約束の地へ
第25話
やっぱり中山はいいなぁ、と朝川はニンマリしながら、競馬場内の電光掲示板に映し出される準メインレース、上総ステークスの結果をいつまでも眺めていた。自身の紙面上の◎▲で決まった上、それがラジオのパドック解説でも強く推奨した二頭でもあったため、会心の手応えなのだった。
これが予想を公開している立場として一番の幸福だなー、と口元を緩ませながら、朝川はメインレースの弥生賞前に勝利の一服を済ませておこうと椅子から立ち上がった。出口に向かうため振り返ったところ、そこによく知る顔があり、朝川の口元は瞬時に引き締まった。
「おめでとう。完璧だったじゃないか」
競馬専門紙『駿馬』における大御所トラックマン、伊藤敏幸その人であった。今では、同じ馬柱の中で対等に予想を掲載する立場ではあるが、今でも朝川は、庄田元編集長とともに師匠筋にあたる伊藤と対面すると、過去の記憶に縛られるかのように萎縮してしまう。この人には一生敵わない、と頭に染み付いてしまっているようだった。
行くか?
伊藤は顎を軽く動かした。喫煙所へ、というサインだった。
「いや、そろそろ弥生賞のパドックですし、やっぱりやめておきます」
「そうか。俺はレース回顧が終わったばかりでちょっと時間が空くんだけどな、仕方ないか」
伊藤さんは、もう全然怖くない。そんな空気は出さない。実際、自分より若手で「伊藤さんが怖い」という人間はいない。
しかし、こればっかりは、実際に体験した人間でないと分からない。駿馬が、競馬界隈が、日本が、今よりもっと熱かった時代。
「しかし、今日の中山の芝は時計が早いな」
「え、あぁ、ええ。エアレーションの効果なのか、先週は差しも決まって時計も遅めだったのが、今になって、時計も早くなり、先行馬が残りやすい馬場に仕上がってきてますね……」
競馬におけるエアレーションとは、走路に細かく穴を開けることにより、地面のクッション性を向上させ、馬場を柔らかくする作業のことを指す。
その効果としては、スピードが出づらくなることによる競走馬の故障の減少が挙げられる。馬にとって走りやすい芝造りにこだわった日本の競馬場は、日本馬のスピードアップにそのまま貢献してきた。だがその反面、自身の『出過ぎる』スピードに耐え切れず、脚を壊してしまう馬も多く出た。その状況を鑑み、編み出されたのが『走りづらい芝造り』であった。
クッションの効いた柔らかな馬場は、それまで硬い芝で能力を発揮してきた馬にとって必ずしも走りやすい場所ではなかった。しかしその一方で、それまでの速い馬場で影が薄くなっていたパワータイプの馬の復権を促した。エアレーションの効果が十分残っている馬場では、スピードを生かし切れない先行馬の成績が落ちる一方で、差し追い込みタイプの後方待機馬が多くの勝利を記録するようになっていたのである。先行馬が苦しんでいるのだから、当然の話ではあるものの。
朝川ももちろんそれは承知で、弥生賞の予想においても先行馬を(元々評判馬がいないことを差し引いても)軽視し、差し追い込み馬から本命対抗を抜擢していたのもあった。ただ、好天のせいか、想像より早く、馬場が固められてきているようだった。何故なら、今日になって、逃げ馬と先行馬がほとんどの芝のレースで勝利しているのである。これは朝川にとっては少々の誤算であった。
「みんな、未だに『冬の中山の芝は若駒に走らせるもんじゃない』と言うが……エアレーションを始めてからの中山は、考えを少し改めなくちゃまずい気がするよな」
「年末の有馬記念から、AJCCあたりまでの芝はさすがに酷使されすぎでキツイと思いますが……東京開催挟んでエアレーションかけた後の中山は、以前ほど辛くはなくなってきている感じが、何となくですけどしますね。もちろん、荒天の年はどうしようもないですけど」
そう言って、朝川は在りし日の中山の芝を懐かしんだ。冬枯れの芝は、ダートコースと見間違うような色をしていたのを覚えていた。今は冬でも芝が青々としていて、馬場整備技術と芝の品質向上に感嘆してしまう。
「しかし、こうなると、弥生賞の買い方が難しいな……」
先行馬有利の馬場になってきたとはいえ、先行馬に実力馬が少ない。とはいえ、馬場傾向そのままに好走する可能性だってなくはない。ファンも判断に悩んでいるのか、午前中よりも若干内枠の先行馬の馬券が売れ始めているようだった。
「買い方はそうですが……少なくともパドックは悩みませんよ。良く見える馬を取り上げるだけですから」
朝川は言って、伊藤に頭を下げて、パドックブースへと向かった。
「朝川」
伊藤に呼ばれて、立ち止まり振り返る。
「…有栖の世話、すまないな。苦労をかける」
そう言った伊藤の顔には、確かに厳しさは微塵もなかった。代わりに、姪っ子を思う優しさがその表情に宿っていた。
「いいえ、全然。とても良い子ですよ! さすが敏幸さんの姪っ子です。俺は、次の駿馬を作っていくのはアリスだと思ってます!」
お世辞だと思われなければいい、と願いながら、朝川は再び歩き出した。お世辞ではない、と伝わって欲しかった。
弥生賞発走十分前。
中山競馬場のターフに出走馬達が馬番号順に入場し、各々のやり方でレース前の足馴らしをしながら、待機場へと向かって行く。
何なんだ、この馬--
この日、マイジャーニーの鞍上を任されたのは、まだデビュー五年目の関東の若武者、榮倉亮治。同期であり、既に関東ナンバーワンジョッキーの座に手が届くところまできている安斎咲太にはかなりの差を付けられているものの、一部の厩舎にはかなり評価されてきている男であった。マイジャーニーの過去二戦の手綱を取っていた紺田忠道は、この馬から降りた。それにはどうやら色々と事情があるらしいが、榮倉はそうしたことにはあまり興味がなかった。
マイジャーニーのことは、紺田からも聞いている。調教師からも、助手からも、厩務員からも、懇意にしているトラックマンからも聞いている。
『大人しくて、ボンヤリしている。だが、何かの拍子に狂気を見せるかもしれない』
大体みんなそう言っていた。確かに当たっている。マイジャーニーは返し馬において、もはや制御不能状態に陥っていた。榮倉の指示を無視して、前の一頭を遮二無二追いかける。
「何かの拍子、って何だ? アイツの、安斎の馬のことか!?」
榮倉は、レースさながらのスピードで駆けるマイジャーニーを止めることは既に諦めていた。頭が良すぎるのか、それとも悪すぎるのか。どちらかは分からないが、コイツは人間の手に負える馬じゃない。そう判断した。だから、任せようと考えた。
「おいマイジャーニー! いいウォーミングアップだな! いいか、アイツはもしかしたらレースでもお前の前にいるかもしれねぇぞ? その時は、今みたいに追いかけて、そして追い抜くんだぞ!」
榮倉の声が聞こえているのかいないのか、マイジャーニーはスピードを緩めた。ザラストホースの前に立ったから、満足したのかもしれなかった。
「…全力でな」
相当な癖馬だ。しかし、だからこそなのか、榮倉は心臓の動きが速くなっていくのを感じていた。この感情は恋に似ているのかもしれない。こんなピュアな恋愛からは、随分長いこと離れているけれども。
こりゃあ、とんでもねぇ馬を任されちまったかもしれねぇ。
榮倉は、ザラストホースの馬上にいる安斎の方を振り返って、軽く手を挙げた。
発走直前、出走各馬は四コーナー出口付近に設置されたスタートゲート付近に集まり、輪乗りの態勢となっていた。概ね馬番順にグルグルと回り続けている。
そして、午後三時四十五分。
ファンファーレが雲一つない快晴の空に響き渡る。その音に反応して、マイジャーニーは首を小刻みに振っている。榮倉はその首をポンポンと叩く。
ファンファーレが鳴り終わると、馬が続々とゲート入りしていく。入りは順調。だが、最後の大外枠、マイジャーニーのゲート入りに時間が掛かっている。周囲を取り囲む緑服のゲート誘導係が必死にお尻を押している。
榮倉も、マイジャーニーの首を押したり、鞭で軽く叩くなどしてゲート入りを促すが、馬の反応は乏しかった。
短時間でも乗っているうちに、榮倉の中の疑問は確信に変わりつつあった。
この馬、恐らくかなり頭がいい。頭がいいからこそ、人間の言うことを鵜呑みにしないんだ。
騎手と係員の焦りもどこ吹く風で、マイジャーニーは離れた中山競馬場の観戦スタンドの方を眺めていた。そして、人間が押す力を一瞬緩めた時、あっさりと自分からゲートに収まっていった。
時間はかかったが、発走準備が整う。ゲートはそれからすぐに開いた。
榮倉とマイジャーニーは、当然のように出負けした。直前の馬と三馬身差程度は開いている。榮倉は脇を見る必要もなく自分達が最後方にいると思っていたが、観客のどよめきに違和感を感じて、内の方に目をやった。
自分達よりさらに遅れて走っていたのは、中団付近につけると考えられていたザラストホースと安斎咲太だったのだった。
予想外の展開のまま、弥生賞は第一コーナーを迎えようとしていた。