Neetel Inside 文芸新都
表紙

或るバーでの奇跡
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 ファム・ファタール。
 フランス語で、運命の女、という意味だ。
 俺は22歳の時に、その女と出会ってしまった。
 抱きしめると折れそうな華奢な身体、透き通るように白い肌、見ていると吸い込まれそうになる澄んだ瞳。――いつ、どんな時でも俺が守ってやる。お前のためなら、俺の生命が尽きることさえいとわない。そう思えたただ一人の女。
 彼女は、俺の前に突然現れ、俺と深い恋に落ち、まるで夢のようなひとときを過ごし、そして突然、俺の目の前から消えた。
 いや、正確に言えば、消えたのは彼女自身じゃない。
 彼女の俺に対する気持ちが――消えた。
 なぜなのか、俺にはわからなかった。
 いまでも本当のところはわからない。
 なぜ、彼女は俺に背を向けたのだろう。
 20年前のあの日。
 あのたった1日を境にして、まるで、オセロ・ゲームの駒が裏返しになるみたいに……。

 俺の名は矢島譲二。
 職業はバーテンダー。
 横浜にある福富町という街で、「SHEEP & DOGS」という店を開いている。
 店といっても、カウンター8席と4人掛けテーブルが3つあるきりのこじんまりした代物だ。広さだって、ワンルームマンションに毛が生えたようなものだが、それでも42歳の独身男が細々と暮らしていけるくらいの実入りはある。
 客は常連が多く、景気がよくなっても爆発的に増えないかわりに、不景気になっても店が立ちいかなるほど減りもしない。
 ある意味では、安定した稼業だった。
 日々の変化もあまりない。
 このまま平凡な毎日を平凡に送って、平凡に年をとってゆく。
 それもまた、悪くないと思っていた。

 時折、客から「どうして独身なのか」と質問を受けることがある。
 店に女っ気がまったく無い上に、いままで一度も結婚した事がないというと、客は不思議そうにこう訊く。
「マスター、なんで独身なの?」
 あるいは相手が酔っ払いの場合、
「マスター、あんた、ひょっとしたらホモっ気があるんじゃないの?」
 と言われることもある。
 それに対する俺の答えはまちまちだ。
「縁が無かったんですかね」
「実は、昔ちょっといろいろとあって、女性恐怖症になりまして」
「ホモじゃありませんが、女にも興味が持てないんです。要するに、人間不信ってヤツですかね」
 要するに、どうでも良いのだ。真面目に返事をする気はさらさら無い。
 相手だって、本気で俺のプライベートを聞きたい訳じゃない。
 酔った席での座興なのだ。
「昔、結婚しようと思っていた女がいたんです。でも、逃げられましてね」
 そんな事を話して、座をしらけさせても、なんにもなりはしない。
 それが事実だったとしても。

 俺がバーテンダーとしての修行を始めたのは、20歳の頃だった。
 俺は、誰でも知っている有名な温泉地を抱える某県の出身で、18歳で高校を卒業するまで地元で過ごし、卒業するとその温泉地にある老舗のリゾートホテルに就職した。
 そのホテルは地元はもちろん、日本中にその名前を知られた有名なホテルで、創業以来100年の歴史を誇っていた。
 就職が決まった時には、周囲から「どうしてお前みたいな奴があのホテルに……」と驚かれたし、母親は合格通知のハガキを胸に抱きしめて感激のあまり泣き出した。
 ちょっとオーバーだなと思ったが、確かに成績も素行も中の上くらいの俺みたいな生徒が、従業員の質が高いことでも有名なそのホテルに入社できたのは、小さいながらある種の奇跡とでもいえる快挙だった。
 入社2年後の20歳の時に、俺はホテルのバーに配属になった。
 そのホテルはバーも有名で、ホテル同様100年の歴史を持ち、いくつかの小説や映画で舞台として登場した事もある名店だった。そこで俺のバーテンダーとしての人生が始まった。
 幸い、店の古参のスタッフも優しくて、俺にバーテンダーとしての基礎を一から教えてくれた。俺も若かったから一生懸命、先輩からの教えを吸収した。
 いま、こうして場所や店の格は違えどバーのマスターとして、まがりなりにも店を切り盛りできているのは、その当時の修行のおかげだ。
 俺はその事に感謝しているし、実際に居心地のいい職場だった。
 だから、もし、俺があんな事件さえ起こさなければ、いまでもそのホテルで働いていて、その伝統ある店でチーフバーテンダーくらいにはなれたかもしれない。
 だが、そうなならなかった。
 ある事件を起こして、ホテルに大きな迷惑をかけてしまったのだ。
 あの女に会ってしまったからだ。
 俺の運命を変える女。――白崎まりやという女に。 


 

     

それは、ある年の5月の終わり、ゴールデンウィークの喧騒が去って、ホテルの関係者がほっとひと息ついた時期の出来事だった。
 ホテルのバーの営業時間に合わせて、午後からの出勤になっていた俺は、ホテルに向かう道を歩いていて、若い女の悲鳴を聞いた。
「誰か、誰か来てください! 泥棒です!」
 その声に振り向いた俺をめがけて、若い男が走って来た。後ろを振り返りながら、手には女もののバッグを抱えていた。
 俺は反射的に足を出した。全速で走って来た男は、つまづいて前のめりに倒れた。その拍子にバッグが飛んだ。
「畜生!」
 男は鬼のような表情で俺を睨んだ。一瞬、俺も身構えたが、相手は自分の方が不利と思ったらしく、「ちっ」と舌打ちして、そのまま逃げた。
 俺はその場に残って、落ちたバッグを拾ってやった。落ちた衝撃でバッグの口が開き、中身が路上に散らばっていた。それらをバッグの中に戻し終わった時、白いワンピースを着た若い女がそこに立っていた。悲鳴の主だと、すぐにわかった。
「ありがとうございます」
 息を弾ませながら、女は言った。
「大丈夫ですか?」
「歩いていて、突然後ろからバッグをひったくられたんです。ひどい…」
「でも、身体に怪我がなくてよかったですよ」
 俺は、中身を戻し終わったバッグを彼女に手渡しながら言った。
 あらためて見ると、彼女の服装もバッグも、派手ではないが一流のブランド品だった。
 いいところのお嬢さんなんだなと思った。
 清楚な白いワンピースがよく似合っている。
 いまは上気しているせいで朱く染まっているが、透き通るような白い肌が美しかった。そして、なによりその瞳が――吸い込まれそうな純粋な瞳が、まっすぐに俺を見ていて、思わず俺の心臓が大きく脈打ちはじめた。
「私、白崎まりやといいます。あらためてお礼をさせていただかないと」
「いや、そんなことはいいんです。何事もなければ、それで充分なんですから」
「でも、それでは私の気持ちが……」
「本当に、いいんです」
「私、家族でこの先のホテルに泊まっているんです」
「え?」
「どうかしましたか?」
「いや、俺はそのホテルの従業員なんですよ。ホテルのバーで働いています」
「まあ」
 白崎まりやの顔が輝いた。「じゃあ、ホテルでまたお会いできますね?」
「そんな……。お客様と個人的に会うような事は、規則で禁止されてますから」
 俺は、自分からまりやを誘いたい衝動を無理に抑えながら、一礼した。
「それじゃ、これで。仕事に遅れますから」
 そうして俺は、逃げるようにその場を去った。

 職場に着き、開店の準備に追われながらも、俺はまりやの事ばかり考えていた。
 彼女の中には、良家のお嬢様らしい気品と、まっすぐな芯の強さが同居しているようだった。
 そうでなかったら、ひったくり犯を自分で追いかけるような危ない真似はしない筈だ。
 俺は、休憩時間にちょっと抜け出し、同期の客室係をつかまえて、白崎家の事を聞いてみた。すると、白崎家は先代からのこのホテルの常連客だという事がわかった。
 まりやの父は50歳代で、先代から引き継いだいくつかの会社を経営し、株や不動産も所有する富豪だという。また、まりやの母は、旧華族の家柄を誇る名門の出身らしい。
 まりやは白崎家の一人娘で、兄弟姉妹はいない。 現在は、お嬢様学校として有名な、東京の名門女子大に在学中。
 家族は、ワンシーズンに1回は、3人そろってこのホテルに来て宿泊していると、同期の客室係は教えてくれた。
「そうか……。知らなかったな」
「白崎さんはアルコールを飲まないからな。バーには縁が無い」
「家族の誰もアルコールが駄目なのか?」
「奥様も飲まない。まりやさんはまだ未成年だからな」
 まりやはまだ十代だったのか、と俺は内心で驚いた。
 容姿は確かに若かった。しかし、実年齢よりは大人に見える物腰だった。
「白崎さんがどうかしたのか?」
「なんでもない。さっきちょっとその娘さんに道を聞かれたんだ」
 と、嘘を言って誤魔化した。

 その夜のことだった。
 俺のいるホテルのバーに、突然、一人で白崎まりやが現れた。
 俺はカウンターの中にいた。
 彼女は案内される前に自分で席を選び、驚いている俺の目の前に腰を下した。
 まりやは、昼間会った時とは違う、肩のあいたワインカラーのカジュアルドレスを着ていた。人工的なダウンライトの光の中で、白い肌と紅いドレスが美しくマッチして、より一層彼女を大人に見せていた。
「昼間はありがとうございました」
 カウンター越しに、俺に向かって頭を下げた。「バーで働いていらっしゃるって伺ったので」
「わざわざそんな……」
「それに、お酒も飲みたかったので」
「お嬢さん、まだ未成年なんでしょう?」
 まりやは、悪戯っぽくくすっと笑って、手にしたバッグから何か取り出した。
 よく見ると、それは運転免許証の入ったパスケースだった。
「ちょうど昨日が誕生日だったんです。20歳の」
 そう言われてみると、免許証の生年月日は、確かに彼女が昨日で満20歳になった事を示していた。
 意外といえば意外な展開に、反応がついていかなかった。
「それは……おめでとうございます」
「ありがとう。ひとつ、プレゼントして欲しいものがあるんですけど、聞いてもらえますか」
「なんですか?」
「オリジナルのカクテルを作ってください。私だけの特別のカクテルを」
 まりやは俺を見つめて、悪戯っぽく笑っている。
 俺は、少しの間考えて、バカルディのラムとオレンジリキュールをベースにした1杯のカクテルを作った。
 背の高いグラスに注ぎ、アクセントにホイップクリームを乗せ、オレンジピールとミントの葉を添えた。
「どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
 一口飲んで、まりやは女神のように微笑んだ。
「おいしい。私、生まれて初めてのお酒なんです、本当に」
「気に入っていただけましたか」
「ええ。このカクテル、何という名前なんですか?」
「今、初めて造ったオリジナルですから、名前はないです。でも、名前を付けるとしたら……」
 俺はそこで言葉を切った。心臓がどきどきした。カクテルの名前は、俺の中ではすでに決まっていた。俺は思い切ってその名前を口にした。
「カクテルの名前は『まりや』です。――お誕生日、おめでとう」

     

 こうして、俺たちは付き合うようになった。
 まりやが家族と一緒にホテルに滞在している時は、俺の休憩時間や非番の日を選んで2人で会った。もっとも、まりやの家族やホテルの人の目があるので、あまりおおっぴらには会えなかったが……。
 むしろ、まりやが東京・世田谷の家に帰っている時の方が会いやすかった。
 俺が休みの日に、東京まで出ていってデートした。
 さらに足を伸ばして、ディズニーランドや横浜・鎌倉へ行った事も何度かあった。
 ただし、彼女の家の門限が厳しかったため、どんなに遠出しても、その日の夜10時までには、まりやを自宅まで送り届けなければならなかった。
 20歳を超えた娘に、夜10時の門限というのは、いくらなんでも厳しすぎると思うのだが、彼女の父親は頑として門限を遅くしてほしいという娘の希望を撥ね付けているという。
 会えない時には、彼女から時折手紙が来た。
 俺の方からは、手紙も電話も遠慮した。(断っておくが、パソコンのメールや携帯電話が今ほど普及していない頃の話だ。)
 まりやの父親は、娘のところに来た手紙も必ずチェックしているのだという。男から電話があっても絶対に取り次いでもらえないし、相手について詰問されるだろうというのが彼女の話だった。
 そんな高校生みたいな付き合いでも、俺は充分に幸せだった。
 時間に追われるシンデレラ・デートのもどかしさはあったが、会っている時は本当に時間を忘れるほど幸福感を感じた。
 時折、俺とまりやでは住む世界が違うのではないかという不安に襲われたが、今はそんな時代じゃないと自分に言い聞かせた。
 俺といる時のまりやは楽しそうだった。
 最初の時、自分からバーに姿を見せたことでもわかる通り、むしろまりやの方が交際に積極的に思えた。
 付き合い始めて、ちょうど1年後。
 まりやが21歳の誕生日を迎えようとする頃、俺は思い切ってまりやに提案した。
「1周年を祝って、1日デートした後、東京のホテルに一泊しないか?」
 ちょっと考えて、まりやはYESと言った。
 俺は内心、躍り上がって喜んだ。
 このシチュエーションで喜ばない男はいないだろう。
 まりやは、仲の好い女友達の一人に協力を頼み、当日はその娘の家に泊まりに行くという事にしてもらった。いわゆるアリバイ作りというやつだ。
 俺も職場に休暇届を出した。繁忙期ではないので、わりとスムーズに休暇が取れた。
 都内の高級シティ・ホテルの部屋と、ミシュランで星を取った有名レストランに予約を入れた。
 世田谷に住んでいるまりやには、都内のホテルやレストランなど珍しくないだろうが、俺は完全なお登りさんなので、頭の中で何度も当日の行動をシュミレーションした。
 そして、ついにその日が来た。
 最高のデートだった。
 おそらく、あの日が俺の人生の中で、最も輝いた一日だったろうと思う。
 レストランからホテルに戻り、2人で窓から見える東京の夜景に酔った。
 俺たちの泊まったスウィートルームの窓からは、ライトアップされた東京タワーと、イルミネーションのような光の海が、手に取るように見えた。
 どちらからともなく、俺とまりやの唇が重なった。
 まりやの唇は、上気して熱かった。
 俺はまりやの肩を抱き、ベッドの方に向かって移動した。
 まりやは、熱っぽくうるむような瞳で俺を見つめ、小さな声で
「好き」と言った。

 真夜中に、目が醒めた。
 枕元のデジタル時計は、淡い光で今が午前2時18分である事を告げている。
 ベッドには、俺の隣で薄明りの中、まりやがすやすやと眠っていた。
 赤ん坊みたいに無垢な寝顔だった。
 俺は、異常に喉が渇いていた。
 レストランで飲みすぎたのと、ホテルの空調のせいだろう。
 俺は、まりやを起こさないように注意しながら、そっとベッドを抜け出した。
 服を身に着け、部屋のカードキイをポケットに入れ、靴を履いた。
 カードキイは2枚あるし、部屋の内側からドアを開ける場合はキーが要らないので、 1枚持って出ても、まりやは困らない筈だった。
 俺は、ホテルの外へ出て、コンビニか自動販売機で飲み物を買ってこようと思ったのだ。
 もちろん、部屋の冷蔵庫を開ければ飲み物は調達できるわけだが、値段が高い。
 数百円の差であるとはいえ、この辺が俺の貧乏性なところだった。
 山奥のリゾートホテルなら知らず、東京の中心部にあるホテルである。
 少し歩けば、コンビニでも自動販売機でもすぐに見つかるだろう。そう思った。
 俺はそっと部屋を出た。
 案の定、ホテルを出て10分も歩かないうちに、コンビニが見つかった。
 俺は、ミネラルウォーターを3本買い、1本をその場で飲み干した。
 後の2本は、朝、目を醒ましてから俺とまりやが飲むための物だ。
 それから少しの時間、雑誌を立ち読みした。
 別に理由はない。ただ、なんとなくすぐに部屋に帰りたくなかったのだ。
 あるいは、俺は照れていたのかもしれない。
 雑誌を読んで、昂った気持ちを静めようと思ったのかもしれない。
 その時、起こりつつあった悲劇に、俺は全然気付いていなかった。
 15分ほども立ち読みしていただろうか。
 俺は雑誌をラックに戻し、500ミリのペットボトル2本が入ったコンビニの袋をさげて、ホテルに向かって歩き始めた。
 その時、突然、後ろからサイレンの音が聞こえてきた。
 通りを行く車が、慌てて車線を変更し、スペースを空けた。
 そこを猛スピードで通過していく消防車。
 どこかで火事らしい。
 消防車の赤い車両が、ドップラー効果を伴ったサイレン音とともに走り去った後、俺は漠然と考えていた。
 この真夜中に焼け出されるなんて、大変だな。しかし、いずれにしろ、俺とは特に関係のない話だ。
 さらに後続の緊急車両が、けたたましいサイレン音とともに、俺を追い越していった。今度は消防車と救急車だ。
 かなり大きな火事だ。そう考えた時、俺の内面に、ふと、不安が芽生えた。
 まさか、とは思うが――。俺の足は意識せずに速度をはやめた。
 ホテルの近くまで戻って来た時には、完全に速足になり、息が切れていた。
 もうその頃になると、俺の悪い予感が的中したことが明らかになっていた。
 集まった野次馬たちと、放水する消防車の一団。それらに囲まれて煙を上げているのは、俺達の泊まっているホテルだった。
 下からだとよく分らないが、俺とまりやが泊まっている部屋のあたりは、火元に近かったらしく、すでに黒い煙に包まれていた。
 ときおり、煙に混じって炎が上がっているのが見える。
 あたりには、化学製品が燃える時の嫌な臭気が漂っていた。
 都心の繁華街のホテルの火災で、こんな深夜でも野次馬が多い。俺はそいつらをかきわけ、ホテルに向けて駆けだした。
 銀色の消防服に身を包んだ消防士が止めようとしたが、俺はそれを振り切った。
 すでに人気のないホテルのロビー。俺は階段を一気に駆けあがった。
 1階から2階、3階……。
 俺たちの部屋は5階。3階あたりから、煙がキツくなる。
 スプリンクラーが作動しているらしく、ホテルの廊下は水びたしになっている。
 5階までたどり着いた。
 煙だけでなく、炎が襲ってくる。顔の表面が熱風を受け、眉毛と産毛が、ちりちりと音をたてて焦げた。
「君、危ない! 行っちゃダメだ」
 5階のフロアで消防作業に当たっていた消防士が、俺の姿を見て飛びついてきた。
 羽交い絞めにして、俺を避難させようとする。
 目の前にまりやのいる部屋がある。俺はもがいた。
 それとも、もうまりやは避難しただろうか。そう思いたい。しかし、万一、ということがある。下の野次馬たちの中に、まりやの姿はなかったと思う。
 もしかしたら。――俺はたまらない気持ちだった。
 とにかく、あの部屋のドアを開けてみなければ。
「離れなさい、君まで巻き込まれるぞ!」
 消防士がそう叫んだ瞬間、俺たちの泊まっていたスウィートルームのドアが、大音響とともに吹き飛んだ。
 部屋の中から、爆風とともに鮮やかなオレンジ色をした炎が噴出した。
 密閉された室内の空気が、火事の熱で膨張し、ついに窓ガラスが割れた。その結果、新鮮な空気が外部から流入し、それに反応した室内の炎が一気に勢いを増して、噴き上がったのだ。
 バックドラフト。――あまりの激しさと絶望感で、俺の身体からすべての力が抜けていった。
 俺は消防士に抱えられたまま、気を失った。


     

 翌日、病院のベッドで目を醒ました俺は、真っ先にまりやの消息を尋ねた。
 だが、医者も看護婦も、他の宿泊客の情報を知らないと言った。
 とにかく、怪我人を救急車で空いている病院に運ぶのが精いっぱいで、誰がどこの病院にいるのか、わかる人間はいないだろうという話だった。
「とにかく、もう少し状況が落ち着かないと、何もわからないんだ」
 俺の担当医師はそう言った。
 俺は、病室でいらいらしながらテレビのニュースをチェックした。
 どうやら、今回の火事では3人が逃げ遅れて亡くなったようだった。
 怪我人は、煙を吸って呼吸困難になった人などを含めて70名。
 3人の死亡者は、いずれも高齢者だという報道に、不謹慎なことだが、俺はほっとした。
 他に行方不明者がいるという報道はない。どうやらまりやは無事らしい、と俺は思った。
 だとしたら、どこか他の病院に搬送されたのだろうか。
 あの部屋の状況から考えて、その可能性が高いと思った。もし、無傷なら、まりやの方で俺を探してこの病院に現れてもいい筈だ。それが無いということは……。
 俺は、他の病院に運ばれた怪我人の名前を教えてほしい、と医者に言った。
 医者は、それはここではわからない、と言った。
「じゃあ、どこに聞けばいいんですか」
「警察か、消防ですかね」
「白崎まりやという女性なんです」
「あなたのお身内の方ですか?」
「いえ……でも、俺の連れなんです」
「それを証明できますか?」
「証明?」
「ご家族ならともかく、ただの知り合いでは、難しいかもしれません。プライバシーの問題がありますからね」
 そんな馬鹿な。俺は思った。
「じゃあ、どうすればいいんです?」
「その方のご家族に問い合わせてみればいかがですか。一緒に旅行するほどの間柄であれば、教えてもらえる筈ですよ」
 俺は絶望的になった。白崎家に問い合わせるなんてできる筈がない。
 俺は無理を言って、その日の夜に退院手続きを取ってもらった。
 とりあえず、自分の家に戻ることにした。
 怪我をしていたとしても、無事なのであれば、いずれまりやの方から連絡があるだろう。
 職場には、事情を話してもう1日、休みを取った。もちろん、ホテルでまりやと一緒だった事は言っていない。都心のシティホテルの火災は、俺の職場でも話題になっていて、上司は俺の不運に同情してくれた。
 俺は待った。――まりやからの連絡を。
 だが、俺が職場に復帰して、1日たち、2日たっても、まりやから電話や手紙は来なかった。
 5日が過ぎ、1週間が過ぎた。
 それでもまりやからの連絡は無かった。
 もしかしたら――と、俺は思った。俺との事がバレたのだろうか。
 それで、外部との連絡が取れなくなっているのではないか。
 俺の不安は、さらに広がった。
 いや――ひょっとしたら、俺が思っているよりまりやは重傷なのかもしれない。
 報道では、亡くなった3人の他に、命に拘わるような重傷者はいないと言っている。
 だが、命に拘わらなくても重大な怪我というのは考えられる。
 たとえば、顔にひどい火傷を負ったのだとしたら?
 俺は、ホテルで体験したバックドラフトの熱を思い出した。
 もし、あの熱をまりやが浴びたのだとしたら?
 俺は自問した。
 もし、――もし、まりやが顔にひどい火傷を負って、その傷が一生残るとしたら、それでも俺はまりやを愛せるだろうか?
 俺は、じっと考えて、結論を出した。
 YESだ。なにがあったとしても、俺はまりやを一生守ってみせる。

 事故から10日たった休みの日、俺は意を決して、まりやの自宅近くまで行ってみることにした。
 場所は、以前、何度か近くまで送ったことがあるので、だいたいの見当がついた。
 近くまで行って、「白崎という家を探している」というと、通りすがりの主婦は、「ああ、あのお屋敷ね」と行き方を教えてくれた。
 どうやら、このあたりでは「白崎のお屋敷」で通っているらしい。
 近くまで行くと、それはまさにお屋敷の名にふさわしい豪邸だった。
 低い塀にかこまれた敷地は広大で、庭木がうっそうと繁っている様子は小さな森のようだった。
 その森の向こうに、外壁がチョコレート色の瀟洒な建物が建っている。
 通りからは、かろうじて建物の最上階の部屋の窓が見える。
 その建物の向こうにも白崎家の敷地は広がっているのだった。
 俺は、通りの建物が見える場所に佇んで、じっと待った。
 直接訪ねても、門前払いを食わされるだけだろう。
 それより、まりやがひょっこり門から出てきたりはしないかと期待したのだ。
 あるいは、通りから見える建物の最上階の部屋に、まりやの姿が現れるんじゃないかと。
 俺はじっと待った。
 午前中から、昼飯も食わないで、じっと待ち続けた。
 幸い、このあたりは高級住宅地で人通りは少ない。不審者として見咎められる事もなかった。
 やがて日が傾き始めた。立ちっぱなしなので、足が痺れてきた。
 近くの防犯灯に、明かりがともり始めた。
 俺があきらめかけた時、白崎邸の部屋の中に動く影があった。
 ほの暗い部屋の中に、白っぽい影がうごいた。それから窓を開ける人の姿。
 ――まりやだ!
 それは、まぎれもなくまりやだった。
 その顔は、以前のまま。特に怪我をしたり、火傷をしているような気配はない。
 俺はほっとした。そして、無我夢中でまりやに合図を送った。
 馬鹿みたいに手足を振り回し、飛び上がって――。
 まりあの顔が、周囲を見渡すように動いた。
 そして、奇跡的に俺と目が合った。俺はここぞとばかりに手を振った。
 ところが。
 まりやは、俺に気が付かなかったというように窓を閉めた。人影は、部屋の奥に消えた。
 どういうことだ? 確かに目が合ったのに。いや、気が付かなかったのか? 畜生!
 もう一度、まりやが姿を見せないだろうか。
 だが、屋敷の中の動きはぱったりと止まった。
 俺がぐったりと肩を落としかけた時、今度は、別の方角から気配があった。
 広大な敷地を囲む塀の一部が、屋敷のガレージになっているらしかった。
 いま、そのガレージの金属製の扉が開き、中から1台のメルセデスが動き出した。
 こっちに向かってくる。
 俺ははっとして車の中を見た。運転席に見覚えのある顔。何度か俺の勤めるホテルで見た事のある、まりやの父親だ。自分でメルセデスのハンドルを握っている。
 その後部シートに、まりやと母親の姿。
 まりやは笑っている。母親も、それに応えて笑みを見せる。
 車は、思いがけず、俺のすぐ脇を通った。
 俺は後部シートを凝視した。今度は確かにまりやと目が合った!
 それも、すぐ近い距離で! 
 メルセデスがゆっくりと俺の目の前を過ぎていく。
 そのガラス窓の向こうにまりやの顔。
 だが――まりやはなんの変化も見せなかった。
 驚いた顔すらしなかった。まるで石ころでも見るような視線で俺を見て、また母親に何か言って笑った。
 なぜだ! 俺は、大袈裟でなく、世界の崩れる音がしたと思った。
 メルセデスは、夕暮れの街にテールランプを光らせて、俺の視界から消えた。
 後に、俺の抜け殻だけが残った。

 なぜ、まりやは俺を無視したのか。
 俺は、なるべく自分が傷付かない理由を考えてみた。
 火事のショックで記憶喪失になったんじゃないか。
 そんな突飛な理由まで考えてみた。しかし、少なくともまりやは母親とは普通に会話しているようだった。あの笑顔は、明らかに家族に向けた笑顔に見えた。母親のことを憶えている以上、記憶喪失ではあり得ない。
 他に考えられる唯一の解釈は、まりやが俺に見棄てられたと考えたのではないか、という事だ。
 真夜中、火事の警報で、まりやは目醒めた。隣にいる筈の俺の姿を探したが、俺はいなかった。
 実際には、火事が起こる前にコンビニに出かけたからだが、まりやには分らない。
 まりやは、自分を見棄てて俺が自分だけ逃げたと思った。
 救いのない誤解だった。しかし、あり得ない話じゃない。
 誤解だ!と、俺は叫びたかった。いや、とにかくまりやに会って説明したかった。
 だが、現実的にそれは無理な話だった。
 手紙や電話は、取り次いで貰えないだろう。
 直接会って話そうとしても、いまの状況ではその機会さえ作るのは難しい。
 それに、あの時のまりやの視線――まるで、道端の石ころを見るようなあの視線を思い出すと、何を言っても無駄だという気がした。
 まだ、憎しみや軽蔑の表情を浮かべてくれた方がマシだった。
 そのほうが、まだしも俺の気持ちは救われただろう。
 その夜、俺は自宅に戻ったが、一睡もできなかった。
 翌朝、俺は、まりやから来た手紙の束を、1通残らず燃やして灰にした。
 
 それから暫くして、俺は上司の呼び出しを受けた。
 上司は難しい顔をして、俺がホテル火災にあった時に誰と泊まっていたのかと訊いた。
 俺が答えられないで黙っていると、上司は言った。
「じつは、お客様からクレームが来ている。うちのホテルにとって、大変大事なお客様だ。そのお客さまの娘さんと、君が、火事の時、ホテルの一緒の部屋に泊まっていたというんだ。お客様は、大変怒っていらっしゃる。当然だがね。お客様と従業員が個人的な交際をするのが固く禁じられている事は、君も承知している筈だ。残念だが、事実だとしたら、君を解雇せざるを得ない」
 こうして、俺はそのホテルをクビになった。
 運命の女――ファム・ファタールも、俺の前から消えた。

     

 それから20年の歳月が流れた。
 それなりにいろいろあって、俺は横浜で「SHEEP & DOGS」というバーのオーナー兼マスターになった。
 ちっぽけな店だが、そこそこ常連客もつき、経営も安定してきた。
 このまま平凡に毎日を過ごし、齢をとっていくのも悪くない、そう思えるようになってきた。そんなある日。

 その日、俺はいつものように買い出しを済ませ、昼過ぎに「SHEEP & DOGS」に着いた。
 ありあわせの材料で自分用の昼食を作り、それを食べ終わってから、夕方からの営業に向けて仕込みにかかる。
 バーとはいえ、簡単なつまみや軽食もメニューに入っているので、そのための仕込みが必要なのだ。
 それは、ここ十数年、変わらない日課になっているパターンだった。
 俺が、サラダ用のオニオンをスライスしていた時、突然、店の扉が開く音がした。
 誰だろう? と、俺は思った。
 出入りの業者だったら、店に入る前に名乗る筈だし、店の扉には「CLOSED」のプレートがかかっているので、客というのも考え難かった。
 俺は入口の方に目をやった。
 入って来たのは、白いワンピースを着た若い女だった。
 何かを探すみたいに、店内を見回している。
 どうやら、客が間違えて入って来たらしい。あるいは、ランチでもやっていると思われたのだろうか。
「すみません、お客さん、まだ開店前なんですが――」
 女が、俺の声に反応してこちらを見た。
 あらためて、入って来た女の顔を見た俺は、はっとした。
 白崎まりや――。
 それは、白崎まりやだった。
 20年前、俺の前に姿を現した時と、ほとんど変わらない容姿のまりやが、そこにいた。
 俺は茫然とし、それから大きく首を振って目を閉じた。
 そんな筈はなかった。あれから20年経っているのだ。もし、目の前にいる女が本当にまりやだとしても、あれから20歳は年齢を重ねている筈だ。
 だが、目の前にいる女はどう見ても20歳そこそこの若さだ。
 引ったくりに遭って俺のところに助けを求めに来た、あの時のまりやそのままの容姿なのだ。ありえない。この女は、まりやじゃない。
 俺は、大きく息を吸って、目を開いた。
 もう一度、女の顔を見る。――しかし、似ている。俺の記憶の中にいる、まりやそのものだ。いったい、どうして――。
「矢島譲二さんですね?」女は言った。
「そうですが……あなたは?」
「私、白崎ゆづるといいます」
「白崎ゆづる……?」
「白崎まりやという女性をご存じですね?――私の母です」
「母?」
 俺の中で、ゆっくりと疑問がとけていった。目の前にいるのは、まりやの娘なのだ。
 それならば、若い頃のまりやとそっくりなのも頷ける。
 ゆづるは、顔立ちはもちろん、身長や髪型も驚くほどまりやと瓜二つだ。
 じっと見られていると、妙な錯覚に陥ってしまう。
 自分がふいに20年前にタイムスリップしたかのような錯覚に。
 それにしても、どうして突然、この娘は俺の店に現れたのだろうか。
 偶然ではあり得ない。俺の名前を知っている以上、俺と母親についても知っていてここを訪ねて来たに違いない。しかし、20年前にいっとき母親が付き合っていた男の前に現れて、いまさら何の用があるというのだろうか。
「探しました。母からあなたの話を聞いて、ずっと探していたんです。やっと見つけた」
 ゆづるはにっこりと笑った。
「確かに、俺は昔、あなたのお母さんと恋愛していた事がある。でも、もう20年も昔、それこそ、あなたが生まれる前の話だ。今さら俺の居所を探して、どうしようっていうんです?」
「誤解をときたいと思って」
「誤解?」
「矢島さんは、母があなたを棄てたと思っていらっしゃるんじゃないかと」
「棄てた、というのは人聞きが悪いな。でも、確かにお母さんに嫌われたんじゃないかとは思っていた。ある事件がきっかけでね」
「ホテルの火災事故――ですね」
「よく知ってるね。その通りだ」
「それが誤解なんです」
「どういう事だ?」
「母は矢島さんを嫌いになった訳じゃない。むしろ、ずっと愛していたんです」
 俺は苦笑した。ゆづるの言っていることが、支離滅裂に思えた。
「そんな事はないだろう。現に、俺と別れたあと、まりやさんは結婚した。俺ではない、誰か別の男とね。それであなたが生まれた訳だ。ずっと愛していたと言われても……」
「母は結婚してません。だから、私の姓も白崎なんです」
「……」
 それはちょっと意外だった。姓が変わっていないのは、おそらく、白崎家が婿養子を取ったせいだと思っていたのだ。
 そうではなく、まりやはいわゆるシングルマザーだったというのか。
 だが、俺は20年前、白崎邸でまりやとすれ違っている。
 あの時の、まるで無機物を見るようなまりやの冷たい目を、俺は今でも忘れていない。
 そう言うと、ゆづるは大きく首を振った。
「違います。矢島さんは間違っています」
「間違っている?」
「母は、あの時の火事が原因で、両目の視力を失ってしまったんです。だから、矢島さん、あなたの事を無視したんじゃない、母にはあなたが見えなかったんです」
「見えなかった――?」
 一瞬、電撃のようなショックが俺の全身を駆け抜けていった。
 そうか! そうだったのか!
 あの時のまりやの目。
 窓から外を眺めているように見えたあの時の目。
 車のウィンドウ越しに目が合ったと確信したあの時の目。
 あの時のまりやの目には、何も映っていなかったという事なのか……!
 ゆづるはそれから、母から聞いた話だと断って、当時の状況を話し始めた。
 火事で視力を失ってしまったまりやは、家に閉じこもらざるを得なくなった。
 それと同時に、俺と外泊していたという事実が明るみに出て、それがまりやの父の逆鱗に触れた。
 当面の間、まりやは外部の人間との接触を禁じられ、電話も手紙も取り次いで貰えなくなった。まりやは、なんとか自分から俺に連絡を取りたいと思ったが、目の事もあり、それも不可能な状況だった。また、まりやの父の苦情で俺がホテルをクビになったので、ホテルを通じて俺に連絡を取ることもできなくなった。
 失明したまりやが、なんとか自分ひとりで身の回りの事がこなせるようになった頃には、俺の居場所はまったくわからなくなっていた。
 まりやは、俺を探すことをあきらめざるを得なくなったが、俺を思う気持ちは変わらなかった。ずっとその思いを秘めてきたまりやが、自分の気持ちを一人娘のゆづるに打ち明けたのは、ちょうど今から1年前のことだった。
 その時、すでにまりやの父は亡くなっており、母親だけが残っていた。
 まりやの母は、父よりは娘の恋愛に理解があった。
 そのためもあったのだろう、まりやはゆづるに、自分がその生涯にただ一人だけ愛した男の事を打ち明けた。――俺の事を。
 ゆづるは、それからあらゆる方法を使って俺の居所を探し出した。そして、ついに今日、俺との対面を果たしたのだった。
「それじゃあ、まりやさんは今も元気なんだね?」
「母は、いま店の外で待っています」
「なんだって?」
「ママ、もういいわよ、入ってきて!」
 ゆづるが呼ぶと、店の扉がゆっくりと開いた。
 入口からの光が逆光になって、一人の女性のシルエットを浮かびあがらせた。
 人影が店の中に入って来た。手探りで、後ろ手に扉を閉める。
 女性の表情が、店内の照明を受けて浮かび上がった。
 一瞬、店内が、ふわっと明るくなったような気がした。
 20年前と比べると、少しふっくらとしただろうか。
 しかし、気品のある顔だちと、抜けるように白い肌の色はあの頃と変わらない。
 間違いない。白崎まりやだ。
 俺が、20年以上に渡って片時も忘れた事が無かった女だ。
 まりやは、白杖を手に、ゆっくりとした足取りで店に入って来た。
 ゆづるが迎えに行くようにして寄り添い、慈しむように肩を抱いてカウンターの席に座らせた。
「お久しぶりです」
 まりやは笑った。
 それもまた、20年前と同じ笑顔だった。
 俺は、なんと返事していいのか、わからなかった。
「……元気そうで、なにより」
 我ながら、間の抜けたセリフだと思った。
「譲二さんも、変わってないみたいね、声でわかる」
 本当なら、20年前の誤解を詫びなければならない筈だった。
 俺が、諦めずにどうにかして連絡を取るべきだったのだ。
 まりやの事を最後まで信じてやるべきだったのだ。
「すまない……」
 それ以上は言葉にならなかった。
 まりやは微笑んだ。
 まりやは、すべてわかったうえでこの店にやって来たのだ。この俺を探して。
 俺は声が震えそうになるのを抑えて、思い切って言った。
「こうしていると、昔と何も変わらない気がする。君はいろいろ大変な思いをしてきたと思うけど」
「ううん。私も、譲二さんの声を聞いてるだけで、昔に戻ったような気持になるわ」
「……できる事なら、あの頃に戻りたい」
「戻れるわよ、だって、私はそのために来たんだもの」
「戻れる――本当に?」
「もちろん。今度は、親子3人でね」
「親子?」
「いやだ、気が付いていなかったの? 私、結婚していないって言ったでしょう。ゆづるはあなたの子供。ゆづるの名前は、あなたの名前から一字を貰ったのよ」
 まりやがカウンターの上に、指でなぞるようにして文字を書いた。
 譲二の譲という字。「ゆづる」という名前。
 俺はゆづるの顔をまじまじと見つめた。
 ゆづるは黙って笑っている。
 ゆづるの、俺に向けるその笑顔が、さっきまでとは全然違って見えた。
 20年前の、ホテルでの一夜が思い出された。
 ゆづるはあの時の子供なのか。
 俺の娘……。
 俺の身体の奥から、なにか熱いものがこみ上げてきた。
 自分でも思っていなかった感覚を持て余し、俺はそっと目を閉じ、天井を仰いだ。
「お願いがあるの」 まりやが言い、俺ははっとして視線を戻した。
「お願い?」
「カクテルを作っていただきたいの。あの時のカクテルを」
 言わなくても、まりやが何を求めているのかは、すぐにわかった。
 俺たちが初めて知り合った晩に、俺が即興で作ったカクテル。
 まりや、と俺が名を付けた――。
「ママ、『あのカクテル』って、何?」
 ゆづるが、興味津々といった表情で尋ねた。
 まりやは、悪戯っぽい笑顔で答えた。
「魔法のお薬。時間を20年巻き戻すためのね」
「――かしこまりました」
 俺は、わざと少し気取った口ぶりで答え、背後の棚にある酒瓶に手を伸ばした。
 カクテルを作りながら、俺は20年という凍結した時間が、ゆっくりと溶け出していくような感覚に捕らわれていた。
 都会の片隅にある小さなバーに、暖かな気配が満ちていった。(了)

       

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