Neetel Inside 文芸新都
表紙

走暗虫
灰色の停滞

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 鼻につくのは三角コーナーを長いあいだ放置したときと同じ、食べ物の腐った臭いだ。その元凶である黒いゴミ袋に背をつけて、僕はアスファルトの地面に座り込んでいる。膝を折って抱え込み、できるだけ体を小さく縮めて、石の陰に隠れる虫みたいに。
 視界は暗い。時刻はまだ夕方といっていい頃だけど、建物に囲まれて、陽の光がほとんど射してこないこの路地は、もう夜みたいだ。視覚が乏しいと、それ以外の感覚が鋭くなる。僕は耳を澄まして、コンクリートに反響する音を聴いた。
 一番に聞こえるのは二人の女の高い声だ。質の異なる二つの音は、お互いが呼応しあうようにボリュームを上げていく。この二人の発する声にはおよそ意味が読み取れない。ただ単純な感情の高ぶりだけをのせた、動物みたいな声だ。それに混じって聞こえるのは多数の男たちの声。女たちとは対照的に落ち着いたトーンで、ぼそぼそと何やら話しているのがわかるけれど、内容までは聞き取れない。そして、それらに割って入るのは肉と肉のぶつかり合う乾いた音。なんだか間抜けな環境音だが、それが女たちの嬌声の手綱を引いている。
 セックスをしているんだ、と僕は理解した。それも普通のやつじゃない。振り向いて目を凝らせば、二人の女は男たちから逃れようと、身をよじっているのがわかる。しかし凌辱者たちはそれを許さず、彼女らが逃走を試みようとする度に、追いすがって暴力を加えている。男たちは目撃されるのを恐れているのか基本的に静かだが、時折、女たちを脅かすために、抑揚のある荒声を出す。
 薄暗い闇に浮かび上がる、闇よりもいっそう黒い影たちが、それぞれに身振りを示す。まるで影絵劇みたいだ。なんて、冷静な思考が呟くのに、一方で僕の体は露骨に興奮を表していた。心臓が早鐘のように鳴り、浅い呼吸を繰り返す。呼吸は空気を吐き出すばかりだから肺が空っぽになってしまって、頭までくらくらしてくる。
 僕は学校の帰り道にわけもなく、ふらりとこの路地に寄った。事が始まる前、男女がもみ合っているときから、これから何が行われるのか、なんとなく予感はしていた。性交なんてインターネットで見慣れているはずなのに、どうして僕はこんなにもうろたえているんだろう。やはり直接目にするのは臨場感が違うからだろうか、それとも女性を無理やり屈服させてるっていう状況が僕を掻き立てるのか。そんなことを漫然と考えている間にも、腹の奥で灯った熱は温度を上げていく。
 早くここを離れなければ。唐突に思い至る。僕がここにいることがあの男たちにバレたなら、ただでは済まないだろう。そうして逃げよう逃げようと頭で思うのに、僕の体は地面に縛り付けられたみたいに固まって動かない。焦るほど心臓の音は大きくなっていって、男たちに聞こえてしまうのではないかと不安になる。
 すると、男たちのうちの三人が渦中の女を離れて、こちらに歩いてくる。僕は必死に息を殺す。彼らはゴミ袋を挟んで向こう側で、一息つくと話し始めた。
「はー、出した出した。なかなか上玉じゃないですか、ねえティオさん」
 三人のうちの誰かが言った。
 ティオと呼ばれて頭を起こした痩身のシルエットは、煙草をくわえるとライターで火をつけた。一瞬、彼の手元から黄色い光が広がり、その顔を照らす。しかし、容貌を確かめる前に火はすぐに消えて、光にくらんだ僕の視界は先ほどよりも暗くなる。
「ティオさんてどこ出身なんですか?」
 音の位置から、呼びかけたのは最も背の低い男だとわかった。
「東京の墨田です」
「へー、都会じゃないですか。そりゃあこんな町よりいい女がわんさかいるでしょう」
「あか抜けてはいますね。地顔の美醜なんてどこも変わらないんでしょうが」
「羨ましいなあ……」
 すると会話はそれきり途絶えてしまう。たっぷり十秒以上たってから、話したがり屋らしい矮躯の男がまた口を開いた。
「そういえばフォンさん、フォンさんもどっか都会の出身だって言ってませんでした?」
「……フォンさんはまだ向こうでやってるよ」
 今度は、これまで黙りこくっていた大柄の男が答える。
「ああ、そうでしたか。暗くてよく見えねぇや」
 再び沈黙が戻る。それ以上会話に進展はない。
 僕はもう、このまま彼らが引き上げるまで隠れていようと決めた。長期戦に備えて、縮こまっていた体をほどく。窮屈に抱えていた膝もゆっくりと前に伸ばした。けれど、それがよくなかった。どうやら最初からそこに転がっていたらしい空き缶を蹴飛ばしてしまう。スチールが壁にぶつかる甲高い音は、男たちの間に横たわる沈黙を、派手に打ち壊す。
「誰だ!」
 寡黙だった大男が怒号を上げる。僕は弾かれるように地面を蹴った。
 視界は相変わらずはっきりとしない。さっき来た道を、記憶を頼りに、ひたすら足を動かして辿る。所々で捨ててあるゴミとか、地面の亀裂とかにつまづくけれど構わず走った。後ろから追いかけられているのだろうか、振り返る勇気はない。自分の呼吸と心臓の音以外は何も聞こえない。視界が白んでいくなか、足が止まってしまわないことだけを念じ続けていた。
 どれくらい走っただろう。気が付くと、辺りの景色は人通りのある駅前にかわっていて、僕はやっと立ち止まる。後ろを振り返ってみても、こちらを追ってくるような人影は見当たらない。肩で息をする僕を、訝しむような通行人の視線だけが取り囲んでいる。僕は安心して深呼吸すると、まだ落ち着きなく拍動する心臓を抱えて、帰路についた。

これが、昨日の出来事だった。


****


「おい、近藤、返事をしろ」
 自分の名前が呼ばれていると気付いてからも、僕の意識にはまだ薄膜が張ったままで、あらゆる感覚が判然としない。生ぬるい湯の中をたゆたうような浮遊感から抜け出せずにいる。
「近藤、教科書の24ページだ、おい!」
 そこでやっと、今は授業中で、学校にいるのだということが思い出される。すると、頭の中でぐるぐると回っていた先生の声が急に現実になって、意識を引っ張り上げる。
「は、はいっ」
 僕は慌てて机から飛び起きて、顔の下にふせっていた教科書を開いた。該当ページを探して、要領悪く捲っていると先生は、
「もういい、座りなさい」と言った。
「すみません」
 救われた気持ちで席に着く。教室を見渡すと、授業に水を差しやがってという恨みがましい視線、あるいは情けないやつだという憐みの表情、とにかく、好意的ではないクラスメイトたちの反応が迎える。遠くでは小さな失笑が聞こえた。僕はそれらから逃れるようにして目を伏せた。
「お前が寝るのは珍しいな、寝不足か?」
 クラスの担任でもある先生は訊ねるけれど、僕は黙っている。先生は溜息の後、白髪まじりの下にあるギョロついた眼で他を当たる。
「まあいい、それじゃあ代わりに国吉」
 指名されるとお調子者の国吉くんは立ち上がって、
「ふぁ、ふぁいっ、なんページですかっ」
 とわざとらしく僕の真似をして、教科書をめちゃくちゃに捲る。今度は教室全体がどっと沸いて、あちこちから弾むような笑い声や会話が起こる。
「ほら、ふざけてないで、24ページだ」
 先生は口元を歪めて、苦笑いしながら授業を進めた。


 授業が終わって昼休みに入ると、僕の席に三石くんが駆け寄ってくる。そこらへんの椅子を引っ張ってきて正面に座り、ことわりもなく机に弁当を広げた。
「お疲れか?」
 さっきの居眠りのことだろう。
「ちょっとね」
 僕が答えると、彼はさして興味もなさそうに白米をぱくつく。その傍若無人な振る舞いに呆れつつ、残された狭いスペースで自分の弁当を開けた。
「昨日の『エゾシスト』見たか?」
 三石くんは僕に箸を向ける。
「え?」
 突然の話題転換に戸惑う。僕を心配してくれていた話は、あれだけで終わったらしい。
「いや、見てないけど……」
 彼の口から出た単語に聞き覚えすらない。
「なんだよつまらないなあ。映画は見ないとだめだぞ、文化人には最低限の教養なんだからさ」
 大げさに嘆いてみせると、三石くんはこちらの反応なんてお構いなしに、どうやら昨日見たらしい映画の話を滔々と続ける。その間、僕はめまぐるしく移ろう彼の表情を眺めた。
 三石くんは顔がいい。男らしくきりっとした細い眉に二重瞼。口元は明るい彼の人柄を反映して、いつもわずかに弧を描いている。おまけに足が長いから、一見してどこかの俳優さんみたいだ。彼の自信に満ちた振る舞いに、僕はいつも圧倒されてしまう。どうして同じ人間なのに、こうも違うんだろうか。
 ともあれ、そういう人だから彼には友人がたくさんいて、毎日、昼休みになると気の赴くまま、適当な集団に割って入っている。僕もその友人の一人なのだけど、彼とは中学時代にちょっとした縁があって、特に仲良くしてもらっている。僕みたいな暗いやつと話したってなにも楽しくないと思うのだが、彼は奇特な人だ。
「おい、おいってば」
 『エゾシスト』について一通り語り終えた三石くんは、ぼーっと呆けている僕を見かねて呼びかける。
「あ、ごめん」
「なんだよ、聞いてなかったのか。岬ってそういうところあるよな、すぐ自分の世界に入っちゃうっていうか」
 三石くんは苦々しい顔をして、「まあいいけど」とひとりごちた。
「ああそうだ」
 またも出し抜けに話題を変えて、彼は言う。
「今日は岬に相談を持ってきたんだ。いや、相談というか勧誘かな。お前暇だろう?」
「話の脈絡がわからないんだけど……」
 いきなり人を暇呼ばわりはちょっとひどいんじゃないかと思う。
「実はさ、俺K大のサークルに入ってるんだよ。それで新歓の時期は過ぎたんだけど、先輩からの指令で、新しいメンバーを集めなくちゃいけないんだよな。そこで相談、岬、お前サークル入らないか?」
「嫌だよ」
 前屈みでまくしたてる三石くんに、僕は即答した。彼はがっくりとうなだれる。
「どうして。もうちょっと活動内容について訊ねるとか、メンバーはどんな人だとか、ないのかよ」
「どうもこうもないよ、悪いけど」
 三石くんがそんなものに所属していたなんて初めて聞いたけれど、大学のサークルに高校生が入るなんて、あまりにもハードルが高い。よほど神経が図太い人か、年上の集団に入っても気後れしないほど優秀な人ならまだしも。僕はどちらにも当てはまらない。
「ちょっとは考えてみてくれよ」
 僕がきっぱりと突き放すのに、三石くんはなおも食い下がる。
 彼のおもねるような顔を見て、どう断ったらいいものかとうんざりしていると、僕を助けるように、教室の扉が勢いよく開いた。僕たち二人を含め、食事中の皆が動きを止めてそちらに目を向ける。静寂をつくった主である担任の先生は、ぐるりと部屋を見回すと、僕の顔を見つけて目を留める。
「おお、いたいた」
 またなにか怒られるようなことをしてしまっただろうか。背筋を冷たくしていると、先生はその場から大きな声で呼びかけてきた。
「お前、文化祭委員な」
「ええっ」
 思わず素っ頓狂な声を出すと、先生は申し訳なさそうに続ける。
「いやあ、本当は昨日のホームルームで決めなくちゃいけなかったんだが、すっかり忘れててな。授業中に居眠りした罰ってことでよろしく頼む」
 そう言い放って、先生は僕の返事を待たずに、再び教室を見回す。
「あと一人、女子でやってくれるやついるか」
 その召募で、室内はより深い静寂に落とされる。些細な物音さえないのに、皆のやりたくないという心の声が押しこめられている感じがする。僕がパートナーだと先にわかってしまったら、なおさら言い出しにくいだろう。いたたまれない気持ちだ。
「なんだ、おらんのか」
 先生が言って、いよいよ適当に名指しされるかと緊張が高まったとき、一人の女生徒が手を挙げた。
「あの、先生、私がやります」
 仲良しグループで机をくっつけて食事をしていた彼女は、取り囲む友人たちの視線を一身に集める。僕は彼女――藤崎綾子のことをよく知っていた。そして彼女もまた、僕のことをよく知っている。藤崎さんは遠慮がちにこちらに顔を向けると、気まずそうに微笑んだ。先にパーマをかけた短めの髪が、わずかに揺れた。
「おお、そうかそうか、やってくれるか。それじゃあ放課後に多目的室で説明を受けてくれ。よろしくな」
 気が変わらないうちにと思ったのか、先生は一息に言って去っていった。
 教室に再び喧騒が戻る。正面に向き直ると、三石くんが意地悪そうにニヤついている。
「災難だったな」
 まったくだ。僕は肯定の代わりに皮肉めかして笑う。
「でもよかったじゃないか、綾子ちゃんが付き合ってくれてさ」
「まさか。それが一番気が重いのに」
 恥らいやごまかしなどではなく、それは僕の本心だった。
「おいおい酷いやつだな。綾子ちゃんが聞いたら泣くぜ」
「……そうかもね」
 僕は脳裏にその光景を思い浮かべた。彼女の泣き顔は容易に想像できる。僕と話すとき、彼女は気丈に振る舞うけれど、いつも泣き出しそうな顔をしているのだ。それを見るたびに僕は、泣きたいのはこっちの方だって言ってやりたくなる。
「大体藤崎さん、絶対にいやいや手を挙げたよ。三石くんだって事情は知っているだろう」
「まあな」
 彼は一度納得する顔を見せるけれど、すぐに切り返す。
「それでも人の好意はそのまま受け取っておけよ。もしかしたら単純にお前のことが気に入ってるのかもしれない」
「まさか。あるわけない」
 思わず口調が強くなる。
 そんな僕の表情を見て、三石くんは顔をしかめる。正視に耐えないものを見た、という様子だ。
「岬は考えすぎなんだよ、悪い癖だ。もっと力を抜いて生きろよ」
「僕は僕なりに自分らしく生きているつもりなんだけどね。もうこの話はやめにしようよ」
 強引に話を切り上げると、三石くんはそれ以上追及しない。後は二人とも食事にいそしむだけだ。僕はサークルの勧誘をかわせたことを、内心安堵していた。


****


 多目的室に向けて、急ぎ足で歩く。
 放課後、先生に頼まれた文化祭委員の説明会に参加するため、僕は廊下を歩いていた。早足で、掃除直後の艶めくリノリウムを踏み汚す。藤崎さんとなるべく顔を合わせないように時間をずらしたから、遅くなってしまった。
 気分だけは億劫さの中に取り残されたまま、突き当たりの目的地にたどり着く。しばしためらったのち、おずおずと扉を開いた。
 教室内、三列分用意された長机はほとんど埋まっている。僕が空席を探していると、人群れの間から手が挙がった。
「おーい、近藤くん、こっちこっち」
 藤崎さんだ。
 招かれるままに窓側の最前列へ行き、彼女と一つ間を空けて席に着く。間の椅子には荷物を置いた。
 来たのは僕が最後だったようで、担当の女性教師は点呼をとると話し始めた。
 話に耳を傾けるが、内容は取るに足らないものだった。要するに、やる気があって立候補した人も、不本意でやむを得ず役割を負った人も、手を取り合って文化祭を盛り上げていきましょうということだ。まだ当日までは日があるからだろう、具体的な説明はほとんどない。話しぶりから彼女はどうやら、こういった取り組みに妥協を許さない熱い性格みたいで、僕は面識のない中年の女性教師に、ヒステリーを起こした母親を重ねて、勝手にげんなりしていた。僕はこういうタイプの先生は苦手だ。
 いやな気持ちになった僕は名も知らぬ先生から視線を逸らし、隣に座る藤崎さんの様子を窺う。彼女は先生の方を見据えて、共感したようにしきりに頷いている。波形になった茶色の髪から、形のいい横顔がのぞく。主張の薄い唇は引き結ばれて、瞳は話し手の熱意を鏡で映したように輝いている。
 中学の頃と変わらず、行事ごとには積極的みたいだ。いや、単純に真面目なのかもしれない。見かけ軽薄な印象を受ける風貌とは裏腹に、彼女は素直で人好きがする。また、誰にでも分け隔てなく接するものだから、男子にモテるのだ。……そこまで考えて、僕はトラウマの扉が開く音を聞いた。だから慌てて思考を振り払って、目の前の資料に目を落とす。話が済むまで、そうやってうつむいていた。


 椅子をひく騒音が一斉に鳴って、皆が席を立つ。
「おつかれー」
 解散がかかるや否や、藤崎さんは僕に声をかける。
「あ、プリントは私が運んどくから、近藤くんは帰ってもいいよ。疲れたでしょ?」
 僕のしかめ面を疲労のせいと勘違いしたらしい彼女は、教室に運ぶよう頼まれていた書類を一人で抱えた。
「よっ……わっとと」
 慮外に質量があったらしい。書類の束に重心を奪われた彼女は、後ろによろめく。僕はとっさにその背中を支えると、彼女の手から書類を取り上げた。
「やっとくから」
 自分でも驚くほど、冷淡な声が出た。
「あ……」
 ほとんど脅しみたいな僕の声に、藤崎さんは言葉を失う。悪態を取り消したくても僕にはやり方がわからず、そのまま身を翻して去ろうとする。しかし、部屋から出る扉をくぐったところで、背後から声がかかった。
「待って、私も行く」
 結局、資料の三分の二を僕が、残りを藤崎さんが持つ形になって、二人で肩を並べて歩く。
「近藤くんて力持ちなんだね、意外かも」
 教室までの途中、藤崎さんは無理に笑って話しかけてくる。
「そうでもないけど」
 そっけない返事で茶を濁す。が、反応を貰えるだけで安堵したらしく、相好を崩した彼女は勢いづいて会話を続行した。
「まいっちゃうよね、いきなり文化祭委員なんて」
「まあね。でも藤崎さんはやる気みたいじゃないか」
「あはは、そう見える? 仕事は面倒だけど、文化祭は楽しみかな。クラスのみんなで協力して何かをするって、あんまりないから。近藤くんは楽しみじゃないの?」
 そんな聞かれ方をして、楽しみじゃないなんて答えると、僕が天邪鬼な人間みたいでばつが悪い。だから、「どうかな」と曖昧に言っておいた。
「ね、出し物なにしよっか。みんなの意見を聞かなくちゃいけないけど、定番はやっぱりお化け屋敷とか、喫茶店とかかな」
 藤崎さんは浮かれた感じで話す。あどけない表情が僕を惹きつけた。
「準備が簡単なのがいいかな」
 動揺をごまかすため、ぶっきらぼうに言った。
「近藤くんらしいなあ。でも、なんでも面倒がってばかりじゃだめだよ? 私たちの青春は今しかないんだから」
 彼女は書類を胸に抱えたまま、小さく跳んで僕の正面に回る。
「私と一緒に青春しよ?」
 そう、冗談めかしてはにかんだ。
 教室につくと、扉の正面に備えられたロッカーにプリントをしまう。道中、藤崎さんにのせられて、随分と饒舌になってしまった気がする。複雑な気分だ。
「ねえ、今、携帯持ってる?」
 当の彼女は僕の胸中など知らずに訊ねる。
「持ってるけど……」
「連絡先交換しとこうよ。委員のことでいろいろ相談しなきゃだろうし」
「ああ、うん」
 もっともらしい理屈を持ち出されて、流されるまま彼女に従う。
「……よし、送れた。それじゃ、また明日ね!」
 彼女は多目的室を出たときとは別人のように、軽やかな歩調で去っていく。僕はそれに見とれて、なのに彼女の後姿を眺めていると、じくりと胸が痛んだ。胸の傷から流れ出した粘稠な液体は、たちまちに僕の全身を満たしていく。被虐の快楽にも近しい痛みを覚えながら、僕はその場で薄く笑う。それはきっと、諦めの笑いだった。


****


 学校からの帰り道、僕は見えない何かに引き寄せられるみたいに、昨日のレイプ現場に足を運んでいた。
 路地に着くと人の気配はなく、うら寂しい風だけがコンクリートに囲まれた細長い空間を通り抜ける。昨日、目の前で起こったことは本当に現実だったんだろうかと、ありきたりな疑問がふってわく。しかし放置されたままのゴミ袋を見ると、女たちの嬌声や男たちの影、暗闇に灯るライターの光まで、鮮明に思い出せる。
「ティオ……フォン……」
 男たちが口にしていた名前を呟く。一般的な日本名ではない。外国人、例えば中国とかの名前だろうかと考えたが、彼らは全員日本語で話していた。あるいはコードネームの類だろうか。そう考えると合点がいった。とはいえ、徒党を組んで犯罪を行う仲間にしては、よそよそしく接していた気もするけれど。
 推理の真偽を確かめる術すらなく、僕は考えるのを諦めた。
 そういえば今朝、家を出る前に地元の報道番組と新聞に目を通したが、昨日のことはどこにも情報がなかった。性犯罪は被害者が訴え出る事例が少ないというし、そのせいだろうか。それとも、実は女性を無理やり辱めるなんて事件は日常茶飯事で、故にわざわざ取り沙汰されることもない、とか。その仮定は不思議に僕を高ぶらせた。いつも変わらないことの繰り返し、退屈な日々を送っているのは僕がつまらない人間だからで、外に一歩踏み出せば、刺激的な出来事がそこかしこに転がっている。そうだったらいいと思う。
 僕はいい加減身にならない妄想をやめて、家路を再開する。最後にふと後ろを振り返ると、ゴミ袋に数匹のカラスが群がっている。皮を食い破られた袋の裂け目からは腐った残飯が飛び出していて、僕はそれを、動物の内臓みたいだと思った。

       

表紙

ヤスノミユキ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha