従者にとって英雄は居ない
従者と魔術師
魔法なるもの、超常なるものがこの世界で発見されたのは、今からほんの百年ほど前のこと。
超常との接触は、多少の混乱を孕みながらも、人類の多くに進歩と平和をもたらした。
その結果、かつては緊張の耐えなかったこの国境付近も、今ではただの片田舎と同義であり、起こる事件といえば落し物や迷い牛くらいのもの。
駐屯兵も形だけで、ずいぶんとのんびりしたところになっている。
「な、なんじゃと!」
そんな牧歌的な農村の空気は、奇しくも先程まで村の来歴を語っていた村長の、頓狂な声で破られてしまった。
若い旅人には、こんな農村の成り立ちなど聞かされても眠くなるだけだろうと、旅人の出身に話題を移したことがきっかけであった。
「するとあんた、東国の?」
「それが……何か問題でも?」
「何でそれを早く言わんかね!?」
二ールと名乗ったその若い旅人は、東国ネイの名を出すなり詰め寄ってきた村長の勢いに飲まれ、まともな問答も無いまま、村の宿屋へと連れて行かれてしまった。
「分かった。何だか知らないが、俺が悪かったよ。村に着くなり平和なところだとかあんたが言うもんだから、てっきり余所者にも寛大かと思ったんだ。俺のことが気に入らないなら、さっさと出てくから手荒なことはよしてくれ」
「何を言っとるか!」
「は?」
村長はニールの手を取り、鍵を一つ手渡すと、彼を出迎えたときと同じ、豪快な笑顔を見せた。
「近く東国から一人こちらへ来ると聞いていたが、まさかあんただったとは。大したもてなしもできんが、宿くらいは用意させてもらうよ。その部屋なら日当たりも良かろう」
「いや、ちょっと待てよ。あんた何か勘違いしてるんじゃ……」
「何が勘違いなものかね。あんた、ネイから来たって言ってただろ。その若さでたいしたもんだ。ひとまず、ワシはこれで失礼するよ。自由にくつろいでくれ。長旅で疲れてるだろう」
半ば押し込むような形で宿の一室へニールを通した村長は、上機嫌に笑いながらどこぞへと去っていった。
一方のニールは、唐突な村長の親切らしきものに頭の処理が追いつかず、呆然とその背を目で追うばかりで、今の我が身について考えが至ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「一体何が悪くてこうなったんだ?」
最初宿に連れて行かれたときこそ、こうぞんざいに扱われる謂れは無いと憤ったものだったが、逆にこんなもてなしを受ける覚えも彼には無いのである。
そもそも、説明の機会が無いせいで、村長の方は誤解をしたままだったが、ニールはネイの出身ですらない。
彼がネイの名前を出したのは、国境付近というこの村の土地柄、誰でも知っている国の名前をひとまず挙げて、だいたいその方角から来ました、という程度の説明をするためであって、彼自身は現地の人間でなければ名前も知らないような小国の出身である。
そもそもと言えば、ニールがこの村を訪ねることが、あらかじめ決まっていたかのような村長の物言いも、彼には良く分からなかった。
最終的な目的地こそ決めていたものの、彼の旅路は基本的には気ままなものであり、今日この村を訪ねたのも、大きな風車が偶然目に止まったからという、ただそれだけの理由である。
ひょっとすると、この村を通るネイのお大臣か何かが居て、自分はそれと間違われたのではなかろうか。
一連の不可解な出来事をニールはそう結論付けようとしたが、部屋に備え付けられた姿見には、どう贔屓目に見ても貴族や大臣とは見間違えようの無い、彼の旅装が写りこんでいた。
「どうしたもんかな……」
しばらくの間、身に覚えの無い幸運に戸惑っていたニールだったが、その頭の霧は、再び聞こえてきた村長の頓狂な声で晴らされることとなった。
超常との接触は、多少の混乱を孕みながらも、人類の多くに進歩と平和をもたらした。
その結果、かつては緊張の耐えなかったこの国境付近も、今ではただの片田舎と同義であり、起こる事件といえば落し物や迷い牛くらいのもの。
駐屯兵も形だけで、ずいぶんとのんびりしたところになっている。
「な、なんじゃと!」
そんな牧歌的な農村の空気は、奇しくも先程まで村の来歴を語っていた村長の、頓狂な声で破られてしまった。
若い旅人には、こんな農村の成り立ちなど聞かされても眠くなるだけだろうと、旅人の出身に話題を移したことがきっかけであった。
「するとあんた、東国の?」
「それが……何か問題でも?」
「何でそれを早く言わんかね!?」
二ールと名乗ったその若い旅人は、東国ネイの名を出すなり詰め寄ってきた村長の勢いに飲まれ、まともな問答も無いまま、村の宿屋へと連れて行かれてしまった。
「分かった。何だか知らないが、俺が悪かったよ。村に着くなり平和なところだとかあんたが言うもんだから、てっきり余所者にも寛大かと思ったんだ。俺のことが気に入らないなら、さっさと出てくから手荒なことはよしてくれ」
「何を言っとるか!」
「は?」
村長はニールの手を取り、鍵を一つ手渡すと、彼を出迎えたときと同じ、豪快な笑顔を見せた。
「近く東国から一人こちらへ来ると聞いていたが、まさかあんただったとは。大したもてなしもできんが、宿くらいは用意させてもらうよ。その部屋なら日当たりも良かろう」
「いや、ちょっと待てよ。あんた何か勘違いしてるんじゃ……」
「何が勘違いなものかね。あんた、ネイから来たって言ってただろ。その若さでたいしたもんだ。ひとまず、ワシはこれで失礼するよ。自由にくつろいでくれ。長旅で疲れてるだろう」
半ば押し込むような形で宿の一室へニールを通した村長は、上機嫌に笑いながらどこぞへと去っていった。
一方のニールは、唐突な村長の親切らしきものに頭の処理が追いつかず、呆然とその背を目で追うばかりで、今の我が身について考えが至ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「一体何が悪くてこうなったんだ?」
最初宿に連れて行かれたときこそ、こうぞんざいに扱われる謂れは無いと憤ったものだったが、逆にこんなもてなしを受ける覚えも彼には無いのである。
そもそも、説明の機会が無いせいで、村長の方は誤解をしたままだったが、ニールはネイの出身ですらない。
彼がネイの名前を出したのは、国境付近というこの村の土地柄、誰でも知っている国の名前をひとまず挙げて、だいたいその方角から来ました、という程度の説明をするためであって、彼自身は現地の人間でなければ名前も知らないような小国の出身である。
そもそもと言えば、ニールがこの村を訪ねることが、あらかじめ決まっていたかのような村長の物言いも、彼には良く分からなかった。
最終的な目的地こそ決めていたものの、彼の旅路は基本的には気ままなものであり、今日この村を訪ねたのも、大きな風車が偶然目に止まったからという、ただそれだけの理由である。
ひょっとすると、この村を通るネイのお大臣か何かが居て、自分はそれと間違われたのではなかろうか。
一連の不可解な出来事をニールはそう結論付けようとしたが、部屋に備え付けられた姿見には、どう贔屓目に見ても貴族や大臣とは見間違えようの無い、彼の旅装が写りこんでいた。
「どうしたもんかな……」
しばらくの間、身に覚えの無い幸運に戸惑っていたニールだったが、その頭の霧は、再び聞こえてきた村長の頓狂な声で晴らされることとなった。
それは、ニールが不可解な供応を受けてから小一時間ほど経った頃であった。
「な、なんじゃと!?」
「……ん?」
聞き覚えのある大声に誘われて、ニールが宿の外に出てみると、そこには先の村長と、もう一人村長と向き合って何か言い合っている少女の姿があった。
自分に似て質素な服装と、その肩に掛けた鞄の大きさを見て、ニールは少女が自らの同類であることに気付いた。
「だから、それは私なんですって!」
「何を言っとる! 彼も若かったが、お前なんぞ、まだ小娘じゃろうが」
「人を見た目で判断しないで下さい! これだから田舎は……」
「おい、今のは聞き捨てならんぞ! ここが気に入らんのならさっさと出て行け!」
「……喧嘩か?」
何の話かは皆目分からないながら、二人の剣幕は端で見ているニールにも、十分すぎるほどに伝わってきた。
「どうするかな……」
元々、自分の旅は、我が身に降りかかってきた面倒を片付けようと始めたものだ。
そこへ来て、この上面倒に巻き込まれるのは本末転倒だし性分にも合わない。
……面倒と言えば、結局得体の知れないまま受けている村からの親切も、改めて考えてみると、どうも後が恐ろしくはないだろうか。
喧嘩に巻き込まれるのはごめんだと過ぎった瞬間、ニールの脳内に、面倒の一言から連想された様々な不安が数珠繋ぎになって現れてきた。
やはりどうにも気味が悪い。
日が高い内に荷物を纏め、他の宿を探すとしよう。
ニールがそう気持ちを固め、荷物を取りに一度部屋へ戻ろうとした、その時であった。
「だからこっちも仕事で……あ、そこのあなた!」
「……は?」
先ほどまで村長と激しく何か言い争っていた少女が、宿へ戻ろうとするニールの姿を認めるや、喧嘩相手を捨て置いて彼のもとへと詰め寄ってきたのである。
「あ、こら、その人に何をする!」
「その格好……あなたも旅人ですね。いつからここに?」
静止する村長の言葉を無視したまま、少女がニールを睨み付ける。
「いつからって……あんたらの話聞いてたのは数分前からで、この村にって意味なら一時間くらい前だけど……」
「なるほど……」
「ついでに、そろそろここから出てくつもりだよ。とにかく、俺はこの村とは無関係だから、喧嘩の続きならそこの爺さんとでも……」
「話は分かりました……これより、あなたを拘束します!」
「拘束って、あんた俺の話聞いて……ぐっ!」
瞬間、ニールの両足と胴体は、荒縄で縛り上げられるような圧迫感に襲われた。
「空気が締め付け……っ!」
もがこうと身をよじった勢いで、さらに彼の体はバランスを崩し、地面へと倒れこんでしまった。
「な、なんじゃ!?」
村長は、手をかざしただけでニールを床に転がした少女の姿を、半ば茫然自失となりながら、かろうじて目で追いかけていた。
「罪状については、今更説明の必要はありませんね。逃亡の意思が見られたので、このまま北の都まであなたを連行します」
「そ、それじゃあんたは……」
ようやく自分の勘違いに気付いた村長の顔からは、先ほどまでの反動のように血の気が失われている。
「ネイから来ました。国定魔術師のイルゼです。三度目の自己紹介ですが、ようやく信じて貰えそうですね……」
「国定魔術師……」
イルゼと名乗る少女の言葉で、ニールの頭の霧はようやく晴れることとなったが、それと同時に、村を出ようという自らの決断が、すでに手遅れだったことも、共に悟ったのだった。
「な、なんじゃと!?」
「……ん?」
聞き覚えのある大声に誘われて、ニールが宿の外に出てみると、そこには先の村長と、もう一人村長と向き合って何か言い合っている少女の姿があった。
自分に似て質素な服装と、その肩に掛けた鞄の大きさを見て、ニールは少女が自らの同類であることに気付いた。
「だから、それは私なんですって!」
「何を言っとる! 彼も若かったが、お前なんぞ、まだ小娘じゃろうが」
「人を見た目で判断しないで下さい! これだから田舎は……」
「おい、今のは聞き捨てならんぞ! ここが気に入らんのならさっさと出て行け!」
「……喧嘩か?」
何の話かは皆目分からないながら、二人の剣幕は端で見ているニールにも、十分すぎるほどに伝わってきた。
「どうするかな……」
元々、自分の旅は、我が身に降りかかってきた面倒を片付けようと始めたものだ。
そこへ来て、この上面倒に巻き込まれるのは本末転倒だし性分にも合わない。
……面倒と言えば、結局得体の知れないまま受けている村からの親切も、改めて考えてみると、どうも後が恐ろしくはないだろうか。
喧嘩に巻き込まれるのはごめんだと過ぎった瞬間、ニールの脳内に、面倒の一言から連想された様々な不安が数珠繋ぎになって現れてきた。
やはりどうにも気味が悪い。
日が高い内に荷物を纏め、他の宿を探すとしよう。
ニールがそう気持ちを固め、荷物を取りに一度部屋へ戻ろうとした、その時であった。
「だからこっちも仕事で……あ、そこのあなた!」
「……は?」
先ほどまで村長と激しく何か言い争っていた少女が、宿へ戻ろうとするニールの姿を認めるや、喧嘩相手を捨て置いて彼のもとへと詰め寄ってきたのである。
「あ、こら、その人に何をする!」
「その格好……あなたも旅人ですね。いつからここに?」
静止する村長の言葉を無視したまま、少女がニールを睨み付ける。
「いつからって……あんたらの話聞いてたのは数分前からで、この村にって意味なら一時間くらい前だけど……」
「なるほど……」
「ついでに、そろそろここから出てくつもりだよ。とにかく、俺はこの村とは無関係だから、喧嘩の続きならそこの爺さんとでも……」
「話は分かりました……これより、あなたを拘束します!」
「拘束って、あんた俺の話聞いて……ぐっ!」
瞬間、ニールの両足と胴体は、荒縄で縛り上げられるような圧迫感に襲われた。
「空気が締め付け……っ!」
もがこうと身をよじった勢いで、さらに彼の体はバランスを崩し、地面へと倒れこんでしまった。
「な、なんじゃ!?」
村長は、手をかざしただけでニールを床に転がした少女の姿を、半ば茫然自失となりながら、かろうじて目で追いかけていた。
「罪状については、今更説明の必要はありませんね。逃亡の意思が見られたので、このまま北の都まであなたを連行します」
「そ、それじゃあんたは……」
ようやく自分の勘違いに気付いた村長の顔からは、先ほどまでの反動のように血の気が失われている。
「ネイから来ました。国定魔術師のイルゼです。三度目の自己紹介ですが、ようやく信じて貰えそうですね……」
「国定魔術師……」
イルゼと名乗る少女の言葉で、ニールの頭の霧はようやく晴れることとなったが、それと同時に、村を出ようという自らの決断が、すでに手遅れだったことも、共に悟ったのだった。
その夜、村を訪れた魔術師の歓迎の為、宿屋の明かりは遅くまで灯り続け、宴の嬌声は村の外れまで響き渡った。
国定魔術師を騙った咎でイルゼに拘束されたニールは、村の入り口に設けられた簡素な門の柱に縛り付けられ、夜風に乗ってやってくる村人たちの陽気な声を、聞くともなく聞いていた。
「とんだ災難だな……」
村を訪れ出身地について答えただけでお縄を頂戴する羽目になるとは、天文学的な身の不運である。
加えてこの場で自分の弁護を任せられそうな村長は、初めて見た魔法に腰を抜かして呆けてしまい、暫くは首から上も下も使い物にはならないときている。
しかしながら不幸中の幸い、この法治国家において、まだ自分は容疑者であって罪人ではない。
出るべき所に出て、ことの経緯を説明すれば、あの頭の固そうな国定魔術師はともかくとしても、一人くらいは話の分かる人間が居るのではなかろうか。
「とりあえずは大人しくしとくか……」
夜風に冷やされたニールの頭は、本人の思いのほか良く回り、数分の思考の後、当面の内は大人しくしておいて、あの魔術師の機嫌を損なわないのが良かろうと結論をだした。
「……ん?」
不幸を嘆いていたニールのもとに、宿の方から人影が近づいてきた。
人影はニールの前で立ち止まると、手に持っていた風呂敷を足下に広げた。
「どうぞ。村の方から分けて貰いました」
「あんた……」
ニールは、目を凝らして見つめているうちに、その人影が件の魔術師であることに気付いた。
足下に広がった風呂敷の上には、宴の残飯と思しきパンや干し肉が乗っている。
「イルゼです。あなた、まだ何も食べていないでしょう?」
「罪人相手に随分優しいんだな」
「あなたはまだ罪人じゃありませんから」
イルゼはニールの皮肉に一瞬眉の形を変えると、咳払いを一つしてニールの口にパンを押し込んだ。
「んぐ……」
「正式に裁きが下るまで、あなたはただの容疑者です。私の勝手な判断で飢え死にさせるわけにはいきません」
「なるほど、頭が固いのも、悪いことばかりじゃないってことだ」
「……あなた、自分の立場が分かってるんですか?」
パンを飲み込むなり皮肉を重ねるニールの姿に、イルゼの表情もいよいよ険しさを増した。
「この村の誰より良く分かってるよ。と言っても、あんたは俺の話なんて聞かないだろうし、一応俺もそっちのしきたりや決まりについては、これでも理解のある方でね。しばらくは大人しくさせて貰うつもりだ」
「その割には良く喋りますね……」
「何せ、今まともに動かせるのは首から上だけなんでね」
「だったら早く食べてください」
イルゼが干し肉をつかんで、ニールの口元に乱暴に押し込む。
「んぐ……しかし、大した技量だな」
「……え?」
「昼間のあれだよ。風の縄とでも呼べば良いのか? 破壊術としてはともかく、耐性の無い一般人を無力化するには有効な技だ。発動の隙も殆ど無かった。超常との親和性が高い証拠だ」
予期せぬ賞賛の言葉に、イルゼの体が一瞬固まった。
「……偽者にしては、魔道のこと、よく知ってるんですね」
「一応、まったく無関係って訳でもないんだよ。もっとも旅が終わるまでは、魔術師とは関わりたくなかったんだが……ん?」
不意に、ニールが先程までの饒舌を止めて表情を強張らせた。
「……あんた、確か国定魔術師だって言ってたな? ここらの結界は?」
「結界? 急に何を……?」
「更新だよ。もう済んだのか?」
訝しむイルゼをよそに、ニールが鼻を鳴らす。
「いえ、作業は明日からの予定ですが……それがどうかしたんですか?」
「村の外れ……南に二千歩ってとこだな。今すぐ向かった方が良い」
「え?」
「超常が近い。こっちに来るつもりなら、対応しないと事だ」
「超常!? いや、どうしてあなたにそんなことが……」
「臭いだ」
「臭い?」
「詳しく話すと長くなる。あんたも仕事が増えて気の毒だが、急がないと面倒だぞ」
「……流言の類であれば、罪状が更に増えることになりますよ」
「人を担いで楽しむ趣味は無い。……また近づいてきたな。村に踏み入る前に対処した方が良い」
「……分かりました」
一分ほどの逡巡の後、イルゼは意を決したように村の門へと向き直った。
「南に二千歩でしたね?」
「今からなら千五百歩だ」
「……」
イルゼは、ニールの言葉を受けて静かに頷くと、掌を地面にかざし、呼吸を整えた。
「……っ!」
瞬間、ニールの真横を突風が横切った。
イルゼへと向かって吹くその風は、しかし彼女の向こうへ吹き抜けようとはせず、周囲に生える雑草は、四方全てが彼女に向かって靡いていた。
「食事は少し待っていて下さい。五分で戻ります」
風を受けて地表から僅かに浮き上がったイルゼの身体は、そのまま地表を滑るかのように、すさまじい速度で夜の闇へと消えていった。
「大した技量だな」
イルゼが去った後、彼女を追うように吹き抜ける風の名残を受けて、ニールの口からは数分前と同じ言葉が漏れ出ていた。
国定魔術師を騙った咎でイルゼに拘束されたニールは、村の入り口に設けられた簡素な門の柱に縛り付けられ、夜風に乗ってやってくる村人たちの陽気な声を、聞くともなく聞いていた。
「とんだ災難だな……」
村を訪れ出身地について答えただけでお縄を頂戴する羽目になるとは、天文学的な身の不運である。
加えてこの場で自分の弁護を任せられそうな村長は、初めて見た魔法に腰を抜かして呆けてしまい、暫くは首から上も下も使い物にはならないときている。
しかしながら不幸中の幸い、この法治国家において、まだ自分は容疑者であって罪人ではない。
出るべき所に出て、ことの経緯を説明すれば、あの頭の固そうな国定魔術師はともかくとしても、一人くらいは話の分かる人間が居るのではなかろうか。
「とりあえずは大人しくしとくか……」
夜風に冷やされたニールの頭は、本人の思いのほか良く回り、数分の思考の後、当面の内は大人しくしておいて、あの魔術師の機嫌を損なわないのが良かろうと結論をだした。
「……ん?」
不幸を嘆いていたニールのもとに、宿の方から人影が近づいてきた。
人影はニールの前で立ち止まると、手に持っていた風呂敷を足下に広げた。
「どうぞ。村の方から分けて貰いました」
「あんた……」
ニールは、目を凝らして見つめているうちに、その人影が件の魔術師であることに気付いた。
足下に広がった風呂敷の上には、宴の残飯と思しきパンや干し肉が乗っている。
「イルゼです。あなた、まだ何も食べていないでしょう?」
「罪人相手に随分優しいんだな」
「あなたはまだ罪人じゃありませんから」
イルゼはニールの皮肉に一瞬眉の形を変えると、咳払いを一つしてニールの口にパンを押し込んだ。
「んぐ……」
「正式に裁きが下るまで、あなたはただの容疑者です。私の勝手な判断で飢え死にさせるわけにはいきません」
「なるほど、頭が固いのも、悪いことばかりじゃないってことだ」
「……あなた、自分の立場が分かってるんですか?」
パンを飲み込むなり皮肉を重ねるニールの姿に、イルゼの表情もいよいよ険しさを増した。
「この村の誰より良く分かってるよ。と言っても、あんたは俺の話なんて聞かないだろうし、一応俺もそっちのしきたりや決まりについては、これでも理解のある方でね。しばらくは大人しくさせて貰うつもりだ」
「その割には良く喋りますね……」
「何せ、今まともに動かせるのは首から上だけなんでね」
「だったら早く食べてください」
イルゼが干し肉をつかんで、ニールの口元に乱暴に押し込む。
「んぐ……しかし、大した技量だな」
「……え?」
「昼間のあれだよ。風の縄とでも呼べば良いのか? 破壊術としてはともかく、耐性の無い一般人を無力化するには有効な技だ。発動の隙も殆ど無かった。超常との親和性が高い証拠だ」
予期せぬ賞賛の言葉に、イルゼの体が一瞬固まった。
「……偽者にしては、魔道のこと、よく知ってるんですね」
「一応、まったく無関係って訳でもないんだよ。もっとも旅が終わるまでは、魔術師とは関わりたくなかったんだが……ん?」
不意に、ニールが先程までの饒舌を止めて表情を強張らせた。
「……あんた、確か国定魔術師だって言ってたな? ここらの結界は?」
「結界? 急に何を……?」
「更新だよ。もう済んだのか?」
訝しむイルゼをよそに、ニールが鼻を鳴らす。
「いえ、作業は明日からの予定ですが……それがどうかしたんですか?」
「村の外れ……南に二千歩ってとこだな。今すぐ向かった方が良い」
「え?」
「超常が近い。こっちに来るつもりなら、対応しないと事だ」
「超常!? いや、どうしてあなたにそんなことが……」
「臭いだ」
「臭い?」
「詳しく話すと長くなる。あんたも仕事が増えて気の毒だが、急がないと面倒だぞ」
「……流言の類であれば、罪状が更に増えることになりますよ」
「人を担いで楽しむ趣味は無い。……また近づいてきたな。村に踏み入る前に対処した方が良い」
「……分かりました」
一分ほどの逡巡の後、イルゼは意を決したように村の門へと向き直った。
「南に二千歩でしたね?」
「今からなら千五百歩だ」
「……」
イルゼは、ニールの言葉を受けて静かに頷くと、掌を地面にかざし、呼吸を整えた。
「……っ!」
瞬間、ニールの真横を突風が横切った。
イルゼへと向かって吹くその風は、しかし彼女の向こうへ吹き抜けようとはせず、周囲に生える雑草は、四方全てが彼女に向かって靡いていた。
「食事は少し待っていて下さい。五分で戻ります」
風を受けて地表から僅かに浮き上がったイルゼの身体は、そのまま地表を滑るかのように、すさまじい速度で夜の闇へと消えていった。
「大した技量だな」
イルゼが去った後、彼女を追うように吹き抜ける風の名残を受けて、ニールの口からは数分前と同じ言葉が漏れ出ていた。
男達は、その全身を黒のフードに包み、完全に夜の闇に溶け込んでいた。
一人を先頭にして形作られた彼らの紡錘陣は、とても徒歩とは思えない速度で野を裂いていく。
松明はおろか、およそ光と呼べるものは僅かな月明かりすら避け、それでいてその足取りは、些かも滞ることはない。
一言も発することなく、完璧な統制を保ち進む彼らの姿は、集団というよりは寧ろ単一生物の手足に近かった。
村の南方、小高い丘の上に生えている巨木の陰に集った彼らは、目論見の成就を予見すると、その口の端をゆがませた。
集団の先頭に立つ男は、暫くの間木陰から村の様子を伺っていたが、やがて満足そうに頷き、その口を開いた。
「かつては緊張の耐えない国境地帯と聞いていたが、随分と平和ボケしたものだな。今ならば、結界を破ることも容易い」
男が掌を掲げると、木陰に潜んでいた集団は一斉に気配を殺すのを止め、殺気を孕んだ構えを見せた。
「……奪え」
男が掌を下ろすが早いか、控えていた集団は木陰から飛び出し、放たれた矢のように村へと駆け出した。
「そこまでです」
「……!」
瞬間、男の放った漆黒の矢は、その全てが不可解な突風に吹き返されていた。
「魔術師、か……」
吹き飛ばされた同胞が、縛り付けられたかのように地面に倒れ伏しているのを確認すると、男はその鋭い眼光を風上へと向けた。
「近づいてくる者には目を光らせていたはずなのだがな……すでに丘の近くに潜んでいたのか?」
「動かないで下さい」
男の問いには答えず、イルゼは右手を男に向けてかざした。
「この時間にその装束……ただの旅人ではないようですね。それに先程、結界を破ると聞こえましたが」
男の動きを警戒してか、イルゼの右手には既に風が集まっており、時折鋭い風切り音が辺りに響いている。
男は、自分の脇を掠めていく風の束には全く頓着せず、じっとイルゼの目を見つめていた。
「やはり潜んでいたようだな。事前に情報が漏れていたのか……」
「あなた達は一体何者ですか? 返答次第では、このまま拘束することになります」
「何者? 我々が来るのを待ち構えていたにしては、随分と間の抜けた質問だな」
「早く答えなさい! さもなければこのまま……!」
「やはり間抜けだ」
「なっ……!?」
集めた風に舞い上げられた雑草がイルゼの瞼を掠めた一瞬、男はその瞬きに合わせて、イルゼの懐へと一足飛びで飛び込んだ。
「……っ!」
気付いたイルゼが身体を風に乗せて距離を取るのと、男が腰に忍ばせていた剣を抜き打ちに振り払うのとは、殆ど同時であった。
「浅い……が、妙な手ごたえだな」
男が興味深げに自分の剣を眺め、薄い笑みを浮かべる。
外套ごと、自身を覆うように仕込んでいた風の層を裂かれたイルゼは、先程より半歩広く間合いをとって、再び右手に風を集めた。
「……」
魔力こそ感じないものの、男の見せた身のこなしと、風の鎧を裂いた膂力は人間のそれを遥かに凌駕している。
「……超常」
人間離れした男の戦力について考えを巡らす内、イルゼの頭に浮かんだのはニールが口にしていた単語であった。
「……仕方ありませんね」
イルゼが右手に力をこめると、彼女の周囲に響いていた風切り音が、鈍い轟音へと姿を変えた。
「あなたが何者かは知りませんが、無傷での無力化は不可能だと判断しました」
「ほう……!」
男は見開いた目にささやかな驚嘆と好奇の光を宿らせ、初めてイルゼに対し身構えた。
一人を先頭にして形作られた彼らの紡錘陣は、とても徒歩とは思えない速度で野を裂いていく。
松明はおろか、およそ光と呼べるものは僅かな月明かりすら避け、それでいてその足取りは、些かも滞ることはない。
一言も発することなく、完璧な統制を保ち進む彼らの姿は、集団というよりは寧ろ単一生物の手足に近かった。
村の南方、小高い丘の上に生えている巨木の陰に集った彼らは、目論見の成就を予見すると、その口の端をゆがませた。
集団の先頭に立つ男は、暫くの間木陰から村の様子を伺っていたが、やがて満足そうに頷き、その口を開いた。
「かつては緊張の耐えない国境地帯と聞いていたが、随分と平和ボケしたものだな。今ならば、結界を破ることも容易い」
男が掌を掲げると、木陰に潜んでいた集団は一斉に気配を殺すのを止め、殺気を孕んだ構えを見せた。
「……奪え」
男が掌を下ろすが早いか、控えていた集団は木陰から飛び出し、放たれた矢のように村へと駆け出した。
「そこまでです」
「……!」
瞬間、男の放った漆黒の矢は、その全てが不可解な突風に吹き返されていた。
「魔術師、か……」
吹き飛ばされた同胞が、縛り付けられたかのように地面に倒れ伏しているのを確認すると、男はその鋭い眼光を風上へと向けた。
「近づいてくる者には目を光らせていたはずなのだがな……すでに丘の近くに潜んでいたのか?」
「動かないで下さい」
男の問いには答えず、イルゼは右手を男に向けてかざした。
「この時間にその装束……ただの旅人ではないようですね。それに先程、結界を破ると聞こえましたが」
男の動きを警戒してか、イルゼの右手には既に風が集まっており、時折鋭い風切り音が辺りに響いている。
男は、自分の脇を掠めていく風の束には全く頓着せず、じっとイルゼの目を見つめていた。
「やはり潜んでいたようだな。事前に情報が漏れていたのか……」
「あなた達は一体何者ですか? 返答次第では、このまま拘束することになります」
「何者? 我々が来るのを待ち構えていたにしては、随分と間の抜けた質問だな」
「早く答えなさい! さもなければこのまま……!」
「やはり間抜けだ」
「なっ……!?」
集めた風に舞い上げられた雑草がイルゼの瞼を掠めた一瞬、男はその瞬きに合わせて、イルゼの懐へと一足飛びで飛び込んだ。
「……っ!」
気付いたイルゼが身体を風に乗せて距離を取るのと、男が腰に忍ばせていた剣を抜き打ちに振り払うのとは、殆ど同時であった。
「浅い……が、妙な手ごたえだな」
男が興味深げに自分の剣を眺め、薄い笑みを浮かべる。
外套ごと、自身を覆うように仕込んでいた風の層を裂かれたイルゼは、先程より半歩広く間合いをとって、再び右手に風を集めた。
「……」
魔力こそ感じないものの、男の見せた身のこなしと、風の鎧を裂いた膂力は人間のそれを遥かに凌駕している。
「……超常」
人間離れした男の戦力について考えを巡らす内、イルゼの頭に浮かんだのはニールが口にしていた単語であった。
「……仕方ありませんね」
イルゼが右手に力をこめると、彼女の周囲に響いていた風切り音が、鈍い轟音へと姿を変えた。
「あなたが何者かは知りませんが、無傷での無力化は不可能だと判断しました」
「ほう……!」
男は見開いた目にささやかな驚嘆と好奇の光を宿らせ、初めてイルゼに対し身構えた。
イルゼが、男へと向けたその掌を僅かに動かすと、鈍い音を放ちながら彼女の周囲に渦巻いていた風は、急速に彼女の手元へと集まった。
「明らかな殺意を持って向かってくる相手に限っては、必ずしも生かして捕らえなければならない義務は、私にはありません。できる内に降伏することを薦めます」
イルゼが、通告と共に集めた風を放つ。
風は束となり、大きくうねりを打ちながら男へと襲い掛かった。
進路上の土塊を抉り、その土砂をも巻き込み巨大化する大気の濁流。
「ふん……!」
男は小さく鼻を鳴らすと、大地を蹴りつけ側面へと逃れた。
次の瞬間、男の元いた場所が地表もろとも風と土砂の流れに抉られ、飲み込まれる。
「まだです!」
「……!」
目の前の光景に、男の瞳孔が一層大きく開かれる。
そのまま無秩序に後方へと拡散していくかに思われた破壊の流れは、イルゼの声に呼応するかのように鎌首をもたげ、男の背を追った。
「ちっ……!」
即座に逆方向へ切り返そうとする、常人離れした男の体術に、イルゼの風が更に追い縋る。
「……っ!」
徐々に詰まってくる風の渦との距離に、回避しきるのは不可能と判断した男は、再び大きく切り返すと、すぐさま剣を構えイルゼ本体に飛び掛った。
あれだけの破壊術を放ちながら、その手綱を容易く御し得ると言うことは、眼前の魔術師は、出力か精度にその特性を持つことは疑いない。
魔道の精度に長けた者ならば、自らの全力に近い出力の術を、僅かな魔力で操ることができ、出力に長けた者であれば、規格外の破壊力を、それ以上の外力で捻じ曲げることができよう。
そして、この魔術師は明らかに前者だ。
強大な破壊術を力任せに捻じ曲げるような荒業では、既に拘束され、地面に縛り付けられている者達を傷つける恐れがある。
得体の知れない敵に対して、馬鹿正直に最後通告までするような相手が、非戦闘員を巻き込むような真似をするとは思えない。
つまりあの魔道は、元々力に長けた魔術師ではないあの少女が、自分の余力で御しきれる限界の出力。
懐に飛び込んだ相手を迎え撃つ、二の矢を放つ余裕は奴には無い。
男は、攻防の中その目端で捕らえた情報の欠片をつなぎ合わせ、必勝の確信を持ってイルゼとの接近戦を挑んだ。
背を追う風が追いつくより先に、男の体がイルゼの懐へと潜り込む。
「面白い余興だったが、ここまでだ……!」
数瞬後、この手に伝わるだろう確かな手ごたえを予感して、男が剣を振り払う。
「ええ、ここまでです」
「なっ……!」
瞬間、男の体が、予期せぬ突風にあおられた。
それは、背後から追ってきた風の束ではなく、正面から吹き飛ばそうとする向かい風でもなかった。
無防備な足元から、間欠泉のように吹きあがる上昇気流。
男は完全に自由を奪われ、そのまま中空へと吹き上げられた。
「……ようやく捕らえる事ができましたね」
「貴様、まさか……」
「ええ、あなたを追っていたあの風はブラフです。最初の数秒を除いて、ですが」
持ち上げられた中空から丘の様子を俯瞰することで、男はようやく、あるはずの無い二の矢のからくりに気付いた。
イルゼの風が地面を抉り、刻みつけた動きの軌跡が、彼女の立っている位置から最初に男が構えていた地点までで途切れている。
あに謀らず、あれだけのたうち動き回っていた風は、しかし地表には何らの痕跡も残してはいなかった。
地表から抉り取った土塊も、中空に巻き上げ、微塵に砕いてしまえば細かい砂粒の集まりに過ぎず、弱い風でも巻き上げるのは難しいことではない。
イルゼは、初め最大出力の風でこれ見よがしに地表を抉り、突風を回避した男を、今度は微弱な力で操る風塵に追尾させていたのである。
巻き込んだ大量の塵は、実態以上の出力を演出すると同時に、風の姿を可視化することで、足元に集めていた本命の魔力の流れを覆い隠す隠れ蓑にもなる。
「風の魔術の本領は奇襲です。詰めが甘かったですね」
「ぐっ!」
男を空高く吹き上げる風の流れが途絶えると同時に、瀑布を思わせる下降気流が男を打ち下ろす。
闇夜の空に、衝突音が響いた。
「明らかな殺意を持って向かってくる相手に限っては、必ずしも生かして捕らえなければならない義務は、私にはありません。できる内に降伏することを薦めます」
イルゼが、通告と共に集めた風を放つ。
風は束となり、大きくうねりを打ちながら男へと襲い掛かった。
進路上の土塊を抉り、その土砂をも巻き込み巨大化する大気の濁流。
「ふん……!」
男は小さく鼻を鳴らすと、大地を蹴りつけ側面へと逃れた。
次の瞬間、男の元いた場所が地表もろとも風と土砂の流れに抉られ、飲み込まれる。
「まだです!」
「……!」
目の前の光景に、男の瞳孔が一層大きく開かれる。
そのまま無秩序に後方へと拡散していくかに思われた破壊の流れは、イルゼの声に呼応するかのように鎌首をもたげ、男の背を追った。
「ちっ……!」
即座に逆方向へ切り返そうとする、常人離れした男の体術に、イルゼの風が更に追い縋る。
「……っ!」
徐々に詰まってくる風の渦との距離に、回避しきるのは不可能と判断した男は、再び大きく切り返すと、すぐさま剣を構えイルゼ本体に飛び掛った。
あれだけの破壊術を放ちながら、その手綱を容易く御し得ると言うことは、眼前の魔術師は、出力か精度にその特性を持つことは疑いない。
魔道の精度に長けた者ならば、自らの全力に近い出力の術を、僅かな魔力で操ることができ、出力に長けた者であれば、規格外の破壊力を、それ以上の外力で捻じ曲げることができよう。
そして、この魔術師は明らかに前者だ。
強大な破壊術を力任せに捻じ曲げるような荒業では、既に拘束され、地面に縛り付けられている者達を傷つける恐れがある。
得体の知れない敵に対して、馬鹿正直に最後通告までするような相手が、非戦闘員を巻き込むような真似をするとは思えない。
つまりあの魔道は、元々力に長けた魔術師ではないあの少女が、自分の余力で御しきれる限界の出力。
懐に飛び込んだ相手を迎え撃つ、二の矢を放つ余裕は奴には無い。
男は、攻防の中その目端で捕らえた情報の欠片をつなぎ合わせ、必勝の確信を持ってイルゼとの接近戦を挑んだ。
背を追う風が追いつくより先に、男の体がイルゼの懐へと潜り込む。
「面白い余興だったが、ここまでだ……!」
数瞬後、この手に伝わるだろう確かな手ごたえを予感して、男が剣を振り払う。
「ええ、ここまでです」
「なっ……!」
瞬間、男の体が、予期せぬ突風にあおられた。
それは、背後から追ってきた風の束ではなく、正面から吹き飛ばそうとする向かい風でもなかった。
無防備な足元から、間欠泉のように吹きあがる上昇気流。
男は完全に自由を奪われ、そのまま中空へと吹き上げられた。
「……ようやく捕らえる事ができましたね」
「貴様、まさか……」
「ええ、あなたを追っていたあの風はブラフです。最初の数秒を除いて、ですが」
持ち上げられた中空から丘の様子を俯瞰することで、男はようやく、あるはずの無い二の矢のからくりに気付いた。
イルゼの風が地面を抉り、刻みつけた動きの軌跡が、彼女の立っている位置から最初に男が構えていた地点までで途切れている。
あに謀らず、あれだけのたうち動き回っていた風は、しかし地表には何らの痕跡も残してはいなかった。
地表から抉り取った土塊も、中空に巻き上げ、微塵に砕いてしまえば細かい砂粒の集まりに過ぎず、弱い風でも巻き上げるのは難しいことではない。
イルゼは、初め最大出力の風でこれ見よがしに地表を抉り、突風を回避した男を、今度は微弱な力で操る風塵に追尾させていたのである。
巻き込んだ大量の塵は、実態以上の出力を演出すると同時に、風の姿を可視化することで、足元に集めていた本命の魔力の流れを覆い隠す隠れ蓑にもなる。
「風の魔術の本領は奇襲です。詰めが甘かったですね」
「ぐっ!」
男を空高く吹き上げる風の流れが途絶えると同時に、瀑布を思わせる下降気流が男を打ち下ろす。
闇夜の空に、衝突音が響いた。
風瀑墜。
中空へ吹き上げた対象を、自由落下の数倍の加速をつけて叩き落す破壊術。
単に吹き飛ばすだけの風の魔道に比べ、制御が難しく消耗も大きいが、この術には一度宙に持ち上げてしまえば、地上生物をほぼ無力化できる利点がある。
大地を奪ってしまえば、男の強靭な脚力も文字通りその基盤を失う。
敵の長所を殺ぎ、確実な打撃を可能とするイルゼの奥の手である。
「激突の瞬間、手足も風で封じました。受身は不可能……もう聞こえてはいませんね」
周囲を見回し、残敵の居ないことを確認して、イルゼが風の鎧を解くと、解き放たれた風の流れが、丘の草花を撫ぜた。
「それにしても、彼らは結局何者だったのか……」
イルゼの視線が、地面に倒れ付す男達の上を滑る。
男達の左手には小さな白い杭が握られており、そこには解呪の印が記されていた。
「結界を破ると言うのは本気だったようですね。しかし、一体何の目的で……」
「知れたこと。この地を主に捧げる」
「え……?」
男達の素性について考えを巡らしていたイルゼの耳に、あり得ない声が聞こえてきた。
「……っ!?」
同時に、イルゼの背を破壊音が叩く。
「この音……まさか村に!?」
「万一に備えて伏せていた予備兵力だ。まさか使うことになるとは思わなかったが……」
音に取られかけた意識を引き戻し、イルゼが再び周囲に風を纏う。
その手が向けられているのは、目の前に出来ているクレーターの中心。
そこでは、地面に叩きつけられ、沈黙したはずの男が、静かに身を起こしていた。
「東国と北国の停戦協定から数年……この地から兵が引き払われて随分久しいが、この肥沃な土地の持つ価値そのものは何も変わらない」
「な、その姿……っ!?」
「貴様ら人間の都合とは関わりなく……な」
男の姿に、思わずイルゼの体が硬直する。
外套が破れ、外に晒された皮膚の殆どは深い体毛に覆われており、歪んだ口の端からは牙のように鋭い歯が覗いている。
そして何より目を引くのは、首筋に光る象形文字を思わせる文様である。
常人離れした身体能力を誇る剣士。
首筋の印を中心に発せられる、男の魔力を目の当たりにして、イルゼは己の戦力分析に大きな誤りがあったことに気付いた。
「魔力など用いずとも、一介の術士程度なら抑えられる自信が合ったが、我ながら少し遊びが過ぎたな」
「くっ……」
「これが本来の魔狼の力だ……!」
男が発した魔力の波に飲まれ、イルゼの足が硬直する。
少ない余力を身体操作の補助に回したとしても、最早体を持ち上げ、自在に操るほどの風を作ることは、イルゼには適わない。
今の男の力ならば、担いだ剣を振り下ろすだけで全てが決着するだろう。
薄く張った風の鎧など、何の気休めにもなるまい。
背後から、今一度の破壊音。
「最早村も我らが手に落ちた! 貴様の血肉、この地と共に主へ捧げる!」
「……っ!」
「……取り込み中のとこ、悪いな」
「……え?」
迫る刃と、覚悟を決めたイルゼの首筋との間に、両刃の剣が滑り込む。
「腹減ったから迎えに来た。とっくに五分過ぎてるぞ」
「……あなたは……」
放心と共にイルゼの魔力が尽き、纏っていた風が四散する。
イルゼの力の余韻を受けて、ニールの外套が大きくはためいた。
中空へ吹き上げた対象を、自由落下の数倍の加速をつけて叩き落す破壊術。
単に吹き飛ばすだけの風の魔道に比べ、制御が難しく消耗も大きいが、この術には一度宙に持ち上げてしまえば、地上生物をほぼ無力化できる利点がある。
大地を奪ってしまえば、男の強靭な脚力も文字通りその基盤を失う。
敵の長所を殺ぎ、確実な打撃を可能とするイルゼの奥の手である。
「激突の瞬間、手足も風で封じました。受身は不可能……もう聞こえてはいませんね」
周囲を見回し、残敵の居ないことを確認して、イルゼが風の鎧を解くと、解き放たれた風の流れが、丘の草花を撫ぜた。
「それにしても、彼らは結局何者だったのか……」
イルゼの視線が、地面に倒れ付す男達の上を滑る。
男達の左手には小さな白い杭が握られており、そこには解呪の印が記されていた。
「結界を破ると言うのは本気だったようですね。しかし、一体何の目的で……」
「知れたこと。この地を主に捧げる」
「え……?」
男達の素性について考えを巡らしていたイルゼの耳に、あり得ない声が聞こえてきた。
「……っ!?」
同時に、イルゼの背を破壊音が叩く。
「この音……まさか村に!?」
「万一に備えて伏せていた予備兵力だ。まさか使うことになるとは思わなかったが……」
音に取られかけた意識を引き戻し、イルゼが再び周囲に風を纏う。
その手が向けられているのは、目の前に出来ているクレーターの中心。
そこでは、地面に叩きつけられ、沈黙したはずの男が、静かに身を起こしていた。
「東国と北国の停戦協定から数年……この地から兵が引き払われて随分久しいが、この肥沃な土地の持つ価値そのものは何も変わらない」
「な、その姿……っ!?」
「貴様ら人間の都合とは関わりなく……な」
男の姿に、思わずイルゼの体が硬直する。
外套が破れ、外に晒された皮膚の殆どは深い体毛に覆われており、歪んだ口の端からは牙のように鋭い歯が覗いている。
そして何より目を引くのは、首筋に光る象形文字を思わせる文様である。
常人離れした身体能力を誇る剣士。
首筋の印を中心に発せられる、男の魔力を目の当たりにして、イルゼは己の戦力分析に大きな誤りがあったことに気付いた。
「魔力など用いずとも、一介の術士程度なら抑えられる自信が合ったが、我ながら少し遊びが過ぎたな」
「くっ……」
「これが本来の魔狼の力だ……!」
男が発した魔力の波に飲まれ、イルゼの足が硬直する。
少ない余力を身体操作の補助に回したとしても、最早体を持ち上げ、自在に操るほどの風を作ることは、イルゼには適わない。
今の男の力ならば、担いだ剣を振り下ろすだけで全てが決着するだろう。
薄く張った風の鎧など、何の気休めにもなるまい。
背後から、今一度の破壊音。
「最早村も我らが手に落ちた! 貴様の血肉、この地と共に主へ捧げる!」
「……っ!」
「……取り込み中のとこ、悪いな」
「……え?」
迫る刃と、覚悟を決めたイルゼの首筋との間に、両刃の剣が滑り込む。
「腹減ったから迎えに来た。とっくに五分過ぎてるぞ」
「……あなたは……」
放心と共にイルゼの魔力が尽き、纏っていた風が四散する。
イルゼの力の余韻を受けて、ニールの外套が大きくはためいた。
男の剣を跳ね除け、ニールが構えを取り直すと、男も剣戟を防がれたことへの警戒からか、半歩距離を取り構えを見せた。
「手加減したつもりは無かったが……貴様も魔術師か?」
「悪いが、訳有って自分の生い立ちについては公言しないようにしてるんだよ。そもそも、他人の氏素性をどうこう言える見た目してないだろ、あんた」
ニールが眉をひそめてみせると、男は牙を向き、低いうなり声を上げた。
「ニールさん、無事だったんですね……」
死線に触れ、半ば手放しかけていた意識を何とか取り戻したイルゼが、二人の間に割って入ったニールの背に語りかける。
「日頃の行いが良いもんでね。どっちかっていうと、あんたの方が急場みたいだな」
眼前の男から視線を切らずに、ニールは肩をすくめてみせた。
「この場は俺が変わってやるよ。ここまで献身的に魔術師様の仕事を手伝ってやるからには、情状酌量の方も期待させて貰って良いんだろうな?」
「いえ……今からでも間に合います。私のことは放って、村を助けに行って下さい。あの男の手下に襲われて……」
「無駄だ。貴様らはこの場で、纏めて始末させて貰う」
首筋の印から禍々しい魔力を発して、男が剣を担ぐ。
放たれた魔力の流れは、押し流さんばかりの圧をもってニールの全身を叩いた。
「今更生き残りが一人増えたところで、何の支障も無い……!」
「へぇ、見た目に似合わず大らかな性格してるな。こっちはたった一人の生き残りのせいで、いまだに晩飯にもありつけないもんだから、正直心中穏やかじゃないんだがな」
「……え?」
「何を言って……」
「『生き残り』はそっちの方だって言ってるんだよ」
「な……!?」
ニールが僅かに剣先を動かすと、鋭い何かが目の前に広がる力の激流を遡るように引き裂いて走った。
「今のは……」
イルゼは、目の前の光景に驚嘆すると同時に、改めて自分の眼識の低さに気付いた。
それはあまりにも瞬発的で、気付いた時には既に凪の後ではあったが、ニールの剣先から放たれ、力の流れを裂いて走ったのは、紛れも無く超常なるものの力の迸りであった。
「貴様……」
踏み込みの寸前で男の機先を制したニールの魔力が、男の顔に薄く残っていた余裕の色を剥ぎ取った。
「魔力は持ってても、術の類は使えないみたいだな。技量に関しちゃ、こっちの魔術師の方が数段器用だ」
「あの、ニールさん……」
「村なら無事だ。あいつらと似たような風体の奴が四、五人忍び込んできてたんで、とりあえず捕まえて簀巻きにしといた」
「いえ、そうではなく今のは……」
「悪いけど後にしてくれ。向こうもそろそろ本気だ」
「……ッ!」
先のものとは比べ物にならない圧力を受けて、イルゼの体が再び固まる。
「術士風情が利いたような口を……。魔狼の戦、その身に刻め……!」
土埃と共に、男の体が二人の眼前から消えた。
「なんて動き……」
イルゼは周囲の風の流れや、時折跳ね返る草の切れ端や土の欠片を頼りに、辛うじて男の残像を目で追おうとしたが、男の体はそれすら許さず加速を続ける。
「敵わない……」
ニールは、男の戦法を技術に乏しいと評していたが、そもそもまともな技術も伴わない剣や魔力が、魔術師相手に通用していること自体が異常なのだ。
羽虫の払い方を学ぶ獣など存在しない。
あの男の、殊更単純に力をぶつけるような戦い方は、それ自体が技量の高低では抗えない次元の戦力を持っていることの証左ではないのか。
忘れかけていた男への恐怖が、にわかにイルゼの心中に蘇った。
「なるほど、言うだけあって身体能力は完全に人間辞めてるな……」
嘆息しながらニールがつぶやく。
「ニールさん、危ない!」
土ぼこりの中、おぼろげな月明かりを反射して剣が閃く一瞬を偶然に見て取ったイルゼが、夢中の内に声を上げる。
「ん、この辺か」
「え?」
ニールの首筋に、小さく火花が散る。
文字通り目にも止まらぬ体捌きから繰り出された男の剣戟を、ニールは事も無げに受け止めていた。
「貴様、まさか今の動きが……」
「見えるわけ無いだろ」
ニールの剣が、返す刀で足を狙う。
辛うじて避けた男は、再びその俊足で夜の闇に紛れた。
「だから技術が無いって言ってるんだよ。身のこなしは狼並みでも、剣術の方はド素人の人間技だ。予備動作が大きいから、衣擦れの音で位置も太刀筋も大体読める。まぁ、狼は普通服も着なけりゃ剣も振らないしな」
軽口を叩くニールの周囲に、次々と火花がはじける。
五度、六度とすさまじい速度で急所を狙う男の打ち込みを、ニールは言葉通りに全て払いのけていた。
「ふざけるな! この俺が、魔狼の従者が人間ごときに……」
「お前らの物言いは、いつもそんなだな。もっとも、今じゃ魔術師も似たようなもんか……」
「黙れ! そのなまくらごと叩き切ってくれる!」
「力押しじゃ、意味ないって言ってるだろ……」
背後から迫る全霊の打ち込みを受け流したニールの剣が、そのまま流れるように男の首筋を払う。
「……地力に差がある相手には特にな」
「ぐ……っ!」
剣を取り落として、男の体がくず折れる。
振りぬかれたニールの剣は、男の首筋に光る文様を横一閃に切り裂いていた。
裂かれた文様から、鮮血のように魔力が噴き出し、夜空に散っていく。
「貴様……」
力と共に失われていく意識の中、辛うじて執念を残した男の右腕が、ニールの外套につかみ掛かった。
「馬……鹿な……」
男は一瞬目を見開くと、そのまま地面に倒れ伏した。
「ようやく片付いたな……」
男が動かなくなったのを確認して、ニールも剣を鞘へと収める。
「あの、ニールさん……?」
「あ、イルゼだっけ? 一応、縄か魔術でこいつ縛っといてくれ。死ぬような怪我はさせてないけど、手当ても頼む」
「いえ、それ……」
「ん? ……あ」
イルゼの震える指先を視線で辿り、ニールはやっと、先程の男の表情が何を意味していたのかに気付いた。
男に掴まれて乱れた外套の隙間、そこから覗き見えるニールの首筋には、男のものとよく似た、光を放つ文様が刻まれていた。
「手加減したつもりは無かったが……貴様も魔術師か?」
「悪いが、訳有って自分の生い立ちについては公言しないようにしてるんだよ。そもそも、他人の氏素性をどうこう言える見た目してないだろ、あんた」
ニールが眉をひそめてみせると、男は牙を向き、低いうなり声を上げた。
「ニールさん、無事だったんですね……」
死線に触れ、半ば手放しかけていた意識を何とか取り戻したイルゼが、二人の間に割って入ったニールの背に語りかける。
「日頃の行いが良いもんでね。どっちかっていうと、あんたの方が急場みたいだな」
眼前の男から視線を切らずに、ニールは肩をすくめてみせた。
「この場は俺が変わってやるよ。ここまで献身的に魔術師様の仕事を手伝ってやるからには、情状酌量の方も期待させて貰って良いんだろうな?」
「いえ……今からでも間に合います。私のことは放って、村を助けに行って下さい。あの男の手下に襲われて……」
「無駄だ。貴様らはこの場で、纏めて始末させて貰う」
首筋の印から禍々しい魔力を発して、男が剣を担ぐ。
放たれた魔力の流れは、押し流さんばかりの圧をもってニールの全身を叩いた。
「今更生き残りが一人増えたところで、何の支障も無い……!」
「へぇ、見た目に似合わず大らかな性格してるな。こっちはたった一人の生き残りのせいで、いまだに晩飯にもありつけないもんだから、正直心中穏やかじゃないんだがな」
「……え?」
「何を言って……」
「『生き残り』はそっちの方だって言ってるんだよ」
「な……!?」
ニールが僅かに剣先を動かすと、鋭い何かが目の前に広がる力の激流を遡るように引き裂いて走った。
「今のは……」
イルゼは、目の前の光景に驚嘆すると同時に、改めて自分の眼識の低さに気付いた。
それはあまりにも瞬発的で、気付いた時には既に凪の後ではあったが、ニールの剣先から放たれ、力の流れを裂いて走ったのは、紛れも無く超常なるものの力の迸りであった。
「貴様……」
踏み込みの寸前で男の機先を制したニールの魔力が、男の顔に薄く残っていた余裕の色を剥ぎ取った。
「魔力は持ってても、術の類は使えないみたいだな。技量に関しちゃ、こっちの魔術師の方が数段器用だ」
「あの、ニールさん……」
「村なら無事だ。あいつらと似たような風体の奴が四、五人忍び込んできてたんで、とりあえず捕まえて簀巻きにしといた」
「いえ、そうではなく今のは……」
「悪いけど後にしてくれ。向こうもそろそろ本気だ」
「……ッ!」
先のものとは比べ物にならない圧力を受けて、イルゼの体が再び固まる。
「術士風情が利いたような口を……。魔狼の戦、その身に刻め……!」
土埃と共に、男の体が二人の眼前から消えた。
「なんて動き……」
イルゼは周囲の風の流れや、時折跳ね返る草の切れ端や土の欠片を頼りに、辛うじて男の残像を目で追おうとしたが、男の体はそれすら許さず加速を続ける。
「敵わない……」
ニールは、男の戦法を技術に乏しいと評していたが、そもそもまともな技術も伴わない剣や魔力が、魔術師相手に通用していること自体が異常なのだ。
羽虫の払い方を学ぶ獣など存在しない。
あの男の、殊更単純に力をぶつけるような戦い方は、それ自体が技量の高低では抗えない次元の戦力を持っていることの証左ではないのか。
忘れかけていた男への恐怖が、にわかにイルゼの心中に蘇った。
「なるほど、言うだけあって身体能力は完全に人間辞めてるな……」
嘆息しながらニールがつぶやく。
「ニールさん、危ない!」
土ぼこりの中、おぼろげな月明かりを反射して剣が閃く一瞬を偶然に見て取ったイルゼが、夢中の内に声を上げる。
「ん、この辺か」
「え?」
ニールの首筋に、小さく火花が散る。
文字通り目にも止まらぬ体捌きから繰り出された男の剣戟を、ニールは事も無げに受け止めていた。
「貴様、まさか今の動きが……」
「見えるわけ無いだろ」
ニールの剣が、返す刀で足を狙う。
辛うじて避けた男は、再びその俊足で夜の闇に紛れた。
「だから技術が無いって言ってるんだよ。身のこなしは狼並みでも、剣術の方はド素人の人間技だ。予備動作が大きいから、衣擦れの音で位置も太刀筋も大体読める。まぁ、狼は普通服も着なけりゃ剣も振らないしな」
軽口を叩くニールの周囲に、次々と火花がはじける。
五度、六度とすさまじい速度で急所を狙う男の打ち込みを、ニールは言葉通りに全て払いのけていた。
「ふざけるな! この俺が、魔狼の従者が人間ごときに……」
「お前らの物言いは、いつもそんなだな。もっとも、今じゃ魔術師も似たようなもんか……」
「黙れ! そのなまくらごと叩き切ってくれる!」
「力押しじゃ、意味ないって言ってるだろ……」
背後から迫る全霊の打ち込みを受け流したニールの剣が、そのまま流れるように男の首筋を払う。
「……地力に差がある相手には特にな」
「ぐ……っ!」
剣を取り落として、男の体がくず折れる。
振りぬかれたニールの剣は、男の首筋に光る文様を横一閃に切り裂いていた。
裂かれた文様から、鮮血のように魔力が噴き出し、夜空に散っていく。
「貴様……」
力と共に失われていく意識の中、辛うじて執念を残した男の右腕が、ニールの外套につかみ掛かった。
「馬……鹿な……」
男は一瞬目を見開くと、そのまま地面に倒れ伏した。
「ようやく片付いたな……」
男が動かなくなったのを確認して、ニールも剣を鞘へと収める。
「あの、ニールさん……?」
「あ、イルゼだっけ? 一応、縄か魔術でこいつ縛っといてくれ。死ぬような怪我はさせてないけど、手当ても頼む」
「いえ、それ……」
「ん? ……あ」
イルゼの震える指先を視線で辿り、ニールはやっと、先程の男の表情が何を意味していたのかに気付いた。
男に掴まれて乱れた外套の隙間、そこから覗き見えるニールの首筋には、男のものとよく似た、光を放つ文様が刻まれていた。