ヤミアン -戦場の雛姫-
04.アネロラが来た
自販機の隙間は優しい。そこそこぬくい温度で暖めてくれる。実の家族のようにヤミアンを捨てたり邪険にしたりしない。実の弟のように姉を心の底でバカにして蔑んだりしない。救い主のような顔をして現れて、ヤミアンに冷たくしたりしない。なにも言わずにそこにいてくれる。人間なんかより、機械の方がよほど親切だ。
支給された軍用ジャケットの分厚い生地を頬で鉄箱の表面に押し当てる。わずかな振動とコンプレッサーの唸り。照明を絞られたラウンジは海の底のように静かだった。もう何年もここにいる気がする。それでもわずかに残った罪悪感が時計に視線を向かわせた。もうすぐ〈ジオラマ〉が始まる。ヤミアンはなんの準備もしていない。三度の呼び出しはすべて無視した。誰も探しに来ないし、べつに構わないのだと思う。どうせ自分は何かの間違いでこんなところに連れてこられただけだ。いつもそうだ。勝手に振り回して、勝手に捨てるのだ。
息を吐くと少し熱くて、自分が泣いていたことを思い出す。涙なんて枯れてしまえばいい。いったいそれがなんの役に立つというのだろう? 誰かの前で泣いてみせるような器用さなんて持っていない。誰かに気づいてもらえるような泣き方なんて教えてもらったことがない。静かにしていれば、なにもしなければ、全部通り過ぎていく。いつものこと。
誰かの足が目の前にあった。蹴られることを覚悟して身を縮ませたヤミアンに、アネロラは視線を合わせてしゃがんでくれた。とても目を合わせられない。教練放棄――実戦だったら敵前逃亡で銃殺だ。どんなにアネロラが親切でも、ここまで落ちぶれた自分に優しい言葉をかけてくれることはないだろう。ヤミアンだって、ヤミアンを許せないのだから。
「ここにいたんだ。探したよ」
「…………」
アネロラはとさりと冷たい床に腰を下ろした。そこが心地いい風の吹く草原であるかのように。
「戦うの、いや?」
嫌じゃない人がいるのだろうか、とヤミアンは思う。
きっといるのだろう。
世の中にはなんでもできて、どんなことも難しいとは思わない人たちがいるのだ。
でもヤミアンは違う。
「私は、教官にシルヴァだって言われて、親元から引き離された時、嬉しかった。だって、あんな家に一分一秒だっていたくもないもんね」
アネロラは明るく笑って言った。
「神様って馬鹿だよねぇ。全然気が合わない子を、親のところに運んだりするんだもん。どっちも戸惑うだけだし、意味ないよ」
だからさ、とアネロラは続ける。
「私は戦うことに迷いなんてない。好きだよ、機械に乗って戦うの。すごくやりがいを感じる。戦闘機に乗ってる間は、自分が望まれない子だったんだってことを忘れられる。自分はここにいてもいいんだって感じられる。そこに充実感があるから、たぶん、私はつらいことにも耐えられる。でも、ヤミアンは違うんだよね?」
「…………」
「戦闘機に乗るの、怖い?」
言葉が熱になる。
ちゃんと形になってくれない。
それでもやっと、吐き出すように言った。
「こわい、よ」
「それは悪いことだと思う?」
「……悪いこと、に、決まって、る」
そうだ。
戦いから逃げたがる兵士になんの価値が?
ジュリトの顔が脳裏に浮かぶ。
幻滅と失望。
自分で選んだくせに。ヤミアンを『銀』と呼んだくせに。
いつもそうだ。
「戦いを怖がるのは、普通のことだと思うよ」
「でも、それじゃ兵士の意味がない」
「兵士であることは、ヤミアンにとってそんなに大切?」
アネロラに覗きこまれて、ヤミアンは顔をそむけた。
「……それは……」
「ヤミアンはここに、国のために来たの? 帝国が悪いやつらだから? 正義感に駆られて? 違うよね、連れてこられたんだ。なにも選んで決めて来たわけじゃない」
「――そうだよ」
ヤミアンは白々しく笑った。
「わたしは連れてこられただけ。だから?」
「与えられた理由で戦っちゃダメだよ」
アネロラはヤミアンの腕を掴んだ。振りほどこうとしても無駄だった。
「ねぇ、こんなところで、こんなふうに好き勝手されて、負けてちゃダメだよ。ダメなんだよ。確かに最初は連れてこられただけだったのかもしれない、でも、いまあなたにはやれることがある。それは誰かが用意したものだったとしても、戦って何かが変わったりしないとしても、それでも、自分が戦う理由はあるはずでしょ? そうじゃなくっちゃ……」
耐え切れずに遮った。
「なんでわたしに構うの?」
ヤミアンは笑いながら尋ねた。アネロラは黙りこむ。
「なにか良いことがあるの? わかった、誰かと賭けでもしてるんだ。そうやってわたしをおもちゃにしてるんだ。負けたら困るもんね、わたしはいつだって誰かのおもちゃ。誰かが勝手に期待して、結果が出せなければ捨てていく。いつもそう。パパとママもわたしを捨てた。わたしが理想通りの明るくて面白い子じゃなかったから。弟みたいじゃなかったから。アネロラもそうなんだ? わたしに勝手に期待して、無茶な結果を出せってせっつく。そうなんでしょ?」
言いたいことを言ってしまうとラクだった。じわじわとこみ上げてくる後悔が、ゆっくり傷ついていくアネロラの瞳の傷が快感だった。確かに両親は正しい。こんな子、捨てたいくらい嫌な子だもの。
だが、アネロラは言った。
「いいよ」
「え?」
「逃げてもいい。このままここにいてもいい」
なのに手を離そうとせず、彼女は続ける。
「逃げてもいい、ここにいてもいい、でも、これだけは言わせて。誰がなんと言おうと――キャンフゥは、弱いよ」
ふっとヤミアンは吹き出した。弱い? いまだ全戦全勝、精鋭の候補生たちの中で珠玉の一塊と呼ばれている彼が?
「そんなわけない、だってジュリトが……」
「ジュリトはなんにもわかってないよ。あいつの言うことを真に受けてちゃダメ」
「そんなこと言ったって……」
「お願い、戦士として言わせて」
アネロラはまっすぐにヤミアンの目を見た。この二ヶ月、一緒に肩を並べて競い合った仲間の目を、ヤミアンもまた見つめ返した。
「あなたは強い。彼は弱い。それは必ずしも、結果には反映されないかもしれない。でも、あたしにはわかる」
「アネロラ……」
「悪いけど」
アネロラは立ち上がって、ニッと笑った。それはヤミアンが、いつか遠い昔、どこかの街角で自分以外の誰かに向けられているのを見た笑顔に似ていた。
「信じてるから」
アネロラの足音が遠ざかっていく。青い光に沈んだラウンジに静寂が戻ってくる。身体を包む柔らかな振動。コンプレッサーのわずかな唸り。
逃げるのはいつだって簡単だ。
黙って何もしなければいい。
けれどヤミアンは立ち上がり、
震える膝をかくかくさせながら、汚い袖で涙を拭うことを選んだ。