Neetel Inside 文芸新都
表紙

ラストメンヘラー〈リマスター版〉
karte10(♂)『パラダイス・ロスト』

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 二学期は失望とともにはじまった。
 登校初日、校庭で全校集会が開かれ、全国大会でそこそこの成績を残した空手部とアーチェリー部の部員が表彰を受けた。その後中館の第二体育館で三年生のみの学年集会が開かれ、学年主任の教師から受験生としての自覚を持って行動するようにとのお達しがあった。そんなことは言われなくてもみんなわかっている。あしたから実力考査だ。
「夏休みの宿題がおわったと思ったらソッコー実テかよ。完璧入る高校間違えたわ」
「どこも似たようなもんだって。ていうかコバ、俺の宿題丸写ししただけじゃん。夏休みなにやってたんだよ元野球部」
「……パズドラ?」
「暇か」
 頭髪検査を乗り切るために髪に黒彩を振った水野が、浅黒く日焼けしたコバの二の腕をつねる。僕たちはクラス全員で列を成して北館の教室に戻ろうとしているところだった。
「それよかシゲだろ。あいつこそ夏休みなにやってたんだよ」
 前方に、クラスメイトたちの頭がパック入りの鶏卵みたいにならんでいる。そのなかにひとつ、パックから大きく飛び出した鶏卵があった。シゲだ。長らく音信不通になっていた彼は、今朝、なにごともなかったかのようにしれっと登校してきた。当然、クラスのだれもが不可解な雲隠れの真相を聞きたがった。しかし彼は精神と時の部屋で修行していただのブンデスリーガの練習に参加していただの笑えない冗談ではぐらかすばかりで、真相を語りたがらない。そんな彼の態度に、コバは露骨に不快感を示している。神経が図太そうに見えて意外とさびしがり屋なのだ。こういうところは水野のほうがよっぽどさっぱりしている。
「てかあのふたりあんなに仲よかったっけ」
「知らね。さんざん心配かけといてあれだもんな。女子といちゃつく前に俺らに言うことあんだろ。なあ、要?」
「え? ああ、うん」
 生返事しかできなかったのは、僕に余裕がないからだ。ユーモアのある受け答え、引きしまった表情、適切な歩幅。そういったものはすべて気持ちの余裕から生み出される。気持ちに余裕がないと、言葉を忘れ、口は無意識に半開きになり、上履きが前を歩く生徒のかかとにぶつかってしまう。
 シゲがとなりを歩く女子生徒と談笑している。ふたりの打ち解けた横顔は一学期には見られなかったものだ。一ヶ月半のミッシングリンクが、僕から気持ちの余裕を奪っていた。
 なんできみがそこにいるんだ、五十嵐。
 教室に戻ってからも僕はずっと放心していた。配られた進路調査票に目を通し、担任の教師の言葉に耳を傾けているふりをしながら、その実、なにも見ていないし、聞いていなかった。網膜にこびりついたシゲと五十嵐の横顔が、引きはがせない。
「これ、約束してた本」
「ありがと。返却期限は?」
「いいよ、やるよ。布教用に買ったやつだから、それ」
「じゃあ今度お返しするね」
 終業後、続々と生徒が退出する教室で、シゲが五十嵐に外資系CDショップの買いもの袋を手渡した。なにげない、けれどもふたりが気ごころの知れた間柄になったことをうかがわせるそのやりとりに、僕は人知れず胸を痛める。
 ちょっと待っていがちゃん、繁原くんいつからそんな感じになったの。違う違う誤解しないでこの人はただの他人だから。他人ってなんだよせめて知りあいにしろよ。五十嵐の席から和気あいあいとした会話が聞こえてくる。
 僕も聞きたいことがたくさんある。
 約束ってなんだ。今度っていつだ。どうしてプレゼントなんてしてるんだ。
 そんなの、まるで恋人同士みたいじゃないか。
 シゲが教室を出ると、五十嵐は受け取った買いもの袋を折りたたんで宝物みたいにたいせつそうにスクールバッグにしまった。もしかしたら、あの袋には本当に宝物が入っているのかもしれない。
 僕と五十嵐だけの楽園に通じる、錆びついた小さな鍵が。

                    *

「……どこでそれを?」
 そのとき、僕は世界中で一番間の抜けた顔をしていたに違いない。夏休み最後の夜、みんなにないしょで高架下にやってきたシゲは、僕に五十嵐の宝物を突きつけた。昨年度の三学期に行方不明になった特別教室のスペアキー。第一理科室の鍵だ。
「やっぱ身に覚えあり、か」
 二の句を継げずにいる僕に、シゲは大きく息を漏らし、困ったように口の端で笑いかけた。しまった、と思った。鎌をかけられた。
「僕を試したの?」
「気ぃ悪くしたなら謝るよ。でも要だって俺に隠しごとしてたじゃん。五十嵐との関係を正直に話してくれてたら、わざわざこんな真似しなくてもよかった。おたがいさまだよな」
 第一理科室の幽霊、鍵、五十嵐。シゲが盤上にならべたキーワードとゆるぎない証拠が僕にチェックをかける。僕は闇の濃くなったアスファルトの地面を見下ろし、足りない頭をしぼって逃げ道を探していた。
「おたがいさまだって言うなら、さっきの質問に答えてよ」
 一歩後退だ。まずはシゲの手持ちの駒を把握しておきたい。
「ああ、これ? 拾ったんだよ、たまたま」
「拾った?」
 シゲは手のひらで遊ばせていた第一理科室の鍵を目の高さに持ち上げ、美術品を観賞するようにためつすがめつした。
「喫茶店代わりに使ってた大学の講堂でたまたま五十嵐に会ったんだよ。そんときあいつがこの鍵を落としていって、それを俺が拾ったってだけの話。学校の備品を借りパクするなんて、あいつ意外といい趣味してんな」
 こんな説明を鵜呑みにするほど僕はお人好しじゃない。シゲは確固たる目的を持って五十嵐に接近し、第一理科室の鍵を受け取ったのだ。
 認めたくなかった。
 それを認めるのは、五十嵐が僕の手を振りほどいてシゲのもとに逃げていったと認めることにほかならない。
「心配すんなって。落しものはちゃんと持ち主に届けるよ。曽我部じゃなくて、第一理科室で幽霊ごっこやってるメンヘラ女に」
 シゲの言葉からは力みも迷いも感じられなかった。勝利を確信しているかのように淡々と駒を進め、僕を盤の隅に追い詰める。僕は頭の取れかけた案山子みたいにじっと地面を見下ろしていた。自慢の嘘も出てこない。
「それで、どうして僕が第一理科室に出入りしていると?」
「ずっと引っかかってたんだ、コバみたいに部活してるわけでも水野みたいにバイトしてるわけでもない要が、放課後どこでなにをしてるのか。高三になってから俺らほとんど帰りべつべつだっただろ」
 放課後の第一理科室で偶然五十嵐の秘密を覗くまで、僕はその日の最終授業がおわるとすぐに下校していた。水野がバイトのシフトを入れていない日は水野と、それ以外の日は鶴田さんや、帰宅部のクラスメイトたちと。高校三年生になってからサッカー部を辞めたシゲとは数えるほどしかいっしょに下校したことがなかった。
 五十嵐と密会の約束をしている日にだれかがいっしょに下校しようと誘ってきた場合や、あるいは鶴田さんのときみたいに密会後クラスメイトと鉢あわせした場合、僕は決まってある嘘をつく。
「だからそれは、美術部に同じ中学の後輩が……」
「美術部にいる俺と同じ中学の後輩は、そんな人知らないって言ってたけど」
 言葉がのどにつっかえて窒息しそうになる。早く家に帰りたいと思った。早く家に帰って、くだらないことやどうでもいいことに思いを馳せて眠りたい。
 逃げ出したい。
「第一理科室の幽霊が五十嵐だとわかってすぐにぴんときたよ。ああ、要は五十嵐と会ってんだなって。要、しょっちゅうあいつのこと見てたもんな」
「気づいてたの?」
「嫌でも気づくよ、俺もずっとあいつのこと見てたから」
 ナイフで背中を刺された気分だった。
 自分の席で頬杖をついてつまらなさそうに窓の外を眺める五十嵐を、長い髪を紐でくくって短距離走の順番待ちをする五十嵐を、クラスの女子生徒と談笑しながら廊下を渡る五十嵐を、僕はいつも集団のなかから目で追っていた。その横でシゲも同じ方向を見ていたなんて、そんなこと気づきもしなかった。
 もう、どこにも逃げ場がない。
 詰みだ。
「なあ、要。なんで五十嵐のこと黙ってたんだよ」
「教えてたらあきらめた?」
「どうかな。ガキだからな、俺」
 ガキだから、欲望にさからえない。ガキだから、一度手に入れると決めたものは譲れない。
 道路を挟んで正面にあるパティスリーから照明が消え、店員がシャッターを下ろした。それを合図に、シゲが第一理科室の鍵をチノパンのポケットにつっこんで背もたれにしていたフェンスからはなれる。体感よりもずいぶん時間が経っていた。
「新学期がはじまる前に話せてよかった。あいまいにしておきたくなかったんだ。要とは、変に気をつかったり本音を探りあったりしてぎくしゃくしていたくない」
「自己満じゃないの、そんなの」
「自己満か。そうかもしんないな」
 またあした、学校で。そう言ってシゲは駅舎に足を向けた。
 ガキは僕のほうだ。本当に五十嵐がたいせつなら、たとえ結果は同じだとしてもこうなる前にシゲに打ち明けておくべきだった。僕は五十嵐が好きだ、彼女のことはあきらめてくれ、と。それができなかったのは、僕に彼と向きあう勇気がなかったからだ。自分より大きな存在にあきらめるつもりはないとつっぱねられるのがこわくて、僕は気をつかったり本音を探りあったりしてぎくしゃくする道を選んだ。
 五十嵐との約束を守るため、密会を守るため。あれこれと理由をつけて、結局僕は自分自身を守っていたにすぎない。
「ねえ、シゲ」
 数メートル先で、常夜灯によってオレンジ色に染め上げられたシゲの背中が動きを止めた。
「どうして五十嵐なの? ほかのだれかじゃだめだったの?」
 それは敵対心からではない、親友としての素朴な疑問だった。二年半近い高校生活で、シゲに大小の好意を寄せる女子生徒は少なからずいた。彼はどうして彼女たちではなく五十嵐を選んだのだろう。
 振り向いたシゲは、二、三秒宙を見やり、ひとり言のようにつぶやいた。
「今度こそ、理解できないものを理解したい」
 謎めいた答えの意味を問いただす間もなく、僕より大きな背中は闇に溶けていった。
 目まいがするほど長く感じられた夏を連れて。

                    *

 そして審判の日が訪れた。
 実力考査の翌日、二学期の通常授業がスタートしたその日、僕は放課後に五十嵐と会う約束をしていた。二学期最初の密会だ。最初で最後になるかもしれない。忘れもしない、七月二十日の密会で、五十嵐は考える時間がほしいと言った。あれからたっぷり四十日以上かけて、今後も密会をつづけるべきか否か、彼女は自分なりの結論を出しているはずだった。
「うわっ……私の偏差値、低すぎ……?」
「やばいじゃん、コバ。このままじゃエリカちゃんと同じ大学無理じゃん。いまからでも予備校入れば」
「大丈夫、こっから脅威の追い上げあるから。高校受験もそれで乗り越えてきたから」
 返却されたばかりの答案用紙を休み時間に仲間内で見せあう。テスト明けの恒例行事だ。今回、僕は複数の教科で過去の点数を下まわった。水野のようにコバをいじれない。
 成績が落ちた原因ははっきりしている。集中力が欠けていたからだ。問題文を読んでいると目が滑った。テスト中だということも忘れて五十嵐のことを考えていた。そんなので成績が上がるわけがない。
 僕の頭は三日前から五十嵐すみれに支配されている。
 初日はわけがわからなかった。脳の機能が低下し、五十嵐がシゲと恋人同士のように降る舞っていた事実を受け止められなかった。午前一時にテスト勉強を放棄して掛け布団にくるまるまで、すべてが悲しみのうちにすぎていった。
 二日め、見えなかったものが見えるようになった。五十嵐にまつわる記憶が昼夜を問わずひっきりなしに思い出されて止まらなかった。じょじょに機能を回復した脳は僕にこう命令していた。情報を集めて式を組み立てろ、五十嵐すみれの心理を読み解け。彼女があのような行動を取った動機を探りあてろ。そうすればおまえは納得し、いずれ悲しみは癒えるだろう。
 そして三日めにあたるきょう、僕は解を導き出した。だけどその解は僕を納得させてはくれず、悲しみを癒やしてもくれなかった。
 生まれてはじめて本気で人を憎いと思った。
 僕が生まれてはじめて本気で憎んだのは、生まれてはじめて本気で好きになった人だった。

 三回ノックして、三拍置いてまた三回ノック。第一理科室のドアを開くこの合言葉には、ちょっとした意味がこめられている。ノックと休符をそれぞれ短点と長点に置き換えるとモールス信号になるのだ。三回のノックはSを、三拍の間はOをあらしている。SOSをSave Our Soulsの略だとする俗説を、五十嵐は存外気に入っていた。
 僕たちはいつもさけんでいる。
 どうか私たちの魂をお救いください。
「来てくれてありがとう。入って」
 第一理科室のドアを開け、五十嵐は定位置である室内中央のテーブルへと戻っていった。僕はドアを内側から施錠し、小窓を遮光カーテンで隠して彼女のあとを追う。
「実力テストの結果、どうだった?」
「可もなく不可もなくってとこかな。五十嵐は?」
「一学期よりはよかったよ。九十点台がみっつと八十点台がふたつ」
 世間話をしながらスクールバッグをテーブルの上に置く。五十嵐が両手を支えにしてお尻からテーブルに飛び乗る。スカートから伸びた生白い両脚がブランコみたいにゆれていた。
 この日の五十嵐は上機嫌で、饒舌だった。前回の密会から四十日以上が経過していることも、その間にシゲと会っていたことも、まったく意に介していないように見受けられた。
「これなら指定校推薦狙えたかも。でも受験がおわったらやることなくなっちゃうな」
「そんな話をするために僕を呼んだんじゃないだろ」
 もう我慢の限界だった。すべて吐き出して、楽になりたい。
 見下ろす僕の視線と見上げる五十嵐の視線がぴったり重なる。数秒後、彼女はやおらため息をつき、さっきまでが嘘のようにしらけた顔で目をそむけた。
「どれから聞きたい? 繁原くんのこと? それとも私たちの今後について相談する?」
「きみが僕になにを求めていたのか知りたい」
 努めて冷静に振る舞い、五十嵐の右となりに浅く腰かける。
「言ってたよね、自分を理解してくれる人がほしかったって」
 鼻をくすぐる潮のかおりを、くすみはじめた空の青を、いまでも鮮明に思い出せる。六月にたった一度きりのデートで訪れた海で、五十嵐は突堤に寝そべりながらつぶやいた。ほしかったものが手に入った、それは自分を理解してくれる人だと。最初は意味がわからず、深く考えもしなかった。だけど鶴田さんに五十嵐との関係を聞かれてそうもいかなくなった。
「僕はきみと同じ病気に罹ったたったひとりの理解者で、恋人じゃない。だったね?」
 恋人と、理解者。その違いに悩み人を理解するとはどういうことかを考えるのは、いつしか僕にとって進路よりも重要な命題となっていた。
「そうだよ。恋人かどうか、つきあってるかどうかなんて、しょせんは当人同士の口約束じゃない。言葉で定義しなくちゃ成立しないような頼りない関係にどれほどの価値があるって言うの。私が中原くんに求めていたのは、そんな不確かなものじゃない」
「嘘だ」
 下唇の裏を噛むと血の味がした。憎しみの味だ。
「きみは最初からなにも求めてなんかいなかった。いらなくなったらいつでも僕を切り捨てるつもりだった。だから僕を恋人にしなかったんだ」
 冷静に振る舞おうとしても、のどの震えをおさえることができない。
 解けてしまえば単純なロジックだ。一学期のはじめ、ひと筋の傷痕がきっかけで五十嵐は僕に興味を持った。それまで意識していなかった僕に自分との共通点を見出し、こころを開いてくれた。おそらくそれは、恋愛感情というより同族意識に近いものだったのだろう。もしあのころ僕が好きだと気持ちを伝えていても、望んだ結果にはならなかったに違いない。
 だけど五十嵐は僕を手ばなしたくなかった。なんらかの理由があって、好きでもない僕を自分のもとにとどめておきたかった。そこで彼女は僕に餌をあたえることにした。診察と称して恋人のまねごとをさせ、恋人となる代わりにたったひとりの理解者という役割をあてがった。あくまでも恋人ではないということにしておけば、ほかに気になる異性があらわれたとき、僕に別れ話をして承認を得るという面倒な手つづきを踏まずにすむ。
 本物の恋人ができるまでの仮初めの恋人として、僕は五十嵐に都合よく利用されていたにすぎない。
「本当にたいせつなものはだれの目にもふれない場所にそっとしまっておくだって? あれも嘘だったんだろ」
 僕との関係をおおやけにすれば、ほかの異性と恋仲になったときに悪者あつかいされるおそれがある。特定の異性と親しくすればほかの男子生徒が寄りつきにくくなるという打算もあっただろう。だから五十嵐は僕との関係を秘密にしたがった。それらしい理由を設けて、それとなく僕に口止めした。
 ずっと嘘をついているのは僕のほうだと思っていた。
 でもそうじゃない。
 僕たちはおたがいに嘘をついて、騙しあっていたんだ。
「言いたいことはそれだけ?」
 陳列棚の実験器具を見るともなく見ながら、五十嵐はつまらなさそうに髪の毛先をねじっていた。そのしぐさに腹が立った。彼女を傷つけるまい、彼女に嫌われるまいと慎重に言葉を選んでいた自分が馬鹿らしくなって、僕は冷静であろうとするのをやめた。
「僕と距離を置いたのだって、シゲとつきあうつもりだったからなんだろ? メールも電話も無視して、僕との関係を解消する口実を探してたんだ。きみがこんなやつだとは思わなかった。最低なことしてるって自覚あるのかよ!」
「中原くんに言われたくない!」
 無意識に五十嵐の肩をつかんでいた手が振りはらわれる。はっとして息をのむ。彼女の目尻に涙の粒が光っていた。
「一方的にまくし立てて、私ばっかり悪者にしないで。知ってるよ? 夏休みに中原くんが女の人と遊園地にいたの。クラスの女子に見られてたの気づかなかった?」
 当て推量でものを言っているのや鎌をかけているのでないことはすぐにわかった。僕自身、注意して歩けば同級生のデート現場に遭遇できるかもしれないと考えていたくらいだ。あの遊園地ですれ違った人々のなかにクラスの女子生徒がいたとしても、なんらふしぎではない。
「違う。あれはきみが誘いを断ったから……」
「断ったからなに? 私とうまくいきそうにないからその女の人に乗り換えようとしてたんでしょ。さんざんきれいごとならべておいて、結局恋人らしいことができればだれでもよかったんじゃない。この傷が私たちの絆? 笑わせないでよ。絆なんてどこにもないじゃない!」
 軽薄な自分自身が僕を責め立てる。左手首の傷痕と、右手首の傷痕。ふたりあわせて一対となるこの傷痕が僕たちの絆なのだと、五十嵐に言ったことがある。
 堰を切ったように僕を糾弾する五十嵐は、そうすることで涙がこぼれ落ちそうになるのをこらえているみたいだった。
 ひどく混乱していた。いくら言葉を交わしても溝が広がる一方だ。これ以上どうあがこうと悪いことにしかならないような気がした。
 だから僕は楽になりたかったのだろう。
 憎しみをぶつけるのもぶつけられるのも、もうたくさんだ。
「そのとおりだ。はじめから僕たちに絆なんてなかった」
「……どういうこと?」
「僕はリストカットなんてしたことがない。きみとは違う、ふつうの人間なんだよ」
 五十嵐の顔から表情がうせていった。
 ブレスレットの留め金をはずし、腕時計をテーブルの上に置く。右手で左手首をつかみ、隆起した皮膚を親指でなぞる。
「小学六年生のころ、図工の授業でカッターナイフを使ってさ。これはそのときにできた傷なんだ。つきあいの長い友だちはみんな知ってる」
 腱をまたいで走る一文字の傷痕に親指を突き立て、力をこめる。爪が赤く濡れた。
「きみの気を引くために嘘をついたんだ。適当に調子をあわせてメンヘラぶって、きみが求める僕を演じてたんだよ。僕みたいなふつうの人間に、手首を切る人間の気持ちが理解できるわけ」
 大きな音が言葉をさえぎった。驚き、痺れる頬を押さえて顔を上げる。いままでこらえていたものをぽろぽろとスカートにこぼして、五十嵐が僕をにらみつけていた。
 グラウンドから建材を運ぶ文化祭実行委員たちのにぎやかな声がする。五十嵐は真冬のスケートリンクにひとりで立っているみたいに肩を抱きうつむいていた。僕もうつむいて沈黙をやりすごした。罵倒されたほうがまだましだと思った。打擲された頬が熱い。
 どれくらいそうしていただろう。打ちひしがれた声が沈黙を破った。
「きょうはもう帰って。いま、頭んなかぐちゃぐちゃだから」
「……うん」
 あんなに言いたいことがあったのに、いまはかける言葉が見つからない。
 五十嵐は関係を断つ気で僕を第一理科室に呼び出したはずだ。僕もそのつもりで悪態をついた。このつづきがあしただろうが、一週間後だろうが、一年後だろうが、結末は変わらないだろう。嘘を取りはらった僕たちはもう、傷つけあうことしかできない。
 黒い筏の上で、僕たちはきょうもさけんでいる。
 どうか私たちの魂をお救いください。
 密室のさけびは届かず、救いの船はやってこない。永遠に。

                    *

 左胸の、ちょうど心臓のあたりに、見えない生傷ができていた。
「じゃーん、見てこれ。学園祭のステージで着る衣装」
 五十嵐と派手に口喧嘩した翌日のことだ。縦にならんだ僕と水野の席に、コバがスポーツ用品店でつくってもらったオリジナルTシャツを見せびらかしにきた。ボトムスは女性アイドル歌手のようなふりふりのミニスカートだった。
 生傷は空気にふれただけで痛む。こんななんでもない日常の一場面でさえも、僕は痛みをごまかすことに必死だった。
「水野、おまえカノジョに学園祭のチケット渡しとけよ。俺もエリカ連れてくっから」
「あー……先週別れた」
 いつも飄々としている水野が珍しく投げやりな口調になっていた。
「は? マジで言ってんの?」
「先月ぐらいから急に別れたいオーラ出してきてさ。問い詰めたらシフトが被った日の帰りにチーフといい感じになったんだって。なんかバイトはじめたときからずっとチーフのこと好きだったらしいよ。むこうにカノジョがいたから妥協して俺とつきあってたっぽい」
「じゃあおまえキープあつかいされてたってことじゃん。性格悪すぎだろその女。別れて正解だって」
 我がことのように憤慨するコバの肩越しに、シゲが教室に入ってくるのが見えた。近くにいた男子生徒に一時間めの授業をサボった理由を聞かれ、全米オープンの生中継を観ていて寝坊したとおどけている。
 ずきり、と生傷が痛む。
「トイレ行ってくる」
 席を立ち、シゲと目をあわせないようにして廊下に出る。教室からはなれ、ざわめきが遠のくにつれいくらか痛みが緩和された。
 この日は五時間めに体育の授業があった。校舎の屋上にある室内コートでバスケットボールをし、教室に戻って制服に着替えているとき、スマホが光っているのに気がついた。生傷をつけた張本人からのメールだった。
 メールには簡潔にこう書かれていた。
 放課後、いつもの場所で待っています、と。

 第一理科室へと向かう足取りは重かった。
 密会をおわらせたくない。憎しみを吐き出したあとに残ったのは、それでも五十嵐を手ばなしたくないという思いだった。たとえ彼女が僕を好きじゃなかったとしても、僕が彼女を好きであることに変わりはない。変えられない。
 性格が悪すぎる? 別れて正解?
 そんな簡単に割りきれるかよ。
 これからおこなわれる予定の話しあいでおたがいの誤解が解ける。僕は優里ちゃんのことをただのおさななじみとしか思っていないし、五十嵐もシゲに気がないと判明する。早とちりで深く傷つけあってしまったことを反省した僕と五十嵐は、診察をし、今度こそ本当に固い絆で結ばれる。そんな奇跡を祈っていた。きのうあれだけなじっておきながら、僕はなおも彼女にしがみついている。自分のあさましさに嫌気が差した。
 南館の三階にたどりつくと小さな人影が目に飛びこんできた。すぐにそれが五十嵐だとわかった。ひと足先に第一理科室でくつろいでいるはずの彼女が、なぜかしめ出されたかのようにドアの前でしゃがみこみ、スクールバッグを物色している。
 胸さわぎがした。
「五十嵐? どうかしたの?」
 駆け寄った僕に、五十嵐は立ち上がるなり切羽詰まった様子でしなだれかかってきた。
「鍵がないの」
「どういうこと?」
「第一理科室の鍵がなくなってるの!」
 即座には言葉の意味を読み取ることができなかった。五十嵐の足もとで大きく口を開けたスクールバッグの惨状を見るにいたり、僕はようやく事態を把握した。
「ほかの鍵は?」
 五十嵐は質問に答える代わりに握りこんだ拳を差し出してみせた。開いた手にはキーリングに通した三本の鍵が載っている。自宅の鍵、靴箱の鍵、ロッカーの鍵だ。第一理科室の鍵が見あたらない。
 おそろしい想像が脳裏をかすめた。
 学校内でキーリングを取り出す場面はかぎられている。靴箱を開けるときに落としたのならロッカーを開けるときに気づくだろうし、ロッカーを開けるときに落としたのなら教室にいるだれかが拾うだろう。五十嵐が不用意にキーリングを取り出して第一理科室の鍵を落としたとは考えにくい。
 となると、残る可能性はひとつしかない。
「シゲだ……」
 第一理科室の鍵の持ち主を知っているのは、五十嵐本人と、僕と、シゲしかいない。
「シゲを探してくる。きみは鍵を落としそうな場所を探してまわるんだ。二十分後にここに集合しよう。いいね?」
 五十嵐はすっかり気が動転してしまっていて、大仰にうなずき返すばかりだった。僕はいても立ってもいられず走り出した。シゲはまだ校内にいるはずだ。ショートホームルームのあと、いっしょに帰ろうと水野に誘われ、サッカー部の対人練習に助っ人で参加する約束だからと言って断っていた。
 廊下を抜け、階段を駆け降り、一階の正面入口に出る。密会後は中館に直結している二階の渡り廊下を通って帰るのが僕と五十嵐のならわしだった。だけどいまは人目を気にしている余裕なんてない。上履きが汚れるのもかまわずグラウンドに足を踏み入れる。
 サッカー部の練習スペースは中館と北館の角に面していて、僕がいる場所から対角線上にあった。グラウンドの外周に沿ってそこを目指すと、ゴール裏に座りこんで談笑している集団が目についた。ビブスをつけたサッカー部員たちにまぎれて、ひとりだけまっ白なカッターシャツを着ている生徒がいる。
「シゲ!」
「おう、要じゃん。なんだよこわい顔して」
 芝草と土埃を手ではらってシゲが腰を浮かせた。僕は彼の眼前で足を止め、乱れた呼吸を整える。
 ふしぎだ。高一からのつきあいなのに、シゲと真っ向から対峙するのははじめてのような気がする。それどころか、僕たちが対等な友人関係だったことなんてなかったような気さえしてくる。コバに誘われて訪れたカラオケボックスで出会ってから黄昏時の歩道橋で五十嵐のことが好きだと打ち明けられるまで、僕は我知らずシゲの大きな背中を見つめていた。高架下で五十嵐との関係をあばかれた日からは、フェンスにもたれたりわざと席をはずしたりして、繁原勇樹という人間と向きあうのを避けていた。
 もっと早くこうしていればよかった。
「鍵をどこへやった」
「……なんの話だ」
「鍵をどこへやったって聞いてるんだ!」
 校舎の壁面に僕の声が反響する。自分にこんな大声が出せたことに、こんな激情が眠っていたことに驚いた。
 シゲははじめこそ面食らっていたが、すぐにこころの静けさを取り戻したようだった。まんじりともせず僕の視線を受け止めている。
「場所を変えよう。ここじゃ目立ちすぎる」
 我に返り、シゲと談笑していたサッカー部員たちに視線を移す。みな一様に目を白黒させて僕を見上げていた。首のつけ根から恥ずかしさがこみ上げてきて、僕はシゲの背中に隠れるようにしてその場をあとにした。
 北館の校舎を壁伝いに進み、正面入口とは反対側の角を曲がると、サッカー部が荷物置き場にしている裏庭に出る。人通りが少なく、密談にはうってつけだ。スクールバッグと学校名が刺繍されたエナメルバッグが乱雑に散らばるその場所で、僕はあらためてシゲと相対した。
「鍵って五十嵐が持ってた第一理科室の鍵だよな。なにがあった。話してみろ」
 うながされるまま、ことのいきさつをかいつまんでシゲに伝えた。食ってかかったはずが、いつの間にか主導権を握られている。これだから苦手なんだ、彼と向きあうのは。
 シゲは僕が話しおえるのを待って慎重に口を開いた。
「なるほど。要は俺が鍵を盗んだんじゃないかって疑ってるんだな」
「ほかにだれがいるんだよ」
「信用ないんだな、俺」
 突きはなしたような声音が僕をひるませる。しまった。見損なわれた。これ以上感情をぶつければ、きっと取り返しのつかないことになる。だとしても、いまさらあとには引けない。引けるわけがない。
「あたり前だろ。たまたま鍵を拾った? そんな都合のいい話があるかよ。シゲは僕と五十嵐の関係だって知っていたじゃないか。知っていた上で五十嵐に近づいたんだ。そんな人間、どうやって信じろって言うんだ!」
 シゲはつきあいきれないとばかりに肩をすくめ、無警戒に放置されたスクールバッグのひとつを拾い上げた。そしてそれを僕に押しつけ、潔白を示すように両手を挙げた。
「好きなだけ調べろよ。なんなら身体検査もするか?」
「そうさせてもらうよ」
 押しつけられたシゲのスクールバッグを地面に下ろして中身を点検する。彼の堂々とした態度を見ていると自分の考えに自信がなくなってくる。僕と五十嵐の秘密を知っているのは彼しかいないはずなのに、このスクールバッグから第一理科室の鍵は出てこないような気がした。だとしても彼の潔白を認めるわけにはいかない。僕は意固地になっていた。自分がひどく子どもじみたまねをしているように思えて、情けなかった。
 ペンケースもパスケースもスクールバッグの底に転がっていたイヤホンケースも、鍵を隠せそうな場所はくまなく調べた。制服の上からシゲにボディチェックまでした。それでも望んだ成果は上がらなかった。
「気はすんだかよ」
 なにも考えられない。口をつぐんだままシゲに背を向ける。すると肩をつかまれた。
「ひと言あってもいいんじゃないの」
 肩甲骨に温度のない怒りが伝わってきた。強引にシゲの手を振りはらい、南館に向かって歩き出す。彼はもはや僕を引き止めようとはしなかった。
 上履きが砂利を踏みしめる音を聴きながら、僕は体育館で授業中に殴りあいの喧嘩をした男子たちのことを思い出していた。後輩の女子をめぐる対立によって発生した断絶はその後も修復されていない。一方はそれ以前から仲がよかったクラスメイトたちと変わらぬつきあいをしていて、もう一方は自分から彼らと距離を置きべつの集団に接近した。同じクラスにいるのに、ふたりは決してまじわることなく、おたがいに相手をいないものとしてあつかっているかのように見える。
 あのふたりがどんな思いで日々をすごしているのか、どんな思いで残りの高校生活をすごすのか、こころの片隅でずっと気になっていた。
 もうすぐ謎が解ける。

 第一理科室の前に戻ったとたん、全身から力が抜けていった。
 壁に背中を預け、ずるずると床にへたりこむ。頭上の窓から入る日射しが薄暗がりの廊下を額縁みたいに切り取っていた。五十嵐を待つあいだ、そこに映し出された自分の影をぼんやりと見つめていた。
 数分遅れで五十嵐が帰ってきた。立ち上がり、どうだった、と尋ねると、彼女は力なく首を左右に振った。僕の報告にも、そう、と気のない返事をしただけだった。
 五十嵐とならんで壁にもたれかかる。閉ざされたままの第一理科室のドアを前に、僕たちは途方に暮れることしかできなかった。ふたりともほとんど気力が残っていなかった。鍵を捜索していたのは二十分ほどのことなのに、ひと晩かけて長い河を渡ってきたみたいに疲れはてていた。
「あしたまた探そう。時間が経てばこころあたりに気づくかもしれない」
「いいよ、もう」
 虚を突かれて左となりに目をやる。五十嵐の横顔に笑みが浮かんでいた。窓の光に溶けてしまいそうなその笑みは、どこかさびしそうで、ほっとしているようでもあった。
「いつまでも学校の鍵を無断で借りておくわけにもいかないでしょ、最近は第一理科室に幽霊が出るってうわさも立ってるみたいだし。それに鍵が見つかったとしても、私たちはもうもとに戻れない」
 スカートの前で組まれた手が小刻みに震えていた。僕はこわれたものをもとに戻そうと必死に言葉をかき集めた。だけど疲れで鈍った頭は五十嵐にはじめて左手首の傷痕を見せたときのようには働いてくれなかった。
「私はふつうの人間じゃない。手首を切って自分を傷つけていないと、生きていることが苦しいの。そんな私を理解してくれる人がずっとほしかった。同じこころの病気に罹ったたったひとりの理解者さえいれば、私は自分を傷つけずに生きていける。そう思ってた」
 かき集めた言葉が腕の隙間からぽろぽろとこぼれてゆく。僕はまたそれをかき集める。そうしているあいだにも、五十嵐は夏休みから用意していた結末へと向け、ひと言ひと言、絞り出すように言葉を紡いでゆく。
「中原くんになにも求めてなかったわけじゃないよ。嘘でもなんでも、自分を理解してくれる人がそばにいるだけで私は救われてた。だけどきみの気持ちが理解できないんだって言われてからは、それまでよりもっと生きていることが苦しかった。ふつうの恋人同士のような関係を求められるのがこわかった。私はふつうの人間じゃないから、期待に応えられないから」
 左胸にできた生傷が悲鳴を上げている。
 なにか言わなくては。
 不甲斐なくても恥知らずでもいい。早くなにか言わなくては。
 でないと、五十嵐とすごしたきょうまでのいっさいが嘘になってしまう気がした。
「身勝手なのはわかってる。責められてもしかたがないと思う。でも、私」
「五十嵐」
 いまにも泣き声に変わりそうな五十嵐の言葉をさえぎって、僕はようやく口を開く。
 このとき、僕は机に肩肘を立てて手で頭を支えている五十嵐の姿を思い出していた。悩みがあったりストレスが溜まっていたりすると、彼女は自分でもそれと気づかずにそのポーズを取る。ちょっとした癖だ。彼女の部屋の小物入れにはシュシュとブレスレットが一ヶ月日替わりで着用できるくらいあって、とりわけ花のかたちを模したドット柄のシュシュを好んで着用していることも思い出していた。それから、彼女の精神状態は極端で、テンションを示す針がマイナス方向に振れている日はとことん自虐的になる。男に生まれたかったとか、そもそも生まれなきゃよかったとか、奇妙な愚痴が予想もつかないタイミングで飛んでくるから注意が必要だ。なりたい生きものはくらげ。理由は幸せも不幸せもないから。安物の剃刀をお守り代わりに常時携帯していることも忘れてはならない。つくづくおかしな子だ。
 きっと僕はクラスのだれよりも五十嵐すみれという女の子のことを知っている。シゲよりもうんとたくさん、知っている。
 まだまだ知りたい。これだけじゃぜんぜん足りない。
「僕はきみが好きだ。第一理科室で出会う前から好きだった。きみをうしないたくない」
 五十嵐が両手を顔で覆い、糸が切れたみたいに床にくずれ落ちた。
「ごめんなさい。もうおわりにしてください」

       

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