世は終末。週末ではなく、終末だ。
見上げた空に広がる曇天と同じくらい、薄暗く息苦しさを覚える灰色の世界。
経済は不景気真っ只中、新たな労働力となる子供も減り、穀を潰すしか能の無いくせに文句と怒鳴り声と痴呆だけはお家芸だと言わんばかりに跋扈する老害は悠長に余生を満喫していく。
何十年も前から続くこの問題は未だ解決の糸口すら見つからず悪化の一途を辿っていた、いわゆる少子高齢化というやつだ。
そんな状況下で、ピチピチの若い健康体などは喉から手が出るほど欲しい労働力。洗脳してでも社畜として飼い慣らしたいと思う者も少なくはないはずだ。
だが汚泥のように濁った暗黒の不景気はそれすら許さない。もしそうでなければ、こんな高卒で社会の右も左もわかっていなかった愚か者が、未だフリーターとして二十歳まできちんとした職に就けていないなどということ、あるわけがない。
溜息を漏らす。幸福がごそっと魂ごと抜けていきそうな、酷く長く深いものに、意図せずなってしまう。
今日も今日とてバイトを終えて、コンビニ袋を片手に帰路を歩く。コンビニ弁当に、ペットボトルのお茶。これに対する様々な感情はとっくの昔にもう失せた。食えりゃいい、腹に入りゃいい。
こんな雑然とした思考で生きている人間は、別に俺一人に限った話じゃない。この世界においてこれは平常運転の証なのだ。
昨日だって飛び降り自殺した男の、潰れたトマトみたいな頭部を歩道で見かけた。無茶苦茶に金切声を絞り出して絶叫していたあの女は、まだ元気な方なのだろう。周囲でその自殺を目の当たりにした人間の半分は驚きと恐怖と混乱を、もう半分は諦念と嘲笑と侮蔑をもってそれを一瞥するのみだった。
繰り返し言おう。終末なのだ、今のこの世は。
人々の活気が失われ、空気は質量を伴って四肢に絡み付き歩行を妨げる。猫背で頭を垂らし歩く人間が惰性で毎日のサイクルを繰り返していくだけの日々。
俺もその一人。
我が居城であるボロアパート一階の部屋前に辿り着き、鍵をドアノブの穴に差し込んで気付く、開いていたのだ。
ついに施錠すら億劫になって閉め忘れたか。どうせ盗られて困るもんなんてありゃしないが。
中の様子すら確かめずドアを開けて中へ。弁当食って歯を磨いて、さっさと寝よう。明日も夜遅くから仕事だ。今の内に寝溜めておかねば。
「おかえりなさい」
玄関で靴を脱ぎながら、掛けられた女性の声に思考を僅か回転させる。
この俺に、二十年自堕落に生きて来たこの俺に、当然ながら彼女などというものは存在しなかった。友人はいるにはいるが、俺の生活を知っている友人は仕事上がりで疲れた状態を承知した上で勝手に家へ上がり込むような非常識な人間ではない。それはこの暗澹たる世の中にあっても変わらず信じられる数少ない事柄の一つでもある。
「
「…誰だ、アンタは」
「まことに、ええまことに。大変おめでたいことでございます。お喜びを、石動堅悟様」
聞いちゃいねえときた。
なんだかよくわからないが、面倒な女が居間の黄ばんだ畳の上で律儀に正座なんかして座っていた。どこから出したのか、急須で湯呑に注いだ茶なんぞ啜ってやがる。人ん家でこれだけくつろげるってのも、まあたいした根性だ。嫌いじゃない。この人ん家が俺のじゃなかったらな。
「あなたを、臨時雇いの英雄として採用することが決まりました」
女は座ったまま何かの書類をちゃぶ台の上にそっと置いた。仕事帰りで薄汚れた俺の風体では違い、女は清潔感溢れる恰好であった。
ぴっちりとしたリクルートスーツを違和感なく着こなし、邪魔にならないようにか髪は後ろで束ねてある。四角い縁のメガネから覗く眼光にはどんな相手であっても契約を取り付けてきそうな気迫が満ち満ちている。バリバリ最強キャリアウーマンがそこにいた。実際何をしている女なのかはさっぱりだったが。
そうして、デキる女だと一目でわかる女性が、無機質な機械音声みたいに抑揚なく放った言葉の意味を、俺はどうやっても呑み込むことが出来ずにいた。
今、この女はなんて言った?
「報酬は弾みます。しかしあくまでアルバイト。あなたのこなす英雄はインスタントなものであって、おまけに履歴書にも書けないちょっと特殊なお仕事です。が、報酬は弾みます」
違う、そうじゃない。
女は呑み込めていない俺の様子を悟ったらしいが、方向性が違う。内容に関して疑問を持ったわけではなく、『臨時雇いの英雄』自体が意味不明なだけなんだ。
「我らが主たる神は、あなたのような人間にこそ、英雄たる資格があると判断されました。言ってしまえば、これは王命ならぬ神命。平伏し有り難く頂戴すべき絶対遵守の使命なれば」
まるでこっちの反応を意に介さない物言いで女は続ける。ヤバいな、まさかコイツも世紀末ばりに落ちぶれた世の瘴気に当てられたクチか。見た目からはとてもそうは思えなかったが。
もうまともな対話を早々に諦め、俺はひとまず話だけでも合わせることにした。
「ハッ、そりゃすげえ。じゃあお前は詰まるところ神の御使い、天使様ってことかい」
「…ほう」
メガネの奥の鋭く細められていた両眼が一瞬丸くなり、すぐさま元に戻る。
「さすが、英雄たる資格は伊達ではないということですか。外見は人間とそう大差ないはずなのですが。こんなに早く見破られてしまうとは些か驚きです」
「あん?」
女が不意に立ち上がる。日当たりの悪いこの部屋に入って来る光など、曇天の影響も相まって微々たるものだった。
しかし、締め切ったカーテンの隙間から洩れる僅かな光が小さな粒子のようになって女へ集まり出したのを見て、俺はたまらず目を見開いた。
何かが起きている。常識では理解できない、人智を越えた超常の現象が。
「少し、見えやすくしてみましたが。いかがでしょうか」
周囲の光を取り込んで、やがて女の身体に変化が現れた。光の粒子は女の背中で形を整えていき、羽らしき形状を構成していた。
光の集合体ではっきりとは見えないが、羽毛の翼のように見えた。それこそまさに、
「……天使」
「ええ、先程からのお察しの通り」
よくよく目を凝らしてみれば、女の頭頂部にも何やら輪っかのようなものが、光の加減によって薄っすらと見えたり見えなかったりしている。
(マジ、かよ…。なんの冗談だこりゃ)
「今一度、あなたに告げます」
押し隠しきれない動揺を必至に留めながら、俺は眼前の神々しい翼から放たれる後光に照らされる女の言葉を聞く。
「神命に基づき、この地を侵す悪魔を滅しなさい。待つのではなく、あなたが成りなさい。功績も実績もない、栄誉も名誉も存在しない、正規でも公式でもない無名の
この言葉に、この状況に。
ぶっちゃけ言おう、俺は酔っていた。
だってそうだろう?神に選ばれた、悪魔を滅す、英雄。
これほど胸が高鳴るワードを立て続けに出されて、ワクワクしない男の子なんて存在しねえよ。
ましてや俺は、高校を出てからさほど経っていない、いわばまだファンタジーやサイエンス・フィクションが大好きな若者だったんだ。
だからまあ、仕方がないんだ。これは誰に責められるようなもんでもない、ある意味必然と取ってもいいくらいの予定調和じみた結果だったんだ。
そう、一言で言い表すのなら、きっとこうなる。
第一話 手取り月収14万の俺が何の因果か英雄と呼ばれるようになった結果