Neetel Inside 文芸新都
表紙

走暗虫
遊覧会の人々

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 僕ははじめ、大学というものは、高校と同じように一つの建物があって、中にすべての教室が詰まっているものと思っていた。だから、三石くんの先導でK大の敷地に入って、案内板をみたとき、その広大さに驚かされた。
 それは建物と言うより一つの集落、というのは言い過ぎかもしれないけれど、とにかくただ勉強をするには不釣り合いと思われるような用途の施設が集まっていた。「フィットネスクラブとコンビニもあるんだ」とは三石くんの談だ。
 迷わないように三石くんのすぐ後ろをついて歩く。芝生と建物群の間に蜘蛛の巣を張ったように、石畳が整備されている。敷地内を歩いていると、平日だというのに人通りはまばらだ。
「人が溢れるのは学期が始まってすぐくらいで、それ以降は試験期間になるまでこんな感じだよ」
 三石くんが僕の疑問に答える。自分の中の大学像が次々と塗り替えられていって、僕は感心してばかりいる。
「大学受験なんてすぐなんだから知っておいたほうがいいだろ。岬はK大受けないのか?」
「考えたこともないよ。僕は三石くんみたいに頭がよくないし、そもそも大学に進学するかどうかもわからないんだ」
 うちの高校は中くらいのランクの進学校で、僕のようにぎりぎり滑り込んだ類の人間や、家が近所だからという理由で通っている三石くんみたいな秀才まで玉石混淆なのだ。
 高校生になって周りがほんの少し大人扱いしてくれる年齢になっても、僕の将来は未だに不透明で、霞がかかったままだ。


 三石くんに案内された『サークル棟』は、他の洗練された建物とは明らかに異質な雰囲気をまとっていた。浅黄色に塗られた壁は塗装が所々はげ落ち、灰色の無骨な正体を露わにしている。スプレーで無秩序な落書きがされており、その上には、絵柄が薄れて見えなくなったシールがべたべたと貼り付けてある。学生たちが未だに残している幼さを誇示するように、建物は汚れていた。
 中に入ると、3階まである内部構造になるたけの部屋を押し込んでやろうという意志をものがたるように、狭い間隔に扉がある。廊下の内壁には、その姿を覆い隠すほどのチラシが貼られている。落ち着かない雰囲気だけれど、防音だけはしっかりしているようで、人の話し声は聞こえてこなかった。あるいは、この建物にも人は少ないのかもしれない。
 三石くんがとある扉の前で立ち止まる。扉には、マジックで安っぽく装飾された張り紙がされている。『遊覧会 現在新会員募集中!!』
 チラシをまじまじ観察していると、三石くんがノックもせずに扉を開けて中に入る。僕は彼の後ろに隠れるようにして続いた。
「おーっす、来ましたよ」
 三石くんが挨拶すると、曖昧な返事が複数返ってくる。部屋の中には三人の男女がいた。男が二人と、女が一人。
「後ろの彼が斎くんの言ってた新会員かい? ようこそ」
 柔らかく、友好的な態度で誰かが言う。斎というのは三石くんの下の名前だ。覚悟が決まらず、僕が後ろの方でモジモジしていると、三石くんに押しやられて皆の前に立たされた。退路を断たれた僕が、全員の顔を改めて確認したとき。
「「あ」」
 短い驚愕が重なった。
 声を上げたのは僕と、もう一人。先ほど歓迎の声を掛けてくれた男の人。三人の中で一際スタイルのいい彼は、僕の姿を見て目を剥いている。整えられた黒髪にカッターシャツを着て、いかにもまじめな好青年といういでたち。ハンサムで優しそうな雰囲気を醸し出しているのは、喫茶店で出会った、あの三股の男性(名前は確か誠士郎といった)、その人だった。
 僕らは互いに、しばらく言葉を紡げなかった。こんなにも短い期間で再会を果たすという偶然。世間は狭いものだという感慨はもちろんだけれど、それだけではない。僕があの日居合わせたのは彼の恥ずべき外聞のはずで、だから素直に顔見知りだと明かしてよいものか、逡巡があった。
「ええ、こいつは岬っていうんです」
 挙動不審な僕と誠士郎さんを見比べながらも、三石くんは紹介を続ける。
「あ、ど、どうも」
 おっかなびっくり頭を下げた。
「話は聞いてるよ、よろしくね岬くん。うちは万年会員不足だから君のことは大歓迎だよ」
 笑顔を崩さずに歓迎の意を示す誠士郎さん。この言動からするに、僕は初対面として振る舞うことを求められているらしい。
「よろしくお願いします。あなたが会長さん、ですか」
「会長はこっちだぞ」壁に背をつけたもう一人の男性が言う。「そいつは副会長。俺の方が偉い」
「あ、すみません」
 会長と名乗った、煙草をくわえて、気の強そうな彼は一つ煙を噴かす。鋭い眼光と後ろに流した茶髪は、猛禽類を思わせるような顔立ちだ。
「まずは自己紹介だな、俺が会長の芦田祐司」
 簡潔に言って、彼は顎をしゃくって誠士郎さんを指す。次はお前だというように。
「え、紹介それだけ?」
 促された副会長が目を白黒させる。
「俺は趣味だとか休日の過ごし方だとかをぺらぺらと喋る、ああいう自己紹介はわざとらしくて嫌いなんだよ、いいから」
 急かされた誠士郎さんは一つ咳払いをした。
「それじゃあ、僕も祐司に習って……副会長の清水誠士郎だよ、改めてよろしくね。それじゃあ、妙子ちゃん」
「天海妙子」
 今まで黙っていた女の人がそっけなく言う。タイトなパンツを履きこなしているその人は、濃い口紅にブロンドの髪色も相まって、大人っぽく見える。高校ではあまり見かけないタイプの美人で、僕は気後れする。
「えーと、芦田さん、清水さんに、天海さんですね」
 僕は一人一人を目視しながら確認する。人の名前を覚えるのは昔から苦手だ。かといって先輩の名前を忘れるのは失礼だろうから、なんとかイメージを一致させようと苗字を唱える。
「下の名前で呼べよ」
 会長の芦田さんが提案した。
「え、でも……」
「他人行儀はうっとうしいだろ」
「は、はい、わかりました」
 彼の眼光に射すくめられて、僕は渋々了承する。考えてみれば、新しい人間関係を築こうとしてこのサークルに入ったんだ。こういう変化も必要なのかもしれない。
「斎……の紹介はいらないな。それじゃあ新入り、自己紹介。俺たちがぶっ飛ぶような衝撃的なのを頼むぜ」
「えぇ……」
 無茶ブリされてためらっていると、祐司さんの隣にいる妙子さんが、彼を肘で小突く。
「やめなさいよ、困ってるでしょ」
「ちょっとした冗談だろ。まあいいや、ほら、名前だけでいい」
「近藤岬です、よろしくお願いします」
 僕はやっと、腰を折って頭を下げた。
「おう、よろしく」
 僕の垂れた頭をバシと叩くと、祐司さんはさらに説明した。
「うちのサークルにはあと少しメンバーがいてな、今日は来てないが……ああ、八郎は後で来るって言ってたな。まあ、そのへんはまたおいおい紹介してくとしよう」
「うちは集まりの悪い人が多いから、期待しない方がいいけどね」
 副会長の誠士郎さんが横やりを入れた。祐司さんは大げさにため息をつく。
「困ったもんだまったく。人数がそろわないから碌に活動も出来やしない。そんなわけで当面、お前等に与えられた任務は新たな会員の確保だ、いいな。特に斎」
「はい」
 名指しされた三石くんは背筋を伸ばす。
「お前は顔がいいから、年下好きの女どもをがんがん釣ってこい。うちは女子が少ないからな、この部屋が華やぐかどうかはお前にかかってるぞ」
「りょーかいです。可愛い娘ばんばん連れてくるんで」
 三石くんは自慢げに胸を張る。
 すると、やり取りを横で見ていた紅一点の妙子さんが、なぜか眉をひそめた。不審に気がついた僕を見て、三石くんが耳打ちする。
「会長と妙子さん、付き合ってるんだ」
 なるほど、納得がいった。
 調子のいい祐司さんと機嫌の悪そうな妙子さんを交互に見ていると、背後で蝶番の擦れる音がする。
「どーも、どーも、皆さん来てますか」
 野太い声に振り向くと、170後半は背丈のある三石くんよりも、顔一つ分背の高い巨体が上枠をくぐって部屋に入ってくる。
「あれえ、彼が例の新会員ですか?」
 大男は遙か上方から僕を見下ろして言う。三石くんの肯定を聞いて、彼は名乗った。
「私は飯田八郎ってもんです。よろしく」
 手を差し出されて、僕は慌ててそれを握る。掌も大きくて、まるで岩のようだ。
「近藤岬です。よろしくお願いします」
 長身だけど線の細い誠士郎さんや三石くんとは違って、彼は横にも太く、前に立たれるだけでも非常な圧迫感がある。輪郭は鬱蒼とした髭に覆われていて、素顔が想像しにくい。熊みたいな人だ、と一目で感じた。
「いやー、よかったよかった。めでたいことですねえ、新人さんがはいってくるのは」
 熊みたいな八郎さんはしみじみ言うと、煙草を咥えて吸い出した。彼のいる扉側と、祐司さんのいる奥側の両端から吐き出された煙がぶつかり合って、中央で渦巻いている。部屋には窓の一つもないから、息苦しいことこの上ない。こういう部屋のつくりって、法律的には問題ないのだろうか? しばらくすると、妙子さんがたまらず扉を開けた。
「もう、やめてよ煙草、けむいのよ」
 厚めの紅い唇から、不満を漏らす。
「いやあ、容赦してくださいよ妙子さん」
 八郎さんは吸い始めたばかりの煙草を惜しむように見つめる。味方を手にした会長の祐司さんもここぞとばかりに応戦した。
「最近は喫煙者に対して当たりがきついよなあ、どこも禁煙禁煙って。この部屋でくらい吸わせてくれよ、お互い気の許せる仲間だろ」
「はあ、都合いいんだからまったく」
 こんなやりとりは慣れているのか、妙子さんは諦めたように息をついた。
 口をはさむ暇がなくて存在感を失いかけていた僕は、新会員らしく質問をしておく。
「あの、活動とかって僕はなにをすればいいんでしょうか」
 訊ねると、誠士郎さんがにこやかな顔を向ける。
「三石くんから聞いてるかもしれないけど、うちは基本緩いサークルだからね、正直あんまりやらなくちゃいけないことはないよ。そうだなあ、取り敢えず君が新しく入会してくれたことだし、歓迎散策でも行こうか、ねえ会長」
「そうだな。誠士郎、お前が企画しろよ」
「はいはい、了解したよ」
 面倒を部下に丸投げした祐司さんは、骨ばった顔を向けて、僕の方を見る。
「まずお前の義務はそれに参加することだな。来週の日曜日空けとけよ。初回の散策くらいは金を俺たちが持ってやるから、感謝しろ」
「あ、はい、ありがとうございます」
 僕のお礼と重なって、電子音が鳴った。
「ごめんごめん、電話だ」
 誠士郎さんは携帯を取り出して部屋を出た。
 何となく皆は静かになって、外から、誠士郎さんが電話に向かって話す声が聞こえてくる。なにやらしきりに謝っているようだ。電話相手の怒りが伝わってくるように、申し訳なさそうな謝罪が何度も聞こえる。たぶんまた、女の人と揉めているんじゃないだろうか。僕が想像していると、部屋の扉が細く開いて、誠士郎さんが顔をのぞかせた。まだ電話に耳を当てたままだ。彼はこちらに小さく手を挙げて頭を下げた。どうやらこのまま帰るらしい。扉が閉まる。
「俺、ちょっと飲み物買ってきます。誰かついでになんかいりますか?」
 場が冷めてしまったからか、三石くんが訊ねる。彼は祐司さんにコーラを依頼されると、部屋を出て行った。しまった、こういうパシリは新入りの僕が行くべきだったのか。だんだん遠くなる三石くんの足音を聞いて、唯一の知り合いがいなくなった心細さが押し寄せてくる。部屋には祐司さん、八郎さん、妙子さん、僕の四人だけになった。黙っているのもつらいから、僕はまた質問をした。
「会員って他にもまだいらっしゃるんですか?」
「あと一人だな」答えたのは祐司さん。「翼ってやつ。レアキャラだけどな。今度の散策には誘ってみる」
「彼ねえ……いいんじゃないですか彼は」
 会長の発言に、独特のねっとりとした口調で反対を唱えたのは八郎さんだ。
「なんだよ、お前まだあいつと仲悪いのか。同じオタク仲間じゃないか、仲良くやれよ」
 祐司さんは水を張った灰皿に煙草を押しつける。
「オタク仲間って、祐司さんは何でもかんでも十把一絡げにするんだからあ。オタクにもいろいろと派閥はあるんですよ。もっとも、私が彼を苦手なのはオタク趣味の対立ってわけじゃあ、ないんですが」
「俺からすりゃ皆同じに見えるがな。それで、あいつのなにが嫌いなんだ」
「嫌いってんじゃあないですよ。ただね、私には彼の心の内がよくわかるというか、小狡い考えが透けて見えるんですよ。結構、僕らのことをよく思っていないでしょう彼は」 
「心の内がわかるって、それじゃあやっぱり似たもの同士なんじゃないか。同族嫌悪ってやつだ」
 八郎さんは容赦のない指摘に閉口する。まだ途中だった煙草の火を乱暴に消して、また新しいものに火をつけた。
「似た部分があるってのは認めますけどねえ。その基準に立って、私と彼はたぶん真逆の方向に進んでるんだな」
 八郎さんは自分の言い訳に納得がいったようで、うんうんと頷いている。僕には二人の会話は抽象的すぎて、あるいは彼らという人間を知らなすぎるために、会話に参加する糸口がつかめなかった。
「そういうもんかね。まあ、俺もあいつの通ってる学校はヤバめだと思うが」
 祐司さんがいきなり、あらぬ方向に話を飛ばす。
「ぶはは、そうでしょうそうでしょう」
 八郎さんは煙を吹き出しておかしそうに笑う。
「その翼さんって人はこの大学の学生じゃないんですか」
 僕が訊ねると、祐司さんが下卑た笑みを見せる。
「ああ、お前だってそうだろう。うちは学歴不問のおおらかなサークルだからな。翼は年齢的には八郎と同じだが、通ってるのは近くの専門学校だよ」
「はあ、専門学校ですか」
「よく知らないが、漫画家だかイラレ? だかの学校らしい。俺の知り合いにも通ってるやつが何人かいるんだが、ヤバいぜあそこは。なんたって四則計算すらままならないやつが入学できるからな。そのくせこの前、翼に絵を描かせてみたら言うほどうまくもないっていうな。一体なんなんだあいつは」
 祐司さんは興が乗り始めたようで早口になる。他人の悪口を言う人間というのは、どうしてこうも生き生きするんだろう。八郎さんはというと、そのとき見せられた絵を思い出したのかなんなのか、部屋の隅に丸まって爆笑している。
 やがて、やっと呼吸が整った八郎さんは、目の端に涙をためて戻ってきた。
「はー、笑った笑った。いやあ、だって彼、めちゃくちゃ得意げに絵を見せてくれるんだもの。岬くんも今度頼んで見せてもらいなよお」
 そんな話を聞いた後では頼みにくい。
「まあまあとにかく、学は身を助けるってぇことですよ。岬くんも今のうちに勉強して、真っ当な大学に行きなさいよ」
 八郎さんは丸太のような腕で僕の肩を抱く。
「俺たちみたいにな、ふはは」
 祐司さんが言って、二人の男は顔を見合わせて笑った。
 すると、今まで静観していた妙子さんが口を挟む。
「やめなよ、二人ともみっともない。いない人間の陰口なんて」
 彼女は吐き捨てるように言った。悪役二人組は肩をすくめる。
「悪かった悪かった、冗談だっての」
 なだめるのは彼氏の祐司さんだ。
「まあまあ、いいじゃないですかあ。こういうのもコミュニケーションの一つですよ。私は、自分が陰口をたたかれるのも甘んじて受け入れますから」
 八郎さんが弁解するものの、
「そういう問題じゃないでしょ」
 妙子さんはかなり機嫌を損ねたらしい。おもしろくなさそうにじっと床を見つめる。「私、もう帰る」
 机に置いてあったショルダーバッグを引っ掴んで、出て行ってしまった。
「おいおい、待てって妙子」
 祐司さんが慌てて後を追う。残された僕と八郎さんは顔を見合わせて苦笑した。
「ありゃあ、帰ってきませんね。それじゃまあ、解散ってことで。岬くん、斎くんにも伝えといてくれよ。鍵のやり方は斎くんに聞いてくれればいいから」
 八郎さんが重たそうに腹を揺らして出ていくと、集まりはお開きになった。
 その直後、飲み物を持って帰ってきた三石くんはがっかりしていた。


****


「どうして僕を置いて出て行っちゃうのさ、心細かったよ」
 大学からの帰り道、隣を歩く三石くんに僕は文句を言っていた。
「ジュースを買いに行くなら僕も連れていってくれればよかったのに」
 我ながら女々しい言い分だと思うが、一言いってやらねば気が済まなかった。サークルに誘うときに僕をフォローすると言っておいて、実際になるとほったらかしなのだから。
「ばか、あれはむしろ気を利かせてやったんだよ。俺だって別に喉なんて渇いていなかったんだ。先輩たちと早く打ち解けた方がいいと思ったんだよ」
 言いながら、三石くんはメロン味の炭酸飲料をおいしそうにあおっている。僕を気遣ったなんて疑わしいものだ、彼はいつだって自分が楽しむことを一番に考えている。僕はそれ以上愚痴を漏らすのを抑えて、本当は祐司さんが飲むはずだったコーラに口をつける。度を越えた糖分が、僕の怒りまで飲み込んでしまった。
「いいけどさ」
 追求を緩める僕の顔を見て、三石くんはうれしそうにする。
「その様子じゃあ、別に何かやらかした訳じゃないんだろう」
 僕は先ほどまでの会話を思い出した。確かに、遊覧会の人たちに嫌われるような振る舞いはしていなかったと思う。でもそれは、僕が一方的にそう思っているだけかもしれないのだ。
「お前は自分で思ってるほど口べたじゃないし、人に嫌われるたちでもないさ」
「そうかなあ」
 三石くんはそういうけれど、僕にはそれなりの――決して誇ることができない――実績があるわけで、にわかには信じられない。
「楽しくなりそうだろ」
 素直にそう思っているのか僕をからかっているのかよくわからない三石くんの言葉を聞き流しながら、それでも、自分の心に小さな期待を見つける。空を見上げると、すっかり夜の更けた黒塗りのキャンバスに、明るい星が二、三輝いていた。

     

 翌日、遊覧会の人たちに忘れられないうちにもう一度顔を出しておこうということで、三石くんと一緒に、再びサークル棟を訪ねた。まだ面識がなかった翼さんという人にも、散策の前に会っておきたいという思惑もあった。
 しかし訪ねた部屋には、祐司さんと八郎さんだけしかいなかった。集まりがよくないというのは事実らしい。二人は折りたたみ椅子に腰を下ろして、例によって煙草を吹かしていた。部屋のドアを開けた途端、こもっていた煙が肺に侵入してきて、僕は思わずせき込む。
「なんだ岬、いやみかよ?」
 祐司さんが短くなった煙草をもみ消す。
「いや、そんなつもりは……」
「冗談だよ冗談」
 この人の冗談はわかりずらい。僕はほっと胸をなで下ろすと、八郎さんが用意してくれた造りの悪い椅子に座る。三石くんは勝手知ったる、という感じで部屋の奥のガラクタから一番ましな椅子を見つけていた。
「うーん」
 頬杖をついて、灰皿に泳ぐ吸い殻を目で追いながら、祐司さんは言った。
「岬も吸ってみるか」
 早速内ポケットから煙草のケースを取り出す彼を見て、僕は慌てて首を振る。
「無理です無理です。僕、未成年ですし」
「知ってるよ。別にそんなに神経質になるこたないだろ、親にビールを舐めさせてもらったことぐらいあるだろうに」
 言う通り、家でお酒を舐めたことくらいはあったが、それでも煙草を吸うのには強い抵抗がある。僕の中で煙草のイメージといったら、中学の頃、学校の中でもとびきり質の悪い不良の人たちが、トイレで隠れて吸っていたという記憶だ。僕のような保守的な人間には受け入れがたい。
「何事も経験だって、ほら」
 祐司さんは取り出した煙草をこちらによこした。八郎さんは僕が困っているのを横目で見ながらおもしろそうにニヤついている。
「斎もどうだ?」
 祐司さんから突然の飛び火にも、三石くんは動じない。
「この前散々吸わせたじゃないですか。俺には合いませんよ。まずいです、あれ」
「なんだよ、友達甲斐のないやつだな」
 サークルにおける、喫煙者の勢力図を憂慮しているんだろう。第二の標的を失った祐司さんは、一層こちらに期待を寄せて見つめる。
「まずいかあ。うん、よし、岬には初心者向けのやつを吸わせてやろう」
 彼はそう言うと、部屋の奥の散らかった一角をひっくり返し始めた。
「確かこの辺にあったよな……あった」
 祐司さんはローマ字で銘柄の書かれた、カッコつけた感じのパッケージを掲げる。もはや断れる段階ではないなと思った。
「わかりましたよ」
 僕は観念して煙草を口にくわえる。祐司さんが先端に火をつけた。
「息を吸え、ストローでジュース飲むみたいに」
 言われたとおりにすると、細い棒の芯のあたりが赤く光る。吸い込んだ煙をどこにやればいいのかわからず、僕は口をつぐんだまま硬直した。
「そのまま肺まで吸い込め」
 煙を吸い込もうと喉で受け入れた瞬間、痛みのような刺激を感じた。我慢して思い切り息を吸い込んで、反動で煙を吐き出す。薄いもやみたいなのが僕の口から立ち上った。
「そうそう、うまいだろ?」
「味なんてわかりませんよ」
 僕は気管に残っている異物感を追い出そうとしきりにせき込んだ。
「うーん、鼻から吐き出すと味が良くわかるんだが」
 そのあとも祐司さんは、煙草のおいしい吸い方を僕に教えようとしてくれたけれど、最後まで、あまり好ましいものとは思えなかった。むしろ、吸い殻を灰皿の水に漬けたときに、くすんだ黄色が広がるのを見てしまったから、二度と煙草を吸うのをやめようと心に決めた。
 ただ、自分が恐れていたよりは極悪な、というのは失礼かもしれないけど、酷いものではなかったような気がした。反対に、こんなものの虜になる気持ちもよくわからない。中学のときの不良たちがこれだけためにトイレに見張りをたてていたのかと思うと、なんだか滑稽だ。

 部屋に集まるのが男だけだと――とくに今日のメンバーは比較的下劣な類だから――自然と卑猥な方向に話が進む。
 八郎さんが、下宿先に母親が来るとかで、親には見せられない性的な娯楽、AVとか同人誌とかを持ってきていて、それを皆で鑑賞しようという話になった。
「いやあ、重かったですよ」
 八郎さんは五つに及ぶ段ボールを部屋の中心に置いて開封し始める。そのどれも、中身が隙間なく埋まっている。
「量多すぎでしょ、どんだけ持ってるんすか」
「そうかい斎くん? これでも随分と持ってくる量を減らしたんだけどねえ。ノーマルな趣味の、普通のレイプものとかのやつは残してきたし」
「レイプはノーマルじゃないっすよ」
 三石くんはあきれ顔だ。
「どれどれ、見せてみろよ」
 祐司さんは汚いものでも持つみたいに指先だけで、女性の裸が描かれた漫画をつまみ上げる。
「ひどいなあ祐司さん、私の宝物をそんな、汚物じゃないんですから」
「だってお前の精液とかついてそうだもん」
「はは、否定はしませんがねえ」
「いや、否定してくださいよそこは」
 驚いたことに、あの三石くんが大学では突っ込み役らしい。
 八郎さんに断りを入れて、僕も漫画を手にとってパラパラとめくってみる。
「うわぁ……」
 中には、巨大なバッタに組み敷かれて泣き叫ぶ、幼い女の子がいた。
「すごいですねこれ」
「興奮するだろう、岬くん」
「興奮、いや、僕にはちょっと……もうちょっとソフトなやつないんですか、女の子の方も幸せそうにしてるのがいいですよ」
 注文を付けたものの、ちょっとカマトトぶってしまったなと後悔する。女の子が苦しんでいるのも、それはそれでアリだと思う。
「ほとんどの漫画じゃ、最終的には女の子も快楽で幸せになってるんだけどねえ」
 八郎さんは創作的エロ文化に一家言あるらしく、持論を語り始めた。
「どんなハードな展開でも、漫画だとかアニメの中だったら大して嫌悪感はないもんなんですよ。可愛いキャラクターが喘いでいればそれだけでいいんです。汚い部分は目を向けないで済みますからねえ、その手のは。でも、そんなものは性癖と呼ぶにはふさわしくありません。真に変態というものはね、現実世界でもそれを成し遂げなくちゃいけないんだ。触手やらニプルファックやらは現実にはできませんけど、例えば小学生以下の女子とセックスするだとか、女性のうんこを食らうだとかね。そこまでやって初めて異常性癖だって胸を張って言えるんですよ。…………ですよね会長」
 祐司さんは手に持った漫画をぶん投げた。
「俺に振るなよ! あと異常性癖に胸を張るな。お前、マジにどっかで盗撮とかしてねーよな。いやだぞ、うちのサークルから犯罪者を排出するのは」
「いやだなあ、してませんよ。私は三次元的な欲求は風俗で発散してますから」
「俺はお前の相手をする風俗嬢が不憫だよ。つくづく業の深い職業だよな、性風俗ってのも」
 僕は八郎さんの話を聞いて、もう昔のことのようになってしまったレイプ現場を思い出していた。あの場にいた彼らも、八郎さんと同じような心持ちで事に当たっていたのだろうか。
 漫画の同じページを開いたまま追想に耽っている僕を見て、八郎さんが声をかける。
「岬くん、どうかしたかい」
「えっ、あ、いえ」
「その漫画、おもしろかった? 君も好き者だねえ。ちょっと外に出かけてバッタ取りに行こうか? 虫網ならあるよ」
「ち、違いますよ」
「お前みたいな、おとなしいやつに限って……ってのもありがちだよな」
 祐司さんが意地悪に言う。
「ないですないです、普通ですよ僕は」
「そういう祐司さんはどうなんすか、妙子さんと?」
 今度は、三石くんが思わぬ方向に攻め入ってくる。
「どうしてそこで妙子が出てくるんだよ。いいよ俺の話は」
 祐司さんはこれまでとうってかわって消極的だ。
「そんなこといってぇ、裏ではお二人でアブノーマルなプレイを楽しんでいるんじゃないですかあ」
 八郎さんまで乗っかって、今度は祐司さんが追い詰められる。
「ばか、妙子の性格はお前等もよく知ってるだろうが。変な要求したらすぐに機嫌悪くするんだからあの女は」
「ほうほう、変な要求、例えば?」
「八郎、しつこいぞお前」
「いいじゃないですか。独り身の僕らにも祐司さんの幸せを分けてくださいよぉ。……あ、いや、斎くんが今フリーなのは知ってるけど、岬くんには聞いてなかったなあ。君、恋人いるの?」
「いませんよ」
「そう。まあ君は少しお堅い感じがするもんね。高校生の恋愛なんて不純異性交遊だ」
「そこまでは思ってませんけど」
 恋人がいなさそうという旨の指摘を――主にいやらしく遠回しに――されたことが僕は今まで何度かあって、その度に釈然としない敗北感を味わわされる。実はこの間、女の子に告白されて、惨たらしく振ってやったばかりですよ、といってやりたい衝動がこみ上げるが、すんでのところで飲み込んだ。
「というかこの状況だったら、もし恋人がいても絶対打ち明けないでしょうけどね、俺だったら」
 三石くんは笑う。
 それを聞いて、八郎さんが先ほどまでの流れを蒸し返した。
「ああ、そうだった、それで、祐司さんは妙子さんとどんな変態プレイを試みたんですか」
「はあ、しょうがねぇな」
 祐司さんは嫌々という体を保ちつつも、声色に自慢を滲ませる。この人も大概だ。
「例えば、後ろの穴でしようって言ったことがあってな」
「ほうほう、アナルですか。定番のようでいて、現実やってる人は中々少ない行為ですよあれは。それで、妙子さんはなんておっしゃってたんですか」
 八郎さんは身を乗り出して聞いている。
「最初はまあ、協力してくれたんだよあいつも。いきなり本番はきついだろうってことで、長時間穴の中にローター入れたりしてさ。サークル来てるときも内緒でつけさせたことあったんだぜ。タイミング見計らってスイッチで振動させたりしてさあ。思い返せば、あの頃が一番幸せだったなあ」
 祐司さんは少年の日を懐古するような、温かい表情で思いを馳せている。知らない人から見れば、まさか彼の脳裏に、振動する肛門が浮かんでいるとは思うまい。八郎さんは歓喜の雄叫びをあげて部屋中を跳ね回っている。僕と三石くんははっきり言ってどんびきだ。
「それでそれで、どうなったんです」
 八郎さんは鼻息を荒くして先を促す。話の起点からして色気のある結末にならないことはわかりきっているのだが、そんなことすっかり忘れてしまっているみたいだ。
「それがさあ、だんだん穴も柔らかくなってきて、いざ本番ってときよ。さすがにそのまま突っ込むのは衛生的にやばいから、浣腸もたせてトイレでさせたわけさ。したらさあ、しばらくして、めっちゃ絶望した顔でトイレから出てきて、『やっぱやめる』って」
「はあ? どうしてですかここまできてえ。ありえないでしょう!」
「なんで八郎がキレてんだよ。……いやさ、なんでも、トイレで何回も浣腸してる自分が情けなくなったんだと」
「っはぁー、いらんプライドの高い女ですねぇっ!」
「いや、だからなんで、お前が俺の恋人をけなしてんだよ」
「すみません、つい熱くなって」
「……まあ、それはともかく、パートナーとして非協力的な態度には時々うんざりするぜ」
 祐司さんは肩を落とす。妙子さんに関する、下の話はそのあとも延々と続いた。
 そうして話が怪しい盛り上がりを見せている最中、いきなり部屋の扉が開いた。
 今日も足を長く見せるパンツに、唇には紅い口紅を差したクールな格好で、妙子さんが入ってくる。
 机を挟んで円を作っていた僕たちは一瞬で凍り付いた。何か世間話でもしてごまかせばいいものを、誰もが示し合わせたように黙るものだから、いよいよ不自然だ。当然、妙子さんは不審に気付き、怪訝な顔をする。
「何、今度は私の悪口? やめてよね、もう」
 妙子さんは呆れつつも大して気にしていない。ただの悪口だったら、まだましだった。僕は妙子さんの体をちらりと見る。布地に締め付けられた骨盤と、そこから伸びる長い足から、祐司さんの話に連想される痴態を想像してしまう。たぶんこの場にいる誰もが同じ事を考えたろう。男たちの心は一つになった、と感じた。
 結局、その日は最後まで、妙子さんに対する後ろめたさを消せないままだった。

     

 サークルの方にはこれといった問題がなかったけれど、藤崎さんとの一件に関して、僕の誤算が明らかになったのは一月も経たないうちのことだった。
 その日は、最初の集まりからすっかりご無沙汰になっていた、文化祭委員の仕事の機会だった。担当の先生に仕事の連絡を受けたとき、僕はすぐにしまったと思った。
 告白を断ったとき、なぜだか僕の中で、藤崎さんとの関係は完全に清算できたと思いこんでいたけれど、元々きっかけは文化祭委員で一緒になったことだったのだ。そうくれば必然、文化祭が近づくにつれて、僕たちが顔を合わせる回数は増える。最初から、このことは懸念としてあったのに。僕は自分の計画性のなさを後悔した。あのときはまだ返事を保留するなりなんなりして、結論をあと延ばしにするべきだったのかもしれない。
 もっとも、委員の仕事もこれからというときに、告白を断行した藤崎さんにも同じことが言える。彼女は僕と違って勉強ができるけれど、頭がいいわけではないらしい。しかし、そこでふと思いつく。彼女の告白を僕が受け入れておけば、カップルで文化祭の準備に臨むという甘酸っぱい、青臭い時間を過ごすことになっていたのか。あるいは、彼女はそれを見込んで僕に告白したのかもしれない。『一緒に青春しよ?』彼女がかつて言った言葉が頭の中でこだまする。僕は頭を振って空想を払った。


 僕たち四組の文化祭委員に割り当てられた仕事は、校舎の下駄箱に立てる、掲示板の設計と組立だった。掲示板には各クラスの出し物が掲載されて、来場する保護者達を案内する意味もある。作業の初回である今回の活動は、大まかな形やコンセプトを決めることだ。
 放課後の空き教室、二人きり。机を挟んで座り、アイデア用のコピー紙を置いて向かい合う僕たちの間には、きっとマリアナ海溝よりも深い、心理的な溝が横たわっていた。
「…………」
「…………」
 異様な状況はもう七分に及んでいた(ずっと時計を見つめていたので、この時間は正確だ)。
 両者とも、一言すら発する気配はない。このまま放っておけば、一時間でも二時間でも黙っているだろう。もうそれでもいいかもしれない。無責任な考えが頭にかすめるけれど、問題もある。僕らが仕事を進めなければ、文化祭委員をまとめる、あの情熱的な女教師からお叱りを受けるだろうし、僕らの個人的な事情で、文化祭に参加する全員に迷惑をかけるのは本意ではない。仕方なく、僕は口を開いた。
「えーと、どうしようか藤崎さん」
「は、はいっ」
 僕が呼びかけると、藤崎さんは限界まで縮こまらせていた体をびくりと震わせる。視線は僕の顔を見ずに、胸の当たりでうろうろと泳いでいる。僕は哀れな気持ちになった。対人関係について、指図できるような立場ではないと自覚はしているけれど、彼女の不器用も疑いようがない。
「掲示板のことなんだけど……」
「う、うん、そうだよね、話し合わないと。ごめんぼっーとしてて」
 彼女は冷や汗を拭うと、シャーペンを取り出して紙の上に遊ばせる。なにかフォローした方がいいかと思ったけれど、僕が言ってもどうせ逆効果なので、強引に仕事の話を進める。
「あまり労力は割けないし、全体のつくり自体は簡単な方がいいよね。装飾は、後付けできる色紙とかでやろうか」
「うん、うん」
「サイズだけは、全部のクラスの分を貼らなくちゃいけないから、大きい方がいいな」
「うん、うん」
「材料は木材でいいよね」
「うん、うん」
 藤崎さんはたぶんまともに聞いていないけれど、僕の言ったことをそのまま紙に書き付けている。ブリキ人形みたいに頷いて手を動かす彼女を見ていると、悪戯がしたくなる。
「ところでさ、おでんにこんにゃくって正直ナシだよね。汁が染みないから」
「うん、うん」
「……藤崎さんて家でオナニーとかしてるの」
「うん、う……へっ!?」
 藤崎さんは用紙に『オナ』と書いたところで、やっと異変に気がついて、調子っぱずれの声を上げる。見る間に顔が赤く染まっていく。相変わらずからかい甲斐があるなあ。
「な、なに、突然」
「いや、全然話を聞いてないみたいだったから」
 そう言うと、今度は顔を青くする。表情が忙しく変わる人だ。
「ごめん」
 うつむく彼女から、僕はシャーペンと用紙を奪い取った。
「基本は僕の方で考えてみるよ。藤崎さんは何か良いアイディアがあったら提案して」
「ごめん……」
 結局その日は僕だけで作業を進めた。それでも、掲示板の完成形から必要な材料や作業を逆算していくのは楽しくて、僕は一人、充実した時間を過ごした。案外、僕はこういう職業に向いているのかもしれないなと、取り留めもなく思った。

       

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