都市を飾る喧騒と雑踏が、人々から伸びる影とシルエットが、太陽を覆う灰色の積乱雲が、ボリュームを下げて急激に遠ざかっていくのが感じられた。
心臓に核のようなものがあって、それが内側からひだを伸ばし私を小さく圧縮して一握りの肉塊にでもしようというのか、波濤が押し寄せたかのように現実の感覚が足元から揺らぎ、唯一人私はここに立っているんだということを思い知らせてきていた。
――――――雛子は幼馴染で、私たちがまだ善悪の区別もつかなかった幼い頃からその利発さとは裏腹に思ったことを忌憚なく言う性格だった。
口に戸が立てられないと、大人たちは雛子の前では噂話の一つもしないようにいつも気を使っていた。
雛子がうちに遊びに来ると決まって猛獣を厳重に檻の中で仕舞っておくみたく私たちは二階の自室に追いやられた。自分で望んで欲しがったものなんて数えるほどしかない狭い空間の中、私たちは顔を突き合わせて花と花とを飛び回る蝶が生命の神秘を運ぶみたいに、沢山の秘密を交換しあっていた。
―――私が父親と血の繋がりがないこと。
―――雛子が産まれる前に両親は彼女をおろそうとしてそれを彼女の祖母が止めたこと。
―――小さい頃飼ってた犬が犬小屋に押し込められているのが不憫で夜中にそっと散歩にでかけられるようにとちゃんと朝には帰ってくるんだよと言い添えて首輪を外してやったら、数日後に車に轢かれて冷たくなって帰ってきたこと。
―――何が原因で混線したのか、祖母が雛子の好物だと勘違いし(本当はゲロが出るほど嫌いだった)弁当に明太子を入れてくれること
私たちはそうやって、日毎に密な分子配列の結晶物を作り出すように、沢山のモノとコトを交わし、奪い、抱きしめあっていた。
「神様が私を被写体に選んで、私以外の全てのピントをぼやかしてるんだ、きっと」
ある日の事、私がそう吐露すると、雛子は「それって、離人症じゃない?」と言った。
今思うと彼女自身も私と同じ苦悩に苛まれ、どこかしらなにかしら、普通なら私たちの小さい背丈からは届かない高さの場所からそれを探し当て見つけてきてくれたんだと、それから随分と経ってからの事だが思い当たった。ただ単にその時は、救われた。と思ったのを覚えている。――――――
「裸足」
後ろから声がした、振り向くと雛子が私の靴を持って近づいてきていた。
「全部めちゃくちゃにしてやろうって言ったのはアンタの方からだったんじゃないの?」
「うん。そうだった」
中学の同級生に嫌な奴がいた、私たち二人ともそいつの事が嫌いだった。そいつは十年ぶりに、駅のホームで見かけた私に惚れて、顔の広い雛子を通じて同窓会という名目で私を呼び出したのだ。
私たちは飲みの席で下品な冗談や質の悪いパフォーマンスを繰り返した。ふと、そんな自分に嫌気がさした、本当ならあいつだけに的を絞って見せてやるべきショーだったはずなのに気が付いたら、周り中のみんなを観客に巻き込んでみんなは冷や水をかけられたみたいにたじろいでいた。
ほら戻るよと言って、私の手を取って雛子は歩き始めた。
肩まで伸ばしたサラサラとした茶色をした髪の毛が揺れているのをぼうっとして眺めていた。
喧騒と雑踏が、綿あめを丸く整えるようにゆっくりと再び着地点を私に決めて、調子を取り戻していくのが感じられた。もしかしたら、雛子は私の事なら全部わかっているのかもしれない。そう考えるのは甘えかもしれないが、私は彼女にだけ、もしも彼女の水晶体にだけしか自分が認識されなくなったとしても、寧ろその方が良いと思った。彼女が神様だったら私は彼女だけの被写体になりたい。
彼女の冷たい手の平が私の冷たい手の平と合わさって言葉には出来ない秘密を交わしあっていた。