用法用量を守って正しいストーキングを。
5
松木森にとって、愛とは受け入れることだった。
たとえ道を踏み外そうが、彼女たちにとっての最後の心の拠り所であればいい。どれだけ浮ついたとしても、最後に思い出すのが自分の顔であれば、幸福なことはない。
そう思っていたのだ。
彼の恋人、ルナが消息を断つまでは。
●
森は自分のことをモテると自負している。
それは間違っても、自惚れや傲慢さからくるものではなく、これまで培った確かな結果から来る自負だ。人は大抵それぞれがそれぞれのパーソナルスペースを持ち、ある一定の範囲に踏み込まれることを不快に感じるそうだが、どうやら森には異物感を感じさせない何かがあるらしい。
特になにか努力したわけでもない。
ただ、単純に近づくだけ。それだけで彼女たちは森のことを「親しみやすい」と感じてくれる。傍から見れば丸メガネで細長の、ぱっとしない男だが、彼の親しみやすさを感じた瞬間に、彼女らは評価を変える。
「シンくんだったら良いかな」
「何が?」
ルナの言葉に、森は尋ねた。
彼女は隣でうつ伏せで肘を立てて、携帯を適当に弄っている。だらりと下がった胸が小刻みに揺れるのを見ながら、森は横向きになる。
「彼女になってあげてもいいかなーって」
「そうなの?」
「うん、だってなんか、森くんモテるし、一緒にいて悪くないし」
「今までは彼氏とかいなかったよね、作る気もないって言ってなかったっけ」
ルナの男事情は、知り合った時点でほとんど知っていた。というよりも、森の大学では随分な噂のある女性だったから、自然と耳に入ってきた。相談を持ちかけて、そのまますぐに股を開く女だというのが専らの噂だった。実際森自身も似たところはあるので、たいして嫌悪感は感じなかった。
「なんでだろうな、気持よかったからってのもあるし、あとは……うーん」
ないなりに頭を使うルナをぼんやりと眺めながら、ふと、そういえば自分も恋人を作ったことはなかったなと思った。大抵隣に遊び相手はいたが、けっして恋には繋がらなかった。
森は起き上がり、彼女から携帯を優しく取り上げてベッドの縁に置くと、ルナを仰向けに寝かせ、覆いかぶさる。恥じらいを感じさせない振る舞いの彼女も、組み伏せると表情を変える。目を薄く閉じ、口を微かに開いて、身をよじって笑う。
「あとは、何なの?」
尋ねると、色のある声で彼女は吐息を漏らす。
「なんか、いいなって」
「いいなって?」
「よく分かんなーい。でも、他の人よりなんかいいなーって」
ねえ、もういいでしょ。ルナの言葉を聞いて、森は再び顔を埋める。彼女の深く甘い吐息を聞きながら、森は、自分の心に確かな充足感が満ちていくのを感じた。
今の言葉は、男を沈めるために用意された、単なる台本の一部だ。そんなこと、誰だってすぐに分かる。森がこれまで遊んできた女達と変わらない、テンプレートの愛情表現だ。
「いいよ」
恥じらいに満ちた嬌声の隙間の吐息に、疑問が混じる。森はルナの額に浮いた汗を舐めとると、口づけをした。絡めとった舌の間から温い一瞬の快楽が溢れて消えていく。
「俺たち、恋人になろっか」
「ほんとに? いいの?」
「いいよ、俺、ルナのこと好きだし」
「ほんと? あたし、いっつも不安だから、シンくんがカレシになってくれるのは嬉しいなー」
ルナの声が胸に当たる。
「シンくん、大好き」
聞き慣れた好きという言葉に、心が満たされていく。
どうしてだろう。これまで色んな女の子と遊んだのに、なぜ彼女に言われると、こんなにも満たされるのだろう。
森はルナの肩を抱きながら、ふと思う。もしかしたら、これが、好きになることなのかもしれない。
乱れた生活も、優柔不断な彼女の付き合いも、飽き性で奔放で、放って置けないという気持ちも、すべてひっくるめて愛すること。
いつでも遊べる女とは違う、上澄みを掬い取って飲むだけで成立する行為以上の快楽が、そこにある気がした。
ルナは、汚いから、綺麗なんだ。
「ルナ」
「何?」
「俺は、ずっとルナの味方になるよ。どんなことがあっても、絶対にね」
しばらく呆けていたルナは、目を細めると、森の頬に手を添えた。
嬉しい、と言った彼女のその顔は、純粋そのもので、赤子のように無垢だった。
絶対に、離れない。
絶対に、離さない。
たとえ、ルナに敵が多くても、嫌われていても、俺だけは見限らない。
最低な彼女を最期まで愛してあげられるのは、世界に俺だけなのだから。
●
キャンパス内をゆっくりと、項垂れて歩く男の姿があった。
肩を上下させ、つま先を引きずるように、ともすれば屍に見間違えそうな痩せ細ったその姿は、学生達の目にはとても奇異に映った。誰もが彼を指差しながら小声を交わし、避けるように道をあけた。
いない。ここにもいない。
どこに行ったの。
怒らないから帰っておいで。
うわ言のように呟く彼の力ない声と姿に、潮ははじめ、その奇妙な正体が、自分の知り合いであることに気が付かなかった。
「……松木か?」
柔和で、朗らかで、誰にでも好意を振りまく彼の普段の姿は、どこにもなかった。潮は彼の変貌ぶりを見て、ただ事ではないと察知したが、しかし踏み込んでいいものか悩んだ。
十中八九ルナに関連していることに間違いはないのだが、しかし……。
「小波?」
顔を上げた森の表情は青く、生気を感じられない。
素通りすべきだったと、潮はため息をついた。
「何があった?」
「ル、ルナが……行方不明なんだ」
行方不明、という言葉を聞いて、潮は思わず鼻で笑った。どうせ、どこかの男の家にいるのだろう。森は彼女の浮気には寛大だ。自分のもとに戻ってくるという確信を持っているから。
とにかくこんな人気のある場所では目立つ。潮は彼を連れてキャンパス内の小さなカフェへと移動することにした。森は連れられながらまだうわ言を呟いていたが、いちいち聞いているのも面倒なので潮は無視する。
コーヒーを二つトレーに載せてテーブルに戻る。カフェ内に設置された壁掛けの時計をちらりと見て、まだ講義まで時間があることを確認し、念のため瀬賀に席の確保の連絡を頼んでおいた。高くつくからね、と返ってきた返事を確認してから鞄に滑りこませると、頬杖を付いて森を見た。
「……で、行方不明ってなんだよ?」
「行方不明なんだよ……。こんなこと、初めてなんだよ。どこで誰といても、必ず毎日連絡が来ていたのに!」
肩を震わせる森に、潮は困った顔をする。
「あっと……疲れて寝ちゃってる、とか」
「家にいなかった! ど、どこにも……いないんだよどこにも!」
潮の言葉を掻き消すように森は叫ぶと、机を強く叩いて身を乗り出し、潮の肩を強く掴み、お前が、お前がと声を震わせ、ツバを飛ばす。掴まれた肩と、混乱と怒りに満ちた目に戸惑いながら、潮は必死に森に抵抗していた。だが、冷静さを失っている彼の力は弱まるどころか、更に強くなっていく。
「お前が、お前が隠したんだろ! ルナはお前にも気があったもんなぁ!」
「ちょっ、落ち着けよ! 落ち着けって松木!」
「あれ、潮くん?」
潮と森の視線が、声の聞こえた方に向いた。
「あ、お邪魔だった、かな?」
あざみは口元に手をやりながら、二人の顔を交互に見ていた。呆然とする森をちらりと見た潮は、肩にかかった手を無理やりはがすと少し距離を置き、肩を軽くはらうとあざみの傍に向かう。
「邪魔なんかじゃないよ、ちょうど今話が終わったところだし」
「え、そうなの? ならいいんだけど」
あざみは柔和な笑みを浮かべる。やけに機嫌が良さそうに見えるが、何かいいことでもあったのだろうか。何にせよ、彼女が現れてくれて本当に助かった。とにかく一旦間が空いて、森も若干落ち着いただろう。まずは、自分の身の潔白をした上で……。
「ねえ、そういえば、門の前の人だかり見た?」
森がまず顔を上げた。そして次に、思考を巡らせていた潮が顔を上げる。不安そうに外を見つめる彼女の横顔を見て、潮は何か得体のしれない感覚を覚えた。
「なんかね、女の子が倒れてるみたいよ。そこの……メガネ君といっつも一緒にいる子に似てたかも……」
「!?」
「お、おい待てよ松木!」
あざみが言い終える前に、森はもう駆け出していた。潮は咄嗟に彼の名前を叫んだが、彼の背中はどんどん小さくなっていく。潮は大きく舌打ちをするとバッグを掴んだ。
「あざみさん、教えてくれて助かった。ちょっと様子見てくるよ」
松木を追ってカフェを出て行く潮の後ろ姿をじっと見つめ、あざみは俯くと両手で口を覆う。
バレてはいけない。
でも、こんなの我慢できるわけがない。
店内には誰も見当たらない。みんな、騒ぎで出て行ったらしい。まあ、あれだけ滑稽な女が学校前に転がっていたら、気になるだろう。
「……ほんっと、おかしー」
笑みを必死に噛み殺し、身を震わせ、あざみはふらつきながらカフェを出ていく。
(面白いものは、最前で見ないとね)
あざみが出ていくと、ようやくカフェに静寂が訪れた。随分と騒がしい学生たちがいなくなって店員たちはうんざりした顔で肩をすくめると、打ちっぱなしのテーブルを片付け始める。
丁度、潮と森のいたテーブルの片付けをしようとして、潮のカップに手を伸ばした時、あの、と声がした。店員が顔を向けると、小柄な女性が立っていた。マフラーと長い前髪で顔が隠れていて、どんな表情をしているか分からず、彼は顔をしかめた。
「さっきの人に、持ってきてくれって言われたんです」
「ああ、なら持って行ってあげてください。僕は片付けるだけですから」
彼女は小さくお辞儀をすると、潮のカップを手に取って出ていった。全く何が起こっているんだか、と店員は腰に手をあててため息をつく。
再び片付けを始めようとした時、ふと彼は違和感を覚え、出入り口に目を向ける。もう、マフラーをした女の姿はどこにも見当たらなかった。
「せっかくなら、もう一人のも持って行ってやればいいのに……」
●
数日ぶりに見たルナの姿に、森は絶句した。
猫耳のついたニットキャップで隠れているが、髪のバランスが悪い。前髪はほとんどなく、後は強引に切り落とされて不格好な芝のようだった。もみあげ部分に辛うじて一房残されたそれが、彼女のこれまでとの差を如実に表しているようで痛々しかった。目は虚ろで、力なく投げ出された手足が時々ぴくりと痙攣のように動いている。
騒ぎを見に来た学生たちは、何事かと囁き合っていたが、その中に、駆け寄るものはいなかった。
森は群れる学生たちを強引に押しのけながら、騒ぎの中心にいる彼女のもとに向かう。
ルナは虚ろな目のまま、森を見つめる。
「ルナ、俺だよ、分かる?」
「シンくん?」
彼女の身体を抱き上げる。両目に赤い太い帯状の痕を見つけ、それが体中に走っているのを見て、唇を強く噛みしめる。自慢だと言っていたボブの髪も台無しだ。ハーフパンツと赤黒ボーダーのハイソックスには、つんと鼻をつく臭いが濡れた痕と一緒に染み付いている。
森は周囲を見渡す。カメラを向ける学生たちを睨むと、彼らは素知らぬ顔をして去っていった。
森は、間違っていたんだと思った。
ルナの敵が多かろうが、嫌われていようが、最期に戻ってきてくれればいいという、そんな甘い考えが、ルナをこんな目に遭わせたのだ。
「おい撮んな! お前らどっか行け!」
森が顔を上げると、潮が群集を追い払っているのが見えた。傍で怯えるような目を向けるあざみの姿と、彼女をなだめる瀬賀の姿がある。
徐々に減っていく群衆の中、森はルナの首と両足に腕を通して抱き上げ、もう大丈夫だと囁いて、ルナに笑いかけた。彼女は怯えた目で森を見ていたが、やがて、寝入るように意識を失った。
「おい、松木、大丈夫か?」
「どいてくれ」
「森くん」
「邪魔だよ」
森の豹変ぶりに、潮も瀬賀も黙ることしかできなかった。
「……みんな敵だ……俺が守らないと……俺が……俺が間違ってたんだ……」
ルナを抱きながら歩いて行く森に、誰もついていくことはできなかった。
今の彼には、ルナしか見えていない。それを、潮も、瀬賀も理解していた。
「あんな……ひどい」
「あざみさん……」
潮は、震えるあざみの肩に手を回す。思わぬチャンスに一瞬動揺したが、しかし、今はどちらかというとルナと森が気になっていた。
鬱陶しいとは思いつつも、それなりに付き合いのあった二人だ。
当然の結果、自業自得……とは流石に言えなかった。
●
目が覚めて、ルナはそこが見知った天井であることに気がついた。いつものワンルーム。何があっても受け入れてくれる、都合のいい彼が住む場所。
綺麗なシーツと、暖かい布団と、裸の私。そして、身体に残る微かな充実感。
なんだか、随分と嫌な夢を見ていた気がする。狭くて暗いクローゼットに押し込められて、何度も罵られて、何度も鋏の音を耳元で聞かされて……。
「おはよう、起きたんだねールナちゃん」
扉が開いて、森がいつもの朗らかな表情でやってきた。シャワーを浴びていたのか、髪が少し濡れているし、上裸にボクサーパンツの出で立ちだ。
「シンくん、シンくんだよね?」
「そうだよー。どうしたのルナちゃん?」
ベッドの縁に腰掛け、ルナの身体を抱き寄せる。彼女は目に涙を貯め、嗚咽混じりに森の名前を呼び続ける。
「怖い夢でも、見たの?」ルナは頷く。「怖かった。もう、おうちに帰れなくなるかと思ったの。誰にも会えない、誰にも抱きしめてもらえない……このままずっと閉じ込められたまんまかもしれないって」
でも、違った。ルナは森にキスをして笑った。
「全部夢でよかった。シンくんがいてよかった」
森は顔を寄せ、目に貯まる彼女の涙を舌で舐めとる。ルナの涙は、舌先が痺れるくらい塩辛かった。けれど、その刺激が、森には心地よかった。
「大丈夫だよ、言ったでしょ。俺は何があってもルナの味方だってさ」
「うん……うん!」
抱きしめられながら、ルナは森の体温に強い幸福を感じていた。森は彼女の”不格好な髪型”を眺め、とても幸せそうに微笑む。
ルナは、果たしていつ気がつくだろうか。
彼女の見ていた夢が、夢ではないことに。
お気に入りの髪が本当に切り落とされてしまったことに。
窓に打ち付けられた鉄柵の存在に。
玄関口に新たに取り付けられた錠前の、病的なまでの数に。
そして、もう、家に帰れないことに。
『最期に戻ってくればいい、なんて妄言は、もう言わない』
『決めたんだ』
『最期まで、傍にいて君を敵から守るって』
◯
【あざみより通知がありました】
『この間は怖かったね……。あの二人大丈夫かなあ(´_`。)グスン
酷い目にあったあの子を見てたらなんか怖くなってきちゃった。あたしもあんな風に襲われたら・・・どうしよう。o゜(p´□`q)゜o。
しばらく帰るのがちょっと不安だなあ。
潮くん、もしよければ・・・しばらく家まで送ってもらえたりしないかな?(o´_`o)』