堅悟は残ったスーパードライの500ミリ缶ビールを飲みながら、ハイライトを吹かせていた。
とりあえず忘れたかった。酒や煙草で気を紛らわせて落ち着きたかったが、様々な者たちからの様々な思惑が頭の中を駆け巡り、便器にこびりついた糞のようにしつこく張り付いている。彼が便器掃除をするようなタイプに見えないのは賢明なる読者諸君もご存知の通りであり、普段からろくに手入れもされていないため、第十一話までの怒涛の展開に処理が追い付かず、ムーンライト伝説ばりに思考回路はショート寸前だった。
「俺はどうしたらいい?」
と、翼ちゃんに聞いても答えは出ないのは分かっていても、思わずそう呟きたくもなる。
ゴーストバスターズ。
準悪魔の穏健派、過激派、反逆軍といった様々な派閥。
そして「天使と悪魔の戦いを終わらせる」と言っていたカイザー。
世の中、堅悟のあずかり知らぬところで様々な動きがあるらしい。
まったく訳の分からないことだらけだ。
分からないと言えば、目の前ですやすやと寝息を立てている佐奈のことも分からない。
彼女の胸がDカップなのか、それともEカップなのか。
「ううーん…」
寝返りをうつ佐奈が、無防備に仰向けに寝転がる。
たゆんと響く肉の荒波。
でかい。
3.11ばりにでかい。
しかもまさかのノーブラ…!
(ううむ、これは少なくともD以上は確実なところだ)
激しい戦闘から辛うじて生き延びた高揚感からか、種の生存本能からか、堅悟の暴力的なまでに溢れ出る
その美味そうな肉をまさに鷲掴みにしそうに……というところで、土俵際で堅悟の理性がうっちゃり、がっぷり寄り切ろうとした情欲を押し戻しました。おおっと、これは大番狂わせですね。デーモン閣下!
ちらりと堅悟が後ろを振り返ると、冷たい視線を向ける翼がいた。
「堅悟様」
翼は冷たい視線のまま呟く。
「天界の枷を断ち切られた私には、もう以前のような心を読んだり姿を消すような力はありません」
「あ、そうなの?」
「その代わり、英雄や悪魔へも干渉…つまり、殴れるようになりました」
「え?」
「お望みとあらば…こう、ばちーん!とひっぱたけますよ」
「そりゃ痛そうだ」
「ええ。女性の敵には特に容赦なくばちーん!としますから」
「へいへい」
堅悟は手をぷらぷらとさせ、佐奈の胸を揉みしだくのを諦めた。
「よろしい」
うんうんと頷く翼は、実はちょっとほっとしていた。
天使というのは父なる神の手から生まれるので、生殖行為といったものは必要ない。ゆえの無性だったが、見た目だけは個々の天使により男っぽかったり女っぽかったりする。翼は女性的な容姿なので、任務に忠実なクールビューティーとして感情を露わにしないよう装っていたが、内面はかなり繊細というか女性的で、堕天してからは更に強く女性を意識していたのだ。
(私もどうしたらいいのか…)
翼もまた、思い悩んでいた。
堅悟の
それから解き放たれた今、かといって天使としての生き方しか知らなかった身にとり、今さら人間として生きろと言われてもどうしたらいいのか分からない。天使でもない。人間でもない。天使としての魔力を備えたまま自由だけを得た元天使。
(そういえば、数百年前、今の私と同じような身になったという元天使がいたような……確か、力天使で……名前はウリエル様。あの御方は今どこで何をしておられるのだろうか)
まさか近所のスーパーで週5フルタイムで働いていたりはしないだろうが。
「さて」
堅悟がくしゃりとハイライトの包みを握りしめる。もう酒も煙草も尽きたが、頭の中の悩みは尽きない。
「今後の身の振り方をどうするか、一度しっかり考えねぇとな……」
堅悟がそう呟くのを、翼もこくこくと頷く。
「それなら! 丁度いい相談相手がいるよ!」
「うおっ」
突拍子無く──。
いきなり明るい声を掛けられ、堅悟と翼は驚かされる。
酔い潰れていたはずの佐奈がケロッとした顔で起きていた。
「ふふーん。飲み会慣れしたイマドキのJDを甘く見ないで欲しいね。飲みサーの猛攻も跳ね返してきた鉄の胃袋は、この程度のアルコールじゃ潰れないのさ! 仮面ライダーが話しにくそうにしていたから寝たふりをしていたんだけど……。いや~~堅悟君が私のおっぱい揉みそうになってた時は引っぱたきそうになるのを笑いをこらえながら我慢していたよ(笑)でも、しっかり聞かせてもらったからね! なになに、あの超面白そうな話は! まさかあの仮面ライダー自身がUMAみたいな存在だったとは! 堅悟君もそうなんだね!? いやぁ、天使だの悪魔だの、うちの編集長が聞いたら喜ぶだろうなぁー! あ、その相談相手ってのがうちの三文オカルト雑誌の編集長をしている阿武さんってオジサンなんだけど、この人が中々良い目のつけどころをしていて───」
おっぱい揉もうとしていたところまで気づかれていて、気まずいやらなんやら。
一分間で数百発も撃てる機関銃でも何千何万発と撃てば銃身も焼き付くが、佐奈の
堅悟と翼はなすすべなく撃ち抜かれるままで、何か返事をする暇も与えられない。
佐奈は話の途中にもスマホを取り出してどこかに電話したかと思えば、すぐにその阿武某というオカルト雑誌の編集長に会う段取りまでつけてしまった。この安アパートの場所もただちに伝えられてしまい、阿武某とやらも深夜だというのにすぐに駆けつけてくるというではないか。
「……何てやつだ」
ますますややこしいことになりそうだが、佐奈はカイザーと堅悟の会話をスマホで録音しており、逃げ場はなかった。
「まぁまぁ、本当に阿武さん頼りになるんすよ! 騙されたと思って相談してみましょーよ!」
にこにこと無害そうに笑う佐奈に、堅悟は深々と溜息をつく。
やっぱりこいつ、苦手だ…。
斯くして、堅悟の借りたばかりの安アパートには、深夜にも関わらず三人目の客を招くこととなる。
名前と酒だけは強そうだが…。47才、眼鏡をかけて頭髪もだが幸も薄そうな顔つきをしたひょろりとした痩躯。左手薬指に結婚指輪をしているが、ヨレヨレのスーツはまったくアイロンの形跡がなく、いかにも生活に疲れきったサラリーマンというか、恐らく恐妻家ではないかと思われる。こんな深夜までスーツ着て仕事していることからもブラック勤めが予想され、実にお疲れ様ですといったところだ。
「ふぅん……なるほどねぇ……」
佐奈のマシンガントークによる天使と悪魔の抗争がこの町で行われている!という、実に荒唐無稽か誇大妄想の極みのような状況説明に対し、阿武はうんうんともっともらしく頷きながら静かに聞いていた。
(本当に分かってんのかこのオッサン)
と、当事者の堅悟でも思うし、傍から聞けばやはり現実味の薄い話だ。信用されなければそれはそれでいい。佐奈が相手にされずこの話はおしまいになり、そろそろ夜も更けてきたことだし、色々ありすぎて今夜は疲れた。もう休ませてもらいたいところだと考えていたのだが。
「そりゃあ大変だったね。堅悟くんとやら? 実は……何を隠そう、この僕も元は非正規英雄だったんだけどねぇ」
さらりと驚くべき事を言われる。
曰く、阿武さんの人生もまた壮絶なものであった。
見た目通り、中小企業に勤める冴えないサラリーマンだった阿武さんだが、会社の稼ぎだけでは家族を養うのが大変だということで、会社に内緒の副業としてコンビニバイトを始めたのだという。それも世間は狭いもので、時期は違っていたが堅悟や佐奈と同じコンビニで働いていた。
マイホームのローンは地獄の35年で定年まで働いてもまだ先がある。妻は家でごろごろしているだけの専業主婦。中学生の息子は反抗期で悪い友達と毎晩のように出歩いていて家に寄り付かない。会社では営業成績が振るわず上司に詰められ、薄給でサービス残業の日々。
そんな中、糊口をしのごうと始めた深夜のコンビニバイトで、ヤンキーどもが煙草を買いに来ていた。明らかに未成年であり、売るわけにはかない。反抗期の息子の顔がちらついた。このヤンキーを息子と思えと、阿武さんの正義の心が囁いた。
「───ね、年齢を確認できる身分証をご提示頂けないなら、お売りできません。君たち、見たところ中学生ぐらいだろう? こんな時間に出歩いて、親は何も言わないのか!」
喧嘩を売られたことはあれど売ったことはない。
だがその言葉はヤンキーどもには煙草ではなく喧嘩を売ったと認識される。
恫喝され、ごつんと殴られ、それでも必死に首を振る阿武さん。
やがてコンビニオーナーが警察を呼んでくれて事なきを得て…。
災難が去り、正義を守った阿武さんに、例のごとく天使がスカウトに来た。
「それでね、コンビニバイトを辞めて、英雄というバイトを始めた訳だけど───」
残念ながら、アーティファクトを得ても阿武さんの対準悪魔討伐件数は芳しいものではなかった。
当然のごとく、担当天使に「何やってんですか」と詰められる。
もっと討伐件数稼いでくださいよ。
今月あと何体の準悪魔を倒すんですか?と。
「そこで気づいたんだね。英雄といっても天使株式会社の歯車なんだなぁと。正義といってもそれは天使側の正義であって、私にはちっとも合わないなと」
何もかもが馬鹿らしくなった阿武さんは、英雄を引退することにした。
英雄を引退する場合、与えられたアーティファクトを天使に返上しなければならないルールがある。
が、阿武さんの担当天使は割と怠慢だったらしく、阿武さんも成績が芳しくないので監視が緩かった。
「……あ、話が長くなっちゃったね。ごめんごめん。そこのコンビニで缶ビール買ってきたんで飲もうか? 佐奈ちゃんも、堅悟君も、一本どう?」
「お、話せるねオジサン」
「いただきまーす」
プシュ、とプルタブを開ける音が三つ。
酒も入り、阿武さんの話はまだまだ続いた。
アーティファクトを預かってくれる人物がいるらしい。それも人間で。
苦労して調べた末に、阿武さんはその人物にアーティファクトを預けてしまう。
おかげでいざとなれば戦えるという含みを持たせたまま、天使たちと決別することができたという。
「僕が引退するって言った時、もうアーティファクトは無いよって知った時の担当天使の顔って言ったらなかったね! 傑作だったよ。あれはスカッとしたなぁ」
「やるねぇ、オジサン」
「ハハハハハハハハ」
どことなく、その笑い方がカイザーに似ているな、と堅悟は思う。
なぜだろう。元精神科医でエリートっぽい身のこなしの海座弓彦と、うだつの上がらないサラリーマンの阿武熊五郎。どこにも接点は無い筈だが、どことなく似た雰囲気があった。
天使と悪魔の戦いを止めようとしているカイザー。
天使と悪魔の戦いを馬鹿らしいと投げ出した阿武さん。
ある種、両者は似ているのかもしれない。
「その後、僕は会社も辞めた。とんでもないブラック会社だから元々辞めたくてしょうがなかったしね。それにアーティファクトを手放したといっても、少なからず魔力は体に残っていた。天使と悪魔の戦いがあれば、その魔力を察知することができるし、観測できる。それを活かしてオカルト雑誌の出版社に転職したのさ。それで色々と面白い記事を書くことができて、半年と経たず編集長になった。まぁ、小さな出版社だから給料は前職に比べてもそんなに増えた訳じゃないけどね、楽しく仕事をやれているよ」
「なるほど……」
堅悟は大いに共感した。
そういう生き方もいいな、と。
「堅悟君、どうかな?」
「え?」
阿武さんは穏やかに笑う。
「君も、英雄なんて引退しちゃって、僕と一緒にオカルト雑誌の編集者にならないか? 僕でもやれたんだ。君だってやれるさ」
阿武さんの牛乳瓶のような眼鏡の奥がきらりと光った気がした。