壁の上に朝日が見えた。
ウッドの北。開かれた門の、すぐ前に三人はいた。
シエラとペイル、ボルドーである。三人とも、荷物を抱えている。
そこに、セピアとカーマインが近づいてくるのが見えた。
それぞれ、馬を一頭ずつ引いてきていた。
セピアは、いつもの服ではなく、ウッドの兵に近しい服を着ていた。
すっきりとした顔をしている。
「重ね重ねになりますが、本当にありがとうございました。私は、ここで父の下で、兵の一人としてやっていこうと思います」
「そうか」
ボルドーが、笑顔で言った。
「皆様方の旅が、良い旅になるよう、心から祈っています」
言った後、セピアが、こちらに目を向ける。
「シエラもありがとう。今までに、何度も助けられてしまったな。私の方が年上なのに」
そう言って、にこりと笑う。
「またいつか、真剣勝負をしよう。私も、ここで鍛錬に励む。絶対にいつか、シエラに勝てるぐらいに強くなるからな。私達はお互い、切磋琢磨できるような関係になれると思うんだ」
セピアが、うれしそうに言っているのを見て、シエラも少しうれしくなった。
「前にも言った、私なりの正義。私は、それをできるだけ通す道を選んでいくよ。いろいろ見てきたけど、それには、やはり強くならないといけないからな」
シエラは頷いた。
「ちょいちょい待て待て。俺との決着も、まだついてないのを忘れてないかい?」
ペイルが、親指を自分に向けて言った。
「そうですね。いずれ決着をつけましょう」
「お、おう」
もっと、言い争いのようになると思っていたのか、ペイルは、拍子の抜けた表情をした。
「その馬は?」
ボルドーが言った。
「将軍の指示で、山城までになりますが、私が案内させていただくことになりました。馬を使えば、半日ほどで到着することができますので」
カーマインが言う。
「では、シエラ。ここでお別れだ。必ず、また会おう」
セピアが笑って、手を差し出した。
シエラは、再び頷いて、その手を握りしめた。
山あいの、谷間のような道が続いた。
ごつごつした、岩や土だけの道である。
馬は二頭で、操っているのは、ボルドーとカーマインである。
ボルドーの後ろにはシエラが、カーマインの後ろにはペイルが乗った。
初めて馬に乗った。馬車とは比べものにならないぐらいの振動と恐怖である。想像していた以上に高いと思った。シエラは、ボルドーの背中にしがみついていた。
しばらく、その谷間のような道を走っていたが、やがて、視界が開ける場所にたどり着いた。
いつの間にか、随分と山を上がってきたようだ。
大山は相変わらず、前方で変化はないが、他の山々は、低くなっていた。山城が、もうすぐそばに見えた。
「おお、すげえな」
ペイルが、後ろを見て言った。
シエラも振り返ると、随分と遠くまで、景色を見渡せることができた。
あそこを、自分が通ってきたのか。遠くから見ると、不思議な気分だ。
さらに数十分、馬を走らせると、小さな小屋が見えた。
「馬で行けるのは、あそこまでです」
そこからは、一気に角度が険しい斜面を徒歩で登った。一度、途中で休憩を入れて、さらに歩く。
中天に掛かった太陽が、傾きだした頃に、ようやく山城にたどり着いた。
ウッドに比べると如何にも小さいが、守るには効果的な城だということは分かる。こんな所に城を作ろうと考えることがすごいと、シエラは思った。
「本当は、部外者は立ち入ってはならないのですが、今回だけは特別です」
カーマインが言った。
「悪いな」
「商人達には、くれぐれも内密に」
カーマインに着いて、中に入る。狭い通路をくぐって、真っ直ぐ進んだ。やがて、山城の北側に出た。
「おおっ」
ペイルが声を上げた。シエラも、同じ声が出そうになった。
ずっと、先まで大小様々な山々が続いているのが見えた。右手前方には、大山が根本近くから見える。雲が、途中に掛かっている。
「この山脈が、国境というわけだ。と言っても、こんなものがあると、境にせざるをえんがな」
ボルドーが言う。
「前にペイルが、先の戦争でここだけが破られなかったという話をしていたがな、ここは攻められなかっただけなのだ」
「え?」
ペイルが驚いた顔をする。
「北からここを攻めるのは、労力の割に、さして意味はない。山越えは難しすぎるからな」
「あ、そうだったんですか」
「本当に大変ですからね、この山々を越えるのは。冬ともなると、もう絶対通ることはできません。商人達の、商いのために見せる力には驚くばかりですよ」
カーマインが言った。
「まったくだな」
「北の国にも、さらに北があるのですよね?」
シエラが言うと、三人は不思議そうな顔をする。
「ああ」
「陸地は、どこまで続いているのですか?」
ボルドーは少し考える顔をした。
「いろいろ話は聞くが、本当の所は分かっていないな」
少し、間を置いて、言葉を続ける。
「昔の知り合いにな。残りの人生を使って、陸地の果てを見てくると言って、北に旅立った男がいたのを思い出した」
「へえ」
ペイルが言う。
「その人はどうなったんですか?」
「さあな。もう、何十年も前に別れたきりだ」
ボルドーは、遠くに目をやった。
「陸地の果ては見れたのだろうかな……」
しばらく、四人は黙っていた。
少しすると、ペイルがその場で足を動かした。
「あの、カーマインさん。ここって用を足す場合の規則とかあるんですかね?」
「ええ、厠があるのです。案内しましょう」
カーマインに連れられて、ペイルは建物の中に入っていった。
二人だけになる。
「シエラ、この景色に見覚えはあるか?」
ふいに、ボルドーが言った。
言われて、少し考える。
どうだろうか。
この旅の間、自分の記憶に自信が持てないことが多かった。今更、自分の記憶など当てになるのか、といった自虐のような言葉が頭を過ぎった。
「分かりません。ない、と思いますが」
シエラは言った。
「そうか……」
言って、ボルドーは再び北を見る。
「実はな、国境を越えた、さらに北にドライという町がある、といった話を聞いたのだ」
シエラは、思わずボルドーを見た。
「ただ、シエラの故郷のドライであるかどうかは分からない。たまたま、同じ名前の町があるだけかもしれない」
言葉を続ける。
「もしも、仮にだ。その町が、お前の故郷だとする。だとすると、カラトとお前は、スクレイに入るために国境を越えているはずだ。それも恐らくこの山脈を。三年前のお前の足だと、相当大変だったはずだが、記憶にないというのなら、やはり違うのかもしれないな」
そう言われて、シエラはもう一度考えた。
確かに、こんな所を通っていたのなら、忘れるとは思えない。
でも……。
「シエラ、ドライでは雪が多かったか?」
「冬になると、毎年積もっていたと思います。ただ、特別多かったといった印象はありません」
「ふむ」
ボルドーは、息を吐いた。
「やはり、違うのかな」
何か、心地がいい。
前に感じる暖かさのためか、さっきから体に感じている軽い揺れのためか。
どっちにしても、心地がいいと思った。
何をしているんだっけ……。
目の前は真っ暗だが、明かりが重なって見えている。
自分が、目を閉じていることに気が付いた。
瞼を上げる。すぐ目の前には、まだ黒があった。
いや、人の頭だ。
そして自分が、誰かに背負われていることが、ようやく分かった。
目線を動かし、辺りを確認する。
一面真っ白だ。一体ここはどこなんだろう。
そして、これは誰だ?
「おはよう」
前にいる人が言った。男の声だが、随分涼しげな声だ。
そこまでいって、ようやくこの男が誰なのかを思い出した。
ただ、いつ背負われたかは思い出せない。
「寒くない?」
前の男が言う。
少し背中が寒いと思った。自分の格好を見ると、大量に服や毛皮を着込んでいた。
こんないい防寒着、今まで着たことがないのに、寒いのはどういうことだろう。
ただ、これ以上世話がかかる奴だと思われたくもないので、黙って頷いた。
「そうか」
そう言って、男は微笑んだ。
この笑顔だけは、どうにも不思議な気持ちになる。
そして、ようやく周りが、一面の雪原であることが分かった。自分や、男の吐く息も白い。そうか、寒いわけだ。
男は黙々と歩いている。
自分も、歩く体力は回復していると思った。ただ、もう少しだけこのままでいたかったので、降ろしてくれとは言えなかった。
本当に何だろう。この心地よさは。
「大山だ」
男が言ったので前を見ると、白い巨大な山が、左の前に見えた。
少し怖くなってきた。
あそこから先は、もう別の世界だ。まったく知らない場所、知らない人々。
何も知らない。それは、ただただ恐怖なんだ。
身体が震えていた。
「ごめん」
男が言った。
「俺には、俺を信じてくれとしか言えない」
何を今更、と思う。
「……信じる」
言っていた。そう言うしかない。
「ありがとう」
男が、また微笑んだ。
この笑顔が見たかったから言ったのかもしれない、とも思えた。
「信じるよ、カラト」
少女は英雄を知る
国境にて
冷えた風が当たった。
早朝、ボルドーは、山城の北側にペイルを呼んだ。
「何ですか?」
「まあ、こっちへ来い」
ボルドーは、ペイルを横に立たせた。
「わしとシエラは、これから国境を越えて、北に向かうことになった」
「え?」
ペイルの目が見開いた。
「どうしてですか? 東に向かうと、昨日まで言ってたじゃないですか」
「事情が変わった」
「事情?」
少しの間。
「教えてはもらえませんか……」
「いや」
ボルドーは、ペイルと目を合わせる。
「お前には、そろそろ話してもいいだろう。わしとシエラが旅をしている本来の目的をな。それを聞いた上で、お前は、どうするかを決めてほしい。着いて来るも来ないも、お前の自由だ」
ペイルが緊張をしたように、背筋を伸ばした。
昨日、ボルドーは迷っていた。このまま東へ行ってもいいものか、それとも北に向かうべきか。
結局、決めきることができず、日が沈みそうになった。
カーマインの厚意もあり、狭い部屋ながら、山城に泊めてもらうことになったのだった。異例中の異例だろう。
そして、深夜にボルドーは、シエラに叩き起こされた。
シエラは、泣きながら思い出したと言った。
どうやら、カラトとシエラが国境を越えたのは間違いないようだ。
しかも話を聞く限り、冬にだ。カラトは、冬の山越えを、シエラを背負ってやってのけたということになる。
信じられない、という思いと同時に、あのカラトなら、という思いもあった。
あの男の行動は、昔から、常軌を逸している。
そして、北に向かうことを決めたのだった。
話が終わる。ペイルは、難しい顔をして黙った。
「そうだったんですか……」
大まかに全体を話した。とりあえず、言い忘れたことはないはずだ。
「話を聞く限り、俺が何かの役に立つってことはなさそうですよね……。そんな俺が着いていってもいいんでしょうか?」
「構わん。シエラも、いいと言っていたしな」
ペイルが頭を下げる。
「俺は、まだまだ勉強させてもらいたいことが山ほどあるんです。迷惑でなければ、引き続きよろしくお願いします」
それで、決まりだった。
すぐに最後の準備を済まし、カーマインに、御礼と別れを告げた。
「では、行こうか」
三人は、北に向かって、歩き始めた。
みずぼらしい格好の男達が、岩陰などから姿を現し、行く手を遮った。
十数人といったところか。
全員、質の善し悪しがあれど、何かしらの武器を持っていた。
気味の悪い笑みを浮かべている者もいれば、目を見開いて、緊張しているような顔をしている者もいた。異様な臭いも鼻を刺した。
「持ってるもの、全部置いて行け」
その中の一人が言った。
少し発音が変だと、シエラは思った。
これが、賊というものだろう。
山越えに入って、数日が経った、昼だった。岩が重なり合うようにして山になっている場所だった。
数分前から、人の気配は感じていた。ただ、出てくるまで無視をしようとボルドーが言ったので放置していたのだ。
「死にたくなかったら言うとおりにしろ」
「あと、そこの娘は着いてきてもらおうか」
男達が、口々に叫んだ。
「この道を通る商人を食い物にしているのかな」
ボルドーが言う。
「俺たちに手を出そうなんて、百年早いってやつですね」
ペイルが、軽い笑みを浮かべながら、剣を取り出す。
あっという間に、決着はついた。
シエラとペイルは、鞘を被せたままの剣をつかって、数人を叩き伏せた。十人ほどを倒すと、残りは慌てて逃げていった。
「ちょろいちょろい」
「せっかくだから、町の場所を聞いておくか」
言うと、ボルドーは、倒れている男の一人の服を掴んで、引っ張り起こした。
男は悲鳴に似た声を上げる。
「ウエットという町を知っているだろ? どこにある?」
「あ、こ、ここから、三日ぐらいの所にある……」
「ウエット?」
ペイルが聞いた。
「山脈を越えて、すぐにある町だそうだ。思ったよりも、まだあるな」
ボルドーは、再び男を見る。
「随分、遠出をしてきているな。商人が通らなければ、町を襲うしかないだろう」
何気なし、という風に言った。
「あ、あそこは駄目だ」
男が言う。
「駄目?」
「俺たちは、ずっと前から、あの辺りにいたが、急に変な男が現れて、仲間が、何人も殺られちまった」
三人が顔を見合わす。
「と、とにかく恐ろしく、つええ。あいつがいる限り、あの町には近づけねえ」
男は、荒く呼吸をしながら言っている。
「用心棒か何かですかね?」
ペイルが言う。
「さあな。まあ、わしらには関係がないだろう」
ボルドーは、男を放した。
「ちなみに、その男とは、どんな奴だ?」
「あ、頭が禿げてる。あと、目が怖え。何考えてるか分からねえ目をしてる。そんで、仲間をあっという間に斬り殺していくんだ」
「あの人たちは、これからどうなるのですか?」
シエラは、思いついたことを口にした。
賊に襲われた場所から、数時間ほど進んだ所だった。
「言わずとも分かるだろう」
ボルドーが言った。
襲う商人がいない、町も襲えない。賊がそうなれば……。
彼らの先を想像しかけたが、すぐに止めた。
確かに、自分は何を聞きたかったのだろうかと思う。
あの人達を助けてやりたいと思ったのか?
……それとも、先に悲観しかない者だから、殺してやればよかったと?
頭に、他人の声のような言葉が響いた。
シエラは思わず、頭を振った。
「シエラちゃんが気にすることはないよ。ああいうのは自業自得っていうんだよ。山賊なんかやってるから」
「自業自得か」
ボルドーが呟く。
「賊になろうと思った者だけが、賊になるわけではないがな」
「え?」
「まあいい」
それで、話は終わりだった。
そこから三日ほど進むと、平地が見渡せる高台に行き着いた。
どうやら、山脈といわれるのは、ここまでのようだ。
「おお、越えましたね。思ってたよりも、あっさりだったな」
ペイルが言う。
「まあ、我々は心気の使い手だけだからな。こんなものだろう」
シエラは、また一つ疑問が浮かんだ。
「南には城塞があったのに、こっちには何もないんですね」
「ふむ」
ボルドーが、こちらを向いた。
「スクレイの北にある国、つまりはここだな、ここはクロスという国なのだ。この辺りは、クロスの最西端になるのだが、いくつかの隣国と接しているこの辺りは頻繁に支配国が変わる場所でもあるのだ。最近は、変わっていないらしいが」
「へえ」
相づちのペイル。
「つまりクロスが、戦略的に、ここから南に向ける軍事的対応に、労力を割く余裕はない、という考えなのだろう。というより、クロスの人口の大半は東に集中している。クロス自体、この辺りをあまり重視していないようなのだ。だからこそ、こんな簡単に入国できるのだろうが」
「あれ? ということは、南にも同じことが言えるんじゃないんですか? ここから、南に向けられる驚異はほとんどない、ということじゃないですか」
「ウッドは、古いからな。何十年も昔は、また勢力図が違ったようだ」
「あ、なるほど」
それから少し進む。
遠くに町並みが見えた。
ウエットの町に、三人は入った。
地理的な関係上、そんなに発展している町ではなかったのだが、最近は山脈を往復する商人達が通過するので、多少は宿場が整っているらしい。
それに、外来の人間に対しての、無条件な敵対心もないらしい。
大通りの、飲食店に入った。
「お客さん、大丈夫だった? 南から来る道には、今、追い剥ぎがいるのに」
料理を運んできた、四十代ぐらいに見える女性が言った。
「まあ、なんとか」
ボルドーが答える。店内は、商人らしき集団が何人か見えた。
「そういえば、この町には用心棒がいるそうですね。なんでも、かなり腕が立つとか」
「ああ……」
女性は、思い出すように目線を上げた。
「そうだったんだけどね、今いないのよ」
「というと?」
「実はね、その人、行き倒れていた人なのよ。道端に倒れていたのを、私が助けて介抱してやって。町の人なんかは、追い剥ぎの仲間じゃないかって疑ってたんだけどね、なんとなく私は違うと思ったのよ。目が覚めて話したら、受け答えも虚ろでね、どうやら記憶がないみたいだったのよ」
「ほう」
「無愛想で無口なんだけど、店の手伝いとかしてくれるし、ここに住まわせてたの。で、ある日、追い剥ぎ連中がこの町に来た時に、剣一本であっという間に追っ払ったってわけ。それで、町のみんなにも受け入れられたわけ。この町で、ずっといてくれると思ったんだけどね、何日か前に、ふらっといなくなっちまって」
「ふむ」
「お客さん、商人じゃないよね」
女性が、興味のありそうな顔をして言う。
「組み合わせが珍しいし、大きな荷物を持っていないもの」
「まあ、そうですね」
ボルドーが言った。
「こんな辺鄙な所を旅ですか? 物好きな人もいたもんだ。ちなみにどこへ?」
「ドライという町なのですが」
「へ?」
女性が、目を丸くした。
「……お客さん、知らないんですか。あそこは、もう人がいませんよ」
「えっ?」
ペイルが声を上げた。
「いない?」
「ええ、もう二年ぐらいになるのかなあ」
「ちなみに、どういう理由でかは知っていますか?」
ボルドーが聞いた。
「詳しくは知らないんだけど、いろいろ不幸が続いたみたいだからね。災害やら、疫病やら……」
シエラも、驚いたような顔をしていた。
実は、ボルドーは、ルモグラフからその話は聞いていた。ただ、彼も詳しくは知らなかったが。
食事を済ませる。代金は、スクレイの貨幣でも通用すると聞いていたので、それを払った。
「あの、もし見かけたら、帰ってくるように言ってくれないかい。頭に毛がない、三十代ぐらいの男の人なの。見かけたらすぐに分かると思うけど」
女性が、別れ際に言った。
三人は、さらに北に向かった。
見晴らしのいい平野で、右手には川が流れていた。
「なんだか、外国って感じがしませんね。言葉も通じるし、お金も使えるなんて」
ペイルが言った。
「ここらは、そうしないと、やっていけないからだろう」
シエラは、ずっと言葉を発していない。もともと無口ではあるが。
「あれ?」
先頭を歩いていた、ボルドーの背に、ペイルの声が当たった。
振り向くと、ペイルも後ろを向いていた。
「シエラちゃんが」
見ると、五十歩ほど後ろで、道を外れて立っているシエラがいた。
二人は引き返す。
「どうした? シエラ」
ボルドーが言っても、反応がない。ずっと、川の方を見ていた。
やがて、こちらに顔を向ける。
また、泣きそうな顔をしていた。
「何か、思い出したのだな?」
シエラは、一つ頷いた。
「こ、ここの川、知っている……もっと水が多かった……よく、水を汲みに来ていた……」
シエラが言うと、ペイルが興奮気味な顔で、こちらを向いた。
「間違いないってことじゃないですか」
ボルドーは、もう一度振り返って、道の先に目を凝らした。
ずっと先に、町らしきものが見える。
早朝、ボルドーは、山城の北側にペイルを呼んだ。
「何ですか?」
「まあ、こっちへ来い」
ボルドーは、ペイルを横に立たせた。
「わしとシエラは、これから国境を越えて、北に向かうことになった」
「え?」
ペイルの目が見開いた。
「どうしてですか? 東に向かうと、昨日まで言ってたじゃないですか」
「事情が変わった」
「事情?」
少しの間。
「教えてはもらえませんか……」
「いや」
ボルドーは、ペイルと目を合わせる。
「お前には、そろそろ話してもいいだろう。わしとシエラが旅をしている本来の目的をな。それを聞いた上で、お前は、どうするかを決めてほしい。着いて来るも来ないも、お前の自由だ」
ペイルが緊張をしたように、背筋を伸ばした。
昨日、ボルドーは迷っていた。このまま東へ行ってもいいものか、それとも北に向かうべきか。
結局、決めきることができず、日が沈みそうになった。
カーマインの厚意もあり、狭い部屋ながら、山城に泊めてもらうことになったのだった。異例中の異例だろう。
そして、深夜にボルドーは、シエラに叩き起こされた。
シエラは、泣きながら思い出したと言った。
どうやら、カラトとシエラが国境を越えたのは間違いないようだ。
しかも話を聞く限り、冬にだ。カラトは、冬の山越えを、シエラを背負ってやってのけたということになる。
信じられない、という思いと同時に、あのカラトなら、という思いもあった。
あの男の行動は、昔から、常軌を逸している。
そして、北に向かうことを決めたのだった。
話が終わる。ペイルは、難しい顔をして黙った。
「そうだったんですか……」
大まかに全体を話した。とりあえず、言い忘れたことはないはずだ。
「話を聞く限り、俺が何かの役に立つってことはなさそうですよね……。そんな俺が着いていってもいいんでしょうか?」
「構わん。シエラも、いいと言っていたしな」
ペイルが頭を下げる。
「俺は、まだまだ勉強させてもらいたいことが山ほどあるんです。迷惑でなければ、引き続きよろしくお願いします」
それで、決まりだった。
すぐに最後の準備を済まし、カーマインに、御礼と別れを告げた。
「では、行こうか」
三人は、北に向かって、歩き始めた。
みずぼらしい格好の男達が、岩陰などから姿を現し、行く手を遮った。
十数人といったところか。
全員、質の善し悪しがあれど、何かしらの武器を持っていた。
気味の悪い笑みを浮かべている者もいれば、目を見開いて、緊張しているような顔をしている者もいた。異様な臭いも鼻を刺した。
「持ってるもの、全部置いて行け」
その中の一人が言った。
少し発音が変だと、シエラは思った。
これが、賊というものだろう。
山越えに入って、数日が経った、昼だった。岩が重なり合うようにして山になっている場所だった。
数分前から、人の気配は感じていた。ただ、出てくるまで無視をしようとボルドーが言ったので放置していたのだ。
「死にたくなかったら言うとおりにしろ」
「あと、そこの娘は着いてきてもらおうか」
男達が、口々に叫んだ。
「この道を通る商人を食い物にしているのかな」
ボルドーが言う。
「俺たちに手を出そうなんて、百年早いってやつですね」
ペイルが、軽い笑みを浮かべながら、剣を取り出す。
あっという間に、決着はついた。
シエラとペイルは、鞘を被せたままの剣をつかって、数人を叩き伏せた。十人ほどを倒すと、残りは慌てて逃げていった。
「ちょろいちょろい」
「せっかくだから、町の場所を聞いておくか」
言うと、ボルドーは、倒れている男の一人の服を掴んで、引っ張り起こした。
男は悲鳴に似た声を上げる。
「ウエットという町を知っているだろ? どこにある?」
「あ、こ、ここから、三日ぐらいの所にある……」
「ウエット?」
ペイルが聞いた。
「山脈を越えて、すぐにある町だそうだ。思ったよりも、まだあるな」
ボルドーは、再び男を見る。
「随分、遠出をしてきているな。商人が通らなければ、町を襲うしかないだろう」
何気なし、という風に言った。
「あ、あそこは駄目だ」
男が言う。
「駄目?」
「俺たちは、ずっと前から、あの辺りにいたが、急に変な男が現れて、仲間が、何人も殺られちまった」
三人が顔を見合わす。
「と、とにかく恐ろしく、つええ。あいつがいる限り、あの町には近づけねえ」
男は、荒く呼吸をしながら言っている。
「用心棒か何かですかね?」
ペイルが言う。
「さあな。まあ、わしらには関係がないだろう」
ボルドーは、男を放した。
「ちなみに、その男とは、どんな奴だ?」
「あ、頭が禿げてる。あと、目が怖え。何考えてるか分からねえ目をしてる。そんで、仲間をあっという間に斬り殺していくんだ」
「あの人たちは、これからどうなるのですか?」
シエラは、思いついたことを口にした。
賊に襲われた場所から、数時間ほど進んだ所だった。
「言わずとも分かるだろう」
ボルドーが言った。
襲う商人がいない、町も襲えない。賊がそうなれば……。
彼らの先を想像しかけたが、すぐに止めた。
確かに、自分は何を聞きたかったのだろうかと思う。
あの人達を助けてやりたいと思ったのか?
……それとも、先に悲観しかない者だから、殺してやればよかったと?
頭に、他人の声のような言葉が響いた。
シエラは思わず、頭を振った。
「シエラちゃんが気にすることはないよ。ああいうのは自業自得っていうんだよ。山賊なんかやってるから」
「自業自得か」
ボルドーが呟く。
「賊になろうと思った者だけが、賊になるわけではないがな」
「え?」
「まあいい」
それで、話は終わりだった。
そこから三日ほど進むと、平地が見渡せる高台に行き着いた。
どうやら、山脈といわれるのは、ここまでのようだ。
「おお、越えましたね。思ってたよりも、あっさりだったな」
ペイルが言う。
「まあ、我々は心気の使い手だけだからな。こんなものだろう」
シエラは、また一つ疑問が浮かんだ。
「南には城塞があったのに、こっちには何もないんですね」
「ふむ」
ボルドーが、こちらを向いた。
「スクレイの北にある国、つまりはここだな、ここはクロスという国なのだ。この辺りは、クロスの最西端になるのだが、いくつかの隣国と接しているこの辺りは頻繁に支配国が変わる場所でもあるのだ。最近は、変わっていないらしいが」
「へえ」
相づちのペイル。
「つまりクロスが、戦略的に、ここから南に向ける軍事的対応に、労力を割く余裕はない、という考えなのだろう。というより、クロスの人口の大半は東に集中している。クロス自体、この辺りをあまり重視していないようなのだ。だからこそ、こんな簡単に入国できるのだろうが」
「あれ? ということは、南にも同じことが言えるんじゃないんですか? ここから、南に向けられる驚異はほとんどない、ということじゃないですか」
「ウッドは、古いからな。何十年も昔は、また勢力図が違ったようだ」
「あ、なるほど」
それから少し進む。
遠くに町並みが見えた。
ウエットの町に、三人は入った。
地理的な関係上、そんなに発展している町ではなかったのだが、最近は山脈を往復する商人達が通過するので、多少は宿場が整っているらしい。
それに、外来の人間に対しての、無条件な敵対心もないらしい。
大通りの、飲食店に入った。
「お客さん、大丈夫だった? 南から来る道には、今、追い剥ぎがいるのに」
料理を運んできた、四十代ぐらいに見える女性が言った。
「まあ、なんとか」
ボルドーが答える。店内は、商人らしき集団が何人か見えた。
「そういえば、この町には用心棒がいるそうですね。なんでも、かなり腕が立つとか」
「ああ……」
女性は、思い出すように目線を上げた。
「そうだったんだけどね、今いないのよ」
「というと?」
「実はね、その人、行き倒れていた人なのよ。道端に倒れていたのを、私が助けて介抱してやって。町の人なんかは、追い剥ぎの仲間じゃないかって疑ってたんだけどね、なんとなく私は違うと思ったのよ。目が覚めて話したら、受け答えも虚ろでね、どうやら記憶がないみたいだったのよ」
「ほう」
「無愛想で無口なんだけど、店の手伝いとかしてくれるし、ここに住まわせてたの。で、ある日、追い剥ぎ連中がこの町に来た時に、剣一本であっという間に追っ払ったってわけ。それで、町のみんなにも受け入れられたわけ。この町で、ずっといてくれると思ったんだけどね、何日か前に、ふらっといなくなっちまって」
「ふむ」
「お客さん、商人じゃないよね」
女性が、興味のありそうな顔をして言う。
「組み合わせが珍しいし、大きな荷物を持っていないもの」
「まあ、そうですね」
ボルドーが言った。
「こんな辺鄙な所を旅ですか? 物好きな人もいたもんだ。ちなみにどこへ?」
「ドライという町なのですが」
「へ?」
女性が、目を丸くした。
「……お客さん、知らないんですか。あそこは、もう人がいませんよ」
「えっ?」
ペイルが声を上げた。
「いない?」
「ええ、もう二年ぐらいになるのかなあ」
「ちなみに、どういう理由でかは知っていますか?」
ボルドーが聞いた。
「詳しくは知らないんだけど、いろいろ不幸が続いたみたいだからね。災害やら、疫病やら……」
シエラも、驚いたような顔をしていた。
実は、ボルドーは、ルモグラフからその話は聞いていた。ただ、彼も詳しくは知らなかったが。
食事を済ませる。代金は、スクレイの貨幣でも通用すると聞いていたので、それを払った。
「あの、もし見かけたら、帰ってくるように言ってくれないかい。頭に毛がない、三十代ぐらいの男の人なの。見かけたらすぐに分かると思うけど」
女性が、別れ際に言った。
三人は、さらに北に向かった。
見晴らしのいい平野で、右手には川が流れていた。
「なんだか、外国って感じがしませんね。言葉も通じるし、お金も使えるなんて」
ペイルが言った。
「ここらは、そうしないと、やっていけないからだろう」
シエラは、ずっと言葉を発していない。もともと無口ではあるが。
「あれ?」
先頭を歩いていた、ボルドーの背に、ペイルの声が当たった。
振り向くと、ペイルも後ろを向いていた。
「シエラちゃんが」
見ると、五十歩ほど後ろで、道を外れて立っているシエラがいた。
二人は引き返す。
「どうした? シエラ」
ボルドーが言っても、反応がない。ずっと、川の方を見ていた。
やがて、こちらに顔を向ける。
また、泣きそうな顔をしていた。
「何か、思い出したのだな?」
シエラは、一つ頷いた。
「こ、ここの川、知っている……もっと水が多かった……よく、水を汲みに来ていた……」
シエラが言うと、ペイルが興奮気味な顔で、こちらを向いた。
「間違いないってことじゃないですか」
ボルドーは、もう一度振り返って、道の先に目を凝らした。
ずっと先に、町らしきものが見える。