笑うと言っても、そこには様々な意味や意図がある。嘲笑、失笑、苦笑…人に好意を与えるものという認識の強い笑みの中にも、ブラックな側面は多々ある。
しかして今回の場合、なんの皮肉も無い純粋な『笑う』という意味が当たるのであるが、それに至るまでの経路も決して一つとは限らない。
あるいは楽しくて、あるいは可笑しくて。正の感情によって引き起こされる笑みというのは正常な人間にとっては喜怒哀楽に基づく一種の反射行動だ。
対して死とは、人がもっとも恐れ遠ざけるもの。日々人生のゴールである死へ向かって人々は足を動かし続ける。生を謳歌する為に死へ踏み込んでいく。
いつか来る確定された死という最大級の恐怖を目の当たりにして、それでもなお笑って逝ける人間などごく僅かであろう。
最大の恐怖を越える、最上の幸福。
そういう、限られた者しか得られることの出来ないものを持つことこそが、笑って死ぬ為の条件なのではなかろうか。
八十年も九十年も生きれば、大往生の中でそれを見つけ、死ぬ瞬間まで後生大事に抱えていられたのかもしれない。
だが彼の人生にはそれほど長い時間は残されていなかった。
肌に感じる冷気は、たちまちに翔の口腔から漏れ出た暖気を呑み込み掻き消してしまう。鈍色に覆われた天を睨み上げても、彼を包む慈悲なき冬の洗礼は噛み付く牙を離そうとしない。
訪れる冬の猛威の片鱗を感じ取り、早々に翔は抵抗意思を消失させて天から地へと視線を落とす。
(…探し物というものは、存外に近場にあるのが定番だが)
周囲をぐるりと見渡しても、あるのは錆の浮いた古びたブランコと鉄棒。それと公園という範囲を区切る為に外枠へ等間隔に植えられた桜の木。葉の一枚すら剥ぎ取られ、裸となった木々達からは寒々しさしか感じ得ない。
春になればさぞ見栄えのする薄桃の花を咲かせ散らせることだろうが、生憎と翔にはもう生きてる内にお目に掛かれることはない。
寂寥の念に囚われ掛けながらも、今すべきはそんな物思いに耽ることではないと考え直して足を前を進めた。
探さねばならない。見つけねばならない。
死神の鎌に首筋を浅く斬られたこの状態でも、せめて死に際くらいは笑っていたい。
理不尽に押し付けられた死に、今更声を荒げて騒ぐつもりはない。そもそもが気力も体力も、そんなことを許してくれる余裕を残していない。
でも、理不尽の中でも自分なりに折り合いをつけて死にたい。絶命の時まで涙を流して、絶望に打ちひしがれて、病室のベッドで手足を折り曲げて震えていたくなんてない。
笑って、死にたい。
だから翔は探しに行く。自身が笑って死ねるように、この二十八年の人生への分相応な死を求めて。
先週の宣告をもって、余命は三ヵ月。衰弱していく肉体を考慮しても、使えるのは精々六十日程度。
彼は迫り来る死に麻痺しかけている感情で精一杯の火を灯す。
まさしくそれは風前の灯火。
伍堂翔は笑って逝ける死を求む。