Neetel Inside 文芸新都
表紙

さくら、もしくは恋と金玉
まとめて読む

見開き   最大化      


「さくら?」
「え」に濁点がついていた。加藤君の顔がひしゃげていた。私のおマヌケな一言が、手を使わずして加藤君のつやのある可愛い顔をつぶしていた。
「さんきゅうと」
「は」
「3九と」と書くために、加藤君はむずかりながら席を立ち、黒板の近くまで歩いて行った。はじめ「3九と」とだけ書こうとしてチョークを持っていたけど、何やら思案の表情を浮かべて、加藤君は黒板に大きな四角を描いた。手際よく八本その中に線を書き入れて、九等分、さらに線を入れて八十一等分した。
「『と』が逆になっているの。これは『と』。『ら』と間違えないことも無いとは思うけど。でも『3九と』を『さくら』と読む神経はどうかしてる」
 つやのある可愛い顔をした加藤君は私の神経を「どうかしてる」と評した。それは悲しいようで、なぜだか悲しくなかった。加藤君はやっぱり困っていた。

 それから、私はひそかに将棋を勉強し始めた。遊びを勉強するというのはどういうことか、と私は最初、自分のバカらしさに笑ってしまうこともあったのだけど、どうやら将棋はそういう「遊び」では無いようだとわかったのだ。好きな人に気づいて欲しい時は薄めのブックカバーをかけるものだと誰かが言っていたけれど、反対に私のブックカバーは厚くなった。本を開く角度も小さくなった。ただでさえ、文章中にいきなり大きなマス目が出てきたり、「と」やら「角」やらが正位置や逆位置にごちゃごちゃと並んでいれば、ルールを知らないような人でも一瞥するだけでそれと想像がつく。バスで隣に座ったおじさんにニコニコされたくないこの気持ち。カバーをかけずに堂々と「安田流矢倉 五つのルール」なんて読んでる加藤君にはと金のように逆立ちしたってわかるまい。

 加藤君には友達がいなかった。汚かったり臭かったりしないし、ブスでもイケメンでもなかったけど、誰とでも普通に会話ができていたけど、友達がいなかった。友達という距離感が気味悪かったのかも知れない。心理的にむやみに近づこうとしたクラスメイトにはいつも引きつった笑いを浮かべていた。
 だから、学年に体育館が割り当てられていた月曜日と水曜日の昼休み、教室の隅っこに行けば加藤君に会えた。会う、と言っても、同じように本を読むふりをしてちらちらと加藤君を見るだけだったけど。

 にっこり笑ったイラストの羽生さんにどうにかお尻を叩かれて、私はどうにか矢倉囲いを覚えた。ストーブの上で蒸発皿がガタガタと震えていた。雪が降っていた。
 ストーブの横の席だった加藤君はいつもうっすらと汗をかいていた。
「お願い。私と戦って」
帰ろうとした加藤君の若干しめった肩のあたりを叩いて、こう言った気がする。
「たたかう?」
「将棋で……戦って」
今なら「一局指して」とか、そういう気の利いた言い方も思いつくのかも知れない。何を言ってるんだろうか。
「さくらが?」
「お願い。そんで、勝ったら私と付き合って」
「どっちが」
「私が」
「勝てんの?」

 次の日、加藤君のカバンは普段よりもっこりしていた。ストーブの横で、加藤君と一緒にそのもっこりも汗をかいているようだった。私は日本史の教科書に将棋盤を書き、数学のプリントに矢倉までの最短手順を書いた。
「さくら? 何書いてんだバカ」と、先生に怒られたりはしなかった。
 昼休み、私と加藤君は向かい合った。ほとんど誰もいない教室で。4六歩、8四歩、6八銀。相矢倉だ。

 この時間帯、母親が皿洗いそっちのけでカウチポテト的に見る昼ドラのように、相矢倉は泥沼の様相を呈した。お互いに自陣左を守りの拠点とし、右からの攻めを窺いながら歩を突き合う。加藤君は生意気だったけど、言葉ほど強くはなかった。これなら、勝てる--。
 休み時間が終わりかけている。体育館にいた生徒が帰ってくる。加藤君のとなりのガキ大将チックなボンクラ男子も帰ってくる。盤上はねじりあい。角が詰めろをかけられそうだと思って相手の盤上をもう一度見た時、私は気づく。
「金玉だ……」
これを口に出していたら私はティーンエイジャーにして色気狂い。あくまでも心の中でつぶやいた。こちらは詰みが近い。向こうはしぜん玉を強い駒で守りに行く形になる。そこで玉の右に金が動いたのだった。
 きんたま。思春期。キンタマ。将棋では仕方のないこと。金玉。加藤君がいじめられちゃう。きんたま。ガキ大将が隣に座る。
「あ、将棋なんてやってんの」

 私は迷わず桂馬で金を取るボーンヘッド。詰めろなんてかかるはずもなく、そのまま加藤君の金玉、じゃなかった、加藤君の玉は逃げに逃げて入玉。私は一転攻勢にあってそのまま負けてしまった。何じゃそれ。



 春。学年が上がった私は、季節外れの桜が咲く校庭を見ながら、加藤君と一局交えている。感想戦は愛のささやきを兼ねている。と、私は思っている。けれどこの気持ち、カバーをかけずに堂々と「安田流矢倉 五つのルール」なんて読んでる加藤君にはと金のように逆立ちしたってわかるまい。

       

表紙

江口眼鏡 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha