第4章 兄貴曰く「この世界は、ワンダーランドだぜ」
翌日の日曜日。
朝のスーパーヒーロータイムが終わるころ、いつものように俺たち幼馴染がテレビの前でくっちゃべっているところ、ドアチャイムが鳴り、珍しくお客が入って来た、カウンターにいた親父が「いらっしゃい」と言って、老眼鏡越しに客の顔を見る。表情が驚きに変わった。
「健人!健人じゃないか……!」
「にい……ちゃん?」
そこには少し肌寒い朝とはいえ、若干季節外れのトレンチコートにスーツ姿の俺の兄貴の健人が立っていた。
「ただいま」
兄貴は笑顔で俺達を見回した。
「おかえり!」
お袋が嬉しそうに言った。
「さあ、入れ。正月以外に帰って来るなんて、珍しいじゃないか!」
親父も興奮気味だ。
「まさか、あんた……リストラされたんじゃ……」
お袋が不安そうに聞く。
「ちがうよ。たまってた有給休暇消化して、うちで少しのんびりしようと思ったんだよ」
「そうなの。よかった。……あ、朝ご飯は?」
「まだ食べてない」
「じゃあ仕度するね!」
お袋はいそいそと奥の住まいの方へ帰って行った。
「相変わらずだな、諸君!」
と、座っていた寛治と才蔵の肩に手を置き、兄貴は笑う。
「隊長の帰還をお待ちしてました!」
才蔵が敬礼して見せた。
「お帰りなさい、健人さん」
寛治も真似して敬礼する。
「ケン兄、なんかカッコ良くなったぁ!」
凛が少し頬を染めて言う。
「凛もしばらく見ない間に、ちゃんと女の子になってるじゃないか。安心したぞ」
「にいちゃん、どれくらいいられるの?」
「まあ、どうかな。しばらくいるかな……」
「まさかおまえ、本当はリストラなんじゃ……。心配させまいとして……」
親父が心配そうに言う。
「やだな、父さん。休暇だよ」
「健人さんってどこに勤めてるんでしたっけ?」
「EEC」
「あー。駅前留学とかいうアレ……」
「ちょっと違う。環境保全の為の行政法人なんだ」
「へえ」
「俺がいない間、変わったことなかった?」
変わったことはあったけど、取り敢えず言えないよな。
「特に、なし……」
俺はウソを言った。
「そうか、相変わらず彼女もなしか」
「うっせーよ!」
むくれた俺の顔を見て、兄貴は笑った。
こうやって、空白の不在期間はすぐに埋まっていく。
しかし、兄貴の突然の帰郷の訳を、そのとき俺は知る由もなかった。
火曜日は、一時間目から体育だ。俺は、寝坊して遅刻。教室で着替えを終えた時には、皆は既に運動場にいた。体育は部活顧問の番場が担当だ。あの嫌味な調子で説教をたれられるのは、御免こうむりたい。俺は例の力を使うことにした。上靴から運動用のシューズに履き替えると、真下の音楽室が静かなのを確認して、二階の窓から飛び降りた。綺麗に着地。運動場に向かって思いっきり走り出した。皆の姿が目に入ったところで、スピードダウンした。
運動場には、まだ番場先生の姿はなかった。「セーフ!」と思ったそのとき、
「おまえ、遅刻じゃないのか?」
背後から低い声が聞こえた。振り返ると番場先生だった。
「なんだ。おまえか……。名前なんてった?」
「佐藤です」
もしかしたら、さっきの見られてたんじゃあ? と思ったが、番場先生はそれ以上何も言わない。
見られていたわけではないのか……。
体育は、体力テストだった。
「ハンドボール投げ、50メートル走、立ち幅跳びをやるぞ!」
ミチにもらった力を使えば、俺は高校生新記録どころか、世界記録も狙えそうな気がした。と、俺の気持ちを見透かしたかのように、ミチが俺に耳打ちしてきた。
「勇人、力は控えめに使わなくちゃダメだよ。」
「……わかった」
と、言ったものの、控えめは思いっきりより匙加減がわからない……。
あれこれ考えながらハンドボールを投げる。距離は控えめに……。であれば下向きになげればいいんじゃ、と俺の投げたハンドボールは、たった9メートル先に叩きつけられるように地面をえぐって30㎝くらいボールがめり込んだ。
50メートル走は、走り出しは少し本気が出てしまった気がして、スピードを落としたら、11秒を超えてしまって、凛に「なに、ダサ!」と、笑われた。
立ち幅跳びは、本気で飛べば砂場の向こうまでジャンプできそうな気がしたが、控えめに飛んだのが仇になって、たったの1メートル20センチ……。これじゃあ、小学生以下である。俺は砂場の砂を掴み、歯がゆさに悶絶しそうになった。
「佐藤、おまえ! まじめにやれ!もう一回!」
番場先生の怒声が飛んできた。
もう一回助走の為にスタンバろうとする俺にミチが、
「着地する位置をイメージして飛べば大丈夫!」
と小声で囁いた。俺は、うんと頷いて、助走の位置に着いた。
あのあたりなら怪しまれず、まあまあと言う位置に目星をつけ、助走しジャンプした。
「2メートル61」
これならまあまあ……と振り返ると、番場先生がどこか不満気な顔をして、俺を見ていた。
放課後、部室のドアを開けると広瀬菜緒が一人で、部室の拭き掃除をしているではないか……。
「広瀬、掃除しててくれたのか?」
「あ、はい。まだ、なんか少し埃っぽいかなって思って」
「ありがと」
俺はなんだか少しドギマギした。そういえば入部する時に言っていたことが気になっていたのに、皆がいる前ではなんとなく聞きづらくて、聞けないでいたのだ。
今ならそのことを尋ねるチャンスかも知れない。
「広瀬さ、入部する時に言ってた、自分のこと憶えてないかって言ったけど、あれ……」
「ああ、もういいんです。気にしないで下さい。あの、私、布巾洗ってきます」
そう言うと、広瀬は布巾を持って逃げるように部屋を出て行ってしまった。
そう言われると、余計に気になるだろ……。
悶々とした気分を持て余していると、才蔵と寛治それに、祥太郎が部室に入って来た。
「勇人、いたいた。これ見て、ポスター! 部室に貼ろうぜ!」
と才蔵が戦隊ものの映画のポスターを拡げて見せた。
「そうだな……」
気もそぞろで答えながら、また聞きそびれてしまったことが悔やまれた。
「やっぱ、今聞く!」
俺はそう言うと、部室を飛び出した。
「えっ! なにっ?」
「どうした?」
才蔵と寛治の声を背中で聞き流し、俺は広瀬の姿を探した。
校舎脇の洗い場で、広瀬がハンカチで手を拭いていた。俺を見ると、ちょっとびっくりした顔をした。
「あのさ、そのなんていうか、お預けとか、宿題とか、そういうの俺、苦手なんだわ。質問に答えてくんないかな?」
「いいえ、いいんです。ほんとに……」
「どうして?」
「……私にとってどうであれ、先輩にとっては、記憶にあるかどうか、わかんないし」
あの後、自分なりに記憶の倉庫を検索してみたけど、俺には正直思い当たる節は、まるでなかった。もしかしたら、人違いということもある。佐藤なんて名前の人間は沢山いるわけで、事実、同じクラスに他にも佐藤がいたことも3度ばかしあった。
「もしかして、人違いじゃないかと思うんだけど……」
広瀬はハンカチを握りしめたまま、首を横に振った。
「……先輩が憶えてないの、無理もない話なんです。……ずっと、昔の話なんです」
「……昔って?」
「先輩、つつじヶ丘小学校でしたよね」
「そうだけど……」
「私もです。中学校は先輩と違いますけど、小学校は同じでした。」
まさか、小学校のころの話になるとは予想外だった。
「私、……その頃肥満児だったんです。そのせいで、しょっちゅうクラスの男の子たちにからかわれてて……。私が4年生の時でした。放課後、下駄箱で私の靴がなくなっていたんです。家に帰る事も出来なくて、私、下駄箱の前で泣いてたんです。……そしたら、隣の5年生の下駄箱の方から、男の子がやって来て、『どうしたの?』って聞いたんです。私は何も言えなかったけど、男の子たちがイタズラで書いた書置きを見て……」
俺の脳内でも、その記憶が再生され始めた。書置きのメモには『デブ、重いんだよ! クツより』とか、ふざけたことが汚い字で書かれてたっけ……。そして、その太目なおさげの女の子は、しゃくりあげるように泣いていた……。
「『大丈夫! 俺が捜してくる!』って言って、その男の子は、『ヘンシン!』ってポーズ決めて、どっかに飛んでっちゃって……」
あ、それは、間違いなく俺です。俺はちょっと苦笑した。
「でも、ずっと帰ってこないから、もうきっとうちに帰っちゃったんだって、思って。……でも、陽が傾きかけた頃、その男の子が服をいっぱい汚して戻って来たんです」
そう、靴はどこを探しても見つからなくて、やっと見つけたのは、屋外のゴミ箱の中だったのだ。ひどいことしやがるなと、子供心に腹立たしかったのを思い出した。
「『靴、あったよー!』って、凄く嬉しそうな顔をして……。それが、私の初恋の、5年1組佐藤勇人君の思い出です。そのときに名札を見て、一生懸命名前覚えたんですよ。……そして、この間の文化祭のヒーローショーで、6年ぶりにその名前を聞いて、間違いなく、初恋の佐藤勇人くんだと確信しました……」
初恋という言葉にドキッとする。今のは告白なのか……? いやでも、小学校の頃の話だし……。
「……かなり思い出補正されてる気もするけど、ありがと。俺、過去形でもそんなこと、女の子に言われたことないから、な、なんか照れる……」
慣れない状況に、汗すら出てきた……。
「別に、過去形ってわけじゃないですから!」
「えっ?」
そのときだった。上の方でガタッと妙な物音がし、俺は上を見上げた。
「!」
遠くで女子生徒の悲鳴が響き渡る。真上から窓ガラスが落ちてくる! 広瀬が上を見たまま硬直している。俺は咄嗟に広瀬を片腕に引き寄せて、ガラスを避けるように体をすべらした。避けた直後窓ガラスが地面を直撃した。次の瞬間、俺は広瀬の肩を抱いたまま、今度は5メートル先に飛んだ! ガラスの破片が周囲へ飛び散る。ミチにもらった能力のお陰で、俺達は難なくそれを避けることができた。
広瀬は唖然としていた。3階の窓が枠ごと落ちて来たのだった。
「……今のなに?」
「驚いたな。何であんなものが外れるんだ?」
「そうじゃなくて、先輩、……飛んだ」
「あ~~、それ。俺、鍛えてるから。ヒーロー研で!……ハハッ」
笑ってごまかせるのか?
次の瞬間、広瀬が真正面から俺に抱きついた。
「凄いな! 二度も助けられちゃった!」
ここが学校の中庭でなかったら、キスされてたかも知れない。そんな勢いだった。
俺が彼女の背中に手を回すべきかいなか、空中に目をお泳がせていると、渡り廊下に立って俺達を見ているミチが視覚に入った。
「……ミチ」
「……」
なぜか、ミチは何も見なかったかのように、スタスタと歩き出した。
振り返ってミチに気づいた広瀬が「星乃先輩……?」と小首を傾げた。
俺は、「ちょっと、ごめんね」と言って、広瀬から離れる。ミチを追った。
「おい! ちょっと待って、ミチ!」
廊下を立ち止まって、ゆっくり振り返った。
「さっきの、見た?」
「……抱き合ってましたね」
と言ってミチは、少し微笑んだ。なんか、謎の微笑だった。
「そうじゃなくて、俺達の上にガラス窓が降ってきて、俺達、例の力のお陰で怪我しないでいられたんだぜ! もしそうじゃなかったら、今頃どうなってたか。考えるのも恐ろしいよ……」
「そうっだったんですか。……じゃあ、良かった」
「あのさ……なんで、さっき無視したんだよ」
ミチは、少しなにか考えるような顔をして
「……複雑な、……感情」
と、言った。
「どういう意味?」
「……ミチは中性体なので、友人に複雑な感情を持つことがあります」
ミチは、また背中を向け歩き出した。
「おい!」
「今日はもう、帰ります……」
そう言い残して、ミチは去って行ってしまった。
複雑な、感情……。その言葉が、俺の頭の中で繰り返された……。
「……複雑な感情」
背後から女の声がした! てか、俺の背中に背後霊の様にくっついていたのは、矢追!
「おまえー! いつから俺の後ろにいたんだよ!」
「ウフッ、さあいつからかしら? ところで星乃君のちゅうせいたいって何ですの?」
「お前には、関係ないだろ!」
「まあ! 関係ないなんて言ってしまっていいのかしら?」
「なんだよ?」
「あなた、鈍すぎてよ!……星乃君の白い薔薇を背負った、憂いを帯びたような微笑。冷たい床を見つめる長い睫に覆われた琥珀色の瞳。触れたら、一瞬にして割れてしまいそうな繊細な陶磁器のような肩……。あぁ! なんて美しいの、星乃君! あなたは絵本の中から出てきた星の王子様なのね!」
「……」
「あなたここまで言ってわからなかったら、生きてる価値なくってよ。まぁ今日は星乃君に良いもの見せていただきましたから、私は早速帰って作品作りをしますわ。あなたほど暇じゃなくってよ。では、ごきげんよう」
「……」
矢追は時々くっくっと肩を震わせるように歩きながら、姿を消した。
そして、なぜか例の変顔の猫が廊下の窓枠に腰かけ、俺の方を呆れたような顔で見ていた。
ミチとの遭遇
第四章 兄貴曰く「この世界は、ワンダーランドだぜ」
考えなければいけないことが山ほどあるのに、考える材料どれも断片的すぎて、俺の頭のなかでは、何一つうまくまとまらない。そんなジレンマが、俺をモヤモヤさせる。学校帰り、俺は通学路の川岸の土手から河原に降りていって、河原で石を拾った。川に向かって石を投げはじめた。川面で石を何回バウンドさせられるか、昔、兄貴とここで競ったこともあったっけ……。
ミチからもらった力があっても、石投げは力の強さは関係ない。もっと繊細なコントロールの問題だ。それに気付いた。俺は夢中になって石を投げ続けた……。
「おい! 勇人!」
土手の上の方から、声がした。振り返ると、兄貴がスーツ姿で立っていた。兄貴はゆっくりと土手の階段を下りてきた。休暇で帰ってきたはずの兄貴は、なぜかスーツ姿で日中何処へ行くとも告げず、どこかへ出かけ、5時過ぎに家に帰って来る。
「どうしたんだよ、こんなところで……」
「兄ちゃんこそ、休暇なのに、¥スーツで毎日どこ行ってんだよ?」
「おっ? 質問に質問で返して来るとは、ちょこざいな」
兄貴は笑ったが、俺の質問に答える気はなさそうだった。俺はまた、石を拾って川に投げた。
3回バウンドした。
兄貴も石を拾って石を投げた。……4回バウンドした。
「どうだ!」
「石投げ如きで、8歳年下の弟にドヤ顔する兄貴ってどうよ!」
俺は、悔し紛れに言った。
「17も25も、実は大して中身は変わりないのよ、人間」
「じゃ、大人になるって、どういうこと……?」
兄貴はちょっと考えるように、手に取った石を見た。
「……世の中は知らないことだらけだってことに、気付くことかな?」
「えっ? ……どういうこと?」
「わかったような気になって見ていた世界は、実は小さな卵の殻の中でしかなかったってことに気付いていくのが、大人になるってことじゃねーか?」
「なんだそれ?」
「柔軟でいろ、なるべく。……ぽっきり折れないように、柔軟でいろ」
「……兄ちゃん、なんかあったの?」
「この世界は……ワンダーランドだぜ」
兄貴は、俺の顔を見てニッと笑った。兄貴の言うことが俺も少しわかる気がした。ミチと出会ってからの一連の出来事は、俺の世界観を嫌でも壊そうとしているのだから……。
ミチからもらった力があっても、石投げは力の強さは関係ない。もっと繊細なコントロールの問題だ。それに気付いた。俺は夢中になって石を投げ続けた……。
「おい! 勇人!」
土手の上の方から、声がした。振り返ると、兄貴がスーツ姿で立っていた。兄貴はゆっくりと土手の階段を下りてきた。休暇で帰ってきたはずの兄貴は、なぜかスーツ姿で日中何処へ行くとも告げず、どこかへ出かけ、5時過ぎに家に帰って来る。
「どうしたんだよ、こんなところで……」
「兄ちゃんこそ、休暇なのに、¥スーツで毎日どこ行ってんだよ?」
「おっ? 質問に質問で返して来るとは、ちょこざいな」
兄貴は笑ったが、俺の質問に答える気はなさそうだった。俺はまた、石を拾って川に投げた。
3回バウンドした。
兄貴も石を拾って石を投げた。……4回バウンドした。
「どうだ!」
「石投げ如きで、8歳年下の弟にドヤ顔する兄貴ってどうよ!」
俺は、悔し紛れに言った。
「17も25も、実は大して中身は変わりないのよ、人間」
「じゃ、大人になるって、どういうこと……?」
兄貴はちょっと考えるように、手に取った石を見た。
「……世の中は知らないことだらけだってことに、気付くことかな?」
「えっ? ……どういうこと?」
「わかったような気になって見ていた世界は、実は小さな卵の殻の中でしかなかったってことに気付いていくのが、大人になるってことじゃねーか?」
「なんだそれ?」
「柔軟でいろ、なるべく。……ぽっきり折れないように、柔軟でいろ」
「……兄ちゃん、なんかあったの?」
「この世界は……ワンダーランドだぜ」
兄貴は、俺の顔を見てニッと笑った。兄貴の言うことが俺も少しわかる気がした。ミチと出会ってからの一連の出来事は、俺の世界観を嫌でも壊そうとしているのだから……。