斉藤武雄の忘備録
その6
Ⅵ
散髪屋の前で、僕は右往左往していた。入ろうか、どうしようか。でも入ればきっと話しかけられる。そして理容師のおじさんに、「最近はどうしているのか」と聞かれるに決まっている。それが怖くて仕方ない。特に何もしていない、と言うときっと僕は白い目でみられるだろう。その歳で、何もしてないってどうなの? と。
だけど僕が何もしてないのは事実だった。強いてしていることといえばオナニーとネットサーフィンくらい。それ以外のことは何もしていない。
何もしていない、というのでさえ語弊があるのかもしれない。何もする気が起きない、というのが正直なところだからだ。
高校生の頃の僕は、学校に行きたくなかった。行きたくなくて、行きたくなくて仕方なかった。だから正直言うとニートが羨ましかった。無限と思えるくらいの潤沢な時間を、全て自由に使えるニートが羨ましくて羨ましくてたまらなかった。学校のつまらない勉強とは違って、好きな学問の勉強だっていくらだってできるし、好きな時間に寝起きもできるし、好きな時に好きな場所に行くこともできる。何にも制約されることのない時間を優雅に過ごすことができる。そんな人生が一時でも送ることができたら、なんと素晴らしいことか。高校生の頃はよくそう思っていた。だけど現実は違っていた。
有り余る時間があって楽しいのは、最初だけなのだ。ニート生活、楽しいのは最初の数か月だけ、である。あまりに時間がありすぎると、やることがなくなっていくのだ。やりたかったゲームも数か月の内にやり尽くしてしまうし、あんなにやりたくてたまらなかった数学の勉強でさえ、大学のテキストの最初の数ページを読んだ程度ですぐに挫折して、それっきりやらなくなってしまったのだ。
思い描いていた差し当たりのやりたいことを、手につけては飽きて、やらなくなってしまった、ということを繰り返していく内に、何もする気がなくなったのだ。
惰性でパソコンの電源を入れて、暇つぶしのためにネットサーフィンをして、合間にオナニーをする生活。これがひきこもり始めてからの僕の毎日だった。外に出ることも日を追うごとに少なくなっていった。
だから、僕が本当に何もしていないというのは事実だった。そんなに時間を持て余して、何をしていたのかと理容師さんに聞かれても、いや何もしていないんです、としか言いようがないのである。
そんなことを普通に働いている人に言ったって、不気味な顔をされるに決まっている。だから僕は散髪屋の前で右往左往している。一歩を踏み出せずにいる。
このまま、「今日は散髪屋休みだったよ」と母親に嘘をついて、家に帰ってやろうかと思った。ちょうどその瞬間だった。馴染みの理容師のおじさんが僕に話しかける声が後ろから聞こえた。
「おお、武雄くん、久しぶりじゃないか。二年ぶりくらいか」
「は、はは……」
「……その様子だと髪、またうちで切りにきてくれるようになったのか」
「まあ……その……そういうことです……」
「そうかそうか! しばらく来ないもんだから、どうしたものかと思っていたところだよ! さあさあ、そうと決まれば、早く中入って入って」
そう言って理容師のおじさん、つまり山内さんは、僕の手を引いて散髪屋のドアを引く。ドアを開けた先に待っていたのは、数年前とは変わらない、髪を切る前に寝てしまいそうな、落ち着いたシックな雰囲気の空間だった。
「じゃあ……その、歳も近いしカットは新米の翔也で……いいかな?」
「は、はい」
「じゃあ翔也、カットお願い」
「はいわかりました」
そう言って、翔也という男が僕の後ろに立つ。
「さ、最近この散髪屋で働き始めた、山内翔也です。よ、よろしくお願いします」
「は、はい」
やけにたどたどしい自己紹介だった。すると後ろの方から声が聞こえた。
「翔也はね、僕の息子なんですよ。昨年理容師の免許を取得して、去年の暮れからこのお店で働き始めたんです。まあ、歳も近いことですし、仲良くしてあげてください」
「は、はい……」
「山内翔也です。よ、よろしくお願いします
「お湯加減はいかがでしょうか」
僕の髪をお湯でゆすぎながら、山内翔也が僕に話しかける。
「だ、大丈夫です……」
と僕。コミュ障っぶりを発揮してしまった。
その後、髪型の希望を聞かれた。いつも通り……と言っておきたかったところだけど、恐らく彼は僕の「いつも通り」を知らない。だから、後ろ髪は特に短め、あとは全般的に短めでお願いしますと、いつもより事細かに僕は希望を出した。
「わかりました」
そう言いながら、山内翔也はシャワーで濡れた僕の髪をドライヤーで乾かしていく。
その後、ドライヤーをはさみに持ち替えて、山内翔也は僕の髪の毛にはさみを入れる。はさみを入れながら、差しさわりのない話を淡々と振ってくる。対応できる話もたくさんあったけれど、やはりこれはここ数年のひきこもりが効いているのか、上手い返しが思いつかない。だから会話のキャッチボールは、二往復も続かずに終わってしまう。そんな風なやりとりを数回繰り返すと、まるでそれに飽きたかのように、山内翔也は自分の人生をつらつらと話していく。彼の人生譚を、僕は緊張の中でぼんやりと聞いていた。
山内翔也がつらつらと話していく。小中学校の頃の僕は、遊ぶことが何より好きな、特に何も問題もない普通の子だったんですよ、と。でも高校に入ってから、少し調子がおかしくなってしまったんです。体の調子が悪かったせいなのか、心の調子が悪かったせいなのかは未だにわからないのですが、何だか自分が自分でいるためのバランスが、高校に入る頃を境に崩れてしまったんです。それで、学校にも次第に行けなくなってしまって、高校二年生の頃には少し不登校に陥るようになってしまって。でも何とか高校は卒業させてもらえたのですが、その間に一回も教科書を開くことすらなくて、大学に進学する気は一応あったのですが、どうにも勉強する気が起きなくて、そんな体で受験をしても、受かる大学なんて一つもなくて。それに、不登校のせいで学内推薦だって取れなかったんです。なので高校卒業後、僕はニートになってしまったんです。一念発起して、浪人して勉強でもすればよかったのですが、そんなやる気もどうにも湧いてこなくって。だから、高校卒業後の僕は、正真正銘のニートだったんです。
それでしばらくは何もしないでニートをやっていたのですが、その僕に見るに見かねた父親がですね、いつもはぶっきらぼうな癖に怒るばかりな人なんですけど、この時ばかりは話し合いの場を設けてくれて。それで、その週の金曜日の晩、午後九時から、僕と父親でサシで話し合うことになって。翔也、おまえは一体これからどうするつもりなんだ、お父さんはおまえの進路に口を出すつもりはないが、何もしないままずっと家にいるのはどうなんだと。その一言を聞いた時に、かちんときちゃって、怒っちゃったんですよ。人の気も知らないくせに、偉そうなこと言いやがって。都合の良い時だけ親の面しやがって、ふざけんじゃねーよって。そんなに口出すくらいなら、何で子供のために、酒癖悪い癖に酒をやめなかったんだよって。そうがつんって言ってやってんですよ。そうしたら父親、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていて、それが今でも印象的で。
でもその言葉が口から出たのはでまかせじゃないんです。僕は父の悪い酒癖のせいで、随分と苦労しましたから。そのせいで、何故だかわからないけれど辛かった高校生が余計に辛かったのも、それはそれで事実なんです。
でも、父親のせいでニートをやっているのか、と言われればそうではないことは自分が一番よくわかっていたんです。自分が自分でない気がして、それでとても気持ち悪くて、だから何をするのも怖かったし、だから何もせずにニートをしていたんです。本当はそんなことくらい、自分が一番よくわかってたんです。でも父親にそんなことを懇切丁寧に説明するのも面倒ですから、父親との話し合いの場は、僕が父親に向かって酒癖の悪さを指摘して、ばつの悪い父親の顔を見るところで終了してしまったんです。
そこまで話すと、散髪そっちのけで語ってしまったことに気付いてしまったのか、山内翔也は鏡越しに少し赤面して、はにかんで「こんなこと話してしまってすいません」と、小さい声で小さく礼をした。
僕はぎこちない動作で少し会釈をすると、でも、と再び山口翔也の口が開く。
「でも、でもですよ。僕だって人生どうにかなってるんです。それも、きっかけは本当に馬鹿みたいで話すのも憚れるレベルの、そんなきっかけなんですけど。でも、案外人生ってそういうもんだと思います。きっと人生は大したことのないきっかけの連続で、大した人生を送れるかどうかなんて、一年先は予測できたとしても、数年、数十年先に大した人生を送れているかなんて、そんなの常人には絶対わかりっこないと思います」
話はわかる。で、だからどうしたと少しにらむような僕の目線を横目に、山口翔也は語るのをやめない。
「だから、その、なんていうか、僕は斉藤さんはもっと外に出た方が良いと思うんですけどね」
そうは言われても、という視線で目配せすると、それに呼応して山口翔也は少しだけ声のボリュームを落として話し始める。
「……まあ、そうは言ってもという話なんですけどね。僕もそういう時期があったのですごいわかります。正論を言われて、納得して、言われた通りに行動できればいいんですけど、そういう時期って、そうはいかないですもんね」
「は、はは……そうですね」
僕はそう愛想笑いをする。鏡を見てみると、ばっさりと髪を切られ、すっきりした顔立ちになっていた僕が映っていた。夢中に話しながらも、しっかり仕事をこなしていくあたりは、やはり彼は散髪のプロなのだ。
「今日はこれくらいの短さでよろしかったでしょうか」
僕の髪を鏡越しに見ながら、山口翔也は少しはにかんだ顔で僕に話しかける。
「あ、はは。これくらいの短さで大丈夫です。きょ、今日はありがとうございました」
そう言って僕は散髪台を立って会計に向かう。五千円札を支払いに出す。二千円ちょっとのお釣りが返ってくる。
「今日は父から一時期の僕みたいな人が来ると聞いていたので、僕の体験談をたくさん話しちゃったんですけど、僕だけたくさん話してしまったみたいで、どうもすみません。同じような立場にいる人をみると、どうも放っておけなくって」
「い、いえいえ。そ、そんなことないですよ。きょ、今日はありがとうございました。はは……」
この人はまだ話し足りないのか、と内心では思いつつも、精一杯の愛想笑いを顔に浮かべて僕は散髪屋を後にした。
聞く一方だったけれど、これだけ生身の人間と話したのも数年ぶりかもしれない。僕のニート要素のどこに彼をあそこまで駆り立てるものがあったのかはわからない。でも、自然と悪い気はしなかった。
久しぶりに短くなった髪の毛を人差し指少し触ってみる。当たり前だけど短かった。もう目に刺さることのないくらいの髪の短さだ。人差し指からはわずかに爽やかな整髪料の匂いがした。
髪も切って小奇麗になったし、今なら何だってできそうな気がする。髪の毛を切った後に、毎回そう思っていた自分が、自分の中でかつていたことを思い出した。本当は、髪の毛を切ったくらいで中身も含めて、人間何も変わりはしないのに。
ポケットに放り込んだお釣りを指先で勘定しながら、これから本屋やコンビニでも行ってやろうかと考えていた。でも、すぐに怖くなって引き返すことに決めた僕がいた。本屋やコンビニすら人目を気にしてろくに行けないだなんて、なんて情けない人間に成り下がってしまったんだろう。でも、そんなことを責めたってしょうがない。だってこれが今日の精一杯なのだから。