Neetel Inside 文芸新都
表紙

先人と若人は唄う
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 空が白い雲に覆われ、息を吐き出すと白く染まった。
 もう冬だ。
 僕はマフラーに顔を埋めると、足元に視界を落とし急ぎ足で家路に着いた。
 都内にあるボロいアパートの一室、一階の一番端の部屋。
 大学に進学してからここに引っ越した。
 僕は部屋の鍵を開けると、軋む扉を開いて中に入った。
「ただいま」靴を脱いでキッチンと一体化している短い廊下を歩き、独り言のつもりでつぶやく。
「おかえり」
 予想外に返事が返ってきた。
 思わずリビングを見渡すと、悠子さんがコタツに入りながらテレビを見ていた。
「来てたんですか。勝手に入らないでくださいよ」
「悪い」気持ちが入ってない謝罪である。
 彼女は僕の住むアパートの管理人だ。歳は僕の五つ上。つまり二十六。また、僕の大学のOGでもある。
 姐御肌な性格のため面倒見がよく、アパートの男子学生からの人気も厚い。女子からも頼られており、よく恋愛相談などをされるようだ。
 彼女は僕が上京してから出来た初めての知人だった。引越しの時、挨拶をするために隣の部屋を訪ね、出てきたのが彼女だった。しばらく世間話をしたが、予想外に気が合い、すぐに打ち解けた。彼女の住んでいる部屋が管理人室だと気付いたのは、それからしばらく経った後だ。
 彼女は時折、こうして持っている管理人用の合鍵で勝手に部屋に侵入してくる。その様な不法侵入の被害を被っているのはどうやら僕だけらしい。
「何見てるんですか」
 と言いつつコタツに座ってテレビ画面を見るとなぜかアダルトビデオが映し出されていた。音声が小さく、テレビは扉から背を向ける形で置かれていたため気付かなかった。
 僕は無言でテレビを消した。
「いやね、今朝ウチの前においてあったんだわ。変なDVDだったら嫌だなぁと思ってあんたの家で見る事にしたの。そしたら案の定」
「やめてくださいよ。仮にも男子の部屋です」
「興奮した?」
「中学生じゃあるまいし」
「無理すんなって」そう言って僕の肩をポンポンと叩いてくる。「美人大家と部屋に二人きり、おまけにAVをわざわざ自分の部屋で見てる。深く考えちゃうでしょう」
「なんなんですか、一体」
 僕は内心どぎまぎしながら、それでも努めて冷静な声を出す。意識しないと言えば嘘になる。僕だって男だ。
「もう良いから部屋に戻ってくださいよ。このビデオと一緒に」
「照れんなって」
 僕がシッシッと追い払うようにして手を振ると悠子さんは「美人大家をいいかげんに扱う奴は地獄に落ちればいいのよ」と玄関の扉を開けた。そこで彼女は表情を一変する。
「おぉ、木下じゃないか。なに、このしょぼくれた大学生の部屋に用なのかい」
 開かれたドアの先で、誰かが立っているのがわずかに見えた。
 木下? そうか、木下が来たのか。そういえば後で僕の家に行くとか午前の講義の時に言ってたな。
「そうなんですよ、このしょぼくれた貧相な学生の一室に用があるんです」
 外から木下の声が聞こえてくる。木下は僕と同じ部活の友達で、大学でも普段からよく一緒に行動している。それにしても失礼だ。
「この部屋の学生はたいそうむっつりスケベだから感化されないよう気をつけなさいよ」
「ははっ、俺は大丈夫ですよ。俺は元気なスケベですから」
「木下は良い子だな。よし、後でお姉さんがお菓子持って来てやろう」
「ありがとうございます」
 悠子さんは言うだけ言うと自分の部屋に戻り、入れ替わりにマフラーを首に巻き薄手の黒いジャケットを着た木下が入ってきた。木下はジーンズのポケットから手を取り出すと寒そうに擦った。
「コタツ入って良いだろ」
「先ほどの無礼な発言を詫びるならいいよ」
 木下は「はいはい」と適当に手をヒラヒラさせるとコタツの中に入ってきた。とりあえずお茶は出してやらない事にする。
「もうすっかり冬だな」コタツに入ってもなお寒そうに木下が言う。
「気温六度らしいよ」
「マジかよ」彼は目を丸くした。
 窓から漏れる隙間風が異様なほど音を立てている。コタツしかつけていないのに曇りつつある窓。温度差があるのだ。眺めれば外がいかに寒いのか容易に想像できた。木の葉がパラパラと空を飛び、景色はどんどん色を薄くする。
 外を見ているとますます寒くなる気がして、僕はカーテンを閉めた。
「季節のめぐりは早いなぁ」のんきな声で木下が言う。
「木下は就職とかどうするの」
「こ、公務員?」
「何で疑問系なんだよ」少し笑った。
 僕たちは大学の三回生で、もうじき就職活動だった。
「……そういえばさ、この前のアレ、どうだった?」
「アレって?」僕は首を傾げた。何のことだ。
「ほら、ネットで知り合った人と会うとかって話」
「あぁ、アレか」
 以前、僕がたまたまネットで知り合った人とメールアドレスを交換して実際に会おうと言う事になったのだ。メールの相手は僕と同じ大学三回生らしい。木下にはよくメル友のことを話していたので気になっていたのだろう。
「アレはダメだったよ。ドタキャンされた」
「ドタキャン? 何で?」
「用事が出来たんだってさ。三ヶ月も前から日程まで決めてたのに用事が出来たとさ」
「いい加減な奴だな」
「大学生なんてそんなもんだろ」
「そりゃそうだ」木下は頷いた。「俺も以前さ、友達から合コンの数合わせにきてくれって言われたんだよ。俺、合コンなんて行った事無かったからさ、喜んで了承したよ。でもさ、合コン当日になっても全く待ち合わせ場所とか、時間の連絡が来ないの。電話してみたらさ、忘れてたんだと、俺のこと」
「屑だね、そいつ」
「まぁ、大学生なんてそんな奴ばっかだろ」
「その友達とはどうしたの?」
「あぁ、電話越しに死ねって言ってそれっきりだな。どうでもいいよ、あんなやつ」
「ま、大学生なんてそんなもんだよね」
「俺等もそんなもんの一つだけどな」
 僕らが溜息をつくのと同時に玄関を開けて再び悠子さんが姿を見せた。彼女は手に小さな紙袋を持って、寒そうに玄関の扉を閉めた。
「うぅ、寒いねぇ、移動距離五メートルもないのに凍え死ぬかと思ったよ」
 悠子さんは体を震わせながらコタツにもぐりこんできた。彼女のほっそりとした足が僕の足にぶつかる。
「悠子さん、何しに来たんですか」
「用が無けりゃ来ちゃだめなのかよ。あたしゃ管理人だぜ」
 普通の管理人は用も無いのに来たりしない。
「その紙袋、何すか」
 木下の言葉に悠子さんはふふんと笑った。
「いやぁ、木下があんまりにも良い子だからね、お姉さんが和菓子持ってきてあげたのよ。丁度実家から送ってきたしね。九つあるから一人三つずつ食べましょう」
 その言葉を聞いた木下はさもいとしそうに溜息をついた。
「やっぱり悠子さんはこの小さなアパートの女神ですね」
「よし、木下にはそこの干からびたウンコみたいな顔している学生の分を一つ回してやるな」
「干からびたウンコって僕ですか」
「客が来ているのにお茶も出さない奴はウンコ以下だよ。特にこんな美しい管理人がいるのに何のもてなしもしない奴はね」
「良い歳してウンコとか言わないでくださいよ……」
 だから彼氏できないんだよ、と言う言葉は飲み込む。
 僕は渋々コタツから出ると戸棚から湯飲みを三つ取り出した。その中の一つは悠子さんが自ら持参したものだ。彼女はこのアパートの各部屋に自分用の湯飲みを置いているらしい。
 迷惑な管理人だと思う。だけど、だからこそこのアパートの住民から好かれるのだろう。友達感覚で話せる若くて頼りになる女管理人。確かに理想的だ。
「緑茶でいいですか」
「もちろん玉露ね」「オッケーオッケー」
 悠子さんと木下が各々返事するのを軽く聞き流しながら、僕は茶葉の入ったきゅうすにお湯を注いだ。お茶を入れないつもりだったのに悠子さんが来るとごり押しされる。
 コタツの上に湯のみときゅうすを置くと、悠子さんがお茶を注いでくれた。
「これ、中見て良いっすか」
 木下が悠子さんの紙袋を指さす。悠子さんが軽い調子でいいよ、と言ったので僕と木下は中身を取り出した。
 中には計九つの苺大福が入っていた。一個一個セロファンで包まれている。
「全部苺大福なんですか……」僕は思わず呟いた。九つもあるならもっとバリエーションに富んでいるのかと思ったのだ。
「私の地元にある和菓子屋さんでね、苺大福しか置いてないのよ。でも美味いんだ、それ」
「へぇ……」木下が苺大福を見ながら返事する。
「ちなみにまだあるんですか、大福」
「二箱あって、これでやっと一箱なくなったから、あと三十個くらいかしら。当分は楽しめそう」
 随分食べるんですね、太りますよ、そう言いたかった。だが言ったら最後、この苺大福はいただけない。
「じゃ、とりあえず食べましょう」
 結果から言うと苺大福は美味かった。たいそう美味かった。外の餅と中のこしあんが甘さ控え目、その割に苺は酸っぱいという按配が食欲をかきたてる。僕ら三人、一つ目の苺大福を無言で平らげた。大の大人三人がコタツに入って無言で苺大福を貪っている姿は大層不気味だった。

     

「ねぇ悠子さん、何で最近の大学生ってこうもいいかげんなんですかね」
 お茶を飲んで一息ついたあたりで僕は悠子さんに言った。
「何よ急に。あんたも最近の大学生でしょ」
 僕は先ほど木下としていた会話について彼女に説明した。急な約束のキャンセルのこと、人を遊びに誘って忘れる幹事のこと。
「似たようなことが最近いくつもあるんですよね。軽く人間不信に陥りそうです」
「そんな事で人間不信になってたら私は今頃自殺してるよ」
 馬鹿じゃないの、と言いたげだ。
「ま、いいかげんな人間なんてどこにもいるわよ。私も昔はよく約束破られたりしたしね」
「悠子さんの約束を破る奴がいるんですか」
 木下が目を丸くする。僕も驚いた。この人との約束を破ったら後が怖そうだ。
 悠子さんは二つ目の大福を手にすると、少し寂しそうな顔をした。
「この苺大福にもね、すこし苦い思い出があるのよ。もう絶対守られない約束の思い出が」
「大福は甘いのに思い出は苦いんですか」驚いた様子で木下が言う。
「うん、確かに甘い。控えめに」僕も苺大福のセロファンを破りながら木下の発言に乗っかった。
「あんたたちちょっと黙るって事知らないの? 黙らせようか?」
 悠子さんの鋭い目つきに気圧された僕らは視線を逸らせて大福を口にした。悠子さんも口にした。僕ら再び、しばらく無言で苺大福を食べた。
「それで苦い思い出って何なんですか?」
 尋ねると悠子さんはお茶を啜りながら再び悲しそうな表情を浮かべる。こう言う状態を『入っている』と言う。もう語りに入るモードなのだ。
「私が中学生のころの話だよ。私んちってさ、その頃からよくこの和菓子屋さんの常連だったのね。親が好きでさ。私もよく親に付いて一緒に買いに行ってた」

 和菓子屋さんは五十歳くらいのおばさんとおじさんが経営していてね、いつもレジにおばさんが座っているのよ。店の中は狭くて汚かったけれど、その雰囲気が私はすごく好きだったわ。
 よく買いに行ってたからね、その和菓子屋さんとはもうすっかり顔なじみになっていたし、よく母さんが和菓子屋のおばさんと世間話してたからお互いの家庭環境もよく知ってた。すごく優しいおばさんでね、私の名前を悠ちゃんって呼んでくれたわ。
 おじさんとおばさんには息子がいてね、名前が秀介さんって言うんだ。
 秀介さんは大学の一回生でさ、やっぱり私の事を悠ちゃんって呼んでくれていたの。
 でもおばさんが悠ちゃんって呼んでくれるのと、秀介さんが悠ちゃんって呼んでくれるのでは少し感覚が違ったな。秀介さんが呼んでくれると不思議とうれしくなったし、心がポカポカしたっけ。いま考えるとあれが初恋だったのよね。
 ある日私が学校から帰っていると偶然前を秀介さんが歩いていたんだわ。クリアケースを持っていたからたぶん大学の帰りだったんだと思う。私は秀介さんのところまで駆けてって、一緒に帰りましょうって誘ったのよ。秀介さん、笑顔で良いよって言ってくれた。
 夏が終わって肌寒い季節だったけど妙にポカポカしてる日でね、お日様が暖かかったな。川の土手をゆっくり歩きながら帰ったの。
 秀介さん、とっても背が高かった。といってもあの頃私は背が小さかったから大きく見えたんだろうけどさ。
 私はドキドキしながら秀介さんに色々質問したわ。大学では何を学んでるんですか、好きなスポーツは、どんなサークルに入っているんですか、彼女はいるんですか。
 結果として秀介さんは経済学部のサッカー好きでボランティアサークルに入っている彼女いない暦一年のイケメン大学生って事が分かったわ。
 その時私は中学三年生だったから高校受験が近づいていたのね。その時期は誰だって憂鬱になるし不安にもなるでしょ? 私もそんな一人だったから、つい秀介さんに愚痴っちゃったのね。
「私、もうすぐ受験なんですよ」
「あぁ、もう秋だもんね、そんな時期かぁ。悠ちゃんはどこの高校を目指すの?」
「一応一番近い公立高校にしようかなって」
「あそこか、俺も通ってたよ。先生がすごく良い人だから今でも道で会ったら話しかけてくれるよ」
 秀介さんと一緒の高校! もうそれだけでその高校を目指す理由が出来たわけよ。
「でも、この間模試があったんです。それ見たら先生が、『もっとランク落とせ』って。一生懸命勉強してるんですけど、やっぱり塾に通ってる周りの子には負けちゃうんですよね」
「あぁ、俺も同じ様なことで悩んだなぁ。でも大丈夫。あの高校、そんなに難しくないから、その調子で勉強すればきっと受かるよ」
「でも……周りの子が私より良い点取っちゃったら、落ちちゃうかも……」
 私が言うと秀介さんは困ったように笑ったわ。その笑顔もまた、温かかった。
「俺が勉強教えようか?」
 その瞬間、時間が止まったかと思った。一瞬何を言われたのか分からなかったし、それを理解した瞬間、心臓の鼓動がバグッたかと思えるくらい早くなったわ。強く風が吹いてね、うれしすぎて吹っ飛ぶかと思った。
「えぇ? でも秀介さん、忙しいのでは……」
「週末なら講義入ってないし、親父に止められてるからバイトもしてないしね。土曜か日曜日なら勉強の面倒、見てあげるよ。……余計なお世話かな」
「とんでもない!」
 どっから出てるのか分からないくらいでっかい声が出たっけ。
 秀介さんはその時おじさんから店を継ぐように言われていてね。秀介さんも店を継ぐことは考えていたんだけど、せめて大学は出ておきたいからって言って大学に行っていたのよ。
 平日は学校、家に帰って菓子作りの手伝い。土日はサークルのイベントだってあったろうし、本当なら私の為に時間なんか割いていられなかったと思う。
 それでも、秀介さんはそう言ってくれたのよ。もうね、惚れ直したね。
 その日から毎週土曜日、学校が終わったら秀介さんの家で勉強してたわ。秀介さんがおススメの参考書とかを買ってきてくれてね、私がそれを解いて、間違っていたら丁寧に教えてくれてた。
 私も秀介さんに気に入られたくて一生懸命勉強したわ。正直、秀介さんに勉強教わるまで勉強したこと無かったのよ、私。一生懸命勉強してるって言ったけどもちろん悪印象を与えないための嘘だし。
 だからちょっと勉強したら面白いくらい頭に入ってね。模試の点数も右肩上がりだったのよ。最後の模試結果が出た時『もっとランク上げて』って懇願するように頭下げてた担任教師の顔が愉快でならなかったわ。
「この感じなら絶対合格出来るよ。悠ちゃんは物分りが良いからすいすい知識が入っていくし、それにほら、こんなに参考書をこなしたんだよ。自信もって頑張ってきなよ」
 受験前日、最後の勉強の日に、秀介さんは参考書の山を見ながらうれしそうに言ったわ。
 そのとき私は既に全科目九割以上をキープできるほどの知識があったけど、それでもやっぱり受験は不安だった。だから私は言ったの。
「あの、秀介さん」
「ん、何?」
「も、もし私が受験に合格したら、私に、ちゅ、ちゅ」
「ちゅ?」
「ちゅくりかたを教えてもらえませんかこの店の苺大福の」
 俊介さん、思わず噛んだ私を見て「ははっ」って格好良く笑ったわ。それで「いいよ」ってやさしく返事してくれたの。
 本当は私にチューしてくれませんかって言おうと思ったんだけど、中学生にはハードルが高すぎた言葉だったのね……。家に帰って何度壁に頭をぶつけたか覚えていないわ。血まみれになったことは覚えているけどね。
 そして受験当日、秀介さんは高校の校門前で私を待っていてくれたの。それがどれだけ心強かったか。そして私にお守りをくれたのね。教室でそれが安産祈願のお守りだったことが分かったけれど、そんなおっちょこちょいな性格も愛しかったわ。
 受験の結果、私は学年トップで合格したわ。誰も予期せぬ展開に家族はひっくり返ったものよ。

「ウチの母と二人で秀介さんにお礼を良いに言ったわ。秀介さん、相変わらずの笑顔で当然の事をしたまでですから気にしないでくださいって言ってくれたのよ。私は高校で部活に励んで、充実した三年間を送ったわ」
 そこで悠子さんは話を切った。
 沈黙が部屋に満ちる。
 僕は木下と目を見合わせた。
「……で?」
「終わりよ」
「いや、その苺大福作りはどうなったんですか」
「教えてくれたわよ。店のおじさんが。懇切丁寧に」
「秀介さんは? その後亡くなったりしてしまったわけではないんですか?」
「死んでないわよ。失礼ね」
「どこが苦い思い出なんですか。良い話じゃないですか」
「良くないわよ。春になったそのとき、秀介さんは彼女いない暦に終止符を打ったのよ。どこの馬の骨とも知らない新入生の後輩でね」
 わなわなと悠子さんは体を震わせる。
「いや、今の感じだと合格発表当日に秀介さんが交通事故にあって死んでしまうとか、そういう展開かなぁと思ったんですが」
「ドラマの見過ぎじゃない?」
「二度と守られない約束の話って言ってたけど、和菓子の作り方を教えるって約束は守られているじゃないですか」
「秀介さんが教えてくれないと意味が無いのよ」
「苦いって言うより、しょっぱいですね」
「苦いわよ。……秀介さん、結婚したのよ、その大学の後輩と。今ではおじさんとおばさん、秀介さんと雌猿、その息子と娘の大家族で順調に店を経営していらっしゃるわよ」
「雌猿て……」
「本当なら私が今頃その雌猿のポジションにいたはずなのにね……美人若奥様という形で」悠子さんは遠い目をし、そしてふと僕の顔に視線をやる。
「ここだけの話ね、実はあんた、すこし秀介さんに似ているのよ」
「僕がですか?」僕は顔をしかめるのを何とかこらえた。
「えぇ」
「悠子さんは初恋の相手に似ている人に、やれウンコ以下の学生だのむっつりスケベだの言うんですか?」
「いや、ほら、秀介さんってちょっと弱々しく見えるよ。あの時は年上だからすごく力強く見えたけど、あんたみたいに年下だとイジメたくなるのよね。あ、これからあんたのこと秀介さんって呼んで良い?」
「嫌です」
「ケチだなぁ。あんた言っとくけど光栄なことだよ? 私から秀介さんって呼ばれるなんて」
「じゃあこれから悠子さんを僕の初恋の女性の名前で呼びますね」
「ごめん、それはちょっと……」
 悠子さんは困った顔で首を振る。理不尽だ。
「とりあえず悠子さんはそれなりに年相応の落ち着きを見せてくださいよ……」
「聞いた? 木下、アパートの、しかも大変お世話になっている、つい今しがた最高に美味しい苺大福を持ってきてくれた美人若大家に向かって年相応の落ち着きをだってさ。まるで親のように」
「ははっ、そんな馬鹿な」
 馬鹿はお前だ。
「悠子さんはとてもじゃないけど社会人には思えないですよ。子供っぽいと言うか大人気ないというか」
「若い、と言って頂戴」
 いつまで経っても学生ノリが抜けないとも言えるが。
「悠子さんが変わらない美しさなのは多くの学生と同じ時を過ごしているからなんですよね」木下が調子の良いことを口にする。
「若者の感性をいつまでも失っていない証拠ね」
 こんな人たちの相手はとてもじゃないけどしていられない。
「まぁ私が若いと言ってもよ? やっぱり学生は羨ましいけどね。サークル活動にオシャレに、授業って言ったってあんた達みたいなお気楽学生はあってないようなもんだし、正直許されるならもう一度学生になりたいわよ」
「企業で働いてる社会人からしたら悠子さんの仕事も結構羨ましいと思いますけど……」
 思わず言うと悠子さんは心外そうに眉間にしわを寄せた。
「あんたねぇ、私は私でこう見えても苦労してんのよ? アパートの掃除とかメンテナンス、苦情が来たら夜中だって対処しなきゃダメだし、家賃滞納者は取り立てに行かなきゃダメだし、払ってもらえなかったらその分苦しいのは私だし。それに預かってる学生の親御さんのために住民の事は大体把握してるんだからね」
「住民の事把握してるって、一体どれだけ把握しているんですか」
「そうねぇ、まぁ主に付き合ってる友達とか、所属してる団体名だったり、何のアルバイトしているか、とかかしら。バイトの給料日前とかで何も食えてなさそうな学生いたら煮物あげたりしてんのよ? 私のアパートで暮らす以上は責任持って面倒見ないと、ウチを信頼してくれてる親御さんに申し訳が立たないからね」
 管理人に人間関係やら生活スタイルまで把握されているなど聞いたことが無い。そこまで住民の情報を手に入れることが出来るのも、やはりこの人だからなのだろう。
 悠子さんがこのアパートの管理人になったのは僕らが大学に入る少し前の事だ。
 当時、悠子さんはこのアパートの住民としてここに住んでいた。大学から近く、親戚のおじさんが所有・管理をしていると言うのがその理由だそうだ。
 ある日、そのおじさんが急な病気で以前の様に動けなくなった。おじさんの家族はみんな働きに出ており、親戚でも頼れそうな人がいない。だからと言って人を雇う余裕が無い。
 そんな状況の時に丁度大学を卒業だった悠子さんが代わりを勤めた。元は住民であり、管理人の仕事も親戚と言う理由で度々手伝っていた悠子さんはよく分かっていた。
 若くて美人でよく仕事が出来る管理人は評判がよく、アパートの住民も増えたのがきっかけで正式に管理人にしてもらったのだとか。
 その様な経緯を以前酔っている悠子さんから聞いた事がある。
「コネ就職か……」
 ボソリと呟いたのが聞こえていたらしい。
「実力が認められたのよ。コネなんかと一緒にしないで頂戴」
「でも俺、コネでも良いから楽なところに就職したいなぁ」木下がのんびりとした口調で言った。
「お前さっき公務員とか言ってたじゃないか」
「就職さえ出来れば良いよ。このご時勢」
「木下は典型的なダメな若者っぷりを発揮しているな」
 悠子さんが呆れたように溜息を吐き、僕に視線を移す。
「で、秀ちゃんはどうするのかな」
「誰が秀ちゃんですか」
 音楽続けたいって言ったら笑われるだろうなぁ、悠子さんに。僕はお茶をすすった。
 僕と木下は大学の軽音楽系の部活動に所属していた。今はのんびりしているが、昔は二人ともストイックに練習していたのである。
 現実的に考えて音楽は将来的に趣味にしかなりえないと分かっていた。職としてやるには本気で音楽活動をせねばならず、本気で音楽活動をするには遅すぎた。
 やりたい事を趣味として強制的に除いた場合、なりたい職業としてピンとくるものはない。
 しばし逡巡してから言った。
「営業……ですかね。無難に」やりたくは無いが、向いている仕事ではある気がしている。
「無難にねぇ」
 たぶん悠子さんは気付いているだろう。まだ僕が答えを見つけていないことに。
「私の下僕として私の下で働くか? 養ってやるわよ」
「結構ですよ。悠子さんの下僕になるならニートになります」
 僕が木下のマネをしてヒラヒラと手を振ると「んまぁー」と甲高い声を悠子さんが上げた。
「こんな割に合う美味しい仕事は無いって言うのに。せいぜい来年の今頃就職先決まらずに私に土下座するが良いわ!」
 そう言って奇妙な表情で舌を突き出す悠子さん。僕と木下はその様子を見て苦笑した。
 不意に外からストン、と何かが新聞受けに入る音がした。うちかと思ったがたぶん悠子さんの部屋だ。彼女は新聞を取っているので恐らく夕刊が運ばれてきたのだろう。
 時計を見るともう五時半だった。
「あら、もうこんな時間なのね」
「秀介、晩飯どうする? どこで喰う?」と木下。
「お前と喰うこと前提かよ」
「あっ」
 悠子さんが不意に声を出したので僕と木下は視線をやる。
「鍋やろう鍋。キノコ鍋。ちょっとお肉とか白菜とか入れて。暖かいし、三人で割り勘したら安いし、酒も飲んじゃおう」
 外の寒さを想像すると最初は動く気すら起こらなかったが、悠子さんの提案は素敵な物に思え、少しだけ気力が湧いた。
「そうと決まれば出かけるわよ」
「別に良いんですけど、せめて僕らの意見を聞いてからにしてくれませんか」
「顔みりゃ大体分かるわよ」当然でしょと言わんばかり。
 まったくこの人には敵わないなぁと思う。全部お見通しだ。
 僕は重い体を起こすと、壁際のジャケットに袖を通した。

     

 日が傾いていた。先ほどまでは曇っていたが、今は雲の合間から空の様子を確認することが出来る。青空が少しずつ色を濃くしていた。
 想像したよりは寒くない。とは言ってもやはり空気は冷たく、我が家のコタツの魅力と威力がよく理解できた。
「あ、上着と財布、自分の家に置きっぱなしだわ」
 悠子さんは外に出てからようやく自分が上着を着ていないことに気付いて自分の部屋に戻っていった。
 木下は寒そうにマフラーに顔を埋めて腕を組んでいる。僕はズボンのポケットに手を突っ込んで空を仰いだ。
 寒い日の空気は透き通って見える。この季節は夏と違い鮮やかな色が失われる時期でもあるため、その感覚はより一層顕著となる。
 それでも一日のこの時間は色々な物が茜色に染まるから嫌いじゃない。
 夕日を見ると時折妙な焦燥感と心のざわつきに襲われる。これは昔からで、特に何か不安があるわけじゃない。この独特な感覚も、慣れれば心地よいものなのだ。
 カラスの鳴き声が遠くから聞こえた。僕と木下の間に会話はない。僕らの間には沈黙がある。
 時々、全く会話せずに同じ時を二人で過ごすことがあった。木下が僕の部屋に来て、二人でダラッと過ごす時なんかが特にそうだ。僕が漫画を読んで木下がゲームをしていたり、僕がパソコンをして木下が勝手に寝ていたりする。沈黙を共に過ごせる間柄の人間関係。それは重要な気がする。
 そんな事を考えていると悠子さんが家から出てきた。すまんすまん、と気さくに話してくるこの人を見て、そういえば悠子さんともよく沈黙の時間を過ごすなぁとふと思う。これだけやかましい人と沈黙を共有するなんて奇妙な事だ。
 駅前のスーパーに向かい、人通りのない狭い道を三人で歩く。この辺りは車もあまり通らないので静かだ。
「今日、他に誰か呼ぼうか?」
 突然悠子さんが言い出した一言に、僕は反論した。
「いらないでしょう」
「でもでも、買える食材の幅も広がるし断然お得じゃないの。鍋の強みって人数増えても大丈夫な点にあるのよ?」
「でもなぁ……」僕は頭をかいた。
 今日の流れだと僕の家で鍋をすることになるのだから、酒盛りも必然的に僕の家で行われるだろう。人数が増えれば増えるだけ部屋の片付けも面倒くさくなるし、部屋も汚れる。飲み会の後の片づけほど面倒なことはない。
「うだうだ言ってんじゃないわよ。五人六人呼んだら良いじゃない」
「管理人が苦情の原因作っちゃダメでしょう」
 以前、上の階の住民が十人近い人間を家に呼んで飲み会を開き、管理人の悠子さんの元に苦情が来たことがあった。あの時は悠子さんが注意するだけで済んだが、さすがに管理人が当事者になるのはまずい。
「そういえば私、管理人だった」悠子さんはハッとした顔で言う。
「しっかりして下さいよ」
「いやぁ、うっかりしてたわ。あんたらといるとつい自分が学生の様な気がしちゃうのよね」そう言って彼女は恥ずかしそうに頭をかいた。
「でも悠子さんがそう言う提案するのって珍しいですね」
 何気ない木下の一言にふと僕も考える。
「そういえば今まで僕の家で飲むのにわざわざ人なんか呼んだ事なかったような……」
 いつもは基本的に悠子さんがお酒を持って僕の部屋に乗り込んでくることが多い。今日の様にわざわざ飲み会の準備の為買い出しに出かけることも初めてだった。
「ほら、鍋ってたくさん具を入れるほど美味しいし、少人数でやるものじゃないでしょ。寒い日ほど人恋しくなるし」
「たしかに」
「さすがに大人数はまずいけど、とりあえず人は呼びましょ。お金は多目に出すから」
「まぁそれは別に良いんですけど」
 別にお金がどうこうと言うわけではない。
「で、誰を呼ぶんですか」
 僕が言うと悠子さんは眉間にしわを寄せた。
「どうしようかしら。……まぁ帰ってから決めましょ」
「ホント自分から言い出した割には適当ですよねぇ」
「何よ、文句でもあんの」
「いえ、別に」
「男でしょ、はっきりしなさい」ずいと睨みをきかせて来る。
「まぁまぁ、落ち着いてください。とりあえず誰を呼ぶにしても俺がエスコート役をさせてもらいますよ」木下が場をとりなすようにひょうきんな声を出す。
 僕のアパートには意外と可愛い女性の住民が多い。恐らく管理人が女性、と言うのがその大きな理由だろう。木下が狙っているのはそんな女性との交流じゃないだろうか。友人に対して歪んだ視線で見すぎかもしれないが、木下ならそんな考えもありえる。
「やっぱり木下は男の鏡だな。秀介も少しは見習ったら?」
「人の本名もまともに呼べない人の言うことは聞く気がしないです」
 狭い路地から大通りへと抜けた。狭まっていた視界が開け、右側に駅が見える。目的のスーパーはそのすぐ傍だ。
 夕飯時の為スーパーは非常に混んでおり、レジには大量の主婦が並んでいる。
 僕らはエノキ、シメジ、マイタケと言った数種類のキノコと豚肉、中華そば等をかごに入れた。ダシは何故かチゲ鍋を切望する悠子さんの発言でキノコチゲ鍋にすることになった。どうでも良いけど随分と泥臭そうな鍋になる気がした。
「これ絶対終盤ダシに泥臭さが移りますって」
「そこらへんは私が上手くやるわよ」
 その妙な自信はどこから来るんだ。
 ビールの六本パックを二つ、ビールが飲めない人の為にチューハイを更に購入して、僕らは店を出た。割り勘のつもりでいたが、悠子さんが七割近くも出してくれた。こう言う時サッとお金を出してしまう所に年上を感じる。
 悠子さんの行動にはちっとも嫌味っぽさがない。普段は子供っぽく偉そうに振舞ったりしているが、そういった点でやはりこの人は大人だ。
 そんな悠子さんに負けまいと妙な見栄が出たのか、それともお金を払ってもらった罪悪感からか、せめて荷物だけはと僕と木下で分けて持つことにした。僕が持っているのはビールのパックが全て入っているため、やたらと重い。木下の持っているのは食物、しかもキノコ類がほとんどなのでたいした重みも無いのだろう。失敗した。
 両手に飲み物の入ったビニール袋がくいこむ。計十八本のお酒が入っている。今日は日本酒はやめて軽く飲みたいと言った悠子さんの要望を聞き入れた結果がこのお酒の量だ。
 予想外にスーパーで長居をしてしまったらしい。買い物を済ませて店から出る頃にはほぼ完全に陽は沈んでいた。
「ところでお前、鍋持ってんの?」
 信号を渡り、再び大通りから路地に入ったところで木下が尋ねてきた。彼の質問に僕は首肯する。もはや秀介と言う呼び名をいちいち否定するのも面倒だった。
「そりゃ持ってるよ。実家から持ってきた電気鍋が。電源入れたら暖めながら喰えるから便利だよ」
「そんなの持ってたのかよ。初耳だな」
「今まで使う機会がなかったからね」
 もしかしたら今日悠子さんが鍋をしようと言い出したのは、僕を気遣ってのことかもしれない。心が沈んでいたり、寂しそうだったりする人間ほど温かい物をたくさん食べることが良いのだと、いつか悠子さんが言っていたのだ。
「あー、お腹減った。さて、今日は久しぶりに美味しいお酒を飲むわよー」
 のんきな声で悠子さんが言うのを聞いて、僕は自分の考えが過ちであることを悟った。
「久しぶりにって、悠子さんよくお酒飲んでるじゃないですか」
「いつも飲んでるのは安い日本酒なのよ」
「どう違うんですか」
 僕の質問に悠子さんは大げさに溜息をついた。
「馬鹿ねぇ。特に良いお酒でもない日本酒なんか飲んだってまずいだけでしょ。ビールの方がよっぽど美味しいわよ」
「じゃあ普段からビール飲めば良いじゃないですか」
「ビールより日本酒のほうが私は早く酔えるのよ。それに日本酒は料理に使えるし便利でしょ」
「何で今日は日本酒にしなかったんですか」
「今日は酔いたいんじゃなくて、楽しく飲みたいのよね。私いつも日本酒だとすぐ回って眠くなるのよ。不眠症の時とか、ぐっすり眠りたい時とかは日本酒飲んで寝たりすんの」
 意味が分からん。
「ダメだな、秀介。理解力が無いやつはモテないぞ。つまり悠子さんにとってビールは美味しく飲む為のお酒であって、日本酒はただ酔って眠る為だけのお酒って事ですよね」
 木下の言葉に悠子さんは嬉しそうに木下を指差す。
「それ、まさにそれ。よく分かってるなぁ木下は」
 それに比べて、とこちらに視線が来るのは分かっていたので僕はあえてそっぽを向いた。「そういえば悠子さんは度々僕の家に日本酒持って来ますけど、ぐっすり眠るために日本酒飲むなら何でわざわざ僕の家まで来るんですか」
 すると悠子さんは少し驚いたように眉を上げ、恥ずかしそうに頭をかいた。
「いやぁ、一人酒って寂しいじゃないの。どうせ酔うなら誰か一緒に酔わせたいじゃない」
「そんなんでいちいち来ないでくださいよ……」
 まるで歩く災害である。
「そんな事して、お酒飲めない子に無理やり飲ませたり、テスト前に飲ませて学業をダメにしたりしないでくださいよ」
 僕が言うと悠子さんは何言ってんの、とばかりに手を振る。
「そんな事あんたくらいにしかしてないわよ」
「悠子さん、一体僕をなんだと思ってるんですか……」げんなりした。
 アパートの入り口で僕は足を止めた。悠子さんの部屋の前に誰かが立っていたからだ。相手もこちらに気付いたようで、目が合う。
 緑色のジャケットにリュックと言うラフな格好をした人物だった。遠目だからはっきりしないが、セミロングの髪形から察するに恐らく女性だ。ただ仕草だけだと男性にも見えた。僕が女性と勘違いしているだけかもしれない。
「秀介、早いよ」
 不意に背後から声を掛けられ、振り向くと悠子さん達が追いついていた。
「まったく、ちょっとは人に合わせるって事を知りなさ……ん?」
 悠子さんはふと僕の背後に視線をやって表情を一変させた。「んん?」と眉を寄せ、目を見開く。
「え、ちょっとやだ、嘘でしょ」
 そう言うと僕の脇を抜け、彼女は家の前の人物に近づいた。
「えぇ? やっぱり涼じゃない。何やってんのあんた? 何で居るの?」
 相手の肩をばしばし叩きながら、驚いたように悠子さんは言う。
「近くまで来たんでちょっとな……」
 静かな物言いで、口調が男っぽい。声音から、どうにか女性だとわかった。
「近くってあんた確か地元の専門学校通ってなかったっけ? 近くに来る用事なんかあったの? と言うか何年ぶり?」
「そんなに一気に質問されても困る」
 悠子さんの発言を制すようにして涼と言われた人は少し苦笑いする。
「悠子、この子らは?」
 遠巻きに見つめる僕らの視線を感じたのか、涼と言う人は尋ねる。
「あぁ、ウチのアパートの住民よ。これから三人で鍋するんだけど、丁度良いわ。涼も食べていくでしょ?」
「……良いのか?」
 そう遠慮がちに僕らに言う。それもそうだろう。初対面の人間の家に上がってあまつさえ一緒に鍋を食べるなど、気も使うし、気まずい。しかも会って五分も立っていない人間が相手となるとなおさらである。
「あ、大丈夫です。むしろ今日は少し買いすぎたくらいなので人が増えて助かりました」
 僕は愛想笑いを浮かべた。
「悠子さん、その人はお知り合いですか?」
 木下がここぞとばかりに質問する。目の前の女性が気になっているのだろう、と言う僕の考えは穿ち過ぎだろうか。
「あぁ、ごめんごめん、こいつは土方涼子って言って、私の大学時代の友達。私は涼って呼んでるけど」
「涼子でいい」
 悠子さんの紹介にうなずく彼女。それを聞き、木下はずいと一歩前に出る。
「木下敏(とし)と言います。悠子さんには普段からお世話になっているんです。よろしくおねがいします」
 妙にかしこまった挨拶だ。先ほどの木下に対する僕の考えは間違いでもないかもしれない。この流れだと僕も挨拶すべきだろうかと思っていると悠子さんが口を開く。
「こっちの木下は本当によく出来た男なのよ。自分から積極的に人に関わろうとするしね。んで、こっちのゴボウみたいなのが秀介っての」
 誰がゴボウだ。
「秀介?」
 ちらりとこちらを見る涼子さん。
「あだ名です。今日付いた」
「あぁ、なるほど」
 彼女はふっと笑みを浮かべる。恐らくこの反応から察するに悠子さんの初恋話を知っているに違いない。
「とりあえずここじゃなんだから中に入りましょ。あ、私は自分の部屋に上着とか置いてくるから」
「あ、悠子……」
 悠子さんはさっさと自室のドアを開けると自分の家に入っていった。
ドアが閉まる音がして、少しだけ沈黙が漂う。
「今日泊まるから私の荷物も置かせてくれって言おうとしたのに……」
 悠子さんの家に向かって、涼子さんは呟いた。

     

「おじゃまします」
 部屋の中に入り、コタツの上にスーパーの袋を置く。
「上着はどうすれば良い?」
「あー、そこらへんに掛けておいてください」涼子さんにハンガーを渡す。
 明るいところで見ると、涼子さんは綺麗な人だった。悠子さんみたいに一目見て分かる美人ではないが、小ぶりな鼻と細い目は薄化粧でも映えそうだ。ジャケットの下に薄手の黒いパーカーとTシャツを着ており、冬なのに格好はラフだ。
 なんだか、格好良い人だと思った。
「涼子さん寒いでしょ、コタツの中どうぞ」
 僕が食材の入った袋を片しているのにも関わらず木下はコタツに入り込んで手招きする。なんて図々しい奴。
「いや、さすがに何もしないのは……」
 遠慮がちな視線に僕は首を振った。
「いえ、大丈夫ですよ」
「しかし任せっぱなしと言うのも」
「えーと、じゃあそのお酒を冷蔵庫に入れといてもらっても良いですか?」
 コタツの上の袋を指差すと「わかった」と涼子さんは嬉しそうに答えた。こういう人には断りきるより簡単な作業をしてもらったほうが話が早い。意外と分かりやすい人だ。悠子さんだとこうはいかない。
 僕は台所の棚から鍋を取り、洗剤を使ってスポンジで軽く洗った。洗い終わるとそれをコタツの上に置く。
「電気鍋? これが?」木下が眉を潜める。
 僕は再びシンク下の棚から鍋の土台を取り出した。この土台の上に鍋を乗せ、コンセントを入れて温度を調節すると鍋が温まる。
「結構大きいんだな」
 木下が感心したように言う。
「そ、だから今まであんまり使わなかったんだよ」
 僕は電気鍋のセッティングをしながら言った。
「これだけ大きいと使い道があまりないからな」と木下。
「使い道がない? 友達と一緒に鍋をしたりはしないのか?」作業を終えたのか、いつの間にか涼子さんが僕のすぐ傍に立って鍋を見おろしていた。
「こいつはあんまり家に友達を呼ばないんですよ」
「呼ばない?」
「あんまり自分の家に大勢の人を呼ぶの好きじゃなくて。基本的に遊ぶ時は僕が相手の家に出向きますね」
 木下の説明に補足すると、涼子さんは納得したようだった。
「なるほど。今日みたいに人を呼んで鍋をするのは珍しいのか」
「まぁそうですね。と言うよりも、初めてです」
「運が良いな」涼子さんは薄く笑みを浮かべる。「悠子もよく人の家に遊びに行ってたな。『自分の家に他人が居るのってなんか落ち着かないのよ』って。そのくせ私だけはよく家に呼ぶんだ。よく二人して悠子の家でダラッとしてたよ」
「それ全くこいつと同じですよ。この家に来るのも俺か悠子さんくらいのもんです。仲の良いやつだけ呼ぶんですよこいつは」
「まぁ呼んだことは一度も無いけどね。二人ともいつも勝手に来るから」
「照れるなよ」
「照れるかよ」
 すると涼子さんがフフッと笑った。
「学生の頃の自分を見てるみたいだ」
 その言葉を聞いて、涼子さんと悠子さんがどういう時間を過ごしていたのか何となく想像がついた。
「そういえば、大学時代のお友達って聞きましたけど、専門学校に通ってるんですよね? どうやって悠子さんとは知り合ったんですか?」
「専門は大学を卒業してから行ったんだよ。私も元々、悠子と同じ大学の学生だったんだ」
 その時玄関の扉が開いて悠子さんがやってきた。彼女はカーディガンを羽織って完全に部屋着だ。
「ほっほ、待たせたね。あれ、鍋は?」
「そんな早く出来るか」
 涼子さんは呆れ笑いを浮かべていた。

「とりあえず材料は僕が切るんで、三人ともくつろいどいて下さい」
 僕が言うと悠子さんは何言ってんの、と首を振った。
「私も手伝うわよ。スープの味付けもしたいし」
「味付けって、既にお鍋のスープは買ってるんで味付けなんか必要ないんですけど……」
「それにさらに手を加えるのよ。私に任せときなさい」
 この人の料理はなんだかんだ美味しい。そのことが分かっていたので僕はただ頷いた。
「私も何か手伝おう」
「涼は客なんだから黙ってテレビを見なさい。それが仕事」涼子さんに有無を言わせない辺り学生時代の二人の発言権の差を感じた。
「じゃあ俺は涼子さんとテレビを楽しみます」
「木下は分かってるわねー」
 僕らは鍋の準備に取り掛かった。僕が食材を切り皿に盛りつける。悠子さんがサポートをしてくれるので作業は順調に進んだ。
「秀介って結構包丁使うの上手よね。他の学生と違って危なっかしくないし」
 僕の手つきに悠子さんが感心する。この人に料理のことで褒められると素直に嬉しい。
「三年間自炊してたら上手くもなりますよ」
「男子で三年間も自炊出来る子って珍しいわよ。普通は途中で飽きて外に食べに行くようになるか、スーパーのお惣菜やお弁当で済ますからね」
「まぁ確かに友達でそう言う奴も多いですよ。ただ僕はせっかく一人暮らししてるんだから最低限生活力は身につけたかっただけです」
「殊勝な心がけでよろしい。……家事の出来る男子ってモテるのよ?」
 耳元でボソリと言われので一瞬指を切りそうになった。
「……やめてくださいよ」
「ごめんごめん」彼女は申し訳なさそうに拝んだ。
「家事出来るくらいでモテたら苦労しませんよ」
「苦労してるの?」
「いや、別に」
「なによそれ」悠子さんは笑うと、また声のトーンを落とす。
「一男子の意見として聞きたいんだけど、涼とかはどうなの? 飾りっ気はないけど素朴な美人で好みなんじゃない?」
「まぁ綺麗な人ですよね。可愛いと言うよりも、格好良いって感じで。幸薄そうとも言われそうですけど。あんまりいないタイプですよね」
「へっ? えっ? そうなの?」
 流されると思っていたらしく、悠子さんは予想外の返事にあからさまにうろたえた。
「悠子さん、焦るなら聞かないでくださいよ。今のは単純な感想です。別に深い意味とかありませんよ」
「べ、別に焦ってなんかないけど?」
 何だか勝手にどぎまぎしている悠子さんに笑いそうになった。ただ、笑うとまた怒られそうだから我慢する。自然と含み笑いになった。
「何よ。何で笑ってるの」
「いえ、別に」責めるような視線から逃れるため、話題を変えることにした。「昔はよくモテたんじゃないんですか、涼子さん」
「ああ、うん、まぁモテてはいたわよね。……女の子に」
「えっ」言葉に詰まった。
「あいつ女子高だったんだけど、よく女子に告白されてたらしいわ。まぁ本人にその気はないから」
 女子高校で女の子同士の恋愛があるという話はよく耳にする。頼りがいのある人を求めて、安心出来る同姓で凛としている涼子さんにいつしか惹かれてしまう。想像に難くない。
「大学に入ってからも時々告白されてたみたいよ、部活の女の子から」
「大学でもそう言う嗜好を持ち合わせた人が居るってなんか嫌ですね。噂とか立ちそうだし」
「どうだろね。……ま、そういう噂が流れても、普段ちゃんと周りの人があいつの事を見てるなら、それが真実かどうかくらい分かるでしょ?」
「そうですね」そこでふと気になる。「……そういえば涼子さんって、なんの部活をしてたんですか?」
 悠子さんは思い出したように、そうそう、と切り出した。
「確か楽器やる部活よ。あんたもそうでしょ」
「へぇ」
 僕は涼子さんに視線をやった。いつの間に出したのか、テレビ台の下に片付けておいたゲームを木下とプレイしている。
「もしかしたら同じ部活かもしれないわね。後で聞いてみたら?」
「そうします。でもうちの大学、軽音系の部活が一つじゃないんで。……終わりましたよ。運びましょう」
 具材の入った皿を手に持つ。
「でも、悠子さん」
「何よ」
「自分の部活に同性愛者がたくさんいたとしたら、なんか嫌ですよね……」
 僕の悲愴な表情に、悠子さんも別の皿を持ちながら「まぁ、ねぇ」と小さく頷いた。

     

 僕達がお皿を机に置くと、涼子さんは慌てて手伝おうとするした。だが自分のキャラクターが倒されてしまうのでコントローラーを放すに放せない。
「木下が、ゲームをしようと」言い訳じみた発言だ。
「やだなぁ、涼子さんも楽しそうにやってらしたじゃないですか」
「いや、確かにそうなんだ。だがしかし……」
 涼子さんは口ごもった。どうやら手伝いもせずにゲームをしていた事で罪悪感が生まれているらしい。真面目な人だ。
 ゲームをしている間に木下とは多少仲が良くなったらしく、二人の間に最初のたどたどしい雰囲気はなくなっていた。
「あんた達だけゲームしてずるいわね。私もやりたかったのに」
 机の上にお皿を置きながら悪態をつく悠子さんに、涼子さんは心外だと言う表情をした。
「だから私も手伝おうとしたんじゃないか。でもお前が手伝うなって……」
 悠子さんを睨もうとして慌てて画面に視界を戻す。その様子を見て悠子さんは少し意地悪い表情を浮かべた。
「あれあれ、人のせいにするの? 遊んでたのは自分なのに」
「うぅ……」
 涼子さんは悠子さんをチラリといちべつして視線を画面に戻した。そして何かを確かめるようにもう一度こちらを振り向く。からかわれているのに気付いたみたいだ。
 その隙に涼子さんの操作していたキャラクターが画面外へはじき出され、彼女は「あぁっ」と声を上げた。
「負けてしまった……」
「相変わらずゲーム下手ねぇ」悠子さんが呆れ顔をする。
「お前が邪魔したからじゃないか」
「あんなので気が散ってるようじゃダメよ」
 涼子さんはそう言われて少し笑った。
「なに、何がおかしいのよ」
「いや、ごめん」涼子さんがさも可笑しそうに言う。「相変わらずだなぁと思ってさ。悠子が変わってなくてよかったよ」
「人がそんな簡単に変わるわけないでしょ。変なこと言うわね」

 鍋の熱と言うのは、部屋の中を温かい空気で満たしてくれる。具材を入れた鍋を囲んでただ出来上がるのを待っている姿は少しだけ滑稽だ。
「じゃあ、乾杯しましょ」
 冷蔵庫からビールを取り出して悠子さんは言う。
「何にですか?」
 尋ねると悠子さんは僕を睨んだ。
「なんだって良いのよ。乾杯に理由なんて要らないわ。でも、そうね……」
 悠子さんはしばし考えると、涼子さんに視線を寄せた。
「久々の再会に、がいいわね。乾杯」
 僕らは乾杯を交わし、ビールを口に運んだ。涼子さんはチューハイをゆっくりと口に運んでいる。
「あんた相変わらずビール飲めないのね」
「スプーンを舌にくっつけた様な平淡な味が苦手なんだ。みんなよく飲めるな」
「スプーンを舌にくっつけたって……すごい表現ですね」まず普通は出てこない表現だ。
「でも確かにスプーンを舌にくっつけた味するな」木下が感心する。
「もったいないわねぇ、こんなに美味しいのに」
「チューハイだって充分美味いよ」
「でも涼子さん、チューハイの方がアルコール度数は高いんですよ。酔いやすいんです」
 僕が言うと涼子さんは目を見開いた。
「そうなのか? 意外だな……ジュースみたいなのに」
 彼女はしげしげと間の表記を眺めた。アルコール度を確かめているのだろう。ビールよりチューハイのほうが酔いやすいのは結構有名な事実だと思っていたが、知らないとは珍しい。
 涼子さんは一つ一つの事柄がまるで新しい物の様に接している。なんと言うか、違う文化圏から来た人みたいだ。
「こういう所が涼の面白いところなのよ」
 僕の考えを読んだのか、隣に座っている悠子さんが言った。相変わらず鋭い。
「何の事だ? 私の話か?」
「あんた以外に誰がいるのよ」悠子さんはそう言った後、ふと思い出したように付け加える。「そういえば涼、こっちにはいつまでいるの?」
「ん? そうだな、迷惑じゃなかったら今日くらい泊めてもらってもいいか?」
「それは別に構わないけど、こっちに来たのって何か理由でもあったの?」
「ちょっと大学に用事があってな」涼子さんは少し視線を落とした。
「大学に? わざわざ?」
「あぁ。専門の卒業課題が一段落したんで久々に部室に寄ろうかと思ってな。昔使ってた機材とか忘れたままだから回収しに来たんだ」
 そこで何か思いついたようにパッと顔を明るくした。
「そう、悠子がここで管理人してるって話は卒業の時に聞いてたから、どうせなら少し顔だそうかと思ったんだ。うん、そうなんだ」
「ふうん」
 悠子さんは頷いてはいるものの、まるで信じていないのが見て取れた。普段ならここで突っ込んだ質問を浴びせるのにやけに大人しい。
 鍋のふたから徐々に湯気が漏れ出した。悠子さんは布巾でふたを持ち上げる。匂いと同時に、大量の湯気が上がった。
「涼子さん、嘘つくの下手ですね……」
 僕が感想を述べると、涼子さんはギクリと顔を強張らせた。
「う、嘘? 何のことだ?」
「いえ、何でもないです」僕は視線をそらした。
「こういう所が涼の面白いところなのよ」鍋のふたを脇に置いて、まるで面白くなさそうに悠子さんは言った。
「そうですね」僕は頷く。
「そういえば涼子さん、部室っておっしゃってましたけど、何の部活に入ってらしたんですか?」
 全く周囲を気にしない木下の質問には実を言うと僕も少し興味があった。先ほどの悠子さんとの会話が思い出される。
「へ? あ、あぁ。軽音系の部活だよ」
 強張っていた涼子さんの顔がほっと緩まる。
「ウチの大学には軽音学部やフォークソング愛好会といくつか同じ様な部活があるんだけど、その中の一つに所属してたんだ。フォー研って言うとこで、他の軽音系の部活と違ってチャラけた人が少なくて落ち着いたとこだったんだ」
「えっ? フォー研?」
「知ってるのか?」
「そうですね……」僕は木下と顔を見合わせると少し苦笑いした。
「僕らも部員だったりします。フォー研の」
「へぇ……全然見えないな、音楽やってるようには」
 失礼だ。
「まさかOGさんにそんな事言われるとは」
 うちの部活は僕だけでなく、部員のほとんどが楽器をしているようには見えないとよく言われる。実際、四年間ろくに楽器を触らずただお酒を飲む事に精を出した先輩も居るくらいだ。
「すまないな。つい」
「ついって、……ますます傷つくからやめてくださいよ」僕は溜息をついた。「うちの部活は代々軽音とは関係なさそうな人が多かったって聞いてましたけど」
「そんな事はないぞ」
 涼子さんは強い口調でそういった後、疑問を覚えたのかしばし逡巡した。
「……でも、そう言われればそうだったかもしれないな」
「まぁ涼子さん楽器似合いそうですもんね。ギターとか、ベースとか上手そうに見えるから」
「あら、上手そう、じゃなくて涼は実際上手かったのよ? 現役の時は結構色んな人から注目されてたみたいだし」
「そんな事ないよ」
「あら、でも実際よく声かけられたじゃない。バンド組んでくださいって。イベントにも結構出てたんでしょ?」
 悠子さんは鍋のキノコを自分の取りざらに装う。気がつけば悠子さんばかりが食べており、いつの間にか鍋の具材がかなり減っている。会話に夢中で、全く気付かなかった。
「論より証拠、弾いてもらえばわかりますよ。秀介、ギターあるだろ?」
「え? ないよ」
 僕は舞茸を箸でつまもうとしている悠子さんの手首をつかみながら言った。
「何でないんだよ。二本くらいあったろ」イラついた木下の声。
「だって使わないと思ってさ。どっちも部室に置きっぱなしにしてた。家より部室でギター弾くことのほうが多いし」
 悠子さんの腕に力が込められる。僕は悠子さんとにらみ合いながら、彼女の腕の動きを抑えた。
 大学には部ごとに専用のスタジオが備え付けられている。使用者が居ない場合誰でも使えるので、僕はスタジオを使っている人間が居ないことが分かると遊びで入るのだ。そのため部室に機材を置いておいたほうが好都合だった。
「肝心な時にお前は使えないやつだな」
「そんな役立たずに舞茸だって食べられたくないでしょ」
 悠子さんは僕の振りほどくと舞茸を素早く箸でつかんだ。
「そんな事は舞茸にきいてみないと分からないじゃないですか」
 僕も悠子さんと同じ舞茸を箸でつまむ。必然的に箸で引っ張り合う形になった。
「まぁまぁ、別に私は弾くなんて言ってないわけだし」
「え、弾いてくれないんですか?」木下がショックで固まる。
「もう随分と長い間ギターには触ってないし、いまじゃすっかり指も柔らかくなってるんだ。現役の君らの期待に応えられるような演奏は出来ないよ」
「そうか、そうですよね。残念だなぁ」木下はがっくりと肩を落とす。
「そういう事らしいですから僕は役立たずじゃないんですよ。むしろ涼子さんの意思を汲み取ってアシストさえしている。舞茸は諦めてください」
 僕はギリギリと舞茸を引っ張った。
「都合良いように解釈してるんじゃないわよ。それとこれとは話が別でしょ」
 悠子さんも固い笑みを浮かべながら箸に力を込める。
 やがて舞茸は真ん中から綺麗に裂けた。
「あっ」
 僕ら二人、同時に声を上げた。小さな舞茸だけが箸に残り、妙にもの悲しい。その様子を見て涼子さんが笑った。
 僕は悠子さんと目を合わせると、舞茸を口に運んだ。
 チゲダシの染みた舞茸は少しピリ辛で、美味しかった。

     

 夜中の街は静かだ。時計の秒針、水道水の滴り、呼吸、様々な音が静かに、それでも波紋のように広がっていく。
 僕は机の上を拭き終えると、冷蔵庫から残っているチューハイを二つ取り出して片方を涼子さんに渡した。先ほどまで鍋をしていたからか、部屋の中は随分と温い。コタツに入らなくても大丈夫なくらいだ。
「すまないな、たいした手伝いも出来ないで」
 申し訳なさそうな涼子さんに僕は首を振った。
「ゴミをまとめてくれただけで充分ですよ」
「よく片付ける気になったな。悠子だったら次の日でも片付けないのに」
「その気持ちも分からないではないですけどね。飲み会の片付けって面倒くさいですから。ただ僕は台所と机の上だけは綺麗にしておこうって普段から思ってるんで」
「偉いな」
「神経質なだけですよ」
 僕は缶を開け、後ろにあるベッドを背もたれにする。ベッドは悠子さんに占領されていた。数時間前「よい具合にお腹が調ったので寝る」と言ったきりだ。
 木下は悠子さんが眠ってしばらくした後、帰宅した。
「木下の家はここから遠いのか?」
「歩いて十分もないですね。駅前の方にあるんです、あいつのアパート」
「二人共一人暮らしなんだな」
「ええ。涼子さんは学生の頃一人暮らしだったんですか?」
「いや、私はずっと実家から通いだ。今もな」
「じゃあ実家は結構近いんですか?」
「ここからだと一時間半くらいかな。ほら、駅前のバス停、あそこからよく学校に行ってたんだ。土曜日は本数が減るし、日曜日は走ってすらいないから結構不便だったんだよ」
「よく四年間も通えましたね」
 片道自転車で五分の距離ですら遅刻するのだ。一時間半も掛かるなど想像も出来ない。
「そんなに大変じゃないよ。慣れたらどうって事ない。ただ……」
「ただ?」
「ただ、一人暮らししている奴は羨ましかったかな」そう言ってお酒を口に運ぶ。
「一人暮らしなんてろくでもないですよ。家事は面倒くさいし。お金がなくなったら死活問題ですから」
 先月の木下を思い出す。奴は先月仕送りが来る一週間前にお金が底をつき、毎日のように僕にご飯を恵んでもらいに来ていた。
「そう言うのも羨ましかったんだ、私は」
「実家はご飯もあるし家事もやってもらえるし、僕からしたらそっちのほうが羨ましいですけど」
 結局のところ、ない物ねだりなのだろう。相手は自分にはない部分を持っていて、それが輝いて見える。
「でも、一人暮らしでこのアパートに来てなかったらこうして涼子さんや悠子さんと出会うこともなかったって考えると、確かに悪くないですね」
「そうだろ」
「それに、このアパートでは悠子さんがいつも住民の事を気にかけてくれますし、何かあっても助けてもらえるから、悠子さんの存在はやっぱり大きいですね。以前もバイト先が潰れたって言う子に次の職場を紹介してましたし」
「そうか」
 涼子さんは悠子さんに視線をやった。
「頑張ってるんだな、悠子」
「頑張ってますよ。って、本人には言いませんけど」
「調子にのるからな」
 僕らは笑った。
「ただ、悠子さんが住民の事を知りすぎてるのもどうかと思いますけどね」
「どういう事だ?」
「悠子さん、住民の事なら生活状況から仲の良い友達、所属している部活まで知っているらしいです」
「すごいな」涼子さんは目をぱちくりする。
「ただ、アパートの管理人がそこまで住民の事を知るのってどうなんだろうって思うんです。その、不気味がられたりしないかなって」
 ちょっと言い方が悪かっただろうか。批判みたいになってしまった。
「悠子はさ、昔から人と仲良くなるのが得意だったんだ」
 涼子さんは全く気にしていない様子で話し始める。
「秀はさ、友達が何のサークルに所属しているとか、なんのバイトをしているとか分かるか?」
 秀と言うのは僕の事か。
「まぁ、仲良い子だとある程度は把握してますね」
「そうなんだよ。仲がよかったら相手の事がよく分かるし、仲が良い相手が自分の事を知っていてもなんら不快には思わないだろう?」
「……なるほど。そういうことですか」
 涼子さんの言わんとしている事に僕は頷く。
「悠子さんって、確かにそういう人ですよね」
「心配しなくてもこいつは上手くやるんだ。だから安心して良い。もし何か困っていたら、その時は助けてやってくれないか」
「もちろん」
 涼子さんはよく人の事を見ていて、分かっている。悠子さんと仲が良かったのも何となく頷けた。
「涼子さん、明日うちの部室に来ませんか?」
「部室? ……いや、さすがに引退してしばらく経つし、知ってる後輩もいないだろうからなぁ」
「でも、来ないと機材取れませんよ?」
「機材?」
「機材取りにこっちに寄ったんでしょ?」
「あ」彼女は思い出したように声をあげた。こういうところは妙に抜けている。
「しばらく触ってなくて、現役の頃のように弾けないギターの、もう数年間は放置していた機材を取りに来たんでしょ? 嘘、バレバレですよ」
「慣れない事はするべきじゃないな」涼子さんは気まずそうに頬を指で掻いた。「お鍋食べてる時は誤魔化せたと思ったのに……」
「どこをどうしたらそう理解できるんですか」思わず呆れ顔になってしまう。
「誤魔化せてなかったのか?」
「当たり前です」
「悠子にもばれたのかな」
「当然ですよ」
「いやぁ、行けたと思ったんだけどなぁ。参ったな」
「悠子さんの鋭さが尋常じゃないって事、涼子さんの方が知ってるでしょ」
「もしかすると私の嘘は今まで全部悠子に見抜かれてたのかもしれないな」
「今までって、以前も悠子さんに嘘を?」
「学生の頃、ちょっと人間関係が複雑だった時期があってな。部内で人ともめたりすることが多かったんだ」
 悠子さんの言っていた事に関する話だろう。
「部活を辞めようか迷った時期もあったが、やっぱりなんだかんだ部活が好きで辞められなかった。そんな折、妙な噂が流れてな」
「噂?」
「その、なんだ、現役生に言うような内容じゃないかもしれないがな」
「そこまで言うなら言ってくださいよ」
「私と悠子が付き合ってるんじゃないかって言う内容でな……」
「酷いですね」淡々と言うと涼子さんは意外そうだった。
「もっと驚くと思った」
「なんとなく、想像ついてましたから」
 恐らく悠子さんもこう言った類の噂が流れるのは予想していたかもしれない。
「あ、もしかして悠子から何か聞いた?」
「大雑把には。よく部内の女子に告白されていたって」
「そっか……。たぶん当時の私は誰から見ても分かるくらい元気がなかったんだろうな。何かあったのか悠子に尋ねられた」
「そこで、嘘をついたんですね」
 涼子さんは少し沈んだ面持ちで頷いた。
「あまり心配かけたくなかったし、何より噂の事を悠子が知るのが怖かった。悠子が傷つくのも、これがきっかけで付き合いがなくなってしまうかもしれないのも、怖かった」
 大学では毎日の様に一緒に過ごしてきた人間が、ある事をきっかけに一切連絡を取れなくなるのもめずらしくない。
「でも、もしかしたら悠子は噂の中身に気付いていたのかもしれないな」
「かもしれませんね」
 悠子さんの事だから涼子さんが自分に気を使って嘘をついていると見抜いていたと思う。
「その噂はその後、どうなったんですか」
「すぐに消えたな。元々、信憑性の低い話だったんだ」
「噂を流した人は」
 涼子さんは首を振った。
「噂自体は自然発生的なものだったんだ。その……たぶん私が色んな人の告白を断っていたから、流れ出したんだと思う。どうしてその方向に噂が立ったのかはよく分からないが」
 たしかに、涼子さんに同性愛の気がないと普通は考えが行きそうなものだ。
「たぶん、自分の都合が良いように解釈したかったんでしょうね。他に好きな人がいるからダメだったんだと」
「だろうな」涼子さんは神妙な顔で頷いた。
「でも、そんな状況でよく続けましたね。部活」
「うん、自分でも不思議に思う」涼子さんはそう言うと軽く笑った。「仲の良い友達や先輩後輩はたくさんいたんだ。思い出もそれなりにあった。やっぱり自分の居場所はここだと思ってたんだ」
「そうか、そうですよね」
 その気持ちは分からないでもない。
「それにしても悠子は困るな」
「何でですか」
「普通友達が同性に告白されていたとして、それを人に言うか?」
「言いませんね。良識があれば」
「まぁたぶん秀だから言ったんだろうけどな」
「僕だから? どうしてですか?」
「秀はこういう話、面白半分で人に話したりしなさそうだ。だから信頼して言ったんじゃないか」
「悠子さんがですか?」
「まぁ私の勘だけどな」
 そのときベッドで寝ていた悠子さんが大きく寝返りを打って目を覚ました。うぅん、と言ううめき声をあげる。
「やっと起きましたか」
「うん? ん、まぁ」
「悠子。部屋、もどろっか」
「ん、そうする」
 悠子さんは眠そうな目を擦りながら体を起こした。そのままフラフラと立ち上がると、玄関まで歩いていく。
「秀、今日はありがとう。初対面で、しかも急に来た私にこんなに良くしてくれて」
「いえ、いつでも来てください。またお話聞きたいです」
「ありがとう」
 涼子さんは微笑むと立ち上がり、壁にかけてある上着を手に取った。そこで何かを思い出したように「あっ」と言う。
「明日、部室行ってみるよ。昔の事思い出したら、少し行ってみたいなって。でも一人だと不安だから付き合ってくれないか?」
「構わないですよ。あ、僕午前中で講義が終わるんで、十二時に部室棟で待ち合わせでもしますか?」
「そうだな、そうしてもらうと助かる。じゃあ、また明日」
「はい。また」
 涼子さんは慌てた様に玄関から出て行った。扉が閉まる。
 部屋の中で一人になると、随分と広く感じた。机には中身が入ったままの缶が二つ残されている。もう時刻は午前三時を回っていた。
「勿体ないからこれ飲んでから寝るか」
 呟くと同時に玄関の扉が開く音がした。見ると玄関に涼子さんが立っている。
「忘れ物でも?」
 涼子さんは視線を落とす。
「悠子に鍵かけられた」

 翌朝、物音がして目が覚めた。ハッキリしない思考で時計を探すと九時だった。
「一限遅刻だなぁ……」
 一限開始が九時なので、丁度始まった頃だ。
 確か今日の一限は出席を取るはずだ。九時半までに講義室にいる人間だけに出席表が配られる。大学までは自転車で五分程度の距離しかないので今ならまだ間に合うだろう。
 涼子さんは押入れから出した布団を敷いて眠っていた。起こさないようにそっと忍び足で洗面所に向かう。
 そんな僕の努力をあざ笑う様に玄関の扉が叩かれた。どうやら僕が目覚めたのはこの音が原因らしい。
 僕は溜息をついて扉を開けた。
「うおぃ」急に開いた扉に不意を突かれた悠子さんが声を上げる。
「あ、おはようございます」僕は目を擦りながら言った。
「朝っぱらからきっちゃないわねあんた。講義は?」
「……あります。今から行きます」
「ならよろしい。……てかそんな話をしに来たんじゃないのよ私は」
 悠子さんはずい、と体を寄せてきた。僕は思わずのけぞる。
「何ですか」
「涼は?」
「寝てますけど」
 僕は奥の布団を指差した。すると悠子さんは表情を変え僕を強く睨みすえた。
「良い度胸してるわね、秀介君」
 何の事か分からない。
「とぼけるんじゃないわよ。おかしいと思ったの。朝起きたら部屋は私一人だったし、歯磨いてなかったし」
「歯磨いてないのは悠子さんがサボったんでしょ」
「ともかく、早く涼を返しなさい。あんたが一晩美味しくいただいちゃった涼をね」
 妙な勘違いをされたものだ。
「悠子さん、まだ酔ってるんですか?」
「酔ってるわけないでしょ」
「じゃあ寝ぼけてる」
「しっかり爆睡しました」
「聞きますけど、悠子さんの家に鍵掛かってました?」
「あたりまえでしょ」
「じゃあその鍵誰が掛けたんですか」
「私?」
 先ほどの勢いがなくなる。もうちょいか。
「鍵掛かってたら誰も入れないでしょ。寒空の下、夜中で電車も走ってないのに涼子を放り出せって言うんですか」
 ようやく悠子さんは完全に沈黙した。
「どうしたんですか、朝から」
「いや、まぁ、ね」そう言って苦笑いする。「うちに泊まったもんだと思ってたから、涼子の姿がなくてテンパッたとでも言いますか」
 それで恐らく僕の家にいると考えたのだろう。そこまでは何も問題ない。
「だからと言って何で僕が涼子さんとそんな風になるって発想になるんですか」
「いやぁ、男って夜は狼になるって言うし……」随分と古い表現だ。
「今まで僕が悠子さんに牙を剥いた事ありました?」呆れて怒る気にもならない。
「昨日皆酔ってたし、涼なら気の緩みでコロッと行っちゃうかなって」
「酔ってたのは悠子だけだよ」不意に背後から声がした。
 振り向くと涼子さんが眠そうな顔で立っていた。
「誰がコロッと行っちゃう、だ」
「おはようございます」
 僕が言うと涼子さんは「おはよう」と眠たげに微笑んだ。
「涼、起きてたの」悠子さんが表情を固くする。
「起こされたんだ。誰かさんが朝っぱらからうるさいおかげでな」
「あははは、まぁ、私なりに友達を心配してたのよ」
「もういい。それより悠子、風呂貸してくれないか」
「へっ? 良いけど……」
「あまり長居すると秀に迷惑になるしな」
 そう言うと涼子さんは僕にだけ見えるように笑った。あとは任せろ、そう言いたげだ。
「悠子、行こう。秀、世話になった」
「いえ」
 涼子さんは玄関先においてあった自分の荷物を持つと悠子さんの家へ向かった。
「あ、涼、待ちなさい」
 慌てて涼子さんを追う悠子さんは、部屋を入る前にこちらに向き直って一言。
「ごめん」
 悠子さんの謝罪はなんだか妙にむず痒く、またそんな彼女を見るのは初めてだった。結構可愛い。少しだけ顔がにやけ、慌ててパシパシと叩いて真顔に戻した。
「僕も風呂はいろ」
 わざとらしくそう呟いて、ドアを閉めた。

     

 九時二十五分と言うぎりぎりの時間で入室した僕は、教授から睨みつけられつつも何とか出席表を手にすることができた。
 退屈な講義はキリスト教について学ぶという内容だ。僕は法学部なのだが何故こんな講義を取っているのか自分でも不思議に思う。
 まぁ、楽な講義なのだからだけれど。
 頬杖をつきながら何となくノートを取っているとチャイムが鳴った。
 二限は出ても出なくても良い。だがせっかく学校まで来た訳だし出る事にした。どうせ木下は来ないだろう。あいつはサボりの常習犯だ。
 しかし講義室に入ると、そこには誰の姿もなかった。不思議に思っていると、肩をポンポンと叩かれる。
「よぅ青年。君も休講と知らずに来てもうたんかい?」
 同じ部活の野沢菜さんだった。野沢奈々。通称野沢菜。
 ロングスカートに薄手のパーカー、綺麗に茶色く染まったポニーテールで、気さくに話せる女友達だ。そう言えば彼女も同じ講義を取っていた。すっかり忘れていた。
「そっか、今日休講だったんだ」
「そう言う事。うちらは睡眠時間を減らして学校に来てしまった被害者ってわけ」
「まぁ僕は一限の出席票を無事提出したから別に良いけど」
「裏切りかぁ」
「勝手に裏切り者にするなよ」
 僕らは階段を降りるとそのまま坂を下り、バス停へと向かう。
「野沢菜さんこの後は? 僕はもう終わりだけど」
「うちももう今日は終わり。三限は出席もないし講義も訳分からんから出んでも大丈夫」
 どうせ落とすからと言う意味合いの『大丈夫』か。納得。
 バス停を抜けると駐輪場がある。大学の学生は皆ここに自転車を置いている。でも僕の目的地はここじゃない。駐輪場の向こう側に部室棟があるのだ。
「それじゃあここで。僕は部室に行くよ」
「帰らへんの?」
「今日はOGの先輩が来るんだ」
「え、誰?」
「アパートの管理人の友達。五年前の卒業生なんだ」
「どんな人なん?」
「格好良い人、かな。クールと言うか。でも考えている事は結構分かりやすい」
「よう分からんな」野沢菜さんは笑った。
「とにかく、良い人だよ」
「男の人?」
 野沢菜さんの目には少し期待の色が浮かび上がっている。魂胆は見え見えだ。僕は彼女の期待を裏切る為に「女の人だよ」と答える。
「なんや、つまらんな。でもせっかくやしうちも会おうかな」
 あまり他の部員と涼子さんを接触させないほうが良い気がしていたので、この野沢菜さんの言葉には多少表情が歪んだ。
「何その顔。うちあんまり行かん方がええ? あ、もしかして狙ってる人とか。二人きりになりたかった?」
「いや、違う。そうじゃない」
 僕は慌てて否定した。野沢菜さんは含み笑いをしている。確信犯だ。
「まぁそやろなぁ。自分そう言う攻撃力とかなさそうやもんなぁ。ダメージゼロ」
 胸をグサリと刺された気分だった。悪気はないのだろうが、さらりと酷いことを言う。
「で、なんでうちが行ったらあかんの?」
「逆の立場で考えてみてよ。知らない後輩に囲まれても居辛いでしょ」
「あぁ、確かに」納得した様子で頷く。「でもわざわざ部室まで来はるって事は分かってて来るんちゃうの」
「そうかも」
「じゃあええやん。問題なし」
 なんだか上手く丸め込まれた感じだ。
「格好ええ女の人なんてあんまりおらんからな。見てみたい」
「興味本位かよ」
「あたりまえやん。それ以外に何があると?」
 しれっと言い放つ野沢菜さんに何も言うことができなかった。
 体育館に寄り、受付でスタジオの鍵を借りた。スタジオは体育館の裏の課外活動棟にある。部室の向かい側。徒歩一メートル。
「何でスタジオの鍵なんか借りんの?」
「気分転換にギターでも弾こうと思ってね」
 ここしばらくはアンプに通して楽器を鳴らしていない。久々に弾きたかった。
「でもOGの人が来るんやろ?」
「十二時にね。まだ時間あるし」
 まだ十一時だ。
 体育館を抜けると課外活動棟が見えた。課外棟の入り口横には喫煙所がある。よく部室に行く時、ここで煙草を吸う部員の姿を見かける。僕は煙草を吸わないが、スタジオの休憩時間ではよくここで体を休める。座りやすいベンチがあるし、広々としており、景色も良い。屋根があるので雨の日も濡れる心配がなく、居心地が良かった。
「あ、ごめん、ちょっと吸って良い?」
 課外棟に入ろうとすると野沢菜さんに首根っこをつかまれた。一瞬服が喉に食い込み、「ぐえっ」と言う声が出る。嘔吐き(えずき)ながら野沢菜さんを睨むと、煙草に火をつけていた。
「ごめんごめん。まさかそんなに綺麗に喉に入るとは」
「珍しいね、煙草吸うの」
「普段人前では吸わんようにしてるから確かに珍しいかも」
 口にくわえた煙草が赤く光り、煙を吐いた。見た目が女の子らしい格好だけに、その姿は妙なギャップがある。
「まぁお酒の席とかはごくたまに我慢できずに隠れて吸ってまうんやけどな」
「というよりも何で我慢する必要があるのさ」
「うちの可愛い女の子ってイメージを消さんために決まってるやん」
「そのイメージを払拭したくないなら禁煙すれば良いのに」
「それはそれ、これはこれ」
 至極真面目な表情で彼女は言う。欲張りな奴だ。
 野沢菜さんが煙草を吸っているという事を知っている人間は部内でもそう多くない。三回生のごく一部。僕は飲み会の時、たまたま店の外に出たところで喫煙中の野沢菜さんと鉢合わせた。普段人前で吸わない彼女がこうして僕の目の前で煙草を吸っているのはその為だろう。
「前から喫煙してる人に聞きたかったんだけど、煙草って美味しいの?」
 僕が尋ねると野沢菜さんは首を捻る。
「美味しい、とはちょっとちゃうかなぁ。まぁたまに疲れたとき吸うと美味しく感じるけど。美味しさを求めて吸ってるんちゃうよ、少なくともうちは」
「じゃあ何で吸うのさ。口や服や手に臭いもつくし、周りの人からは煙たがられるし、体に悪いし、お金もかかる。野沢菜さんみたいに女の子で煙草を吸っていたらそれだけで軽蔑されたように見られることもあるんじゃないの?」
「きついこと言うなぁ。まぁ事実やけど。実のところ何で吸ってるのかはうちもよく分からへん。もう習慣になってるし、依存してるんかもしれへん。ただ、一番近いとすれば穴を埋めるためやろなぁ」
「穴?」
「焦燥感と言うか、寂寥感みたいなんに襲われたりするんよ。そう言った感覚をうちは穴やと思ってんねん。煙草は、言わばそういう穴を埋めてくれると言うか……」
「それ、埋めると言うより、気付かなくしてるんじゃないの?」
 僕が指摘すると彼女は軽く頷いた。
「そやなぁ。じゃあ、煙草は誤魔化してくれるんやな。いろんなもんを」
 そう言って灰を灰皿に落とす。
 彼女は体育館座りみたく膝を立ててベンチに座る。肘を膝に乗せ、手をだらりと垂れる。妙に寂しげに見えた。
「野沢菜さんが今一番誤魔化したい感覚って何?」
 気がつけば、そう尋ねていた。
「何や、なんか変な事聞くなぁ」
「妙に気になった」
「そやなぁ。なんやろ」
 一口煙草を吸う。先端が赤く光る。灰が少し飛ぶ。
「まぁこういうのあんたに言って良いんか分からんけど、うちは今まで三年くらい部活居てて、ずっと気になってた違和感があったねんか」
「違和感?」
「ほんとにうちはこの部活に馴染んでんのかな……ちゃうな、ほんとにうちはみんなと気が合ってるんかなっていう気持ち。人とのズレって言うかさ、そんなん」
「ズレ?」
 たぶん、似たような事を僕も感じていた。ずっと疑問に思っていた。それを直接声に出された。そんな感じだ。
「うちは今まで人と話す時に素の自分を出してきたつもりや。まぁ煙草の事とかはアレやけど、少なくとも、本音で話すようにはしてきた」
 そこで野沢菜さんは一度話を止め、逡巡するそぶりを見せた。どう話して良いのかわからないようだった。
「それやのになんでやろな、いつも気を使ってる様に感じて、何かを取り繕ってる気がしてた。でもそれは相手と仲良くなれてないからやって思ってた。百人近くいる部員全員と気さくに会話して、お互いの名前や好きな音楽とかも知ってて、一緒に講義を受けたりもして、お酒まで飲んだりすんのに、まだ仲良くない。そう思っててんな、ずっと」
「でも、違ってた?」
 野沢菜さんは頷く。
「うちはもう部には馴染めとんねん。ただな、性格が合わへん。お互いの事をよく知っててもその感覚は拭えへんかった。でも、高校の友達にはそんな感覚一切無い。バイト先の子にも、学部の友達でもそう言う感覚は湧いたりせえへん。大学に入ってから出来た友達やから壁が取れへんって訳じゃなくて、単純に部の人間と性格が合わへん。その事に気付いてしもてんな。仲はええけど心は許せてない。矛盾してるけど、そんな状態やねんな。誤魔化したいって言ったら、この感覚になるかなぁ。人間って独りになるとやっぱり何かしらごちゃごちゃと考えてまうやろ? でもな、煙草吸うとあんま頭働かさへんようになるからなぁ。ちょっと楽になんねん」
 まぁこんなこと言っても分からんやろうけど、彼女はそう言うと小さく笑った。
「いや、分かるよ。僕もだけど、時折そういう感覚に悩まされる時があったんだ。良く似てる。ただ、木下に対してはそう言う感覚を抱いてないけどね」
「木下君なぁ。たしかにあんたら仲ええもんなぁ」
「腐れ縁かもしれないけどね。一回生の頃から偶然講義が一緒になって、だらだら続いてる」
 不意に、悠子さんが脳裏に浮かんだ。アパートの住民の事を良く知っている悠子さん。悠子さんは管理人としてでなく、友人としてアパートの住民と接していると涼子さんは言っていた。
 悠子さんも、こんな感覚に迷ったりしたことがあるんだろうか。
「そういえば野沢菜さん」
「何や?」
「何でそんな言いにくい事を言ってくれたのさ」
 尋ねられたと言うのもあるのだろうが、いくらでも誤魔化せた話題だ。
 野沢菜さんは灰皿で煙草の火を消すと、薄く笑みを浮かべながら言った。
「言ったやろ? うちは人に対してなるたけ素の自分で接してきたって。誰に対しても本音は言うよ。……それに、あんた聞き上手やからな。理解くらいは示してくれるんちゃうかなって、正直ちょっと期待して言った」
「そっか」
 野沢菜さんはそのまま立ち上がって伸びをする。
「さすがに秋の終わりとなると冷えるなぁ。部室行こか」
「そうだね。スタジオにも入りたいし」
 僕らは喫煙所を後にすると部室に向かった。

     

 部室でまず目に飛び込んで来るのは入り口近くに固められている部員のギターやベース、棚に置かれたドラムの機材やエフェクターケースだ。そこを抜けると長机が二つ縦向けに置かれており、パイプ椅子がいくつかそれを囲むようにしてある。長机の更に奥には物を置く台があり、部室用のパソコンが置かれている。奥は一面窓になっており、電気をつけていなくても割と明るい。
「相変わらずきったないなぁ」野沢菜さんが顔をしかめた。
「野沢菜さんが部室に来るのって珍しいもんね」
 僕は苦笑してパイプ椅子に腰掛けた。机に鞄を置きたいがゴミだらけだったので空いている椅子に置くことにする。
「けどこの時期だからまだ良かったよ。夏だと悲惨なことになってるから」
 夏場の部室はいつも異臭がただよっている。部員がカップラーメンやジュースなどを部室で飲み食いし、そのゴミを放置しているためだ。
 今年の夏、異臭だけでなくハエまでただよっていたのには辟易した。放置されたゴミを片そうとたまたま手に取った缶コーヒーから無数に小バエが出てきた事はいまだに恐怖体験となって僕の脳裏に強く残っている。
 この時期の部室はその心配がないので僕にとって非常に安心できる空間ではあった。
「室内やのに結構寒いなぁ。空調とかなかったっけ?」
「あるよ。あんまり効かないけど」
 僕は入り口横にある空調のスイッチを入れた。ついでに部室の電気もつける。ゴウンと言う独特の機械音が薄く室内に響いた。
 椅子に戻るついでに自分のギターを取る。シェクターのテレキャスター。
 ケースから中身だけ出して手に取ると右手にずっしりとした重みを感じた。椅子に座ると、静かに弾いてみる。
「ギター触るの久しぶりかも」
「どんくらい触ってないん?」
「一ヶ月くらいかなぁ。ギター触りたいって気があんまり起こらなくて」
「分かる。段々楽器弾くことに興味なくしてくるもんなぁ」
「一、二回生の子が楽しそうにスタジオ入ってるの見たら、僕も入学当時はあんなんだったなぁとか思ったりね」
「そうそう」
 自分だけかと思ったが、上回生は皆感じている感覚なのかもしれない。
「そういえば野沢菜さんは触ってないの? ドラム」
 野沢菜さんの担当パートはドラムだ。案外楽器は上手い。
 何度か彼女とは一度限りの企画的なコピーバンドを組んだことがある。それまで彼女とは便宜的な会話しかしたことがなかったのだが、バンドを組んで以来割と話すようになった。
「うち外バンやってるからな。割と頻繁に触る機会はあるんよ。この前もライブやったし」
 外バン。部活外で活動しているバンドの事だ。高校の頃の友達とずっとオリジナルで活動しているという話は聞いたことがある。曲も格好良いと部内で評判だった。
「ライブあったんだ。いつ?」
「先週。月数回はやってるから」
「月数回ってすごいね。疲れない?」
 月一度だけでもライブがあると疲れる。部のイベントだと内輪的な物なので気楽だが、ライブハウスのブッキングとなったらお金もかかるし、精神的にも疲労するだろう。
「まぁ疲れはするし、一概に楽しいとは言えへんな。何でこんな事やってるんやろって気になる事もある」
「じゃあ何でやってるんだよ」僕は苦笑した。
「何でやろなぁ。本気で音楽やっときたかったんちゃうかな。多分」
 何でも無いその口ぶりが、逆に言葉に重みを持たせて胸に響かせる。
「本気で音楽やれる環境があるって良いね。少し羨ましいかも」
「本気で音楽したいなら、自分もしたらええやん」
「さすがに遅いよ、もう。就職活動も始まるし」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
 僕はゆったりとしたフレーズを弾いた。耳障りの良い、静かなフレーズ。
「あんたホンマ上手くなったなぁ。なんでそんなに練習したん?」
「馬鹿にされるのは嫌いだからね。見返したかったんだよ」
 すると野沢菜さんは首をかしげた。
「馬鹿になんかしてる奴いたかなぁ。皆褒めてたけど。頑張ってるなぁ、あいつは伸びるとか」
 僕はギターを弾いていた手を止めた。そんな事は初耳だった。
「嘘だよ」
 昔やったライブの時の光景を思い出す。音出しの時から既に馬鹿にしたようなにやけ面を浮かべている人がいたのを僕は知っている。演奏中に首を振ってその場から出て行った人もいた。
「嘘ちゃうよ。あんた先輩に色々聞いたり、演奏法調べたり、音作り試行錯誤してたやろ? 皆あんたのそう言う姿ちゃんと見てんねんで?」
 野沢菜さんの目はまっすぐこちらを見据えている。真摯な発言だと言うことが分かった。
 それだけに、僕は少し悲しくなった。
「スタジオで音、出してくる」

 大学に入学して初めてギターに触った。たまたま同時期に兄が持っていたギターが僕に回って来たのがきっかけだった。
 触りだすと存外面白く、すぐにのめりこんだ。高校の頃から軽音楽部だったという木下と講義で知りあい今のフォー研に入った。
 軽音系の部活に存在する、技術力の差による差別があるなんて分かっていたら多分入部なんてしなかったと思う。
 楽器を始めて最初の一年は人に見せられるような演奏はできなかった。
 思い出しても恥ずかしいライブを何度も経験したし、誰も見ていないライブもあった。
 経験者ばかりの中、初心者の友達は技術的についていけなくてどんどんやめて行った。
 僕が今まで残ってこられたのは従来の負けず嫌いな性格のおかげだった。
 いくら周りが頑張りを認めてくれていたとしても、それが本人に伝わらなければ意味がない。

 僕はシールドを取り出し、エフェクターとアンプに繋いだ。もう一本取り出しエフェクターとギターを繋ぐ。エフェクターはいくつか連続してパッチケーブルで繋げており、アンプから出るギターの音を変えてくれる。
 アンプの電源を入れた。ベース、ミドル、トレブルと音域ごとの音量を調整する。適当にコードを弾いた。知っている曲のワンフレーズを弾いてみる。
 マイクのミキサーとパワーアンプに電源を入れた。ハウリングを起こさない程度に音量を調整し、マイクから声を出す。スピーカーから僕の声が聞こえた。喋っている時とは異なって聞こえる自分の声。
 好きなバンドの曲を弾きながら歌ってみた。もう歌うことには慣れている。何回も知らない人の前で歌った。
 ギターを弾いて歌うとその作業をすることに頭が働く。余計な事を考えずにすむ。気休めだ。でもその気休めに幾度となく助けられた。
 人間関係に、進路に、自分自身に、頭を悩ませる要因は多くある。
 それらを誤魔化して目を背けて生きている事も、わかっている。
 目標があれば、動き出せれば、ありもしない可能性を見つめるようにして僕は気がつけば遠くを見るように漠然と虚ろな視線を送っていた。

 不意にスタジオのノブがガチャリと動いた。スタジオのドアノブは通常のものとは少し違う。掴みを持って回さねばならず、少し開け辛い。誰かが入ろうとすれば大きく音が鳴り、すぐに分かる。
 僕はギターを弾く手を止めた。僅かに開いたドアの隙間からこちらを覗き込むようにして見覚えのある顔が姿を現す。
「すまない。来てしまった」
 涼子さんだった。
「涼子さん、早いですね」
 すると彼女はバツの悪そうな表情をした。
「悠子が仕事の用事で出てしまってな……。ついでだから私も一緒に出たんだ。少し早いから喫煙所のベンチで待っていたら声をかけられて連れてきてもらった」
 そこで涼子さんの顔の下から、野沢菜さんが顔を出す。
「ウチ、ウチが連れて来たねん」
「言わなくても分かるよ」
「おかげで寒い中震えなくてすんだ」
 涼子さんは少し笑うと、ふと真顔になって室内を眺めた。
「スタジオ、久しぶりだ」
 靴を抜いで中に入って来る。野沢菜さんもそれに続いてきた。野沢菜さんは室内に入ると扉を閉める。
 涼子さんはキョロキョロと視線を動かし、ドラムのフロアタムを指で叩いたり、アンプを眺めたりする。少しはしゃいでいる様にも見えた。
「ベースアンプ変わったんだな、ギターのも。新しいのが入ってる」
「予算が降りて機材の買いなおしがあったんですよ」
「いいなぁ。あと数年早かったらなぁ」
 涼子さんはオレンジ色のギターアンプを眺めたあと、ふと僕のギターに視線を止めた。
「シェクターだ。良いやつ使ってるんだな」
「涼子さんは何を使ってたんですか?」
「ん? フェンダーのジャズマスターだ」
「涼子さんも良いやつ使ってるじゃないですか」
「家で埃被ってるよ」
 彼女は僕のエフェクターのスイッチを勝手に入れたり切ったりする。昨日までの落ち着いた姿が脳裏にあったのでこんなささやかないたずらをする彼女は意外だった。
 ふと野沢菜さんを見ると、彼女は入り口の所で目を輝かせてこちらを強く見つめていた。
「どうしたの?」
 野沢菜さんはびくりと体を反応させた。
「い、いやぁ、そろそろ紹介とかしてくれてもええんちゃうかなぁって」
「え、自己紹介くらいしたんじゃないの?」
「いやぁ、それがまだで……。喫煙所降りたら女の人がおって、つい勢いでフォー研OGの方ですかって尋ねたらそうやって言わはるから……。自己紹介完全に忘れてたわ」
「うん、秀、そろそろ紹介してくれ。まだまともにお礼もしてない」
「紹介しなくても自分達で自己紹介してくださいよ。ほら、いま」
「いや、紹介してくれたほうが話しやすいというか」
「いい年して何言ってるんですか……」
 思わず悠子さんに出る様なツッコミが口から出てきた。ただ、涼子さんの申し訳なさそうなその表情を見ていると無下に断るわけにもいかない。僕は溜息をついた。
「えぇと、こっちのロングスカートの娘は僕と同じ三回生での野沢奈々さんです。皆からは野沢菜さんって呼ばれてます。で、こちらの女性が元フォー研OGの涼子さん」
 半ば投げやりのように適当に紹介すると、涼子さんと野沢菜さんは「よろしくお願いします」とおずおずと挨拶した。面倒くさい人種だ。
「さっきは助かった。ありがとう」
 涼子さんが笑顔で言うと野沢菜さんは慌てたように首を振った。
「い、いえ。いいんです。全然大丈夫です」
 涼子さんは視線を再びエフェクターに戻すと適当にメモリを弄りだした。せっかく音作りをしたのに、やめて欲しい。
 ふと視線を感じて野沢菜さんを見ると彼女は僕に向かって小さく手招きしていた。一体何の用だろう。
「涼子さんすいません。ちょっとだけギターお願いしていいですか。勝手に弄ってもらってて良いんで」
「いいのか?」
 僕がギターを手渡すと涼子さんは目を輝かせた。本当に分かりやすい人だ。実際人が演奏しているのを間近で見て弾きたくなったのだろう。気持ちはよく分かる。
 野沢菜さんのところまで行くと、彼女は外を指差した。一度出ようということか。
 スタジオから出たところで、野沢菜さんはくるりと振り向いた。
「ちょっとあんた、どういう事なん?」
「何が?」
「めっちゃ格好ええやんか、涼子さん」
「あ? あぁ、うん。そうだね」
「尋常じゃないよあの格好良さは」野沢菜さんはそこまで言うと、少し逡巡した後、続けた。
「実を言うとうちな、あの人に声かけたん、勢いじゃなくて、狙ってやねん……」
「どういう事?」全く意味が分からない。
「だからな、その、見た瞬間ビビッと来たと言うか、OGとかじゃなくてもええし、とりあえず声をかけてきっかけを作りたいなってな、そう思ってん」
「きっかけって……」
 何の、とは言わなかった。
「だからあんたにも、その、協力してほしいねん」
「涼子さんと知り合う為に?」
「知り合うと言うか、より深くお互いの事を分かり合う為のきっかけを作って欲しいんよ。変な頼みって言うのは分かってるんやけど、な? お願い。お礼はするし」彼女は両手を合わせて頭を下げる。
「一つ聞きたいんだけど」
「何や?」
「それは……恋愛感情、だとかそういう類の物?」
 この様な質問をするのは非常に勇気がいる。もしこれが僕の勘違いであるなら非常に馬鹿馬鹿しい質問になる。出来るなら野沢菜さんには「アホなん?」くらいのきつい一言を浴びせて欲しかった。そしてこの要らぬ心配を払拭して欲しかったのだ。
 ゆっくり顔を上げた野沢菜さんの頬は少しだけ赤かった。それは照れているように見えた。
「ちゃう、それはちゃう。うちは正常や。そんなん女の人を好きになったりなんかない……」
 語尾は少しだけ声が小さかった。否定しきれていないのが怖い。
「ほら、あんたもない? 同性の相手に対して何かビビッと来たこと。妙に気になって仲良くなってみたいって思う事」
「まぁなくもないけど……」
「やろ? うちが言いたいのはそう言う事」
 ただ、野沢菜さんが今涼子さんに抱いている感情は果たしてそれと同じだろうか。
「言いたいことは分かった。でも、涼子さんとはまだ知り合って間もないんだ。協力って言うには少し荷が重いかも」
「そ、そっか。それやったらしゃあないな」野沢菜さんはうなだれた。残念そうだ。「ごめんなぁ、変なこと言って」
「良いよ。じゃあ僕はスタジオ戻るけど、野沢菜さんも来るでしょ」
「あ、うちは少し下で煙草吸ってくるわ」
 少し沈んだ声を出すと、彼女は階段に向かって歩いていった。
 煙草吸い過ぎだろ。

     

 僕が扉を開けると、涼子さんはギターを弾いていた手を止めた。
「何の用だったんだ?」
「いえ、ちょっと……」僕は言葉を濁した。言うべきかどうか迷った。「……涼子さんが学生時代いかに人気があったかと言う事を垣間見てきました」
「……なるほど」納得したように頷く。「昔からそうだったんだ。友達として接していたはずなのに、いつの間にか相手には恋愛感情が生まれていた」
 恐らく野沢菜さんが涼子さんと接していたら、同じ結末に達するのではないだろうか。
「相手が男だったら良かったんですけど」
「まったくだ」涼子さんは苦笑する。「ただもう慣れた。今行っている専門学校でも似たような事が何度もあったし。おかげで友達は少ないがその分いい付き合いが出来てる。狭く深くって感じだな。自分の性にも合ってる」
「前向きですね」僕は笑うと、少し気になり尋ねた。「そういえば、専門学校って何の学校に行ってるんですか? 音楽系ではないですよね」
「美術系だよ。写真を専門に色々やってる。元々、人を撮るのが好きなんだ。学生の時にバイトして、そのお金で通ってる」
「へぇ、偉いですね」
「そうでもないさ」
 公務員や何か資格に繋がる学校だと思っていたので少し意外だった。涼子さんは自分なりに人生の設計像を建てている。着実に、確実に。
 涼子さんは立ち上がるとマイクの位置を調整した。ストラップの長さも調整して、ギターを自分に合う高さに持っていく。
「一曲歌ってもいいかな。久々に」
「もう歌う気まんまんじゃないですか」
 僕が笑うと彼女も「ばれたか」と笑顔になった。
「ちょっと弾いてみたが、やっぱり衰えてるな。指も柔らかくなってしまっている」
「仕方ないですよ。僕だって一週間弾いてないだけで衰えたなぁとか思いますもん」
「やっぱりそういうもんか」
 涼子さんはピックを使ってアルペジオを弾いた。一本一本、弦を確実に弾いて音を出す。弦の振動はシールドを伝い、エフェクターを通じてアンプから音を出した。緩やかな音だった。
 スピーカーから涼子さんの歌声が聞こえる。ギターの音にあわせて歌のメロディが綺麗に響く。涼子さんの歌声は高く澄んでいて、力強さはないものの、聞き入ってしまう魅力があった。
 抑揚のない短い歌を涼子さんは歌った。目を瞑って、楽しそうに。
 歌い終わると彼女はギターを肩から外し、近くにあったギタースタンドに立てかけた。
「歌ったのは久しぶりだ」
「まさか涼子さんが歌うとは思ってませんでした」
「ちょっと見学だけするつもりだったのに。久々に楽器を見たら妙に弾きたくなって、弾いていたら歌いたくなった」
 涼子さんは目を細めてギターを懐かしそうに見つめた。
「大学って、卒業したらそんなに変わりますか」
 気付いたらそう尋ねていた。急に妙な質問をしてしまっただろうか。
 でも涼子さんは表情を変えなかった。
「どうだろうな。私もまだ学生だからなんとも言えないけど、やっぱり懐かしくなることはあるよ」
「涼子さんは、今の専門学校を卒業したらどうするんですか」
「そうだな、どうするんだろう」
 涼子さんはそう言うとギターに対峙するように胡坐をかいた。
「どうする、じゃないな。どうなるんだろう、かな。正直言うとな、もうどうするかは私の中で決まってるんだ。私の両親は寛大な人だったから幸いにも私を自由にさせてくれているし、恵まれた環境にいるなら自分の可能性を追求しようかって思っている」
「可能性?」
「実を言うとな、海外に行こうと思ってるんだ。来週」
「えっ」
 えらく急な話だ。
「学校で知り合った先生が私の写真を気に入ってくれてな。その人の取材に同行することになったんだ。数年は向こうで生活する予定だよ。卒業して、上手く行けばアシスタントとして雇ってもらえるツテが作れるかもしれない。こっちに来たのもそれがきっかけだった。自分の思い出の場所をもう一度見ておこうと思ってね。元々部室に来る予定はなかったんだけど、秀が誘ってくれてよかった」
 なるほど。彼女がこちらに来た理由にようやく合点が行った。
「そうだ、カメラ持ってるから、さっきの野沢さんも含めて三人で写真でも撮るか」
「それは良いんですけど……悠子さんに会いに来たのもそれが理由で?」
 涼子さんは頷いた。視線はギターを向いたまま。
「……当分会えなくなるからな。悠子は間違いなく一番の友達だよ」
「その一番の友達に海外に行くこと言わなくて良いんですか」
「良いんだ。……まぁ言うタイミングを逃したって言うのが本当なんだけど」涼子さんは苦笑する。「言ったって心配かけるだけだし、二度と会えないわけじゃないんだ。時々日本に戻ってくるだろうし、タイミングが合えばまた会えるさ」
「二度と会えないかもしれない、とは思わなかったんですか」
「その心配がないといえば嘘になるな。でも、大学を卒業した時からその可能性はあった。卒業したら皆出身も仕事も生きる世界も異なってしまう。その中で大学にいた四年間、共に居れたという事はすごく幸せな事だったんだよ」
 その言葉はこれから先、僕が感じるであろう不安への答えでもあった。
「大切なのは同じ時間を過ごした過程が大事なんだよ。社会は結果が全てかもしれないけど、人生は過程が大切なんだ。もう以前みたいに一緒に居られないと言う事実は覆せない。だけど時を共にしたと言う事はこれから生きる上で糧になる」
 糧。その糧があれば、僕も彼女みたいにまっすぐ生きていけるのだろうか。
「涼子さんは失敗した時の事が脳裏によぎったりしないんですか?」
「あるよ。特に秀の時期は色々と不安だった。……元々は私も就職するつもりだったんだ。でも、迷いに迷ってこっちの道にした。両親が寛大とは言ってもやっぱりあの時はかなり揉めたよ」
「それでも写真の道を行こうと?」
「学生のうちはさ、社会人のことなんか全然分からなかったんだ。何も見えなかったし、見えていなくても見えた気になっていた。社会に出たら辛い毎日が私を待っていて、日々を生きるだけで必死になるだろうって漠然と思っていたんだ」
 その言葉に僕はハッとした。全く自分の抱いている感情と同じだったからだ。
 僕は大学を卒業するのが怖かった。卒業後の自分がどうなっているのかも分からないし、何をしているのかも分からないからだ。
 それはまるで、暗い海だった。先が見えない海に、小さな船で漕ぎ出す。抱いているのは、不安と恐怖だ。
「就職活動をいろいろやって、様々なものを見て、卒業が近づいて。結局分かったのは社会に出てからが本番だって言うどこかの大人が吐いたありきたりな言葉の意味だった。自分の人生を形作るのはこれからなんだよ。これから、色々な形で人生が別れてくる。そう思ったらやれるだけの事はやろうかなって。不安と言ったら今も不安だし、こんなことをしていて良いのかって頭を抱えそうになることもある。どうにかなる、で済むほど世の中簡単ではないことも知ってるつもりだ。それでも、やれば何だって出来るって私は信じている。自分の人生のハードルを上げてるのは他でもない自分自身なんだ」
「……もし、今僕が音楽をやり始めたとして、それは逃げだと思いますか」
 ずっと抱えていた事だった。それは昨日悠子さんには言えなかった事でもある。
 涼子さんはしばし迷ったように視線を這わせた後、神妙な顔で言った。
「もしほかに何もせずに音楽だけをと考えているなら、それは逃げだと思う。少なくとも私はそう思う。自分の可能性を色々漁って、出来ることを全部やって。自分の中の選択肢を最大限に広げるべきだよ」
「選択肢……」
「焦ることはない。……音楽をやるにしても、写真をやるにしても、自分のやりたい事が出来る保証なんてどこにもない。自分の気持ちは本物だと思っていたとしても、覚悟を伴っていない単なる思い付きかもしれない」
 覚悟。痛い言葉だった。今の僕が音楽を志すと言っても、それは単なる思い付きでしかない。少なくとも、それを指摘されて否定できる自信はなかった。
 知らないながらも、それでもなお、僕は現実を知りすぎていた。
「覚悟なんて言うのは答えを出さなきゃいけない時にはじめて固まるんだ。少なくとも私はそうだった」
 彼女は続ける。
「人と同じ生き方はダメな事じゃない。人と違う生き方をするのは決して特別じゃない。普通に生きるって事自体が大変な事なんだよ」
 涼子さんは僕の瞳をまっすぐに見据えた。
「秀の時くらいの私はたくさん勘違いをした。就職して、社会に入るって事は没落したも同然だって。でも、今思うと会社に入って仕事をしている人はすごいよ。少なくとも、自分が特別な存在だと勘違いしてたあの時の私よりはずっとずっとすごい人達だった。だから、秀にも色々見て欲しい。いろんな人達を見て、自分の見識をもっと深めて欲しい。答えを出すのはそれからでも遅くないんだ」
 僕は何も答えられなかった。

     

 部室に行くことになった。
「せっかくだしな。機材ちゃんと回収しとかないと」
「えっ? でも機材の話は嘘なんじゃ……」
「実は本当に置きっぱなしなんだ。取りに来るつもりはなかったんだけど。あの時出た嘘はそれを咄嗟に思い出したんだ」
 アンプの電源を切り、機材を片付け、スタジオの電気を消す。
 スタジオを出る時、僕は涼子さんに声をかけた。
「涼子さん」
「ん?」
「色々迷ってたんですけど、ありがとうございます。少し、答えが見えた気がしました」
 涼子さんは照れくさそうに頬を掻いた。
 部室の棚の中には多くの機材が置かれている。機材を置くための棚は多くの部員が活用するので、度々持ち主が不明の物も出てくる。
 そう言った持ち主が分からない物に関しては、しばらくしたらいつの間にかなくなる事が多い。態度の悪い部員が勝手に持ち帰っているのだろうが、元々持ち主が分からない物だけに犯人を特定して文句を言うこともなかった。
「機材って言ったって、もう随分前の物な訳でしょ? 盗まれてるかもしれませんよ」
 僕はエフェクターケースを棚に置くと、ギターをケースに入れ、他のギターがそうあるように、壁に立てかけた。
「あぁ、分かってる」
「それで、機材って何なんですか?」
「エフェクターだな。学生時代に使ってたやつで、エフェクターケースに入れてあったんだ」
「それだったら絶対盗まれてますよ。まだ使えるエフェクターがあって、持ち主がわからなかったら僕だって勝手に使ってるかもしれません」
「全く、機材の扱いの悪さは昔からなんだな……。まぁ仕方ないか」
 呆れた様に笑って涼子さんは棚を眺めた。それほど必死に探している様子もない。半ば諦めているのだろう。
 と、不意に涼子さんが視線を止めるのが分かった。探るように見つめ、手を伸ばす。
 彼女の手の先にあったのはボロボロのエフェクターケースだった。一番下の段、端の方に、ひっそり佇むようにして置かれていた。
「なんだ、あるじゃないか」
「えっ、嘘」僕は思わず声を上げる。残っているわけがないと思っていた。
 涼子さんはエフェクターケースを手に取り、持ち上げた。
「ちゃんと中身も入っているみたいだ」
 嬉しそうに言い、机にケースを置く。
「随分とボロボロですね」
「長い間使ったからな」
 エフェクターボードにはたくさんのシールが貼られている。それらはライブハウス等で出演者がもらえるパスと言うものだった。スタッフは出演者とお客さんをこのパスで見分けるわけだが、その日のライブが終わるともうパスは用済みとなる。ライブの記念にこうしてエフェクターケースに貼っている人は珍しくなかった。エフェクターケースは中のエフェクターが外に出ないよう頑丈な造りになっているし、何よりこう言ったパスなどを貼りやすいからだ。
「中身入ってるとかすごいですよ。奇跡だ」
「大げさだな」
 恐らく目立たない場所にあったのであまり部員の目に留まらなかったのだろう。奇跡ではなくても、奇跡的だとは思う。
「何やったはるんですか?」
 不意に野沢菜さんが僕の横から覗き込んできた。
「びっくりした。驚かさないでよ」
「驚かしてへんよ。あんたが勝手にビビッたんやん」野沢菜さんはムッとする。彼女からは煙草の臭いがした。
「それで、このエフェクターケース、何なん?」
「私のエフェクターケースなんだ。卒業の時に持って帰るの忘れてそのままだったんだけど、今見てみたら置いてあったから」
「ようありましたねぇ」感心したように目を見開く。先ほどの落ち込んだ様子は一切見当たらない。この切り替えの早さも野沢菜さんの強みだ。
 僕が見ていることに気付いたのか、野沢菜さんと目があった。
「何?」
「いや、別に」首を振って視線を戻す。「それより、開けないんですか」
 ふと涼子さんを見ると、妙に顔が強張っている事に気がついた。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっとな……」
 涼子さんは言葉を濁す。何か嫌な思い出でもあるのだろうか、このケースの中身に。
「秀、開けてくれないか」
「別に良いですけど……」
「秀?」野沢菜さんが首を傾げる。
「あだ名。昨日つけられた」
「何で秀?」
「アパートの管理人の初恋の相手が秀介って名前で、僕がその人に似ていたかららしい」
「なんやそれ」鼻で笑われる。
「僕だって嫌だよ、こんなあだ名」
 僕が顔をしかめてエフェクターケースに手をかけると、涼子さんが慌てたように僕の手を掴んだ。
「いいか、ゆっくり開けろよ」
「何でですか? 爆弾が入っているわけでもなし」
「虫が湧いていたらどうする」
 その言葉に野沢菜さんが一歩後ずさる。
 開けたらゴキブリの大群がワラワラとケースの中から出てくる。数年間放置してあるケースの中身を想像して、その様な状況が脳裏をよぎったのだろう。僕に開けさせようとしたのはその為か。
 密閉された中でさすがにそれはない。
 僕は彼女の言葉を無視すると一気にボードを開いた。野沢菜さんと涼子さんがひっと声をあげる。
 もちろん中には何も居なかった。
「馬鹿者、なんて事を」信じられないと言いたげに涼子さんは眉にしわを寄せた。
「でも何もいないでしょ」
「そういう問題じゃない」
「そうや。あんたもし中に奴がいたらどうするつもりやったん?」
「その時はその時だよ」
 僕はケースの中身に目を留めた。僕が使っているエフェクターと同じ物もあれば、値がすることで有名な物もある。
「良い機材使ってたんですね」
 ふと見るとエフェクターの下に隠されるようにして何かがある。それは色紙だった。
「涼子さん、この色紙って」
 すると涼子さんも気付いたようだった。エフェクターを退け、色紙を手に取る。中心に『涼さんへ』と書かれ、様々な色で端から端までぎっしりとメッセージが書かれていた。裏にもメッセージが書かれている。
「追いコンの時にもらえるやつですよね、それ」
 追いコン、俗に言う追い出しコンパと言うもので、我が部では毎年二月に四回生を送るために開かれるイベントだ。四年間お世話になった先輩に、部員の皆が色紙にメッセージを書いて渡す事になっている。
「何で色紙がそんな所にあるんですか」
「皆が入れといてくれたんだと思う。私、追いコンには出られなかったから」
「出られなかった?」
「引越しの準備があったんだ。本当はもっと前にしとくべきだったんだけど、進路について両親がようやく許してくれて。専門学校の手続きもあって色々忙しくて都合がつかなかったんだ」
「それでここに入れて、涼子さんをびっくりさせようとしたんでしょうね」
「たぶんな」
「読まないんですか?」
 僕の言葉に涼子さんは首を振った。
「今読むと泣くかもしれない」
 涼子さんの声は心なしか震えていた。
「四年間色々あったんだ。不快な思いも何度もした。自分はここに居ていいのか、ずっと考えていた時期があったんだ」
 僕は野沢菜さんと目を合わせた。僕らと似たような苦しみを、この人も抱えていた。
「でも、答えはここにあったよ。間違ってなかったんだって、今知った」
 その言葉は僕らに対してではなく、過去の自分に対して語っているように思えた。
「涼子さん、写真撮りましょう」
 僕の提案に涼子さんは振り向く。
「追いコン出てないんでしょう? 後輩と写真なんか撮れてないでしょうし、代わりと言っては何ですけど」
「それええな」野沢菜さんも薄く微笑む。
「ありがとう」
 写真に写った涼子さんの瞳は少しだけ光を反射する。何かから開放されたように、彼女の表情は緩やかだった。

     


 今日、いい事があったよ。
 帰り道、リュックを背中に提げ、エフェクターケースを持ちながら、涼子さんは呟いた。僕は自転車を押しながらその横を歩く。
「秀の誘いがなければ、大切な物を見逃したままだった」
「僕もその分いろいろ助言してもらえましたから、お互い様です」
「そうだな、そう言うことにしておこう」
 そう言って僕らは少し笑った。
「秀」
「はい」
「悠子をよろしく頼むな」
「なんですか急に」
「あいつは人付き合いも上手いし、いろんな事をそつなくこなすんだ。でも、結構抜けてる部分も多い」
「知ってます」
「あいつを助けてやって欲しいんだ。困っていたら、手を貸してやって欲しい。あいつは何か悩みがあっても人に悟らせずに自分で抱え込むところがあるから」
 その言葉に心当たりはあった。普段の悠子さんは一見何も考えていなさそうで、実は相手の事を考えて行動している事が多い。
「悠子さんってなかなか助けに入る余地がないんですよ。なんだかんだ一人でやってのけてしまうというか。……大人って言うんですかね、そういうの」
「悠子は秀が思っているよりずっと子供だよ。年上だからそう見えるだけで、あいつは寂しがり屋だし、すぐ人に甘える。私から言えば秀の方がよっぽど達観してるよ」
「買いかぶりすぎですよ」
「そんなことないさ。……それに、悠子はお前の事すごく信頼してると思う。口悪い事もたくさん言っているけれど、それだけお前に気を許してるんだ。そこのところ覚えてやっててくれ」
 そこまで言われるとなんだか照れくさい。僕は人差し指で頬を掻いた。いつの間にか涼子さんの癖がうつっている事にそこで気付く。
 やがてアパートの前まで戻ってきた。
「それじゃあここでお別れだ」
「えっ? 悠子さんに一言言わなくて良いんですか?」
「会うと別れ辛くなるからな」
「でも当分会えないんでしょう? まだ海外に行くって事も言っていないし、せめてちゃんと挨拶くらいしたほうがいいんじゃあ……」
「良いんだ。顔を見れただけで。また手紙を送るなりなんなりするさ。……こっちに来て色々なものをもらった。一日もいなかったけれど、得た物は大きかったよ」
「そうですか。分かりました。……写真、頑張ってくださいね」
「ああ」
 涼子さんは手を差し出す。
 自転車を置き、その手を掴んだ。
 しっかりと、僕達は握手をした。
「また顔出してください。……まぁその時僕がいるかは分からないんですけど」
「会えるよ。きっと」涼子さんは目を細める。
「そうですね」僕は微笑んだ。
「秀、悠子を頼むな」
「はい」
 今度ははっきりと返事をした。
 涼子さんは満足げに笑みを浮かべると「じゃあ」と背を向けて駅への道を歩き出した。
 彼女の背中は太陽に照らされていた。進む道は明るく、どこまでも長く続いている気がした。
 僕は彼女の背中が見えなくなるまで静かに見送った。
 本当にこのままで良いのだろうか。

 アパートに戻って来て悠子さんの部屋のインターホンを鳴らした。二度、三度、しかし悠子さんは出てこない。
「まだ帰ってないのかな」
 ドアノブに手をかけると、鍵が開いていた。ゆっくりと扉を開ける。
 部屋の中は真っ暗で、カーテンが閉め切られていた。いるのだろうか。もしかしたら、ちょっと出るだけだから鍵をかけずに出かけたのかもしれない。
 いくら見知った仲とは言え、女性の部屋にいきなり入るのは気が引けた。しかしどうしても涼子さんの事を伝えたほうがいい気がして、僕は「悠子さん、入りますよ」と中へ足を踏み入れた。
 玄関の電気をつける。こうでもしないと部屋が暗い。
 靴を脱いで先に奥の部屋へ歩いた。
「悠子さん、いるんですか」
 居ないわようと言う間の抜けた声が奥から聞こえてきた。
 奥の部屋に入りカーテンを開いた。部屋が急に明るくなる。
 悠子さんはベッドの上、毛布に包まり眠っていた。
「何寝てるんですか」
「二度寝よ。疲れたから。管理人も楽じゃないって事」ベッドからくぐもった声が聞こえる。
「午後から二度寝なんかしたら生活リズム崩れますよ」
「崩れないわよ。大丈夫」悠子さんの手が毛布から出てきてヒラヒラとゆれた。
 困惑した。こんな姿の悠子さんを見るのは初めてだったからだ。
「体調でも悪いんですか」
「別にそうじゃないわよ」
 そこではっとしたように彼女は布団から顔を出す。
「……何であんたここにいるのよ」
「すいません、つい」勝手に部屋に入っていることを言っているのだと思い僕は視線を落とした。
「涼と部室で過ごすんじゃなかったの」
「あ、そっちの話ですか」
「そっちって他に何があるのよ」
「いや、別に……」
「まぁいいわ。……で、どうだったの? 楽しかったんでしょ? 私だけ置いて楽しんだんでしょ」
「涼子さんが現役の時に部室に置きっぱなしにしていた機材を取っただけですよ」
 どうやら久しぶりに会った友人が自分より後輩と行動を共にしていたのが気に入らなかったらしい。
「なるほど、体調が悪いのではなくふて寝だったんですね」
「んなわけないでしょ」
 図星であることはバレバレだ。
「で、涼はどこ行ったの?」
 そこで思い出した。悠子さんの手をとり、無理やり体を引っ張る。急な行動だったので不意を衝かれたらしく、悠子さんはすんなり体を起こした。
「起きてください。駅に行きましょう」
「どういう事?」
「涼子さん、海外に行くらしいです。日本に戻ってくるのは当分先になるって言ってました」
「帰ったの?」
「ついさっき。いま追いかければまだ間に合うかもしれません」
「あの馬鹿っ」
 僕が言い終えるよりも早く、悠子さんはベッドから飛び出していた。サンダルを履いて外へ飛び出す。僕は慌てて後を追いかけた。
 外に止めてある自転車に乗り、悠子さんのところへ行く。
「乗ってください。送ります」
 悠子さんは黙って荷台にまたがる。スピードを上げ、駅へと急いだ。
 吹き付ける風はびっくりするほど冷たく、皮膚を切り裂くようだった。本格的な冬はまだ来ていない。それなのに手が少しかじかむ。
 アパートから駅まで徒歩十分ほど距離がある。歩く速度が遅ければ追いつける。僕は道行く人の中に涼子さんの姿がないか目を凝らした。
 駅前の広場にある時計を見るともう午後の四時を回ろうとしていた。混雑する一歩手前の時間。もう少し遅かったら構内には人が溢れ帰っていただろう。
 僕は駅の近くのコンビニで、周囲を見渡した。涼子さんらしき姿はない。
 悠子さんは自転車を降りて改札近くにいる駅員の所へ掛けていった。僕は近くに自転車を置く。心臓がバクバクと音を立てていた。呼吸がなかなか調わない。
 悠子さんのもとに行く前に構内に電子音が鳴り響いた。
 発車コール。
「涼子の実家方面の電車、今発車したって」
 乾いた声だった。
「何やってるんだろうね、あたしゃ」
 タハハと悠子さんは自嘲気味に笑う。感情の伴わない声だ。
「すいません。僕が無理を言ってでも引き止めてたら……」
「何であんたが謝るのよ。息荒らして、足なんか震えてるじゃない。それだけで充分よ」
「運動不足ですからね」
「馬鹿」
 悠子さんは呟くようにそう言うと、僕の胸元に頭を押し付けた。
「ごめん、ちょいこうしてて良いかな」
 泣いているような、震えた声だった。
「どうぞ」
 僕は悠子さんの頭に軽く手を乗せる。彼女の体も震えているのが分かった。
 少し経って、鼻を啜る音が聞こえる。人目が僕らに集まるのが分かった。少し恥ずかしかったが、今はこうしていよう。
 不意に駅の入り口に立つ人物と目があった。木下だった。
「お前ら何いちゃついてんの」
 異物でも見るような目で僕に視線をやると、木下はニヤリと笑った。
「まさか二人がこんな関係だったとはね」
「事情があるんだよ。……それより、お前は何してるんだ」
 僕の質問に木下は頭を掻いた。
「いやぁ、学校サボっちゃったからさっき起きて。とりあえず飲み物でも買おうかなって出かけたら今そこで涼子さんと会ってさ。ちょっと話し込んでたんだ。そしたらもう帰るって聞いたから見送りをするところ」
 少し間があった。
 悠子さんがゆっくりと顔を上げ、木下の方を向く。悠子さんの目は真っ赤に潤んでいた。頬に濡れた跡があり、鼻水も垂れている。僕は自分の胸元を見た。濡れているこれは果たして鼻水か涙か。
 ただそんな事は問題ではない。
「えっ?」悠子さんと同時に声を上げた。
「悠子さん、何で泣いてるんですか」
「いいから、涼子さんは何処にいるんだよ」思わずイラついた声が出てしまう。
「どこって……」
 木下は自分の背後に視線をやった。
 緑色のジャケットに、ボロボロの黒いエフェクターケースを持ち、リュックを肩から提げた涼子さんが目を丸くして立っていた。
「あれ、何でここに」
「この馬鹿」
 言い終わる前に悠子さんは涼子さんに抱きついた。涼子さんは慌てたように空いている手で悠子さんを支える。僕はその様子を見て声を出して笑った。木下は訳が分からないという顔をしている。
「どう言う事だ」木下が目を泳がせる。
 すると悠子さんが木下をびっと指差して言った。
「あんた最高」
 急な言葉に木下は僕の顔を見る。僕も笑いながら頷いた。
「お前最高」

 切符を購入して涼子さんはこちらに向き直った。
「一日だったけど、世話になったな」
「全くよ。見送りくらいまともにさせて頂戴」
「すまん。会うと別れが辛くなると思って」涼子さんは神妙な顔で頭を下げる。
「何も言わずに行くほうが遥かに辛いでしょ」呆れたように悠子さんは笑う。
「そのうち手紙書くよ。写真も送る」
「このご時勢メールじゃなくて手紙ってところがらしいわね」
 二人の会話は一度そこで止まった。
 言いたいことは山ほどあったはずだ。かけるべき言葉も、まだ話していない事も、たくさんあったはずだ。
 多すぎる言葉はなかなか出てこない。まるで水が詰まるように、何を話せば良いのか分からなくなる。
「またこっち来なさいよね。私はいつでもいるから」
「悠子も元気でな」
 涼子さんはちらりと僕に視線をやった。そして悠子さんの耳元に口を寄せ、何事か呟く。
 すると悠子さんは少し顔を赤くした。
「な、なに言ってんの、馬鹿」
 あからさまに狼狽している。何を言ったのだろうか。木下を見ると肩をすくめていた。
「じゃあ私はそろそろ行くよ」
 涼子さんはきびすを返して改札に向けて歩き出した。
「お元気で」木下が大きな声で言うと、彼女は軽く手を振った。
 切符を通し、改札を抜ける。
「悠子さん」
 何も言わなくていいのだろうか。このまま別れて良いのか。
 涼子さんの背中が徐々に小さくなっていく。
 すると悠子さんが改札のすぐ手前まで駆けた。
「涼子」
 構内に響くほどの声。視線が集まる。涼子さんが振り向くのが分かった。
「帰ってくる場所があるって事忘れるんじゃないわよ」
 改札越しに、二人の目が合うのが分かった。
 涼子さんはニッと強く笑うと、手を強く上に掲げた。そして前を向き、軽快な足取りで階段を上っていく。
 階段の先に涼子さんの姿は消えた。
 しばらく、その場に突っ立って僕らは涼子さんのいた場所を眺める。
「行っちゃったなぁ」木下が呟く。
「うん」
「美人だったなぁ」
「いい人だったよ」
 僕は改札まで行くと、悠子さんの肩を叩いた。
「帰りましょう」
「うん」
 名残惜しそうに駅の方面を見ながら、悠子さんは入り口へと歩いて行った。
 僕らは駅を出た。先ほどのコンビニで自転車を回収し、木下と別れた。
「乗って帰ります?」
「うん」悠子さんはこくりと頷く。
 駅前の広場を抜け、来た道を戻った。駅から離れるにつれ喧騒が遠ざかるのを感じた。
 この時期はもう太陽の動きが早くなる。街はもう夕景に染まっている。
「いやぁ、まさかこの年で青春するとは思わなかったわ」
 荷台に乗った悠子さんが言った。
「まだまだ若いですね」
「駅に到着するまではまるで青春映画みたいだったわよね。いやホント、焦ったわ」
「かなり疲れましたけどね」
「普段からインドアだからよ。もっと表出て運動しなさい、運動」
「そんな気力ありませんよ」
 タイヤの転がる音と、チェーンの回転音が静かな通りに響いた。ペダルを踏み込むたびに二人分の重みを感じる。
「秀介、ありがとう」
「感謝してるなら本名で呼んでください」
「結城、ありがとう」
「どういたしまして」
 ふと、気になったことがあった。
「そういえば最後に涼子さんに言われた事って何だったんですか」
 悠子さんは答えない。顔が見えないので分からなかったが、逡巡している気がした。
「好きな人にはもうちょい素直になれって」
「なんですかそれ」あまりにも脈絡のない言葉だ。
「知らない」
「悠子さん好きな人とかいるんですか」
「そんな事より家に帰ったらおやつにするわよ。お茶を淹れておきなさい。昨日の苺大福を食べましょ」
「わかりました。あれ美味しかったんで楽しみですね」
 上手くはぐらかされた。まぁいつもの事とも言える。
 空は澄んだ色をしていた。
 この季節、街の色は抜けていく。その為、空気の透明度がより増す気がする。
 来年の今頃、僕はどうしているのだろう。今はまだ分からない。
 ただ一つ分かった。
 出来る事も、やるべき事もたくさんある。

       

表紙

[website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha