覚えは無い。」
ダニィの優しい微笑みを抱いた諦めの眼差しは何処かへと消え失せ、熱い漢の決意を抱いた信念に殉ずる眼差しへと変わっていた。
「・・・愛した女一人すら守れず、ただ哀しみに生き続けて何が男だ。愛した女の屍を踏み越え、のうのうと生きてきた自分を恥じなかった日は無い・・・今こそ、男の恥に塗られてきた俺の人生に終止符を打つ時だ・・・!」
ダニィの瞳に哀しい男の滅びの光が差し込んでいた
「ふィ~~」
溜め息をつく、マルネの側には数十冊にも及ぶ書物が置かれていた。
その書物は黒兎物語と書かれていた。
側には素足で天井の柱を掴み、逆さになった半裸姿のダニィがその黒兎物語を読んでいる。
黒兎人族でありながら、コウモリの血を引くダニィは時折こうして逆さになり翼を広げ、休憩することが多い。彼と同じ、人間タイプのディオゴとモニークには無い特徴である。
「あぁ~ こんなこともあったねぇ~・・・ それにしても、よくここまで調べあげたモンだよ。俺でも知らないことばっかりだ。」
哀しげに微笑むダニィの顔に、マルネは涙していた。
最愛の恋人を失い、辛い過去を持つダニィのことだ。過去を思い出し、涙を流してもおかしくはないのに、
むしろ過去を懐かしみ、微笑んだ。
マルネは思った、この微笑みは人生への諦めの笑みなのだと、モニークを失なった深い悲しみが、彼から涙を奪ってしまったのだと。
「泣いてくれるのかい?」
マルネの頬をさすり、ダニィは彼の涙を人差し指で拭った。そして、その涙を口へと運び、自らの喉を潤すかのように啜り、目を閉じ、飲み込んだ。
「自分の為に涙を流してくれる友を大事にせよ、そして自分の大切な人の為に涙を流してくれる友は更に大事にせよ・・・亡き義父ヴィトーの言葉だ。心の友マルネ、君と友人になれたことを誇りに思う」
黒兎人族がどうしてこれほどまでミハイル4世に恐れられたのかマルネは分かったような気がした。彼らにとって、絆は神と同等なのだと。
迫害の苦難の涙を舐め続けてきた彼らにとって、絆は狂おしい程求められてきた。故に、他者との触れ合いにおいても自然と愛情が生まれるのだ。黒兎人族の恵む友情や恋、家族愛は涙よりも辛く、血よりも濃いのだ。
マルネは尋ねた、ダニィよこれから何処へ行くのか、何をするのかと。
「・・・心の友マルネよ 君には打ち明けよう。」
ダニィは逆さになっていた自身の身体を翼の羽ばたきによる浮力でぐるりと一回転させ、戻した。
「今から・・・俺はガイシに向かおうと思ってる」
「あの甲皇国入植地ガイシか・・・?」
「ああ、そうだ。これは俺の予感だけど、あそこになら人職人人が居るかもしれない。」
人職人人という言葉を聞き、マルネの顔から血の気が引いていった。
「・・・死者すら蘇らせることの出来る あの職人人のことかい・・・?!」
言葉を紡ぎながら、マルネはダニィがガイシへ行き、人職人人を求めているかその動機を察知してしまった。
「・・・そうだ」
ダニィの人生を諦めた微笑みの顔が
焔のついた暗黒の決意の顔へと変化したのをマルネは見逃さなかった。
「・・・心の友ダニィ まさか君はモニークを・・・取り戻そうとしているのかい?」
「・・・ああ」
「・・・ダニィ! 人職人人を追い求めた者の末路を・・・君が知らない筈はない! そうまでして、モニークは生き帰りたくはないはずだ!」
マルネはダニィの両腕を握り締め、迫るように揺さぶった。
「・・・すまない マルネ。
だが、どうしても俺は・・・モニークを諦めることが出来ない。死者を取り戻すことが、神への冒涜だと言う者もいる、人の道を踏み外した行為だと言う者は言う・・・だが、俺は愛した者のことを忘れて自分一人だけ幸せになれる程、薄情な恋をした覚えは無い。」
ダニィの優しい微笑みを抱いた諦めの眼差しは何処かへと消え失せ、熱い漢の決意を抱いた信念に殉ずる眼差しへと変わっていた。
「・・・愛した女一人すら守れず、ただ哀しみに生き続けて何が男だ。愛した女の屍を踏み越え、のうのうと生きてきた自分を恥じなかった日は無い・・・今こそ、男の恥に塗られてきた俺の人生に終止符を打つ時だ・・・!」
ダニィの瞳に哀しい男の滅びの光が差し込んでいた