「あっつう……」
呟き、手団扇で顔を扇ぎながら、少女は座っていた木製の椅子を前後に揺らしてカタンと鳴らした。
全開にした窓の際から一望できるグラウンドには、部活動の後片付けをしている生徒がちらほらといるだけで、それ以外にはもうカラスくらいしか動くものは見えない。
もうほとんどの部活はその活動を終了して下校しているだろうに、それでもこの部室には未だに居残る二人の生徒がいた。
カタン、カタタン。
「…こーら。お行儀が悪いぞ」
椅子を揺り動かして器用に四脚の内の後ろ二脚だけでバランスを取って遊んでいた少女を、部室に残るもう一人が注意する。
こちらも短い髪、焼けた肌と少女と類似する特徴のある少年。
今が夏季であること、彼らが運動部員であることを鑑みれば、それは当たり前とも言える特徴でしかなかったが。
椅子に座り机の上にある紙にシャーペンでカリカリと何事か書き連ねながら、視線を机に固定したまま声だけを向ける少年へと少女は拗ねたように頬を膨らませる。
「だって、ヒマなんですもん。まだですか先輩。ってかいつまでメニュー作りに四苦八苦してるんですか?」
窓へ向いていた体を椅子ごと反転させて少女は待ちきれなくなったのか不満を口にする。部活が終わり運動着から着替えた制服の、チェック柄のスカートが椅子の反転によってふわりと揺れた。
「もうちょっと。短・長距離走組のメニューは作ったから、あとはハードルと砲丸と円盤と…」
「先輩、ハル先輩。作業が半分以上残っているのを『もうちょっと』とは言いません」
暑さのせいか気だるげな様子で少女が片手を突き出してツッコミを入れる。
ちらと視線を机から少女へ転じて、すぐに作成途中の練習メニュー表へ戻す。
「だから別に帰ってもいいって言ったろ?サエ。あんまり遅くまでいると、俺が送らないといけなくなるんだけど」
「それはそれで上等ですけど、それが嫌なら帰りましょー。最近帰り道にクレープの屋台が出来たんですよ、食べましょーよー」
「…別に送るのは嫌じゃないけどさ」
短く息を吐いて、ハルと呼ばれた少年はまだ途中だったメニュー表を丁寧に折り畳んで傍らに置いてあった学生鞄に仕舞って立ち上がる。
座っているとわからなかったが、腰を上げた彼の体は中肉中背ながらもしっかりと引き締まった筋肉があるのが夏制服の半袖ワイシャツの上からでもよくわかる。露出した二の腕も、砲丸投げや円盤投げ等の投擲選手でないにも関わらずがっしりとしている。
「まあメニュー作るのは家でも出来るしな。完全に日が落ちる前に帰ろうか」
「おー、マジすか先輩。そんじゃ行きましょっか」
ぴょんと椅子から跳びはねるように立ち上がって
「サエさ……あんまり制服で派手な動きはするなって。運動着じゃないんだからさ」
「?…なんですか?」
部室を出て正面玄関へ向かうまでの道すがら、ハルは思い出したように頭一つ分低い位置にある隣の少女へ忠告する。
「スカートが危ない」
「おっと」
言われた途端に腰で折り返して短くしてあるスカートを片手で払う。勢いよく払われたスカートが一時的に重力に逆らい持ち上がる。
「見ました?」
「見てません」
にやりと意地の悪い笑みで見上げる後輩から顔を逸らし、廊下の天井を見上げながらハルはそう答えた。
実際、見えなかった。何がとは言わないが、身長差もあったからスカートが多少舞ったところでハルの視点からは何も見えなかったのだ。
「相変わらず硬派ですねー先輩は。からかい甲斐があって面白いからいいですけど」
「近年の若者は貞操観念というものが緩くなっていていけないな。そんなことして、襲われたって文句言えないぞ」
ハルもからかわれ慣れているのか特に何も言わず、ただ僅かな抵抗のように言葉だけの脅しをしてみる。
「あはは。んでも、まあそれは本当ですね。私の貞操が危うくなったら守ってください先輩」
「いや俺が襲うかもって意味だったんだけど…」
「あははは!そりゃ面白いです」
完全に冗談だと思っているサエに、ハルは言い返そうとして、それから結局口を噤む。
流石に一年以上もの付き合いともなれば、言葉の応酬で勝ち目がないことくらいはわかってくる。
この後輩は色々な意味で自分より数枚上手だ。
でも、だからこそよくわからない時がある。
「俺一人からかう為にわざわざこんな時間まで居残って…。他の女子部員は部活終わってすぐに遊びに行ったぞ?」
高校二年生の女子ともなれば、下校したらばファーストフード店でだべり、あるいはカラオケではしゃいだり繁華街へ繰り出して遊び歩いたりするもの。
少なくとも、高校三年生のハルは一年前そういうものだと思っていたし、今でもそれは変わらない。現に女子と一緒に遊びに行ったりもしたが、まあ女子高生というものは集まれば集まるほど姦しくなるものだ。
サエもその例には漏れない。部活の休憩中や、昼休みに時折廊下で見かけたりする時は必ずといっていいほどに女子友達数人と何事か話して盛り上がっている。
だというのに、ハルが備品の整理や整備、あるいは今回のように私事で居残ったりするとサエはほぼ毎回同じように居残って付きまとってくる。
「それもいいんですけど、まあ、うん。あれですね」
少しだけ歯切れ悪く何かを口にしかけてから、いきなり進路変更したかのように口の形を変えて、
「―――副部長ですからねっ、私は」
「…自称、な」
この高校の陸上部に副部長は存在しない。少なくともこの代は。
それは部活における生徒がこなせる仕事の全てをハル一人がつつがなくこなしてしまっているからであって、次期部長として決まった頃からもう副部長の存在は不要とされていた。ハルも、それで問題なく部活を指揮監督できると思っていたからその話には意義を唱えなかった。
そこに割り込んできたのが、当時一年生だったサエだった。
どういう思惑があったのか未だに判然としないが、ちょこちょこと部長のあとを付いて回っては雑務に手を貸してくるようになった。
とはいえ、副部長らしい仕事をしてくれるかどうかは大概気分次第だし、上機嫌であってもたいして戦力になってくれるわけでもない。本気でやれば要領良く片づけてくれるのであろうが、サエは基本的にそれをしない。
「まいいや。ほら、クレープだっけ?どこにあるのさそれ」
「あっちですよ、あっち」
「あっちじゃわからん」
靴箱からスニーカーを出して代わりに内履きを入れ、正面玄関から外へ出る。
僅かに前に出て先導するは、楽し気に先輩を引き回してからかう後輩にして自称陸上部副部長である、
そんな後輩に振り回されるがままにされるは陸上部部長、
紗依莉に引かれながら、晴は背後の校舎から大きな物音と怒声が聞こえてきたのを耳に捉える。だが振り返ろうとはしない。
どうせ、また誰かが何かをしたのだろう。それだけのことだ。
ここの学校は、ここの生徒は、ここの部活は。
とにかくひたすら騒がしい。
煩わしいと感じたり、不愉快に思ったり、理不尽に嘆いたりすることはあれども。
高校生活を謳歌する場所として、充分過ぎるほどに満喫できる所だと晴は痛感していた。
今日は終わり、明日が始まる。
様々な人間が関わり交わる学校で、例えば陸上部部長の彼はこんな日々を送る。
『第一話 陸上部その壱 《並大抵に過ごす今》』