女を殴らない話
毎日、同じ時間に起きて、毎日同じ妻の顔を見て、毎日同じ朝食を摂り、毎日同じバスと電車に乗って、毎日同じ職場に帰り、毎日終電で帰る。
もちろん、帰りにバスなんて走ってないから、街灯に照らされたかなしいアスファルトをトボトボと踏みしめて一時間かけて帰る。
そっと。
私の世界が壊れないように。
「飯」「風呂」「寝る」しか言わない情けない夫だと、妻はきっと言っているだろう。私にとってはもうそれが日常で、限界なのだ。許しは乞わないけれど、この大きな壁が目の前にあって、それに泣きながらしがみついている今をわかってほしい。
久しぶりに早く仕事を終えた私は、電車を降りたあとバスに乗るのを忘れ、いつもどおりの暗い道を野良猫の冷たい目に晒されながら、トボトボと帰路につく。
ほんのちょっとだけ、ゆっくり休める時間を得た私は、いつもどおりのかなしい道で、とってもおもしろい非日常と出会う。
━━━━覆面男━━━━!
まるで、銀行強盗にこれから行って来ますと言わんばかりの男が、塀の影から髪の長い女子高生の様子を伺っている。女子高生が向かう先には、一般的には少し大きな一軒家。家の前にはトヨタのクラウン。私には買えないそこそこいい車。
普段から、泣きもせず、笑いもしない短調で退屈な私の時間に、ハイテンションで予想のつかないブルースが流れてくる。疲労でしか高ぶらなかった心臓が、大喜びでダンスを始める。
覆面男は塀に張り付いて、肩を上下に揺らせながら何を考えているんだろうか。これから行うことは、空き巣?強盗?強姦?殺人?私にはさっぱりわからないが、興奮して逡巡しているのが、離れた電柱の影から見ていてもわかる。
まるで恋をしているような好奇心。
女子高生が、おそらく彼女の家だろうクラウンのある家の敷地内に入るか入らないかのところで、覆面男は彼女の方に向かって駆け出す。私は早足で彼の行き着く先を見たくて早足で追ってしまう。
私が、彼が隠れていた塀のところに行き着くと同時に
「ダッ!」
っと吐き出すような声が聞こえて、覆面男が笑いながら私の方まで駆けてくる。少年が猫を追いかけるような楽しくて、少しかなしい笑い声。
救急車のサイレンのように、私が隠れる塀を追い越して、どこに向かうか。消えていく。
覆面男の真意は知れない。
ただ、私の足元に落ちていた携帯が、彼の痕跡。
私は、そっと携帯を拾い上げ、そっと女子高生の家の前に置く。
そっと。
そっと。
家に帰ろう。明日の朝は、妻に内緒で朝飯を作ろう。そうしたら私の前のバカバカしい壁もちょっとは削れるかも知れない。少しくらい私の世界が壊れてもそれが再生に繋がらないとは限らないのだから。