上下が逆の女子と目が合った。
それは時間にするならほんの一瞬、一刹那だったが、俺と彼女の視線は間違いなく交錯していた。
無表情で落下する彼女の瞳は工業廃水とヘドロが混じった下水道のように濁った濃茶色をしていて、はっきり言うなら第一印象は『面倒くさそうな女』である。
その面倒くさそうな女は今まさに落下中であり、あと一秒もしないうちに校舎脇のベンチ、俺の座っているそれに頭を突っ込んでお陀仏街道一直線であろう。
面倒くさそうな女と言うか、面倒な女だった。
『俺は面倒が嫌いなんだ』
――スティンガー
「ねぇ、名前と住所と電話番号とメールアドレス教えてくれるかしら。ってかLINEやってる?」
第二印象は『面倒極まりない女』だった。
「チャラ男かお前は。貴様みたいな面倒極まりない女に教えるか」
「あ、そうね。自己紹介がまだだったわね。私、闇山病(やみやま やまい)。中学校の頃は『まいまい』って友達がいれば呼ばれてたわ……でも私には友達がいなかった」
「面倒極まりない女の知りたくもない過去を知らされてしまった」
突如教室におしかけて俺を見つけるや否や謎の高速無音歩行術でこちらへ歩み寄り顔をぐぐぐっと近づけてきたのは昨日の面倒女だった。
友達がいなかったのも頷けるほどに暗々しいオーラを全身から噴出し、幽霊のように真っ白な肌は不健康である事が窺えるが、顔の造りだけを見れば悪くはない。
昨日よりは多少マシな目をしており、ドブを煮詰めたようだった瞳はかろうじて魚が泳げるかもしれないような色になっている。かろうじて。
やたらと長い黒髪は学校指定の黒セーラーには合っていると言えば合っているが、スカートの丈を追い越していて、前髪も視界に入ってる長さだ。切れよ。
結論を言うと、関わりたくない。
こんなポーションでダメージを受けフェニックスの羽で即死しそうな奴に名前も住所も電話番号もメールアドレスも教えたくないし、LINEはやっていない。
「おい鹿児島県鹿児島市船津町6-17に住んでる暴力二彦(ぼうりき ふたひこ)通称カニ彦、この女はやべぇぜ、厄ポイント高いぜ、絶対関わるなよ」
「関わりたくねぇのになんでお前は俺の個人情報漏らすの?」
開口一番俺の住所と名前を暴露しやがったこの金髪男は屑原粕郎(くずはら かすろう)。天文館高校のクズ野郎ランキングでも上位に食い込むクズだ。
本人の目の前でやべぇとか関わるなとか言うもんだから闇山に二、三回こめかみを殴打された後にぐわしと胸ぐらを掴まれてしまった。クズでアホだ。
「今すぐカニ彦くんの電話番号とメールアドレスを教えないと殺すわ」
俺としては教えないでクズ原が殺された上で闇山がお縄になってくれるのが一番理想的な展開だったが、残念なことにクズ原は彼女にちきちきと音を立てるカッターナイフを突きつけられてあっけなく屈した。
死ね。
二人とも死ね。
「いきなりカニ彦呼ばわりしてんじゃねぇ。魔界へ帰れ」
「愛媛を魔界呼ばわりなんてひどいじゃない」
「お前の地元なんか知るか」
ポケットのスマホが着信を告げる。闇山はクズ原からドロップした俺の電話番号に早速かけた様子で、やや上機嫌で携帯を耳に当てている。
俺は無言で電源を切った。
ら、闇山はむっとした顔になり(むかつく事に顔だけはかわいい。ブン殴りたい)言った。
「出てくれないと付きまとうわよ」
「出たところで付きまとうだろ」
「うぐ」
図星かよ。そうだろうとは思ったけど。
「はっきり言うが、俺は面倒な女とキャラメル味のポップコーンが世界で一番嫌いだ。興味を惹きたかったら男に都合のいい使い捨ての道具のような女になれ」
我ながら最低な発言だが、このぐらい言っておかないと変な勘違いをされかねない。
教室内の俺を見る視線が二段階くらい冷えた気がするが必要経費だ。
「私はキャラメル味のポップコーンもカニ彦くんのことも宇宙で一番好きよ。諦めなさい」
「諦めるの俺の方なの?」
「それと」
闇山は続けて、照れたようにえへらと笑い……面倒な女が嫌いな俺でさえ(瞳さえ澄んでいれば)心が揺らぐような顔で、礼を言った。
「遅くなったけど、昨日はありがとう」
昨日。
落ちてきた闇山の、頭にかかるであろう彼女の全体重と位置エネルギーを掛け算した衝撃を、俺は反射的に
「――え」
面倒そうな女は目をぱちくりとして、自分が生きている事に驚いていた。
俺はやっちまったと思いながらも、面倒に巻き込まれないうちに――もちろん手遅れだ――そそくさと逃げ出したのだった。
その時に、俺は確かに見た。
彼女の左手が、ガンプラのようにポロリと落ちて転がっているのを。
「お前さ、左手……」
「ああ、これ?」
そして今現在、彼女の左手はあるべき場所に収まっている。傍目から見れば、なんの変哲もない左。
が、彼女の右手によって着脱した。
「!」
闇山の手無し手首はつるんとしていて、触り心地がよさそうな曲線を描いている。
細い指が伸びる義手には血管が僅かに浮かび、芸術的なまでに生々しく。
「なんてことないリストカットよ」
そして、美しかった。