宇宙の微塵となりて
1章 『慟哭は、黒』
1章 慟哭は、黒
-1-
地上9800Km
黒色の物体が5つ、編隊を組んで浮遊している
第003外気圏保安維持部隊、彼らはその定期周回任務に就いていた
「定時報告、地球外周囲に異常なし。以上」
部隊の隊長アサギは退屈していた
毎日12時間、ただ地球の周りを浮遊するのが彼の仕事である
4年間もの戦闘訓練を受け、数々の模擬戦・訓練でトップクラスの成績を残してきたが、
この任務に就いて一度も実戦がない
もう1年になる
「隊長、3時の方向。極東上空に異常飛行体発見」
2番機のハリー曹長から連絡が入る
「了解。各機エンジンに火を入れろ。偵察行動に入る」
どうせ大戦期に破壊された人工衛星の破片か、宇宙ゴミだろう
アサギは機体のカメラを動かし、その物体を目視で視認した
距離が遠く、はっきりとは分からない
だがその形状からして人工衛星の破片などではない
そして「それ」は、浮遊ではなく動力によって飛行しているように見えた
「妙だな。あの空域に航行申請は来ていないはずだ」
…戦いを忘れていた。
退屈を受け入れてしまった。
この時、なぜ即座に戦闘体勢に移行しなかったのか。
違法航行者を即座に撃滅するのが彼の任務だというのに。
青と黒の狭間で、彼らは「それ」に遭遇した
第003外気圏保安維持部隊は「良い部隊」である
隊員間の連携は完璧で、人間関係のほつれが無い
毎日任務をこなし、隊員の誰一人として問題行為を起こさない
彼らは強い絆で結ばれていた
15歳、訓練学校に入学したころから同じクラスで同じ訓練を受け、同じ飯を食べてきた
彼らが担当する空域は1年間実戦が行われなかったが、戦略的には最も重要な空域の一つである
かつて全世界に宣戦を布告し、10億もの人間を殺した国の上空なのだ
現在は世界から隔離され、あらゆる監視の下に置かれているとはいえ、その国力は敗戦した今でも凄まじい
そんな国の上空~宇宙までを監視するのが第003外気圏保安維持部隊の任務である
彼らは訓練学校で優秀な成績を修めた者の中から選抜されたエリートだ
だがそんなエリート達も、1年間の退屈は長すぎた
彼らが戦士の目を取り戻したのは「その物体」から射出されたレーザーが味方の一機を撃ち抜いた後であった
「エリス機大破!生存は絶望的です!!」
「アサギ隊長!編隊の変更命令を!」
日常から一変、突然仲間が死んだ
戦場なのだ、今自分がいるのは戦場なのだ
アサギは操縦桿を握り締める
「全機に通達。これより戦闘行動に移行する。目標は国籍未確認飛行物体!」
「物体」は、異形の形をしていた
およそ戦闘用とは思えない形状だ
両腕に両足、頭部と呼ぶべき部位が確認でき、それは「人型」と称するに抵抗が無い
「日本の新兵器だ」
アサギは困惑していた
無許可でこの空域に存在し、味方を撃墜した時点で間違いなく「人型」は敵性だ
問題はその戦闘能力が未知数なことにある
このまま戦いをしかけ全滅のリスクを背負うより、まずは帰還し報告、しかるべき戦力を揃えてから反撃するべきではないか
「隊長!エリスの仇を!」
ハリーがその怒りを飛ばす
怒りは拡散し人の無意識に侵入する
もはや第003外気圏保安維持部隊の中に、「撤退」は無くなった
「戦闘開始!」
アサギ達の駆る機体は、正式に「EED-P4 コックローチ」という
宇宙空間での最大限の戦闘能力を得るために設計された戦闘機だ
アーモンドのような弾頭型の形状に真っ黒に塗装された機体、その見た目から兵士達に「ゴキブリ」と呼ばれている
その生存能力はまさにゴキブリ並みで、機体面に施された保護膜はビーム性攻撃を全て弾く
更にはマッハ9という速度で飛行するためそもそも攻撃が「当たらない」という圧倒的な性能を持つ
はずだった
一瞬だ
一瞬で、アサギは自分の命以外の全てを失った
自分以外の機体は全て大破・消滅し、自身の機体も既にただ浮くだけの鉄屑と化した
「化け物め…ッ」
30mを超える巨体。
全身に配置された砲門から射出されるレーザーはコックローチのレーザー保護膜を無視するほどの出力だ
背に装備された飛行翼は分離・自律駆動しやはり強力なレーザーを射出する
加えてマッハ9で飛行するコックローチを捕捉する照準精度の高さ
この「人型」は世界の脅威になる
アサギは思考するまでもなく直感した
まだ試作機だ。
機体には塗装が施されておらず、データ採取用の電子ラベルがあらゆる部位に添付されている
おそらくは極秘に運用試験を行っていたところに出くわしたのだ
破壊するなら今しかない
この人型兵器は世界統一軍の主力兵器であるコックローチ5機を一瞬で殲滅した
こんなものが100機も造られれば世界を相手に戦争を起こすことなど容易い
そして、日本はそれが出来る国だ
コックローチは小型だが原子力エンジンを積んでいる
あるコードを入力すれば、核爆発を起こすことも可能だ
場所は地上10000Kmに及ぶ外気圏。地上に被害が及ぶこともない
エンジンはまだ生きている
あとは覚悟だけだ
仲間を殺された
5年近く、共に歩んできた仲間達だ
覚悟に時間は必要なかった
俺だ
俺が奴を討つ
俺がやるんだ
「奴」に俺を殺す気は無いようだ
コックローチを回収する気か…?
好都合だ
道連れにしてやる
人型がゆっくりと近づく
核爆発は限定的なものだ
可能な限り接触して爆発させる必要がある
そうとも
俺が―――
!?????
なんだ?
何が起こった?
事態に理解が追いつかない
いや、理解はしても精神がそれを拒絶している
奴は俺を、コックローチごと『手で押した』
機体が損傷し宙にただ浮遊するだけの俺を手で押したんだ
浮遊に向きが加えられた
俺達が来た方向だ
第003外気圏保安維持部隊の基地である衛星がある
恥辱と怒り
俺の20年の人生の中で、初めて体験する激しさだ
故郷ロンドンが爆撃された時も
テロで家族が殺されたときも
ここまでの怒りは感じなかった
これは戦士の感情だ
この世で
戦場にいる兵士だけが感じる感情だ
誰にも聞こえない叫び声が
宇宙に響き渡った
「貴女は自分が何をしたのか、理解できているの?ハル」
「えぇ、理解していますわお母様。敵の兵を逃がしました」
日本国北海道伊達市大滝区徳舜瞥山
決戦兵器極秘研究所
通称:決極研
所長の荊木葵衣(いばらき あおい)は憂いていた
この国が戦争に勝つために自らが主導して開発した人型兵器
その実験パイロットである娘の荊木ハルを…である
ハルは若干16歳にして葵衣に勝るとも劣らない知能を持ち、戦闘機の適性も高い
だが若さゆえか母親に反発することが多く、問題行動も今回が初めてではなかった
「この兵器の存在はまだ知られるわけにはいかない。なぜ逃がしたの?」
「勿論殺す気で撃ちました。その結果1機だけ運よく助かった。戦えなくなった者を撃つのは私の信条に反しますの」
「信条で戦争は出来ない。これは殺し合いだということを忘れないように」
軍にばれればハルは銃殺もあり得る
葵衣は研究に関わった者を口止めをするために奔走しなければならなかった
だが葵衣は悲観しない
14名の優秀な研究員を失ったが、代わりに得たデータは大きい
特に敵のコックローチ、それも精鋭5機を相手に圧倒したという事実
これは自らの進んできた道を肯定するという意味では非常に重要な実験結果だ
「荊木博士。RV-02駆動実験によるパイロットの身体に与えた影響のレポートです」
「ご苦労様。咲村くん」
咲村と呼ばれるこの研究員、荊木の右腕的存在であり彼女の信頼も厚い
今回の実験に参加した者の中で粛清を免れたのがその証拠だ
「博士。パイロットの肉体的な負担は従来の戦闘機と比較すれば微々たるものです。しかし…」
「しかし?」
「彼女はまだ16だ。人を殺すには早すぎる。やはり軍のパイロットから…」
「咲村くん」
葵衣はその白髪の混じった髪をかきあげて言った
「私がこのRV-02を開発したのは国民を守るため。ひいては娘を守るためなの」
「承知しています」
「この世で一番安全な場所はRV-02のコックピット。だから私はあの子をパイロットにしたのよ」
「狂っているよ、貴女方は」
立ち去る葵衣の背中に呟いた
決戦兵器に娘を乗せる母親
それに従い人を殺せる娘
彼女達を歪めたのは何なのか
彼には知る由も無かった
「報告は受け取った。下がっていいぞアサギ准尉」
「はっ」
「君にはこの人型について何度も聞くことになるだろう。今は体を休めたまえ」
アサギは一人、衛星基地へ帰還した
コックローチのカメラに残された映像により敵の脅威を軍は正確に認識
部隊を全滅させたことでアサギが非難されることはなかった
アサギの直属の上官にあたるハリソン中佐は「正しい判断が出来る軍人」である
彼は日本の新兵器の脅威を「より正確に」中央へ伝えた
彼にとっては世界統一軍に仕えることで世界、ひいては祖国アメリカを護ることが全てであり、そんな彼をアサギは尊敬している
だが2065年現在アサギに祖国は存在しない
アサギの祖国は開戦初期の日本軍による過密爆撃によって消滅
アサギにとっては仲間こそが全てだったのだ
その仲間を奪われた今、アサギはハリソン中佐ほどに冷静ではいられなかった
遭遇から125時間後、アサギは基地内で乱闘騒ぎを起こした
ハリソン中佐は彼の精神状態を案じ、地球オーストラリアにある軍人専用のPTSD治療施設への出向を命じた
アサギは地球への降下に成功したのである
遥か北方の島国
悪魔巣くう地獄の魔窟
現在は3000の核ミサイルと5万頭の機械化クジラによって完全包囲された孤国
彼の目には日本しか入っていなかった
荊木ハルにも乙女だった頃は存在した
小樽にある実家の部屋はピンクに染まったぬいぐるみ達の住み処だ
彼女が初めて人を殺したのは14ヶ月前
今では暗視スコープや散弾地雷、世代超越戦闘機などに興味を持つ
彼女の駆る機体、RV-02 ジュピター・ゼロはパイロットと脳波を介して接続することで自分の体を動かすかのように操れるのが強みだ
反面、それを最大限に生かすために戦闘には無駄の多い人型に設計されなければならなかった
元々は拠点防衛用の兵器として造られたが、ハル自らが提案した武装によりオールラウンドな戦場に対応できる万能機となった
その武装が全身に散りばめられた高出力レーザー(研究員達の間では無慈悲レーザーと呼ばれている)であり、その威力は先の実験で実証された
機械による照準で、飛行するミサイルを撃墜することは100年前から可能だ
だがマッハ9で空中を自在に飛び回るコックローチを撃墜することは現在でも不可能だった
だが人間による「感覚」と「超高速のレーザー」を持つジュピター・ゼロはそれを可能にしてしまう
世界統一軍主力兵器であるコックローチの「絶対に撃墜されない」という優位性は崩れた
荊木親子が崩した
世界は戦争へのカウントダウンを開始した
本当に、嫌になる
朝と夜、毎日精密検査を受ける
ジュピターがパイロットに及ぼす悪影響を調べるとか言ってるけれど…
実際はお母様が過保護なだけ
自分の体は自分が一番分かってる
ジュピターはそれこそ過保護なまでに、パイロットの安全を考えて設計されているんだから…
「咲村さん、どうせ時間の無駄なんだから…テキトーに流してよ」
「荊木博士の命令ですから」
「あぁそうですか」
本当につまらない男…
見た目は悪くないけれど、お母様とデキてるって噂があるくらいだし
ろくな男じやない
気持ち悪い
吐き気がする
ジュピターに乗っているからじやない
こんな男に
脳の中まで覗かれているからだ
現在、日本国はあらゆる手段によって隔離されている
まずは3000発の核ミサイルによる抑止力の檻
核保有国全てが核ミサイルの照準を日本に合わせているのだ
もっとも、迎撃システムの発達により核ミサイルの抑止力は近年半減しているが
次に5万頭もの機械化クジラによる海の檻
世界統一軍はクジラと機械を融合させ、魚雷で武装し有事には遠隔操作できるクジラ兵器を開発した
このクジラ達は日本周辺でのみ生息し、艦船の類いを見つけると即座に攻撃に移るよう改造されている
これにより日本の全ての船舶は粗大ごみと化した
更には300の超低空自律武装衛星による空の檻
これは日本の領空から出てきた飛行機を全て撃墜するというもので、機械化クジラと併せて日本を完全に近い状態で鎖国に追い込んだ
また全ての日本国土はあらゆる衛星によってリアルタイムに監視されている
辛うじて抜け道があるとすれば宇宙空間或いは地中か
此度の決極研による宇宙空間での実験もそんな背景がある
そしてここまで厳重に隔離されているこの国に入国することは、言うまでもなく困難だ
だがルートは存在する
政治家亡命用に造られた宗谷岬~樺太間の海底トンネル、そして統一政府の大使専用航空便だ
アサギはオーストラリアの施設を脱走し、韓国行きの便に搭乗した
開戦初期に大半の国土を焼き付くされた国だが、現在は統一政府と日本との唯一の窓口、つまり統一政府専用の空港がある
アサギにはもはや使命感しかなかった
復讐心と言い換えてもいい
あの新兵器を破壊するのは俺なのだという確信染みた狂信によって神懸かり的或いは猪突猛進的な原動力を得ているのだ
彼のあらゆる細胞は秒ごとに更新されている
アサギが復讐の鬼と化すのに
そう時間はかからなかった
アサギは語らない
彼は寡黙な男だった
容姿は悪くないものの、特別異性の目をひくものかと言われればそうでもなく20歳の今日まで異性と無縁な生活を送ってきた
訓練学校や軍にも女性はいたし、彼に少なからず好意を抱く者も存在したがアサギはそれに気付くことはなかった
アサギは優秀な戦士である
コックローチの操縦技術に限って言えば、世界統一軍でも10の指にはいる程の猛者だ
だがそれは「それしかしてこなかった」からであって、人間としてはまだまだ未熟
つまり何が言いたいのかというと、韓国へ向かう途中の機内で、美人の客室乗務員に魚か肉かと聞かれ返答に30秒を要した事実は仕方のないことだったということだ
アサギは韓国に降り立った
なにも無い
それがアサギの感想である
日本の「核爆撃」によって焦土と化したこの国の復興はほぼ進んでいない
肝心の国民が国を捨てて逃げ、終戦後も戻ってこなくなったからだ
「洗浄」によって汚染は完全に除去されたが、やはり「超帝国」の隣人として生きていくのは厳しいのだ
統一政府専用の空港はこのソウル国際空港からさらに南下して150キロの場所に存在する
まずは武器の調達だ
一人で空港を制圧し日本行きの便を出させるのだ
武装はいくらあっても足りない
ハルは飽いていた
暇を潰すことに…である
ハルはジュピターの駆動実験と前後の身体検査以外の時間全てを休養に充てられていた
母葵衣の計らいである
もっとも年頃の女の子らしさを捨てた身だ
部屋でライフルの解体や組立をやって時間を潰せないことはないが…
限界はある
研究所を抜け出しても辺りは北海道の奥地。何もない
IQ200近い天才は、その才能を無駄遣いしてることに憤慨していた
自分もジュピター開発にもっと携わりたい
だがかつてジュピターの追加武装を提案したのを最後に、機体開発から外されパイロット業に専念させられることになった
深いため息をつき、ベッドに身を投げる
ハルは暇潰しに、ある懸念について思考することにした
「あの時」
実験に割り込んできたコックローチ5機に対して、ハルは「殺すための」攻撃を行った
ジュピターのレーザーは音速の9000倍の速度で射出される
加えて人間の感覚を得たジュピターの照準性能はマッハ9で飛行するコックローチを一瞬で焼いた
ある一機を除いて…
あれはおかしい
ハルは疑念を確信する
あのコックローチの隊長機はレーザーに表面装甲を焼かれながらも致命傷は意図してかわしていた
先ほど述べたように、マッハ9のコックローチではマッハ9000の超高性能照準レーザーはかわせない
…はずなのに
もしあれをかわせるのなら
それは科学技術や確率論を超越した何かだ
敵はこちらの手の内を知らない状態であれだ
もしまたあのコックローチと相対したとき、果たしてジュピターは勝てるのか
ハルは思考する
勝てる
間違いなくそう断言できる
コックローチのあらゆる武装は、例え想定されうる最悪の場所に直撃したところで、ジュピターに致命傷は与えられない
一方でジュピターは一撃でも当てれば勝ちだ
パイロットが誰であれ、ジュピターとコックローチの戦闘はジュピターのワンサイドゲームに終わる
だが、もし
もしあの隊長機のパイロットがジュピターと同性能の機体で立ち向かって来たら…?
おそらく、勝てない
天才的なセンスを持つハルにして、あのパイロットに勝てる気がしない
なぜあのとき殺しておかなかったのか
戦えない敵は殺さないなどというきれいごとは母親への言い訳に過ぎない
ハルは思考する
答えは、出なかった
『ハルさん、至急ミーティング室へ』
名前も知らない研究員からの呼び出しで、ハルは思考を中断した
ハルを呼ぶのに、母は人を使った
…非常事態である
「なぜジュピターの完成を待てないの!?」
葵衣は激怒していた
ハルがミーティングに入るや、一瞬表情を和らげたがすぐに元の厳しい表情に戻った
「お母様、いったい何が」
「日本国政府が世界に宣戦を布告したのよ。すでに韓国へ爆撃機が発進したわ」
ハルは直感した
私のせいだ…と
ハルが敵を逃がしたことが漏れたのだ
それによりジュピターの決戦兵器としての価値が落ち、対策を講じられる前に政府は動いた
「総理からの命令よ。ジュピターは直ちに出撃。東アジア掌握に協力せよと」
「ジュピターはまだ完成してない!そんな状態で戦争しろっていうの!?」
「ハル…」
葵衣はハルの肩に手を置いた
「このままでは貴女は銃殺。命を護るためには、ジュピターで出撃し戦果を挙げて貴女の価値を認めさせなければならない」
開戦と同時に、日本は全ての低空衛星を撃墜
近場の統一政府拠点、韓国と上海に向けて爆撃機を出撃させた
日本には開戦する以外の選択肢がなかった
「明確に戦争の準備をしている」ことが露呈し、また頼りの兵器の情報まで漏れたのだ
開戦しなければ、一方的に爆撃受けて滅びるだけである
大義名分も何もない
戦うだけの戦争が、始まりを告げた
「はっ」
「君にはこの人型について何度も聞くことになるだろう。今は体を休めたまえ」
アサギは一人、衛星基地へ帰還した
コックローチのカメラに残された映像により敵の脅威を軍は正確に認識
部隊を全滅させたことでアサギが非難されることはなかった
アサギの直属の上官にあたるハリソン中佐は「正しい判断が出来る軍人」である
彼は日本の新兵器の脅威を「より正確に」中央へ伝えた
彼にとっては世界統一軍に仕えることで世界、ひいては祖国アメリカを護ることが全てであり、そんな彼をアサギは尊敬している
だが2065年現在アサギに祖国は存在しない
アサギの祖国は開戦初期の日本軍による過密爆撃によって消滅
アサギにとっては仲間こそが全てだったのだ
その仲間を奪われた今、アサギはハリソン中佐ほどに冷静ではいられなかった
遭遇から125時間後、アサギは基地内で乱闘騒ぎを起こした
ハリソン中佐は彼の精神状態を案じ、地球オーストラリアにある軍人専用のPTSD治療施設への出向を命じた
アサギは地球への降下に成功したのである
遥か北方の島国
悪魔巣くう地獄の魔窟
現在は3000の核ミサイルと5万頭の機械化クジラによって完全包囲された孤国
彼の目には日本しか入っていなかった
荊木ハルにも乙女だった頃は存在した
小樽にある実家の部屋はピンクに染まったぬいぐるみ達の住み処だ
彼女が初めて人を殺したのは14ヶ月前
今では暗視スコープや散弾地雷、世代超越戦闘機などに興味を持つ
彼女の駆る機体、RV-02 ジュピター・ゼロはパイロットと脳波を介して接続することで自分の体を動かすかのように操れるのが強みだ
反面、それを最大限に生かすために戦闘には無駄の多い人型に設計されなければならなかった
元々は拠点防衛用の兵器として造られたが、ハル自らが提案した武装によりオールラウンドな戦場に対応できる万能機となった
その武装が全身に散りばめられた高出力レーザー(研究員達の間では無慈悲レーザーと呼ばれている)であり、その威力は先の実験で実証された
機械による照準で、飛行するミサイルを撃墜することは100年前から可能だ
だがマッハ9で空中を自在に飛び回るコックローチを撃墜することは現在でも不可能だった
だが人間による「感覚」と「超高速のレーザー」を持つジュピター・ゼロはそれを可能にしてしまう
世界統一軍主力兵器であるコックローチの「絶対に撃墜されない」という優位性は崩れた
荊木親子が崩した
世界は戦争へのカウントダウンを開始した
本当に、嫌になる
朝と夜、毎日精密検査を受ける
ジュピターがパイロットに及ぼす悪影響を調べるとか言ってるけれど…
実際はお母様が過保護なだけ
自分の体は自分が一番分かってる
ジュピターはそれこそ過保護なまでに、パイロットの安全を考えて設計されているんだから…
「咲村さん、どうせ時間の無駄なんだから…テキトーに流してよ」
「荊木博士の命令ですから」
「あぁそうですか」
本当につまらない男…
見た目は悪くないけれど、お母様とデキてるって噂があるくらいだし
ろくな男じやない
気持ち悪い
吐き気がする
ジュピターに乗っているからじやない
こんな男に
脳の中まで覗かれているからだ
現在、日本国はあらゆる手段によって隔離されている
まずは3000発の核ミサイルによる抑止力の檻
核保有国全てが核ミサイルの照準を日本に合わせているのだ
もっとも、迎撃システムの発達により核ミサイルの抑止力は近年半減しているが
次に5万頭もの機械化クジラによる海の檻
世界統一軍はクジラと機械を融合させ、魚雷で武装し有事には遠隔操作できるクジラ兵器を開発した
このクジラ達は日本周辺でのみ生息し、艦船の類いを見つけると即座に攻撃に移るよう改造されている
これにより日本の全ての船舶は粗大ごみと化した
更には300の超低空自律武装衛星による空の檻
これは日本の領空から出てきた飛行機を全て撃墜するというもので、機械化クジラと併せて日本を完全に近い状態で鎖国に追い込んだ
また全ての日本国土はあらゆる衛星によってリアルタイムに監視されている
辛うじて抜け道があるとすれば宇宙空間或いは地中か
此度の決極研による宇宙空間での実験もそんな背景がある
そしてここまで厳重に隔離されているこの国に入国することは、言うまでもなく困難だ
だがルートは存在する
政治家亡命用に造られた宗谷岬~樺太間の海底トンネル、そして統一政府の大使専用航空便だ
アサギはオーストラリアの施設を脱走し、韓国行きの便に搭乗した
開戦初期に大半の国土を焼き付くされた国だが、現在は統一政府と日本との唯一の窓口、つまり統一政府専用の空港がある
アサギにはもはや使命感しかなかった
復讐心と言い換えてもいい
あの新兵器を破壊するのは俺なのだという確信染みた狂信によって神懸かり的或いは猪突猛進的な原動力を得ているのだ
彼のあらゆる細胞は秒ごとに更新されている
アサギが復讐の鬼と化すのに
そう時間はかからなかった
アサギは語らない
彼は寡黙な男だった
容姿は悪くないものの、特別異性の目をひくものかと言われればそうでもなく20歳の今日まで異性と無縁な生活を送ってきた
訓練学校や軍にも女性はいたし、彼に少なからず好意を抱く者も存在したがアサギはそれに気付くことはなかった
アサギは優秀な戦士である
コックローチの操縦技術に限って言えば、世界統一軍でも10の指にはいる程の猛者だ
だがそれは「それしかしてこなかった」からであって、人間としてはまだまだ未熟
つまり何が言いたいのかというと、韓国へ向かう途中の機内で、美人の客室乗務員に魚か肉かと聞かれ返答に30秒を要した事実は仕方のないことだったということだ
アサギは韓国に降り立った
なにも無い
それがアサギの感想である
日本の「核爆撃」によって焦土と化したこの国の復興はほぼ進んでいない
肝心の国民が国を捨てて逃げ、終戦後も戻ってこなくなったからだ
「洗浄」によって汚染は完全に除去されたが、やはり「超帝国」の隣人として生きていくのは厳しいのだ
統一政府専用の空港はこのソウル国際空港からさらに南下して150キロの場所に存在する
まずは武器の調達だ
一人で空港を制圧し日本行きの便を出させるのだ
武装はいくらあっても足りない
ハルは飽いていた
暇を潰すことに…である
ハルはジュピターの駆動実験と前後の身体検査以外の時間全てを休養に充てられていた
母葵衣の計らいである
もっとも年頃の女の子らしさを捨てた身だ
部屋でライフルの解体や組立をやって時間を潰せないことはないが…
限界はある
研究所を抜け出しても辺りは北海道の奥地。何もない
IQ200近い天才は、その才能を無駄遣いしてることに憤慨していた
自分もジュピター開発にもっと携わりたい
だがかつてジュピターの追加武装を提案したのを最後に、機体開発から外されパイロット業に専念させられることになった
深いため息をつき、ベッドに身を投げる
ハルは暇潰しに、ある懸念について思考することにした
「あの時」
実験に割り込んできたコックローチ5機に対して、ハルは「殺すための」攻撃を行った
ジュピターのレーザーは音速の9000倍の速度で射出される
加えて人間の感覚を得たジュピターの照準性能はマッハ9で飛行するコックローチを一瞬で焼いた
ある一機を除いて…
あれはおかしい
ハルは疑念を確信する
あのコックローチの隊長機はレーザーに表面装甲を焼かれながらも致命傷は意図してかわしていた
先ほど述べたように、マッハ9のコックローチではマッハ9000の超高性能照準レーザーはかわせない
…はずなのに
もしあれをかわせるのなら
それは科学技術や確率論を超越した何かだ
敵はこちらの手の内を知らない状態であれだ
もしまたあのコックローチと相対したとき、果たしてジュピターは勝てるのか
ハルは思考する
勝てる
間違いなくそう断言できる
コックローチのあらゆる武装は、例え想定されうる最悪の場所に直撃したところで、ジュピターに致命傷は与えられない
一方でジュピターは一撃でも当てれば勝ちだ
パイロットが誰であれ、ジュピターとコックローチの戦闘はジュピターのワンサイドゲームに終わる
だが、もし
もしあの隊長機のパイロットがジュピターと同性能の機体で立ち向かって来たら…?
おそらく、勝てない
天才的なセンスを持つハルにして、あのパイロットに勝てる気がしない
なぜあのとき殺しておかなかったのか
戦えない敵は殺さないなどというきれいごとは母親への言い訳に過ぎない
ハルは思考する
答えは、出なかった
『ハルさん、至急ミーティング室へ』
名前も知らない研究員からの呼び出しで、ハルは思考を中断した
ハルを呼ぶのに、母は人を使った
…非常事態である
「なぜジュピターの完成を待てないの!?」
葵衣は激怒していた
ハルがミーティングに入るや、一瞬表情を和らげたがすぐに元の厳しい表情に戻った
「お母様、いったい何が」
「日本国政府が世界に宣戦を布告したのよ。すでに韓国へ爆撃機が発進したわ」
ハルは直感した
私のせいだ…と
ハルが敵を逃がしたことが漏れたのだ
それによりジュピターの決戦兵器としての価値が落ち、対策を講じられる前に政府は動いた
「総理からの命令よ。ジュピターは直ちに出撃。東アジア掌握に協力せよと」
「ジュピターはまだ完成してない!そんな状態で戦争しろっていうの!?」
「ハル…」
葵衣はハルの肩に手を置いた
「このままでは貴女は銃殺。命を護るためには、ジュピターで出撃し戦果を挙げて貴女の価値を認めさせなければならない」
開戦と同時に、日本は全ての低空衛星を撃墜
近場の統一政府拠点、韓国と上海に向けて爆撃機を出撃させた
日本には開戦する以外の選択肢がなかった
「明確に戦争の準備をしている」ことが露呈し、また頼りの兵器の情報まで漏れたのだ
開戦しなければ、一方的に爆撃受けて滅びるだけである
大義名分も何もない
戦うだけの戦争が、始まりを告げた