どこかそう遠くない場所から、耳を劈く轟音が鳴り響く。
晶納の仕業かと考えたが、すぐにそれは間違いだと把握する。彼はまだ遠方の地点にいるはずだし、今現在もその方角から竜巻のように見える不自然な暴風が吹き荒れているのが舞い上がる瓦礫を見てわかる。
あそこでなにやらドンパチやっているのが晶納なのであれば、この近場で起きてるのはまるで別の何か。
旭はすぐにその轟音の発生点へ向かい今の状況を探りたかった。だが、それを許さぬ巨漢の男がそこにいた。
「いきなり銃を向けられたかと思えば。…君も、立ちはだかる以上は無関係ではないという認識で良いのだね?」
「人間の異能力者。また、殺しちゃ駄目なやつ」
周囲に転がるチンピラ達に気を配りつつ嘆息する旭の右斜め前方で、これもまた面倒そうに真ん丸の瞳をやや細める日和が立つ。
黒のタンクトップを屈強な胸筋が押し上げ、その上からワイシャツを肩に掛けた男。数合の攻防の後に大木のような両腕を窮屈そうに組んで、およそ人間相手に向けるようなものではない冷徹な視線をじろりと寄越す。
拳銃やナイフで武装した謎の集団十数人を難なく蹴散らしてすぐにでも次の行動を、としていた旭と日和の前に唐突な奇襲を仕掛けて来たのがこの男だ。
夜の気配をそのまま内に取り込んだかのように冷えた雰囲気を放ち、片方は年端もいかぬ少女というのにも関わらず問答無用で襲い掛かって来たその表情に揺れはなく。
人違いとか勘違いとか、そういった類のものでは断じて無いと言い切れる。
おそらくは件の『仙薬』に関わる者の一人。倒すべき敵としての認識に相違ない。
「参ったな、こんなところで時間を取られるとは…」
苦々しく呟き、再び拳を握る。
殺す気は元より無い。だが敵対意思を示す以上は手加減を考える余裕は割けない。
「旭兄ぃ」
一分一秒で状況が変化していく現状に追い縋るには現状の問題を相応の速度で片付けて行く必要がある。
まずは眼前の能力者を倒すことからと一歩踏み出した旭を、横に足を滑らせた日和が引き止めた。何か言うより早く言葉を続ける。
「先行ってて。あの邪魔な筋肉は、私が片しておくから」
「……ほう」
無感情に漏らした呟きを拾ったのか、腕組みをしたままの巨漢も感情を示さぬ表情を崩さぬままに吐息をつく。そこに込められるは童女に侮られた怒りか、はたまた興味か。
しかし旭はそれには応じず、
「駄目だ。日和を置いていけるわけないだろ。君は初陣なんだぞ、もうちょっと緊張感をだね」
「たかが異能持ちの人間一人、実戦経験皆無の私でも余裕。慢心じゃなくて、事実の話」
齢十の少女が淡々と告げる歴然とした実力差を、旭は疑っていなかった。いかな異能を宿していようが、特異家系でもない人間がこの娘を相手に勝利を収めることは極めて難しい。
だが、旭はやはり首を縦には振れなかった。
「それでも君一人に対人戦を任ずることは出来ない。…だから」
実力云々の話ではなく、旭は自分の目が届かないところでこの子が人間を相手に圧倒的な力で捻じ伏せるのを(あるいはまかり間違って殺害してしまうことを)恐れていたのだ。
初陣だからこそ、その始終を傍で共にこなし、見届けたい。それはこの任務における退魔師の先輩として、また兄としてのせめてもの義務であると考えていたから。
そんなことを考える傍ら、けれどそれが叶わないのがこの退魔の仕事だというのもある程度理解していたし、妥協も止む無いことだと覚悟もしていた。
まさかそれがこんなに早い段階から来るとは思っていなかったが。
「役割を逆転させよう。僕がここを請け負う。君はさっきの轟音の大元を調べてきて。もし誰か人間の能力者なり人外なりがいて交戦を仕掛けてくるようなら、握った情報を持って僕のとこまで撤退してきて」
「…ん。それでも、いいけど」
役割の分担に異議は無いらしく、日和は素直にこくりと頷いて踵を返した。
敵がいる前で背中を晒すのは戦場ではあまりに致命的だ。そして相手が幼い少女とはいえ、巨漢の男はその隙を突くことに躊躇いを見せることはしなかった。
ビッ!と、組んだ腕の指先から何かが射出される音。次いで背を向けた日和の後頭部へ迫る飛来物。
「じゃ、旭兄ぃ。気を付けて」
「日和の方こそね。ほんと、無理だけはせずに頼むよ…」
呑気に言葉を交わして、日和はたたっと走り去る。その頭部を撃ち抜く直線的な軌道を描いていた飛来物は、中途で遮られた旭の掌の中に握られていた。
(…その露骨なまでの隙晒しは、僕に対する信頼の証と取っていいのかなぁ…)
思いつつ、銃弾に匹敵する速度を叩き出したそれを、“倍加”で強化された右手で掴み取った旭が見下ろす。
鈍色のビー玉くらいの小さな球。パチンコ玉によく似ているが、サイズの割にずしりとした重みがあった。
どうやらこれを親指で弾き飛ばして撃ったらしい。指弾、というやつだろうかと予想を立てる。
「積極的に攻めてこないこと、手分けしようと動いたあの子を狙ったこと。…君の狙いはどうやら足止めか時間稼ぎって感じかな。何の為かはわからないけど」
片手で鉄球を弄りながらの推測に、男は肯定の代わりに指弾のおかわりを寄越して来た。それを回避しつつ、
(ということはやはり、彼にとっても向こうの騒ぎは看過出来ない『何か』なわけだ)
例の『仙薬』絡みの一派であるとするならば、その行動の中心には重要な存在が関与していることになる。
そもそもの話、密かに動いていたはずの彼らがこうまで大きな騒ぎを引き起こしてしまったのも妙な話ではある。おそらく、『仙薬』一派にとっても不測の事態が起きている真っ最中なのだろう。
「話を聞かせてもらうよ。多少強引になろうともね」
指弾はさしたる脅威ではない。“倍加”を引き上げ、一息に距離を詰める。
「…ふん」
軽い鼻息一つ。男は高速で接近する旭に焦りを見せることもなく、指を鳴らす。
響き渡ったその音が引き連れて来たものを見て、旭は突進に急制動を掛けた後一気に後退を始めた。
「こ、れはっ…!?」
アスファルトを容易く貫通し突き刺さる無数の鉄骨、鉄棒、スコップにツルハシ。
上空から斜めに地面を抉りながら飛来するそれらを後退からの後転、横っ飛びに避けてついに追い付かれた鉄骨を殴り飛ばして迎撃する。
あからさまなまでに人の力を越えた現象。異能の力を目の当たりにして旭は額に嫌な汗を滲ませる。
既に次弾を備えている男の周囲には、無数の鉄骨が浮遊した状態で待機していた。
(能力の正体はどうあれ、ちょっと厄介な力だな…!)
日和に合流するのは少し遅れるかもしれない。
つくづく思う通りに進まない状況に歯噛みしつつ、旭は身を沈ませ飛び出す。
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「チッ、簡易的な手当てしか出来ねえ。痛いの我慢できるか?」
ひとまず夜闇に紛れて逃走、手ごろな工場に侵入して身を隠す。
中にあった綺麗な布をいくらか拝借し、ボロボロの少女の傷口に止血処置を施す。きちんとした道具も無いこの状況ではたいした意味も成さないが、しないよりはいくらかマシだろうと考える他ない。
きゅっと布を結んだ際に痛みを感じたのか、若干瞳を潤ませている白銀の少女の頭に手を置いて妖精アルムエルドは極力優しい声色を意識して話し掛ける。
「……うん」
気丈にも涙目で頷く少女にアルムエルドはよしと頷き返す。
「んで、お前はどうしてこんな目に遭ってんだ?連中は何が目的でお前を狙う。そもそもお前…」
唐突な出会いに始まり、『保護』とかいうふざけた建前で少女を回収に来た魔獣種との戦闘、そして逃走。
自ら望んで突っ込んだ首だが、それでも何が起きているかくらいは知っておきたかった。
立て続けに尽きない質問をぶつけかけて、ふと思いつく。
未だ互いに名前すら明かしていない間柄だったことを。
「…あー、俺妖精。妖精ってわかるか?お前と同じ側の人外だよ、アルムエルドってんだ」
「……あ、るむ。える…」
「言えなきゃアルでいい。親しい野郎は大体そう呼ぶ」
「……、アル」
たどたどしく名を呼び見上げる、その瞳には確かな信頼の色があった。その無垢な感情に当てられ、思わず苦笑するアルは膝を折って少女と視線の高さを合わせる。
「で、お前は?なんていうんだ」
「……?」
質問の意味を理解できなかったか、丸い瞳をさらに丸くさせて首を傾ける。
「名前だよ、お前の。名前くらいあるだろ?」
言って、アルは人差し指で自分の顔を、続けて少女の顔を指す。ようやく言葉の理解に至ったのか、少女はゆるゆると口を開いて、
「……うに、ぉん」
「あ?」
聴き取りづらい発音に聞き返すと、今度こそ少女はしっかり発声し答える。
「……うにおん」
「ウニオン?」
変な名前である、と率直にアルは感じた。
妖精種の常識では考えられない名称だし、他の種族でもそんな名はあまり聞かない。
何かの発音間違いではないかと再度訊き返そうとした時、ぐらりと眼前の少女の姿が歪んだ。正確には、視界そのものが。
「っと…」
片膝を地面に着けて前のめりに倒れるのを防ぐ。
先程から感じていたことだが、身体が妙に気怠い。風邪にも似た症状、それを悪化させたような重みを自覚する。
(なんだ…?この娘を抱えて逃げてる辺りから、身体がおかしい)
内側から不愉快な熱を感じる。あの魔獣との交戦にもさして体力を使ったわけでもないというのに呼吸が安定しない。徐々に思考に靄が掛かっていく。
「…よっこいしょ、っと」
片手でこめかみを押さえたまま立ち上がり、前もって用意しておいた一振りの剣を手に取る。
この奇妙な身体異常は気になるが、それよりもまず対処すべきものが、今来た。
「ヒッヒ。……あ?なんで生きてんだテメエ?」
「おとなしく見逃しておきゃあ、顔面パンチ一発で済ませといてやったものを。馬鹿が」
工場の天井からぼとりと落ちて来た、不気味に体をしならせる人外を睨みつける。
ウニオン(?)と名乗った少女の怯えを背中に感じる。視線を遮るように少女の前に立って、剣を握る手にやや力を入れる。
…やはり、おかしい。
柄を握る手が、思い通りに動かせない。不自然な痺れが指先を震えさせる。
忌々しい不可思議な異常に、アルは小さく舌打ちを鳴らした。