新都社にいると〇〇先生という呼び方がよく見られる、というか新都社の各作品のコメントページ上部に「〇〇先生に励ましのお便りを送ろう!」と書かれているのだし、そもそも新都社自身が出版社のパロディなのだしごっこ遊びみたいな意味で〇〇先生という呼び方をするわけなのだけど。
そういう状況で何年もいるから普通の感覚とはずれているのかもしれない、〇〇先生という呼び方が新都社に居て恥ずかしくもあるから必要以上に気にしてしまうだけなのかもしれない。
この二つを先に書いておいたのは、自分の感覚がズレてしまっただけなのかもしれないという疑いを解消する方法が無いので一旦それは気にせずに本題を書くためで、新都社の風潮とかそういう事には関係なく……
つまり新都社を知らなくとも、小説家や漫画家の事を〇〇先生と呼んだり、書いたりする場合についてなのだけれど、当然知り合いであり直接もしくは電話で会話をする場合はもちろん、仕事でその作家についての書類とか宣伝用の文章なんかを書いたりする場合も〇〇先生と呼んだり書いたりする事もあると思う。知らないけど。
じゃあ例えば一読者として、ブログに書いたりする場合や、ネットの掲示板に話題に出したりする時は〇〇先生と書くのか、それとも名前のみにするのか、というのが結構前からもやもやとしている。(ネットとかアンケートのハガキ?とかで作者に直接なにか文章を届ける場合は別とする。そんな事したことないけど自分だったらそういう場合は先生づけで書くと思う)
でも、それじゃあ友達とか家族と会話する場合、顔を合わせずとも電話などの場合も含めて、作家の事を〇〇先生と呼ぶ場合があるかというと、まず無いように思う。あるとすれば、個人的に熱狂的に尊敬しているとか、やっぱりその家族の内の誰かがその作家と知り合いの場合とかだと思う。そういう場合はちょっと今この話題とは別なので、これ以降は作家はその本等でのみ知っている作家で、どんなに人間関係の線を遠くまで辿っても、(知り合いの知り合いの知り合いの…みたいな)絶対に繋がらない人間という事にしてほしい。近所にも住んでいない。
それで、声による会話なら特殊な例(そういえば新都社で何か作っている人同士ならありえるのかも……新都社の風習も存在しない事にして進めてほしい)を除けば大体は、作家の事は呼び捨てで言うと思う。そのニュアンスは個人名ではなく、どちらかというと車とか家電とか……メーカーの名前を言うようなニュアンスのような気がする。
そしてネットに上げる文章だと、〇〇先生とするか名前のみにするか、結構人によって別々のような気がする。
個人的な、自分の場合だとどう思うかというと、自分は名前のみ派で、最初に書いた新都社の風習を意識しすぎているのか、それとも普通なのかよくわからない。
ただ、「自動車や家電メーカーの名前を言うようなニュアンス」というのは別に尊敬もしていないとかそういう感情ではなくて、むしろ尊敬とかリスペクトゆえにメーカー名的なニュアンスでそう書いているので、先生づけで書く派と表現は違うけど意味は同じだと思う。
別の方向で弁明すると、例えばもう亡くなっていて国語の教科書にものるような作家、例えば夏目漱石とか、そういう位置の作家の事を、ブログに書く時に先生づけで書くか?っていう風に思ってしまうし、つまり現在の作家もそういう偉人みたいになった昔の作家も、同じ位置で、やっぱり個人名ではなくメーカーの名前的なニュアンスで書くんですよ、と、そういう弁明……
芸能人とか、影響力のある人間が書評のブログとか書くんだったら色々と、立場とか考えて先生づけで作家の名前を書くと思う。けど、昔の偉人的な作家の事まで書くかなあ?って思ってしまう。
(例えば「ニーチェ先生の〇〇という本には…」って書くか?いや、書くかも…個人的な強いリスペクトがあれば、そういう場合は除く。作家であればどんな昔の人物も先生づけで書かれている、とする……)
そうでなくて、ブログを更新して、まあ多くて一日に百人くらいの人が見るかな?っていう、そんなブログを書く人の場合。もしくは、それこそ新都社で活動してるくらいの人。
そういう人の場合、それでいて作者のメールや編集部へのアンケートハガキとかでなく、個人的なスペースや、掲示板とかでの文章の場合、作家の名前を書く時に先生ってつけるか?っていう…
思いつくまま書いた事を見返すと、先生づけで書く場合というのは
・個人的な、本当に信者レベルでのリスペクトがある
・業界に通じているか、もしくは影響力の強い人物
っていう事だと思うんだけど、じゃあ色んな作家の名前が全部先生づけで書いていた場合、
……
なんだかこれ以上書き進めると「エビフライの尻尾食うか食わないか」みたいな不毛な貶し合いになってしまうので、一旦休憩……
……
だから……先生づけで書く人の言い分は「尊敬していてリスペクトしているから」であって、
自分がもやもやする部分っていうのは「じゃあ先生づけしない派は尊敬していない無礼者なのか?」って考えちゃうって事で、エビフライの尻尾食べる派の人が「生命を頂くのだから全部食べないと失礼だ」みたいな事言ってたら、それが食べない派への非難みたいなニュアンスでなかったとしても、もしも自分が食べない派だったらやっぱりそういう風に思っちゃうでしょ?っていう…
(ちなみに自分はエビフライの尻尾は食べる派だけど、食べる理由は単純にカリカリしてて美味しいからだし、大体の人はそういう理由だと思うけど。)
つまり、結局どっちでもいいことなんだけれど、先生づけ派の理由が割りとハッキリしていて正しく見えるのに対して、つけない派の理由はあまりハッキリしていなくて尊敬の念が無い礼儀知らずみたいに見えてしまうのがつけない派の自分としてはもやもやしてしまうので、こういう文章を書いて何か理由を探そうとしていたのかも。それも先生づけ派を否定する以外の方法で……
だから言いたい事は結局、我々作家の名前を書く時に先生を付けないで呼び捨てで書く一派は、別に尊敬していない訳ではなくて、自動車とか家電とか楽器のメーカーの名前を書くのと同じニュアンスであったり、偉人的なすでに亡くなっているような作家と同列に扱っているからであって、先生づけ派と同じく尊敬しているしリスペクトしているんですよ、という事なんだと思う。