勇者ナックルのその一言で宿は静まり返った。
ジンジンジンジンジン。
痛いほどの沈黙。
誰も一言も発しない。
当のナックルも口をつぐんだまま、じっと目を伏せている。
じんじんじんじんじん。
耳鳴りが聞こえる。
いや、耳鳴りはホントはいつも聞こえているんだ。
ただ静かになると、その存在が際立つだけ……。
金髪の少女メリックは、ふとそんな場違いなことを考えた。
「ナ、ナックル……なにわけわかんないこと言ってんだよ……」
替えたばかりランプの蝋燭が半分ほどの長さになった頃、ようやく坊主頭の僧侶、パンチがかすれた声を出した。
「魔王のスパイなんて……いるわけないだろ……わっけわかんね……俺たちもう2年もいっしょに旅してきてんだぞ……」
口がカラカラに乾いている。カラッカラに乾いている。
それは鱗肌に頑強な角を持つちょっと変わった風貌の戦士、ブルータスも同じだった。
「パ、パンチの言うとおりだぜ、ナックル。俺たちは2年前のあの日、魔王を倒すと誓って以来、ずっと艱難辛苦を共にしてきた戦友だろ……?」
言いながらブルータスは妙な達成感を味わっていた。
(艱難辛苦――よくとっさにこれが出てきたものだ……)
彼は会話のなかでごく自然にむつかしい言葉を使える人間に、ずっとなりたかったのだ……。
「だっておかしいじゃないか」
平和なパーティーに爆弾を投じた張本人のナックルもようやく口を開いた。
「このところあきらかに、伏兵(アンブッシュ)との遭遇が多過ぎる。
俺たちの行進ルートが、魔物側に漏れてるとしか思えないんだよ」
「だ、だからって、仲間を疑うなんて……っ」
金髪少女メリックはもう泣きそうだった。
彼女は大抵の女の子がそうであるように、誰よりもなによりもパーティーの空気を重んじる。
「ね、ね、ナックル。もうやめよ? こんな話。いるわけないじゃん、そんな、ス、スパイなんて……」
正直、彼女にとっては、パーティーに魔王の手下が混ざっているかどうかすらどうでもいいことなのだ。
彼女の願いはただ一つ――ギクシャクすることなく、このまま旅を続けたい。
たとえその先に死が待っているとしても、疑心暗鬼を、重い空気をひきずったまま旅するのだけは、彼女は絶対にイヤだった。
それだけはマジ勘弁なのだ。
「いいや、やめないね」
ナックルは容赦しない。
女子に嫌われるタイプである。
「これは命に係わる問題なんだぜ、メリック。パーティーにスパイを抱えたまま旅をするなんて、ウンコを我慢して電車に乗るようなもんさ。
いつか取り返しのつかないことになることは、目に見えてる……。死ぬぜ、全員」
この世界に電車などない。
つくづく空気の読めない男である。
「お、お前、もしかして死ぬのが怖いのかよ。2年前のあの日、俺たちは死をも覚悟して旅に出たはずだろ……?」
鱗肌ツノ生え人間ブルータスは、さすが詭弁の達人。ナックルのプライドを刺激して丸め込みにかかった。
だがナックルはくじけない。
「いや? 俺は志半ばで死ぬのは一向に構わんぜ。だが俺は、右手に消火器を握りしめているのに、目の前の炎を消さずに焼け死ぬのはゴメンだと言っているんだ」
消火器も、この世界にはもちろんない。
ホントしんでほしい、ナックル。
「そうさ、俺はホント、そんな死に様はゴメンなんだ…………ところでさっきからずいぶん静かだな、パンチ」
「!?」
突然矛先を向けられて、パンチの光る坊主頭がぴくんと震えた。
「おしゃべりなお前がこんなに話さないなんて珍しいじゃないか……汗もすごいし、どうしたよ? なにか不安なことでもあるのか?」
完全に疑われている――
パンチはがたがた震えだした。
実のところ、パンチは魔王のスパイなどではない。
だが彼は、一度こうして人に疑いを向けられると、どうしようもなくあやしい言動になってしまう、そんなタイプの人間だった。
そしてそのあやしさを自分でも自覚して、さらに焦ってあやしい行動をとってしまうという悪循環……。
深夜の職務質問ならまだいいだろう。
だが、今この場において、彼のその性質は死に直結する問題であった。
「う、うぉっ、俺は犯人じゃにぇえ!?」
噛んだ。
もはや怪しさ満点である。
「ほ、ホントだ! デウスに誓って、ホントだ! だ、大体、見るからに魔獣っぽい風貌のブルータスの方が怪しいじゃねぇかよ! 体質だ体質だって言ってるけど、ホントは魔物なんじゃねーかコイツ!?」
言い切ってしまってからパンチははっとした。
だがもう遅い。
「ひでぇ、ひでぇよ……俺はたしかに魔物っぽいツラしてるよ……。人間なのになぜか鱗とか角とかあるし、瘴気の中でも平気で歩けるし、神殿とか聖域に近づくとダメージを受けちまうし、おかしな体質だらけだよ……。
それでいままで辛い思いもしてきたさ……けど、けどよぉ、まさか仲間にまでそれを言われちまうなんてなぁ……こんなに辛いことは、これまでだって、なかったよ……つれぇよ、つれぇよぉ……」
オイオイオイオイ。男泣きである。
パンチは撤回しようにも、何を言ったらよいのかわからず焦ってあたふたするばかり。
ふと目を挙げると、ナックルとメリックの氷のような視線。
「ひどいよパンチ……ブルータスが、この体質のせいで、今までどれだけ酷い目にあったか、知ってるでしょ? それなのに……、ひどいよ」
パンチは何も言えない。
彼はこういう四面楚歌の状況になると、何かを言おうにも喉に言葉がつっかかって一言も出ない。
それがパンチという人間なのだ。
彼は助けを求めるようにナックルを見た。
ナックルは何も言わない。
だが、その眼は口よりも雄弁に彼の心を映し出していた。
〝決まりだな〟
ナックルの瞳はそう言っていた。
そして彼は瞳に映した心を、ゆっくりと音に移し替える。
あたかも念を押すように。
「パンチ、お前が魔王のスパイかどうかは、今この場で証明する手段がない。だからお前を【勇者法】に則って、この場で処刑することはできない……」
【勇者法】には裏切り者であることが証明されたメンバーを、パーティーのリーダーの判断で処刑することができると明記されている。
ちなみにこの【勇者法】というのはかなりはちゃめちゃな法律で、民家のタンスを勝手に開けてよし、家財(壺など割れやすいものに限る)も勝手に破壊してよしと、やりたい放題が書かれており、市民の評判はかなり悪い。
「……だがな、自分が疑われたからと言って、仲間の心を平気で踏みにじるような奴とは、俺は一緒に旅をしたくない。お前はこの町に置いていく。パーティーはクビだ」
パンチはがたがた震えだした。
顔の穴という穴から体液が垂れ流している。
どこか下の方から、アンモニア臭が漂ってきて、マイクの鼻の奥を刺激した。
「メ、メリック……」
メリックはふいと顔をそらした。
「ブ、ブルータス……」
ブルータスは鱗だらけの背を向けて、顔を伏せたままだ。
泣いているのか……肩をブルブルふるわせている。
「ナ、ナックルゥ……」
パンチはふたたび最高裁決定を下した判事に向き直った。
まるでそうすれば判決が覆るかと思っているかのようだった。
「パンチ……ここは 俺 た ち が 予約した宿なんだぜ?」
これはもはや死刑宣告だった。
パンチは震えながら三人に背を向け、よたよたと死にかけの老鹿のような足取りで歩きだした。
部屋の戸をくぐる直前、一度だけ、彼は一度だけ、ちらと首だけで後ろを振り返った。
だがそこでは、7つの絶対零度の瞳が、その冷たい眼光で彼の退路を凍らせているだけだった。
あ、書き忘れていたが、ブルータスの目は三つある。