奇跡の絵
ちら浦
序
ここは、地獄なのだろうか。
風が横殴りに吹きすさぶ。大地は太陽の容赦ない照りつけによって、沸騰するかのように熱い。往来の人々は、憐れな私を、楽園に侵入した邪悪な蛇のように、蔑みきった目で見る。
その中で、私は全身を苦痛という茨に覆われながら、息も絶え絶えという状態で、無様に路上を這いつくばっていた。手足は黒く変色しつつ壊死し、胴体も粒状の発疹によって隙間なく覆われ、かろうじて動く左手を頼りに、あぶら汗を流すほどの激痛に呻吟しながら、膝でいざりつつ進んでいるのだ。
もう、何回挫けただろうか。何回泣き伏しただろうか。何回死にたいと切願しただろうか。
だが、私にはどうしても逃げられない理由があるのだ。罪を償うための使命があるのだ。
遥か先にある、一枚の絵。これを見るまでは、断じて死ねないのだ。
1
・・・罪を償う?・・・使命って、一体何だっけ。思い出せない・・・。
・・・だが、この心を襲うおそるべき痛みは何事なのだ・・・悔悟の念につぶれてしまいそうな・・・。ああ思い出した。そうだ、これは仲間への責任。
「起きろ。支度をしろ」
家の玄関から扉のたたく音がする。
急いで扉を開けると、おなじみの小男がにこりともせず入ってきた。
「やっぱ、ビルギットは戻ってこねえのか」
「・・・うん、もう望みはうすいね」
食卓にどっかり腰をおろすブルーノに、羊のミルクを与え、ライ麦パンもあげようかと躊躇してると、すかさず大きな目に射すくめられた。
「だから俺のことはいいからさっさと仕事の支度をしろ」
「ああ、すいません」
急いで隣室に向かい、野良仕事の準備をしてると、右手にしびれるような痛みが走った。
いよいよだ。とうとう私にもこの痛みが、「聖アントニウスの火」にやられるようになってきた。
神からの恩寵は、日常で虹に出会う感覚に近い。
なだらかな丘陵は、刈りとったばかりのライ麦の茎だけを残して地肌をさらし、にわか雨が追い打ちをかける。
雨の雫は暑気を払い、砂のような土は湿りけを含んで匂いたち、空の一角は不気味な暗雲がおおって稲妻をきらめかせる。
だがそれも長く続かず、日が傾き薄暮に包まれるころ、東の空に巨大な弧を描く細長い虹が現れた。
遥か遠くの教会から、かすかに晩鐘がきこえる。
私は大鎌に肩肘を立てて、両手を組んで目をつぶり、母が教えてくれた祈りの言葉をつぶやいた。
「・・・Kyrie eleison . Christe eleison . Amen .(主よ、憐れみたまえ。キリストよ、憐れみたまえ。本当に)」
「おーいハンス、はやく帰るぞ」
ブルーノが苛立ちげに声をかけてきた。
「オットー、もうこの村はだめだ。忌まわしい悪魔のせいで人口が半分に減っちまった」
ライ麦の穂がうず高く積まれた荷車をロバに引かせながら、エーリヒがしきりに話かける。
「隣のヘッツェル一家なんてひどいもんさ。7人中4人は手足が腐って死んだ上に、親父が頭おかしくなって6歳の息子を道連れに首を吊った。残った4歳の娘が半裸で泣きながら近所をほっつき歩いてるぞ。あれ冬になったら死ぬわ」
「だったらおまえが引き取って助けてやればいいだろ」
「そうは言ってもなー。子供だけなら別に構わないが、一緒に悪魔もついてくるのがなー。いや本当にかわいそうだよ」
「エーリヒ、馬小屋にわらを敷いて寝床だけは確保してやれ。人なみの扱いが無理なら、せめて犬なみには扱ってやれ」
「ネズミを一匹仕留める度に、肉をひと切れやるって取引してやろうかな。あ、そういやハンスの姉貴が失踪したって本当か?」
大鎌を担いで、並んで家路についていたオットーが表情を曇らせた。
「ああ、そうらしいんだ。母親の葬儀を済ませた翌日に忽然と姿を消したらしい。手持ちの私物だけを持っていって、手紙ひとつ残さずに」
「そりゃ計画的だな。頭やられて死にかけのお袋さんを終油の秘跡までして看取ってやったんだから、後の家の面倒はハンスが見てくれってことか」
「ハンスももっと早くそのことを俺達に伝えてくれれば、俺とブルーノが手分けして探してビルギットを連れ戻せたのに」
「なんだよ、ハンスの奴、そんな大ごとまで打ち明けなかったのかよ。いやっどーも」
「あれ以来弟の様子がおかしくなってな。何をやるにしても上の空なんだ」
「おめえはおせーよ」
さっきからブルーノがしつこく私にからんでくる。
「おめえが刈り取りを担当してる範囲がいつも遅れるから、俺達まで手伝わされていつも終わるのが遅れるんだぞ。おまけに最後はサボりやがって」
「すいません。だけどサボってるんじゃないよ。主にお祈りを捧げてるだけだよ」
「お祈りを捧げるのは1日の仕事を終えたあとだろ。途中でやってんじゃねーよ。ったくなんでいつもそんなに遅れるんだよ」
「・・・だから私は、(大きく深呼吸して)前から言ってる通り、急いで仕事をすると慌てておかしくなるんだよ。仕事が雑になるし、失敗も多くなるし」
「言い訳してんじゃねーよ。おめえの仕事がトロいからみんなに負担をかけてるんだぞ」
ブルーノの怒り方はいつもこれだ。質問をしといてこっちが返答したら、言い訳するなと言って正論を押しつける。彼にとって質問は、相手をやり込めるための口実でしかない。
「ったくよー、そんなだからビルギットにも逃げられるんだよ」
「・・・すまんが姉貴の件はこっちの家庭の事情だよ。君らには関係ない」
「関係あるだろ! 俺達は同じ仕事仲間だろうが! ビルギットが生活を支えてたおかげで俺達も晩飯を作る負担とかがはぶけてたんだぞ。てめーがだらしねーから愛想つかして逃げたに決まってんじゃねーか」
「・・・あ、姉貴は本当に一生懸命やってたよ。だけど私達にできるのはたった一つだ。姉貴がそれを選んだのだから、奪ってはいけない。マルタとマリアのように」
「・・・ふざけんな。都合が悪くなったらいつも聖書に逃げやがって」
ブルーノは荷車の尻を思いきり蹴飛ばしたが、悲鳴をあげてうずくまった。異常な痛がり方だ。
「なにやってんだよおまえら、ったくおまえらガキはのんきでいいよなー」
「っざけんな。(足先をさすりながら)ガキなんかじゃねーよエーリヒ! 俺は今年で23だ」
「おーいハンス、今度の日曜は俺と一緒に死体の埋め直しを手伝ってくれ」
私が露骨に嫌な表情をしてると、
「ここのところ毎日おまえの仕事の尻ぬぐいをしてるんだから、嫌だとは言わせねーよ。なーに隣の家の死体を急いで埋めたもんだから浅くてな、犬が寄ってきて物騒だからもう一回埋め直すのさ。昼飯はおごるぜ」
私がなおもためらってると、
「ハンス、俺もやるから手伝ってやれ」
とオットーが最終的な判断を下した
「・・・わかったよ、10時には行く」
「俺は嫌だからな、兄貴」
ようやく立ち上がったブルーノを、エーリヒは「ビルギットの乳が恋しい奴なんていらねーよ」と冷やかし、さらにブルーノを怒らせた。
空はすでに濃い藍色に染まり、眼下には荒れ果てた集落がぽつぽつと点在する。
この4人の仕事仲間の中では、ブルーノが一番病状は進行していた。
姉のビルギットがいなくなったとき、私は内心うれしかった。ようやくこの狭い我が家の空間を独占できるとよろこんだ。姉貴がどんなに苦労して家計を支え、私よりも早く起きて、私よりも多く食事を作り、はやり病の進行におびえながら、母の看病という先の見えない煉獄に絶望しながら、家事に尽くしていても、同じ生活空間に人がいるという圧倒的なウザさの前では、些事でしかなかった。私はこの心の真実を一度も口にしていないし、態度でも示さないように努力してきたつもりだが、もう姉貴はこの不肖の弟の心情は察していたと思う。男の隠し事なんて、女はすぐに見抜く。
この後、どんな苦労が我が身を襲っても、ひとりでいられる特権を得られた今、耐えられる自信がわいてくる。
なぜ、私は仕事仲間たちと一緒に仕事ができるのだろうか。私は毎晩自問している。
ブルーノが侮蔑の目で私をにらむとき、エーリヒが嘲りながら私をたしなめるとき、オットーが上から目線で私に命じるとき、私の心は恐怖で満たされ、あらゆる判断が凍りつく。
それでも、なぜか私は一応仲間に合わせることができるのだ。頭は真っ白でも、口だけでなんとか苦しまぎれの返答をして、仲間からは一応不信がられてはいない。
これは私の力のせいではない。憐れみ深い主が、迷える私に力を与えてくだされた、奇跡なのだろう。そうとしか思えない。
私は今日1日の心の傷を癒すため、薄暗いろうそくの火の中、新約聖書を読み始めた。
私にとって、主イエス・キリストは、教えをさずける神の御子という存在以上に、自分の敵を知性でやりこめる、英雄そのものだ。ファリサイ派がどんな人達かは知らないが、彼らはいつも主に敵対する存在として登場し、主の御言葉の揚げ足を取ろうと躍起になるのだが、主はいつも涼しげに彼らの追求を論理で一蹴する。その御姿がとにかくかっこよくて、ついそこばかり読んでしまう。私は人と対峙していても、言いたいことの半分も言えないのが常なのに、主は敵対する相手でも説得してしまう言葉の強さを持ち、人の倫理の儚さを憂い、どうにか人々の目を覚まさせようと導いておられる。
畏れ多くも私は主に羨望する。いくら神の御子として生まれてこようとも、一応は人間という肉を受けてこの世界に降臨したのだから、私と同じ人生の線に立ってる存在なのに、ただひとりの人間もまともに説得できない私とは、何たる違いであろうか!
聖書は何百回と読んでもうボロボロだが、まだ判読できる。だが最初の頁に一枚だけあった、主イエス・キリストの銅版画だけが幼い頃に抜けてしまって、主の御姿だけがわからない。物心ついた頃に少しだけ見た、長髪で髭面のやせた御姿がおぼろげな記憶としてあるだけだ。
我が英雄である、主イエス・キリストはどんな御姿をしてるのか、もう一度見てみたい。
頁をめくる右手の指がときおり痺れ、指先が熱をもつ。実際はさわっても熱くないのだが、なぜか体が熱いと知覚する。
室内は、もう姉貴がいた頃にはありえなかったほど物が散らかっているが、休みの日に掃除する気分にもなれない。
夜風が吹くたびに、粗末な我が家はきしむ音を立て、さらに笛のような音色を立てながらすきま風が吹きこむ。
死はゆるやかに空間を覆い始め、その闇の中で、ろうそくの炎だけが頼りなく聖書を照らす。
「・・・患難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む」
北国の夜は、夏になってもまだ冷える。
―――16世紀初頭、北方ヨーロッパでは、農村部を中心にしばしば「聖アントニウスの炎」と呼ばれる疾病が猛威をふるった。いや、当時は疾病という認識すら薄く、時に患者は悪魔に憑かれた者たちとして健常者から差別の対象にされた。
原因は、収穫したライ麦に麦角菌が感染していたことによる中毒症状である。麦角中毒は主に体の神経系と循環器系にさまざまな毒性を示し、神経系には手足に焼けつくような痛みを与え、循環器系には血管収縮による手足の壊疽を引き起こす。さらに皮膚にも発疹が起きて腫れあがり、血行障害による脳への血流不足のために、幻覚や痙攣、果ては意識不明になり、死に至る。
当時の医学では、この原因はまだ特定されておらず、当時の治療法は転地療養か旅に出るしかないとされた。これは食環境を変えることでたまたまライ麦パンを食べなくなり、病状が好転した例が多いからであり、真の因果関係は当然謎のままだった。
人々は病に怯え、その病を人類に持ちこむ悪魔に怯えた。かつて聖人聖アントニウスがこの病に罹患しながらも克服した故事に、人々は救いを見出し、各地にあった聖アントニウスを祀った教会へ巡礼し、回復への祈りを捧げる。
教会側も次第に患者たちを迎える体制が整い始め、治療院を併設したり、人々の信仰の拠り所となる聖遺物を公開したり、絶望の淵にいる患者の心を救うために祭壇画を描いたりして、救いに応えようと努力していた。
当時、西ではマゼランが世界一周への挑戦を始め、東ではルターが新たな宗教運動を始め、南ではミケランジェロやラファエロが活躍するなど、とうにルネサンスが花開いていたが、北方の草深い田舎ではいまだに後期ゴシックからぬけだせない。そんな中、ある偉大な画家が聖アントニウスゆかりの修道会のために、精魂をこめて、ある祭壇画を描きあげた。
これは、ひとりの男と、ある祭壇画を巡る、奇跡の物語である。―――