葎花の件で危惧していたことではあるが、その実この街はさほど治安は悪くない。いや良いとすら言える。
この一帯の管理を担っている警察官は皆自らの職務に忠実で強い責任感に駆られており、昼夜を問わず巡回を繰り返し行っている。その為街の住人とも親交が深く、友好的な関係が築かれていた。
有り難いことだと思う一方で、今日この時に至ってはその警官らに出会うことが無くて本当に良かったとも翔は感じていた。
ランドセルを背負った女児を連れ回す見知らぬ男。
たった一文で、彼が肩を叩かれ職務質問に責められる未来が容易に視える。
そんなビジョンを確定させない為にも、翔はさっさとこの蘇芳葎花と名乗る少女から離れたかったのだが、それこそ葎花にとっては知ったことではなかったようで、
「…ぷふぅー」
夕暮れ間近の冷気に当てられた氷のようなベンチに腰掛け、葎花は両手で握ったスチール缶を口元から離し息を吐く。
ゆっくりと飲み込んだココアが甘ったるい吐息となって可視化される様を、隣に座る翔がブラックコーヒーの缶に口をつけながら横目で眺める。
「それ。飲み終えたら帰りな。もうじき夜だ」
冬季の日暮れは早い。じき、夜の帳が下りるだろう。
「ね、伍堂のおじさん」
翔の言葉を聞いていたのかいないのか、葎花は缶の余熱で指先を温めながら顔を上げる。一人分の空間を空けて座る隣の翔を、傾げた小首と共に流れた黒髪の合間から覗く真ん丸の瞳が見据える。
「猫の、どこが好き?」
「ん…」
唐突な質問。唯一この二人を繋ぐ『猫好き』という共通点から、おそらくは訊ねてきたのだろうが。
話を聞いていたのか?早く帰らないと親が心配するぞ。
先の言葉に重ねる二の句を放つべきと判断した翔の、先手を打ったのはやはり少女葎花。
「わたしはね、肉球。ふにふにで、気持ちいいから」
さっきまで遊んでいた
「おじさんは?」
「……あのな」
今度こそ出し損ねた二の句を継ごう―――として、翔はまったく違うことを口走ってしまったことを小さく悔やむことになる。
「おじさんはやめてくれ、まだ二十代でそれはきつい」
「…、お兄さん?」
「それもややグレーな気がするが、この際もうそれでもいい」
一体なんの話をしているのやら。まさか死が間近に迫るこの体たらくで、今更そんなことに固執する余裕がある自分自身に驚きすら覚えた。
ともあれ、呼び方を確立できたことに対し葎花は満足したようで、再度問いに口を開く。
「それで、お兄さんはどこが好き?おなか?毛並み?」
猫のどこが好きか。
どこ、ということはない。強いて言うならば、犬ほど過剰に仕草や感情を表したりしないところかもしれない。
淡白でありながら、無関心というわけでもない。その絶妙な加減が愛嬌を感じさせる。
だが葎花が問いているのはそういう話ではないことくらい翔にも分かっていた。内面ではなく、外見の部位。
であるならば。
「眼、だろうな」
「……め?」
こくりと頷き、不思議そうな葎花の瞳を見返す。
「あの縦長の瞳孔が、な。どうにも好きなんだ。見ていると吸い込まれそうになる錯覚がある。なんとなく物思いに耽りたい時なんかには、よく大将の眼球に映る自分を見る」
最近は特に多い、その奇癖。こうして誰かを相手に口に出すのは初めてのことであった。変わり者であると思われることが分かり切っていたから。
案の定葎花は眉を少しだけ寄せて、傾げた首の角度をさらに深くする。
「へんなの」
「言うと思ったさ」
予想通りの言葉。だが葎花はさらにこう続けた。
「悩み、あるの?」
「―――…」
答えに窮する。
懊悩、苦悩。確かにそれはある。
あるが、それを年端のいかぬ幼子に話すにはあまりにも重すぎる。いいとこ道徳の授業程度で、まだロクに死生観も学んでいないであろう少女を相手にしていい話題ではない。
「…ま、大人には色々とあるんだよ」
だからそうやって濁す。かつて自分が子供だった頃、それと同じことを両親が言ったことで大いに反感を抱いたことを思い出し、つい口の中に苦いものが広がる。
「ふうん。大人は、大変だね」
ところがこの少女、訳知り顔でうんうんと頷いて、最後に缶の中身をぐいと呷った。
大人びた子だなと思う。仕草も口調も子供のそれであるはずなのに、どこか達観した部分がある。
飲み干した缶を腿の上に置き、葎花が翔を見上げる。何を言うでもなく、労わるように細めた丸い目を。
どこかそれが、この数週間でもっとも目を合わせてきた相手のものと重なる。
すなわち、野良猫大将の眼と。
吸い込まれそうな黒曜の瞳。答えを求めて彷徨うこの身に、明確な回答を返してくれそうな期待を寄せてしまう。
そんなわけないと知っているのに。
「飲んだのなら行くぞ。というか、お前が帰ってくれないと俺が困る」
自分もコーヒーを空け、ベンチに隣接して設置してあったゴミ箱へと放る。葎花もそれに倣って缶を入れ、体ごと振り返る。その頬はやや膨れていた。
怒っている?
「お前じゃない。葎花って言った」
「分かった。帰れ葎花、これ以上この場に留まることは互いの為に良くない」
名を呼び強めの語調で告げると、またしても葎花は首を傾ける。何が良くないのか、とでも言わんばかりに。
何度目かの溜息が、藍と紺が混じり始めた空に昇る。
「寒空の下、子供のお前は風邪をひく。俺は下手を打てばお巡りさんのお世話になりかねない。最近は物騒だ、俺がお前を連れ去って酷いことするかもな?」
数刻前の反省が微塵も活かせず同じ轍を踏んだ翔の脅しに、少女は少しも怯まない。
「だいじょぶ。猫好きに悪い人はいない…!」
「そのこっちが不安になるくらいの信用度なんなの?」
翔の方が怯んでしまうくらい、輝く瞳は大の大人を圧倒せしめた。子供というものはかくも恐ろしい一面を見せることがある。
「お兄さん、また会える?明日?」
「互いに大将を気にかけているのなら、その内また会うことはあるかもな」
ランドセルを背負ってぴょんとベンチを飛び降りた葎花は、大きく頷いて控え目に笑んで見せた。
「うん。なら、またね」
片手を振って、くるりと背を向ける。渋めの抹茶色が少女の背中いっぱいに広がっている。
「ああ、気を付けて帰れよ」
途中まで送ろうかとも思ったが、まだ日は完全に落ち切ってはいない。よほどおかしな道にでも入らなければ人通りから離れることもないはず。
正直、翔はもう二度と少女と会うことはないだろうと予感していた。今回はたまたま、小学校の下校時間と被ってしまい路地裏で出会ってしまったが、ならば翔がその時間を避ければいいだけのこと。これでお互い、これっきり。
(さて、人とこんなに長く話すのも久しぶりだ。妙に疲れたことだし、一杯酒でも飲んでさっさと寝るか)
日が落ちるにつれてどんどん下がっていく気温に身震いし、翔も早足で自宅への道を辿り始める。
おかしなことにはなったが、結局今日も収穫は無し。
どうすればいいのか。
何を充たせば笑えるのか。笑って逝けるのか。
気だけはあの少女のおかげで幾分紛れたが、それでも。
やはり彼の求めるものは未だ、遥か遠くの見えない何処かに。