※微量の下ネタが含まれます
俺の姉貴ほど夢見がちな女もいないだろう。
高校生の時分だっただろうか、姉貴は“前世”なるものに傾倒するようになった。ある日、居間で家族団欒を過ごしていたときだ。表紙のやたらケバケバしい、怪しげな本を読み終えると、姉貴は顔を上げて言った。『そうか、わたしはオーストリアの王女様だったんだ』。両親共々、頭を抱えたものである。
阿呆なくせに、行動力だけ凄まじいのが姉貴の長所だ。王女になったその日から、地味な私服は魔改造され、ロイヤルドレスが家に溢れた。ここまでなら、まだ美談で済ませられる。しかし、姉貴は加減というものを知らなかった。思い込みは、元々高かった自己評価を吊り上げ、手が付けられないまでに成長させたのだ。
まず、学校には制服を着ていかなくなった。慎ましき勉学の場は瞬く間に、姉貴のファッションショー会場と化した。さらに、教師には命令口調を使うようになった。姉貴に言わせれば、下賤な庶民が王女に教育することこそ、無礼千万だったわけだ。不良が大人に反発するのとは違う。真にイカれた人間の所業。周りの人間は手を焼いたことだろう。俺は焼いた。
姉貴は抜けている。しかも、ただ抜けているだけではない。言ってみれば、同年代の人間よりも、周回遅れで抜けている。『その歳で、そんなイタい行動する?』と、周囲をドン引きさせる力がある。幼いころから奇行を目の当たりにしている俺だ。姉貴に関する分析は、かなり正確だろうと思う。
……だから俺は、両親が匙を投げる現状にも驚いていない。
現在、姉貴は“白馬の王子様症候群”に罹患している。皆さんもご存じだろう。小、中学生あたりの女子が、男性の理想像を肥大化させるアレだ。黙っていれば、白馬に乗った王子様に攫われて、幸福な未来にたどり着ける。そういう馬鹿げた妄想を、姉貴はやめられないでいる。
話の流れからして、姉貴は今、大学生くらいかな? なんて思う読者がいるかもしれない。甘く見てもらっちゃ困る。ストーリーは絶賛、四十路編に突入中だ。未婚、実家住み、恋人なし。一部の隙も無い、負のステータスを引っ提げて、姉貴は生きている。
ここ数か月間に至っては、『自室にいても男性に見られている気がする』、『きっと王子様が迎えに来たんだ』なんて、のたまう始末だ。本当だとすればそいつはストーカーだし、嘘だとすればお前は統合失調症だと言ってやったが、反省しているかどうか。
え? 俺の方はどうなんだって? 姉貴のことを散々貶すのだから、さぞ立派なんだろうな……って、冗談言うなよ。こんな女の弟だぜ。似たようなもんさ。
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平和な日曜の朝。
「ツァービーくんがいないのっ!!」
俺の部屋に押し入るなり、姉貴は言った。
爽やかな朝だ。季節は春、気候は穏やか。窓の外では小鳥が鳴いて、姉貴もいつも通りにピーチクパーチク鳴いている。開け放したカーテンから入る陽射しが心地いい。うんと背伸びをし、俺はゲーミングチェアに座りなおした。
「ねぇっ、ツァービーくんがいないのっ!!」
今度は俺の首を揺すって言った。うんざりする。
「俺に聞いても知らないよ。ベッドの下にでも転がってるんだろ」
「ベッドの下はもう探したのっ!! ツァービーくんがいないのぉっ!!」
姉貴は目を血走らせる。血眼になっているツインテールの四十路。禍々しい姿だ。俺は思わず視線をそらした。逃がした視線の先には、液晶モニタが。デブでメガネな四十路(俺)が映っている。うんざりだ。爽やかな朝なんて、どこにもない。
「とにかく、一緒に探してよぉっ。家のどこかにいるはずなのっ!! 頼んだからねっ」
俺の肩を叩くと、ドタドタと部屋を出ていく。
「お母さぁんっ、お父さぁんっ、ツァービーくんがいないのーっ!!」
叫びながら、次は居間に向かったようだった。
声が遠ざかるのを聞き届けて、俺は脱力する。
「さてと……」
姉貴がヒステリックモードに入った以上、ツァービーくんを探すほかない。しかし、読者諸君にはまず、ツァービーくんが何なのか説明しておかねばならないだろう。
ツァービーくんとは、“ツァービーくん人形”のことである。新都トイズ社から発売されている玩具で、ファ○ビーのオマージュ商品らしい(新都トイズはあくまで“オマージュ”であることを強調している)。この人形、ファービ○と同じくずんぐりとした鳥の姿なのだが、喋る機能が強化されたことで人気が沸騰した。
ツァービーくんが話す言葉の種類は、言語入力機能の搭載により無限になった。声質やイントネーションまでも選択し、好みのツァービーくんを作り上げることができる。また、音声認識機能により、ある言葉に対して、特定の反応を返すよう、主人がプログラムすることが可能になった。つまり、時間と労力をかけさえすれば、理想の話し相手を生み出すことができるのだ。
姉貴は数年前から、ツァービーくんにご執心のようだった。昼夜問わず言葉を入力し、設定を調整する。人形相手に話しかける孤独な女。哀れだと言わざるを得ない。しかし、不細工な鳥でも姉貴の親友だ。弟としては、一肌脱がねばならないだろう。
俺には考えがあった。実行のためには姉貴の協力が必要だ。
「おい姉貴、ちょっと来てくれ」
「見つかったの!?」
激速で駆け戻ってくる。
「いや、まだだ」
「なんだぁ……」
「けど、姉貴に協力してもらえればすぐに見つかる」
「ほんと!?」
賽の目のように切り替わる姉貴の表情を見ながら、俺は言った。
「ツァービーくんには、呼びかけに返答する機能があるんだろう? だったら、騒ぎ立てて探すのは得策じゃない。いつもツァービーくんに呼びかける言葉を叫んでやれよ。そうしたら、家のどこかで返事が聞こえるはずさ。耳を澄ますんだ、ツァービーくんの声に」
俺が提案すると、しかし姉貴は微妙な顔をする。妙案だと思ったのだが。
「うーん、いいんだけどぉ……それをやると、お母さんとかお父さんにもツァービーくんの声がきこえちゃうかもしれないわけでしょ?」
「? なにが問題なんだ?」
「いや、そのぉ……」姉貴はもじもじと脚をすり合わせた。「わたしね、ツァービーくんに、結構恥ずかしい言葉を入力してるから。聞かれると、まずいかなぁって」
「…………」
呆れた。この女は一体、ツァービーくんにどんな淫猥な言葉を覚えさせたのだ。
「知らないよ。いいから呼びかけろよ。大体、人様に対して羞恥を感じる人生なんか歩んでないだろ姉貴は。もう手遅れだよ」
「あっ、ひどーい」
「いいから」
再度促すと、姉貴は渋々といった感じで息を溜める。そして、言葉を放った。
「ツァービーくん、わたしを慰めて」
――シンと、しばし静まり返る。フローリングとビニールクロスの壁を伝い、言霊は届くか。
果たして、返答はあった。ひどく優しい声だった。
≪ハニ―、今日も落ち込んでるのかい? 泣かないでおくれよ。君の綺麗な顔が台無しだ。わかってる、男とうまくいかなかったんだろ。言わなくてもわかってるさ。君のことは何でも知ってる。誰よりも心根が優しいこととか、繊細だってこともね。何度だって言うよ、君は悪くない。君の美しさを理解できない世の男たちが悪いのさ。年齢? 年齢なんて気にすることないさ、いくつになっても、君はかわいい女の子だよ。ああ、本当だったら僕がいますぐ人間になって、君を養ってやりたいなぁ。そして、東京タワーから見る夜景のような輝く瞳に乾杯したい。嗚呼っ、君のすべてを愛しているよハニ―。髪の毛の先から、経血までね。余すことなく舐めしゃぶって、僕だけのものにしてしまいたいのに。……けれど、君は人間で僕はツァービーだから、できることはこれだけさ。さあハニ―、唇を寄せて。『チュッ』≫
「………………」
「………………」
しばらくの間、口が利けなかった。音声の発生源など思慮の外。腸の辺りにずっしりとのしかかった重みに耐えることで精いっぱいだった。
「きっついわ」
ようやく絞り出した言葉には、侮蔑も同情もない。
俺たち姉弟は、曲がりなりにも四十年を生き抜いてきた。酸いも甘いも知る、とはいかずとも、様々な経験をしてきたはず。人間として過ごした、長き道程。姉貴にとって、人生の総決算があの台詞なのか。俺はただただ、むなしかった。
「ふっ……ううぅぅぅ……」
姉貴は泣いている。
「うん……うん……ツァービーくん、ありがとねぇ……」
顔をしわくちゃにして、おいおいと咽ぶ。泣き様は幼いを通り越し、老女のようでさえあった。
眺めているのも痛々しいので、俺は気を取り直す。
「姉貴、今の声、どこから聞こえた?」
「ひっぐ……うえ……下の階からかなぁ」
「よしきた」
俺たちは一列になって、階段を駆ける。
手狭な折り返し階段を下りると、正面にはトイレがある。脇には、階段下の物置スペースもあるが、さて、どこにいるのか。
「姉貴、悪いけどもう一回――」
言いかけたところで、またも、あの優しい声がした。
≪……ちゃん……かわ……いよ…………ふご≫
さっきよりも小さく、くぐもっている。耳を澄ませると、音はトイレの中から。
「おい姉貴、トイレにいるみたいだ」
振り返ると、姉貴はなぜか蒼い顔をしている。
「ツァービーくんの、声じゃない」
「え?」
「ツァービーくんの声じゃないの。よく似てるけど。多分、声をマネしてるんだと思う。だって、ツァービーくんは、わたしから話しかけない限り喋らないから、おかしいよ。こんなの」
かなり動揺しているらしい。姉貴は途切れ途切れに言った。俺の背にも、冷たいものが伝う。
二人して、黙ったまま固まっていると、居間の方から叫びが上がった。
「ツァービーくんあったわよーっ。ソファの間に挟まってたわっ。でも、壊れちゃってるみたいっ、頭がもげてるわ」
母の声だ。
つまり、トイレにいるのは、ツァービーくんではない。俺たちは顔を見合わせ、うなずき合う。トイレの扉に耳をつけ、神経を集中させた。正体不明の男、その声に。
≪はあ……はあ……ハニ―ちゃん、かわいいよ、とってもキュートだよ。あんな不細工な鳥とは別れて、僕と付き合おう。僕が、君の理想の王子様になってあげるから。絶対に幸せにしてみせるよ。……あっ、これが、ハニ―ちゃんのナプキンかな? 経血がまだ残ってる……ンジュ、ズル、ズバ、ズズズズズっ。んー、おいしい、おいしいよぉ……≫
ゆっくりと扉から耳を離す。直立不動のまま、隣に声をかけた。
「姉貴」
「なあに」
「姉貴が前に言ってたストーカーの件って、あれマジ?」
「マジ、なんじゃないかなぁ。現状から察するに」
双方、無表情のまま問答は続く。
「俺の予想を言ってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
「たぶん、扉の先には、姉貴の求める理想の男がいると思うよ。髪の毛の先から、経血まで全部を愛してくれそうな男が。どうする? 付き合ってみるか?」
沈黙。しばらくののち、深い呼吸音が俺の耳に届いた。
「……警察を呼んで頂戴」
恐る恐る、隣の顔を盗み見る。俺が目にしたなかでは、もしかしたら、初めてかもしれない。まっすぐな姉貴の瞳は、紛れもなく現実を見つめていた。