陽向家の集落の一角、陽向晶納が住まう家の庭先でのことだった。
「どうして殺した?答えろ晶納」
自らの真名の具現体である直刀柄鋤を両手に素振りを行っている晶納の背後で、憤りを表情に表す旭が問い質す。
晶納が単身で遂行した人外鎮圧の任務。女性の夢に現れては淫行を繰り返す人外の処置。内容だけ見ればそれだけの話だった。
背を向けて素振りを続けながら、汗を飛ばす晶納は面倒臭そうな声色で応じる。
「任務通りだろうが、人外を見つけて相応の処置をした。それだけだ」
「だから、何故殺した。そこまでする必要があったのかどうかを聞いている」
僅かに声を荒げる旭の傍には、二人の少女が付き従っていた。和装の日和と学校帰りで制服姿の昊である。旭の身を案じて家から付いてきた二人の表情も、晶納に対する理解しがたき感情が渦巻いているのが分かる。
「逆に訊くがな、旭。一体全体、
「違う」
いつもなら声を荒げて叱責するのが常である、旭の様子は普段とは大きく異なっていた。怒りが上限を超えた時、陽向旭という人格は熱を失い一気に冷える。今がその状態だった。
「俺達は退魔師だ。お前の言動は滅魔を掲げる『憑百』となんら変わりない。人外だからという理由だけで殺すに至るお前の思考は『陽向』の目指すべき思想と違える。…最近のお前は、少し目に余るものがあるぞ晶納」
昔はもう少し分別のつく精神性を宿していたはずだ。だというのに、今の晶納からはそれが消え失せている。いつからだろう、ここまで見境なく人外皆殺しを当然とするようになったのは。
責め立てるような旭の語調に、可笑しそうに嗤う晶納が素振りをやめて振り返る。
「ハッ。…随分と偉そうな口を利くようになったじゃねえか。流石に次期当主様の自覚が出てきたかよ?結構結構、さっさと当主になって座敷の奥に引っ込んでジジイと茶でもしばいてりゃいいんだ」
「晶納」
「……もう、いい。下がって旭兄ぃ」
尚も言い掛けた旭の前に、無表情を貫き通していた日和が出る。眠そうな半眼も、口を開くのも億劫そうな口調も、普段のそれと遜色ない。
ただし、内に滾る激情はおそらく、旭の抱えるものをさらに超えていた。
「言葉が過ぎる。…結局、言って聞かせて終わりにできるほど、晶兄ぃの駄々は軽くない」
「旭のこととなると途端に威勢が良くなるなァ日和?どうするってんだ、聞いてやっから精一杯の虚勢を張ってみやがれ」
「四肢を折る。その喉も潰す。…半年くらいそうしておとなしくしてれば、きっと少しは更生できるでしょ?」
「日和ちゃんっ」
口元に手を寄せておろおろしていた後方の昊が、着物の袖に隠れていた両手を構えた日和の臨戦態勢に動揺の声を上げる。
日和の敵意に当てられて、晶納も素振りに使っていた直刀を正眼に構える。天秤刀を呼び出さないのは、彼なりの同胞に対する配慮か、あるいは単なる慢心か。
双方の様子に口を出すことなく、旭もまた無言で日和の前に右手を割り込ませる。普段の旭からは想像もつかない冷徹な色を宿す両眼がゆっくり細められ、その周囲に九つ、景色を歪める高熱の揺らぎが生まれ始める。
一触即発の気配を漂わせる中、この状況に唐突な終止符を打ったのは唯一冷静に中立を貫いていた昊。
―――ではなく。
「落ち着けお前ら。だだ漏れの殺気をこの集落で放つな」
頭上から聞き慣れた声。紫煙を燻らせ、煙草を咥えて男は家の屋根に立っていた。
その場で男、陽向日昏の姿を見上げることが出来たのは昊のみ。他の者達は皆が一様に身体を見えない鎖で縛り上げられたかのように微動だにせず静止させられていた。
身動きを封じられた三人に共通するのは、日昏が投げ放ったナイフを自らの影に突き立てられているという点。
『陽にして
集落で戦闘を始めようとしていた彼らの愚行を諌めに来た訳だが、それは日昏一人に限ったものではなかった。
「…では先生、どうぞお願いします」
「ああ」
隣に立っていたもう一人に恭しく声を掛け、応じた姿は屋根を跳び上がり落下する。
真っ先に気付いたのは晶納。身に迫る死の脅威に全身が悪寒という形で危機を知らせたからだ。
動けぬままに、思わず頭上を確認する前に叫ぶ。
「ゲェーー!!ててっ、テメエはー!?」
ボゴンッ!!!
漫画のような音を脳天から響かせて、影縫いの影響で一切防御が不能となった拳骨を受けた晶納の体が真下の地面に大きく沈む。杭をハンマーで打ち込んだかのような、見事な沈没を目の当たりにして旭は彼の生死の行方が冗談抜きに心配になった。
「目上に向かって、テメエとは何事だ」
ズシンと降り立つその姿は聳え立つ人型の岩塊。いやそう幻視しただけの、筋骨隆々な武人。浅黒く焼けた肌がより彼の表情を読み辛くしているが、今その顔が険しいものとなっているのは想像に難くない。
学生時代、学問と退魔師の術技の講師を兼任して教えてくれた恩師。陽向
「……是才」
「先生…」
状況の収束を見てか、影に刺さったナイフを抜いてくれた昊に目線で礼をしながらも現れた陽向の古強者に顔を向ける。是才は組んだ腕の片方をひらひらと振るい、
「もう先生ではないだろう、次期当主。…だが日和、お前は教師を呼び捨てにするな。礼儀と常識を学ぶ必要があるな」
「………是才、先生」
「うむ」
指摘を受け、渋々といった具合に言い直した日和はどういうわけか自力で動いてナイフを引き抜いていた。真名による効力劣化で強引に影縫いを破ったようだ。
「ぐっ、こんの…!」
「お前は学生の頃から何も変わらんな、晶納。また躾けてほしいのか?」
地面から首の生えた格好になっている晶納が全身を捻じりながら脱出を試みる様子を眺めながら、是才が煽るように嘲笑う。
元より沸点の低い晶納にはそれだけで充分だった。早口に文言を唱えると、埋まった身体の両側の地面が大きく隆起して高く爆ぜた。
「―――上ッ等だてめコラァ!!金脇、銀脇!あの筋肉魔人を細切れにしてやれェ!!」
地中の鉄を掻き集め錬成された天秤刀が埋葬一歩手前だった晶納を救い上げ、直刀を片手に大きく吼え猛る主の命に応じ高速で回転する。
「やれやれ、扱い易さだけは変わらんとは」
凶悪な武装の顕現にも動じず素手で構えをとる是才が、行き場の無くした敵意を引っ込めた旭に向けて声を飛ばす。
「旭!長老がお呼びだ。すぐ向かえ。本来は晶納とお前で事に当たる任務のようだが、あの馬鹿を行かせたところで意味が無い。お前が話を聞き、任務を受け、手綱を握って共に往け。躾は俺が請け負う」
「あー…はい、分かりました…」
そして勃発した躾という名の大喧嘩を見届けることもなく、呆れたように首を振るう日和と日昏に押される形で、旭は昊と共に危険区域から離脱した。
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いつも通りに陽向家の長老、陽向
そして、まず最初に次なる任務の概要を聞いた旭が苦々しく内容を復唱する。
「人の言葉を解す犬……ですか」
とある街で起きている、事件にも満たないちょっとした噂話程度の騒ぎ。だがその仔細を受けて、旭だけでなく日昏と日和までもが渋面を浮かべた。
かつて対峙し、深手を負わせながらも仕留め切れなかった人外の怪物。都市伝説の筆頭・人面犬の存在が否応無しに脳裏を過ぎる。
「それで…今の所、被害は?」
「特段目につくような害は無いのぉ。ただ、明確な意味を持った言葉を発する犬が夜な夜な現れては人々を脅かしているとのことだ。実質的な脅威は皆無に等しい。だが…」
だが知っている。旭達は、日和を除くこの場の全員は。
あの陽向晶納が半死半生の死に体にまで追いやられ、それでも倒せなかった人外の強大さを。神代三剣の一振りによって力の大半を削ぎ落としたとあっても、やはり起きた事実を思えば予断を許せない事態ではある。
それこそ、旭と晶納の二人掛かりで向かわせる程度には深刻な状況であるということは充分に頷けた。
「分かりました。至急晶納と共に件の地へ向かいます」
「そうしてくれ。事の次第を確認し、現地にて相応の処置をば」
皺の寄った禿頭を擦り、立ち上がった旭に放たれた言葉と視線は強く重たい。言外に今回の任務が重要であることを念押しされ、無言で大きく頷きを返す。
そう。強力な真名と能力を持つこの二人に託すに足るだけの重要案件であることは確かだった。そこに異論はない。後方で黙して話を聞いていた日昏も、昊も理解があったからこそ何か進言することも無かった。人面犬の脅威を知らぬ日和とて同じだった。
ただ一つ。どうあっても気になることが。
死闘を演じ、そして彼にとっては耐え難き屈辱でもある獲物の取り逃がし。周りがどう言おうとも晶納自身にとっては敗北以外の何物でもなかったあの一件を知っておきながら。
(…何故だ。どうして、この依頼に晶納を選んだ)
もし仮に相手があの人面犬だった時、平静を保っていられるはずがないのに。
もっとも遠ざけるべきだった退魔師を、わざわざ名指しで選んだ理由。
それがどうしてもどうやっても、旭を含む若き退魔師達には解せなかった。