「ねぇ八重、最近彼氏とはどうなの?ほら、言ってたじゃない、就活がうまくいかなくてイライラしてるってさ」
訊ねられた顔の丸い女性は質問を待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「そうそう、それがさあ」
勢い込んで周りの注意を引いたあと、八重と呼ばれた人は肩を落として悲壮な気持ちを表す。
「結局、この前言ってた証券会社は受からなくて、地元の信金に入ることになりそうなんだよねえ」
「あ、でも就職は決まったんだ。一応よかったじゃない」
質問した女の人は拍子抜けしたような顔をする。それでも八重さんは不満を露わに息を吐く。
「うーん、今は本人も取りあえず、就職浪人はまぬがれてほっとしてるって感じなんだけどさあ、私としてはね」
言外に恋人の就職先が気に入らないという様子だ。恋人の仕事を気にするということは将来結婚することも視野に入れているのだろうか。大学生ともなれば珍しくもないのかもしれない。
「ああ、地方に行っちゃうから?遠距離はつらいよね」
「いや、それはいいのよしょうがないし、東京で就職したってそれは同じことだし、ただね……」
八重さんは含みを持たせたままはっきりと言葉にしない。質問者は煮え切らない態度に焦れて、手元の飲み物をかき混ぜる。
「なによ、とにかく就職できたんだからお祝いしてあげればいいのに。労いの言葉くらいかけてあげなさいよ、彼がかわいそうじゃない」
おせっかいな言葉が気に障ったらしい。八重さんは丸テーブルにひじを突くとふてくされたような顔をした。
「年上の恋人を持つといろいろあるのよ」
大雑把な言葉で切り捨てる。
「なにそれ」質問者の女性はつまらなそうに言うと、もう一人、我関せずと黙っていた綺麗な女性に話を振った。「あんたの方はどうなのよ、妙子」
紅茶の水面をじっと眺めていた妙子さんは顔を上げた。
「どうって?」
「彼氏よ、彼氏。確か、祐司くんとかいったっけ?」
「あいつは私と同い年だから就職まだよ。多分院に行くとか言ってるから話はまだ先ね」
妙子さんはカップに口を付けた。
彼女こそ、僕をこの、姦しい会合に呼びつけた張本人だ。たまたま大学の敷地内を歩いているところを発見され、気が付いたら、女性ばかりの中に放り込まれていた。しかも、妙子さん以外の二人とは面識もない。『あ、岬じゃない、せっかくだからあんたも来なさいよ』なんて気軽に連れ出さないでほしい。妙子さんは僕のことを舎弟かなにかと思い違いをしているんじゃないだろうか。
ともあれ、かくして僕は三人の女性と共に、紅茶を飲んでいる。
「いいわよね、妙子は。将来有望な彼氏が居てさ」
八重さんが嫉妬がましく言う。祐司さんの話になったのだっけ。女性間で交わされる男の話というのは、なぜだか生々しくて、むずむずする。
「なによそれ。わかんないでしょ将来のことなんて」
妙子さんが異議を唱えた。
「わかるわよ、祐司くんて法学部で頭いいでしょ。あたし見たことあるわよ、掲示板に成績優秀者で張り出されてるの。それで院行って、司法試験受けて、将来は弁護士でしょ。あーあ、羨ましい。知ってる? うちの法学部の司法試験・司法書士試験の突破率」
八重さんはテロップでも出してきそうな勢いで解説した。
「なんで八重はそんなに法学部の事情に詳しいのよ。あなた文学部でしょ」
妙子さんは呆れている。
「それで、静子は? 聞きたくもないけど」
妙子さんの指摘は無視され、八重さんはもう一人、最初の話題提供者に尋ねる。
「私? 私は変わらずよ」
聞かれた女性は得意そうな顔をする。八重さんはうんざりといった感じで悪態をついた。
「若きベンチャー課長でしょ。前大学に来てたときかっこよかったもんねー。しかもベントレーだし。あんたがベントレーで連れ去られたときは何事かと思ったわよ。現代版白馬の王子様よねぇ、あれは」
僕は八重さんの奔放な語り口がだんだん癖になってきた。
「現代版……なんか夢のない話ねそれ……」
妙子さんは一つつっこみを入れると、現在の話題はあまり気にくわないらしく、少々強引に話を変えた。
「ねぇ、もっと建設的な話をしましょう。彼氏云々は置いといて、自分たちはどうするのよ? 付きたい業種くらいは決めてるんでしょ」
「んーん、ぜーんぜん」
八重さんが掌を振る。
「結婚したら退職するし。それに、私たちは男を立てる気だてと化粧できれいになることを考えればいいのよ。それだけで需要があるんだからさ。まあ、その辺が余裕だから妙子はいろいろ持て余すんだろうけど」
過激なフェミニストが聞いたら発狂しそうな発言だ。妙子さんは顔をしかめる。
「なによそれ。適当な考え方してると、いつか後悔するわよ」
「どーせ私は向上心ありませんよ」
「まあまあ、いいじゃない。人それぞれってことで」
もう一人の女性が仲裁に入って、会話を終わらせる。
妙子さんはそれでもしこりを抱えたままのようだった。
僕が大学でたまたま目にしたこのやりとりが、あるいは今回の件につながっていたのかもしれない、と考えたのはかなり後になってからのことだった。
****
「説明してよっ」
妙子さんのかまびすしい叫びが聞こえてきたのは、僕がサークル棟に入る前に自転車を止めているときだった。
声は喫煙所の方から聞こえる。僕は気になって、物陰から様子をうかがう。設置された吸い殻捨ての前で煙をくゆらす祐司さんに、妙子さんがつかみかからんばかりの勢いでくってかかっている。喫煙所の周りには人通りが少ないけれど、それでも祐司さんは人目が気になるみたいで、妙子さんに声を落とすように言う。
「声落とせって。悪かったよ」
妙子さんは一応従って、しかし怒りの色は全く隠さない口調で祐司さんを責める。
「悪いってことは認めるってことなの」
「…………」
祐司さんは答えない。
「何とか言いなさいよ。浮気してるんでしょ」
妙子さんの詰問に耐えかねて祐司さんは口を開く。
「そんな大層なもんじゃないって」
「どういう意味?」
「いやだからさ、浮気なんて大それた言葉で表現するような関係じゃないの。お前だって男と仲良くすることぐらいあるだろ」
どうやら喧嘩の原因は男女関係らしい。僕の苦手な分野だ。
「メールを読む限りあんたとこの子はキスしてるみたいなんだけど、あんたの中では女とキスすることは男女関係には値しないんだ。価値観の相違ね。それとも、この子が嘘を付いてるの?」
「いや、それは……」
相手の女の子を悪者にするわけにもいかず。言葉に詰まる祐司さんは袋小路にぶつかって、論点をそらした。
「大体、お前なんで人の携帯勝手に見てんだよ」
これには妙子さんも返す言葉がないようだ。好機と見たらしい祐司さんは畳みかける。
「お前ってそんなに面倒くさい女だっけ? 別に俺の交遊関係なんて興味ないってスタンスだった気がするんだけど」
「それとこれとは関係ないでしょ」
「関係あるだろ。俺の交友関係に興味ないなら俺が誰とキスしようが浮気しようが怒らないはずなんだから、そもそもお前がキレてる説明をしてもらわなくちゃいけない」
「浮気してるのは認めるんだ」
「…………」祐司さんは一瞬たじろいだ後、吐き捨てるように言った。「ああ、したよ」
「最低」
祐司さんは黙った。浮気をしているという事実がある以上、僕としては言われても仕方ない気もするのだけれど、彼はまだ言い返す言葉を探しているようだった。
「妙子、お前さ」祐司さんはこの場ではじめて妙子さんを名前で呼ぶ。「俺のこと好きじゃないだろ」
「なによそれ」
妙子さんは唐突な指摘に冷淡な調子で返す。けれど表情は変わっていた。事実無根のことを言われて憤っているという顔ではなかった。それを見た祐司さんは続ける。
「やっぱりな。だってお前、俺と一緒にいたいとか言わないだろ。遊びにつれてってくれとか、触って欲しいとか、俺のことが好きなら普通はそういうことを求めるもんだ」
「そんなの人それぞれでしょ」
「人それぞれじゃねーよ」
祐司さんは自信を持って言い切る。彼の毅然とした態度に押され、妙子さんは苦し紛れの言を発する。
「だとしても、あんたが浮気していい理由にはならないと思うんだけど」
これでは、立場がまるきりさっきと逆だ。
「ひどい女だな。自分は男を愛する気持ちがないくせに、彼氏としての義務は果たせ、他の女にはなびくなってか。俺はお前の奴隷かよ」
祐司さんは建物の脇の階段に腰を下ろした。
「こんな状況で言うことじゃないかもしれないけど俺は妙子のことが好きなんだぜ、愛してる。浮気をしたのは本当だけど、おまえが好きって気持ちは嘘じゃない。でもお前はどうだ。付き合ってる男女で一番許されないのは浮気じゃない。そもそも相手のことを好きじゃないってことだろ。これだけは明確な裏切りだよ、どうしようもない」
反抗する意志を失っている妙子さんを見て、祐司さんはつまらなそうに煙草を捨てた。足で踏みつけて火種を消す。
「でもさ、俺はそれでもまあ、仕方ないと思ってるんだよ。俺たちの関係はつまり俺の片想いだけど、それでもいいと思っている。なあ妙子、お前が俺を友達に自慢してプライドを守るのは構わない、欲しいものがあるならできる範囲で買ってやるよ。俺は将来、稼ぐつもりだからな。でも、だからさ、これくらいは許してくれよ。いつもの無関心で知らない振りをしといてくれよ、頼むからさ」
祐司さんは身を縮めて頭を抱えている。情けないことを言う自分に、自己嫌悪しているようにも見える。
「別れましょう」
妙子さんが言った。
「別れるって?」
祐司さんはなんのことかわからないという表情をする。
「交際をやめるのよ。簡単なことでしょ」
「ちょっと待てよ」
祐司さんはけしかけたにも関わらず、目に見えて狼狽えている。
「いきなりすぎるだろ、いくらなんでも。わかったよ、このことは明日話し合おう」
「ううん、きっとこの答えはずっと変わらないと思う。本当は私自身、ずっと考えてたことなの。なんであなたと付き合ってるんだろうって。だから私たちは、これでさよなら」
妙子さんは最後通牒を突きつける。
「ふざけんな!」祐司さんが立ち上がって激高する。「自分勝手だぞお前っ。俺が、俺がどういう気持ちでっ。とにかく、認めないぞ、俺は」
階段にもう一度乱暴に座り込む。頑なな態度に、妙子さんは諦めた顔をする。
「私、もう行くね」
立ち去る妙子さんを、祐司さんは一瞬引き留めようと手を伸ばして、下ろした。代わりに地面を蹴る。
「くそっ」
勢いづいた脚が近くの自転車にぶつかって音を立てる。僕はそれに驚いて身をすくめた。そのとき、祐司さんがこちらを見る。目が合った。
「岬、見てたのか?」
祐司さんは一瞬、顔をひきつらせて、悪いことをした子供をしかりつけるような仕草をする。しかし、怒りの気配は爆発する寸前で急速にしぼみ、眉尻が下がる。泣きそうな顔にも見えた。
「情けないとこ見られたな」祐司さんは小さく笑う。「まあ、よくあることだよ。俺たち月に一回ぐらいのペースで破局の危機に陥ってんだよ。笑えるだろう?」
冗談めかして取り繕う。僕はなにも言えなかった。
「サークル棟に来たんだろう。俺も今来たところだよ、一緒に行こうぜ」
僕らはその日も、サークル活動を行った。
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先日のバラバラ殺人の話題も冷めやらぬうち、この街では新たな犯罪がいくつも産声を上げていた。女性の強姦事件、連続する空き巣、コンビニ強盗、そのどれも珍しくはない事案であって、殺人に比べれば話題性の薄い案件だった。問題は事件が、狭い地域で頻繁に発生しているということであった。そしてこれらの事件の犯人は共通して、複数の男性であるという目撃証言があった。ここのところ朝のニュースではそのことばかりを報道している。僕らの街の現象は全国ニュースでもしばしば取り上げられるようになった。全国規模の騒ぎの渦中に自分が居るのだと思うと、なんだか浮ついた気持ちになる。
全国ニュースですら連日取り上げるほどなのだから、当の地域にすんでいる住人達の不安は相当なものである。最近、僕の周りでは空き巣対策を呼びかける町内会の人たちだったり、小学校から集団下校する子供達も見かけるようになった。
僕らの周りに暗雲が立ちこめている。実体のない外敵がじわじわと追いつめてきている。そういう漠然とした不安がこの街を覆っていた。
僕はそんな中で、普通とは違った感慨を持っていた。つまり、取り残されたような疎外感と、焦燥だ。以前祐司たちと話した、ゲームセンターを視察しに行くという計画は実行されていない。なにせ、八郎さんと翼さんの断絶は相変わらずで顔を出す頻度が減っているし、妙子さんにいたっては祐司さんとの喧嘩のあとから一度もサークル棟に顔を出していない。もしかしたらもう二度とこないのかもしれないという予感もあった。なによりも問題は祐司さんで、喧嘩の直後は僕に虚勢を張る元気があったけれど妙子さんと揉めてからの彼の落ち込みようは著しい。目に見えて痩せこけているし、大学に来ないことも多いのだ。交際が破局したとき、男性の方が心的なストレスが大きいという話はたまに聞くけれど、それにしたって落ち込みすぎだ。でも、これに関しては僕が解決してやることはできない。
そういうわけで、事件は世間をにぎわせてはいるけれど、僕は完全に置いてきぼりにされているのだ。思えばあの事件、裏路地でのレイプが僕の生活の分岐点だったのだ。あのあと、藤崎さんと一緒に委員会をすることになって、告白されて、過去を清算して、サークル活動を始めた。だから、あの事件がそのどれもに直接に関係していないとしても、僕は自分の中で捨て置くことはできないと思った。理屈の通らない使命感に突き動かされて僕は家を出る。もういちど自分の目で確かめてみたい。そのときに、あのとき僕が感じていた気持ちの正体が掴める気がするのだ。