「・・・うぅ・・・・・・」
食堂車で気を失なっていたセキーネは目を覚ます。
「マリー・・・」
目覚めたばかりでも、セキーネの脳裏にはマリーの名が刻まれていた。鉛のように重い身体を持ち上げ、セキーネは起き上がる。
「動くな!!」
マリーを捜そうと一歩踏み出そうとしたその時だった。後ろから声がしてセキーネは振り返った。
「はぁ・・・っ はぁ・・・っ」
目を開きながらも涙を流すマリーがそこにいた。その首にはベングリオンナイフが突きつけられている。その持ち主はヌメロであった。
「・・・セキーネ様っ」
「マリーっ!!」
セキーネが動き出すのを警戒し、ヌメロのナイフがマリーの喉に食い込む。
「いぅっ!!」
ナイフの冷気が背骨を串刺しにして、マリーは身体を震わせ怯えていた。
「セキーネ殿下・・・馬鹿な真似はしないことです・・・」
「・・・マリーを離せ、君も彼女も関係無い筈だ。
これは私とディオゴの問題だ。」
「・・・ありますね。ディオゴから命令を受けているもので。」
「・・・やめろ」
「ディオゴはあなたを恨んでいる・・・あなたが逃げたせいで、彼の故郷が襲われ・・・彼は最愛の妹を亡くした・・・ だから あなたにも同じ苦しみをとね。愛する人を失なった悲しみは・・・愛する人を失なわなければ理解出来ない。」
ヌメロの言葉にセキーネは歯を噛み締めるしかなかった。誤解はあったが、誤解によって起こった結果には何の反論の余地もないのだから。
「・・・やめてくれ・・・ 」
何かがぶつかる衝突音と同時に何かが3人の横を通り過ぎていった。
「・・・!! ディオゴ様っ!?」
ディオゴに気を取られ驚いたヌメロのナイフ目掛けてセキーネは飛びかかった。
「・・・っ!」
ナイフを蹴り飛ばされ、ヌメロは足掻くかと思われた。だが、意外にもヌメロはディオゴを追って飛び出していった。ヌメロのナイフから解放され、震えるマリーを抱きしめセキーネはホッと胸を撫で下ろす。
日は没っしようとしていた・・・
砂漠は青と白の狭間に染まろうとしている。
1人の獣人の男が転がっていた。噛み千切られた長い兎耳、痣と擦り傷、切り傷だらけの身体から溢れた血のせいで、砂漠の砂が油に浸す前の天ぷらの衣のように纏わり付いている。男の身体は全くといって動いてはいなかった。
「ディオゴ様っ!!」
砂塵を蹴散らしながらヌメロは ディオゴと呼ばれた獣人の男の許へと駆け寄る。
「ディオゴっ! ディオゴっ!!」
ディオゴの息は既に無かった。木柱に激突したショックで即死していたのだ。目からは生気が抜け、ただのビー玉のように物体と化していた。
「くそっ!!死ぬなっ! ディオゴ!!」
ヌメロは魔文字を操ることが出来るものの医療魔法に関しては門外漢であった。理由は医療魔法はエルフの血を引く巫女の血を引く者にしか習得を許されないものだったからである。皮肉にもヌメロは彼の師匠であるヴィトーの教えを忠実に守っていたが故に、師匠の息子であるディオゴを救うことが出来ずにいた。
「生きろ・・・生きてくれ」
既に心は折れ、嘆きが身体を地にねじ伏せようとしていた。 ヌメロにとって馴染みのある獣人の男が現れたのはその時だった。
「・・・やれやれ 聞き覚えのある声だと思って引き返してみたら」
ネロであった。
ディオゴとの死闘の末、彼は木柱に激突する前に
手を離し、激突死を免れていた。だが、その身体はディオゴに負けず劣らず血だらけで擦過傷と痣が身体中を埋め尽くしていた。
「ネロ・・・っ!」
「・・・そいつはもう死んでいる・・・傷とかの問題じゃあない・・・柱にぶつかって ここに落ちた後 微かだがそいつは息があった。だが徐々にそいつの息の根は止まった・・・激突する寸前に腕と肩で庇ったのが運の尽きだったな。肺経と心包経をやられたのさ。」
ネロには医療魔法の心得があった。ヌメロと同門である筈の彼の経歴では有り得ないことだ。
それには訳があった。彼の師匠はヌメロと同じヴィトーである。白兎と罵られ、のけものにされていたネロをヴィトーは差別することなく弟子として引き取った。ヴィトーが2人に教えた魔文字は陰陽道に基付くものであり、精霊樹に降り注ぐ太陽と月の光のエネルギーを動力源にし発動させるものである。この太陽と月のエネルギーはそれぞれ気と血を司り、医療魔法への転用も可能であった。 太陽のエネルギーを使用することに長けるネロが 医療魔法の習得を欲っするのは当然と言えた。だが、医療魔法はエルフの血を引く巫女以外が学ぶことを禁じられていた。それもこれもエルフ至上主義者のミハイル4世の主張である。彼女曰わくエルフの血を引くのなら たとえ亜人(本来は獣人と呼ぶべきが正しい)であろうと医療魔法は許容の範疇であるが、純粋な亜人となると許容は出来ないとのことである。アルフヘイムにおいてこれを破ればその種族は取り潰しの大罪とされた。
故にヴィトーは泣く泣くネロに医療魔法の取得を禁じたが、ネロがそれを聞き入れる筈もなく、ヴィトーはネロを破門としたのだった。ネロはヴィトーの内情を知らず、破門にしたヴィトーを恨んでいたのだ。
「肺経は呼吸、心包経は心経の心臓を覆う膜・・・つまりは血液の循環器を司っている。どちらもツボが肩から腕にかけて集中している。それが破壊された今、助かる術は無い。」
ディオゴの胸を両手で押さえつけると
全体重をかけて血を全身に送り出す。
そして かぶりつくように ディオゴの唇に食らいつくと肺の空気という空気を ーccも残らず ディオゴの肺に流し込む。ヌメロには五体が残されている、五体がある以上、心臓按摩術と心肺蘇生術を行うことが可能である。諦める訳にはいかなかった。だが、ディオゴは一向に蘇生する気配は無い。
「 ディオゴ!!ディオゴっ!!」
「無駄だ ヌメロ。血液の流れは月・・・気の流れなくして血液は流れない。気の流れは大陽のエネルギー・・・おまえの得意分野の月のエネルギーでは気を流すことは出来ない。おまけにおまえは医療魔法を知らん・・・絶望的だな。反対に 太陽のエネルギーで気を流すことができるのも、医療魔法を知っているのも・・・この俺だけだ。 生憎だが俺は太陽のエネルギーをディオゴのために使いはせん。ましてや憎きヴィトーの息子とあってはな・・・」
絶望的な現実を叩きつけられ、ヌメロの目からは泉のように涙が湧き出ていた。
「我が師ヴィトー・J・コルレオーネよ・・・見るがいい。 あなたの教えを守ったが故に この男はあなたの息子を救うことができなかった。 皮肉にも、あなたの教えに背いた私だけが あなたの息子を救えたのだ。 ヴィトーよ・・・私を破門にしたことをあの世で悔やむが良い。フッハッハッハッ!!」
ネロはそう言うとディオゴとヴィトーの死を嘲笑った。
「うおあぁあっ!! 目を開けろぉっ!ディオゴォオォ!!」
ヌメロはディオゴの胸をハンマーのように打ち付ける。だが、そんな必死の訴えにもディオゴは応じようとしなかった。まるでもうやめてくれ もういいんだと 言うかのように。
ディオゴは最愛の妹を失なった・・・亡き母に託された妺をアーネストから守ることができなかった。彼女は陵辱され、処女を奪われ、心の傷を負った。己の無力さに打ちひしがれ、自分の不甲斐なさをひたすら呪い続けた。父は亡くなる寸前に妺を再び託した。不甲斐ない筈の自分に。もう一度チャンスが与えられたのだと思った。モニークをもう一度守ってもいいのだと。今度こそ守ると誓った筈なのに・・・守れなかったのだ。 今更、自分だけのうのうと生きる資格がどこにあると言うのだ。ディオゴはまるでそう訴えるかのように頑なに蘇生を拒んでいた。
ヌメロは本能的に悟った。心臓按摩でも心肺蘇生術でもなく、ディオゴの心に語りかけるしかないのだと。ネロの手が借りられない以上、今自分に出来る全てを用いるしかないと。ヌメロはディオゴの両肋骨にそれぞれ手を当て、目を閉じる。肋骨伝いに 背中に位置している腎臓に呼びかけるためだ。
「ディオゴ・・・聞いてくれ・・・ 君の血を分けた家族は・・・・・・確かにみんな死んだ・・・ 生きていればその悲しみがこれからも君を傷付けるだろう・・・・・死ねばその悲しみも終わる。だけど、生きるってことは悲しみばかりじゃない筈だ・・・君の身体には失なった家族と同じ血が流れている・・・それは紛れもない事実だ・・・」
ヌメロはディオゴの腎臓に意識を集中させる・・・心に腎という文字を思い浮かべ、腎臓から心臓へと運ばれていく血液の流れを意識した・・・ヌメロの身体がレモンのような美しい黄色い光を放ち始めていた。
「・・・こいつの身体の輝き・・・もしや月陰経絡・・・!!バカな・・・! 」
ネロは驚いていた、それもその筈。
ヌメロは無意識の内に医療魔法を使っていたのだから。先程のネロの言葉がヒントになった。ヌメロは月のエネルギーは血の流れだと言った。ならば、血の流れに自分の気を乗せ、ディオゴの心に気を送る。これはかつて盛んであった月陰経絡による医療魔法である。原理としては先程の心臓按摩や心肺蘇生術と同じである。対するネロは太陽経脈による医療魔法を用いていた。ネロは太陽のエネルギーは気の流れだと言った。太陽のエネルギーで気の流れを呼び起こし、ディオゴ自身が持つ気を血の流れに乗せるというやり方である。 ヌメロとは違い、自分の気を送る必要がないのが太陽経脈による医療魔法である。
(ヌメロ・・・こいつ・・・無意識で医療魔法を習得したのか! )
太陽経脈における最も重要な臓器は心臓であるが、月陰経絡では腎臓である。親から受け継いだ血が生命エネルギーとなって全身を巡るという思想である。腎臓を司る腎経のツボは鎖骨の内側の下縁の兪府(ゆふ)を始め、肋骨上にある或中や、神蔵がある。これらは呼吸を司るツボであり、太陽経脈で言うところの肺経である。ヌメロが肋骨に手を当てたのはまさにこのためだった。肋骨の経絡を通じて腎臓に働きかけるのだ。そして、血液の循環器を司る心包経の代わりは 月のエネルギーが勤めてくれる。
「ディオゴ・・・彼等の残してくれた血は滅んではいない・・・鼓動に耳を澄ませ、 彼等の生きた証を感じるのも そう悪くはない・・・・・・鼓動を胸に抱いて 生きろ・・・」
ヌメロの月のエネルギーが腎臓へと流れていく。
ディオゴが息を吹き返したのはそれから間もなくのことであった。