一枚絵文章化企画2017
「たぶんそれは百合の花」作:のば 0327 21:22
染めようと思ったことなんて、一度もないんだろうな――と。
授業中、神田のつやつやした黒髪が目に入るたび、笹倉はそう思っていた。
一度、聞いてみたこともある。
「あんたさ。おでこ出してみようとか、思ったことある?」
「おでこ……? 出す……?」
神田の額は黒々とした前髪でほぼ完全に覆われていた。茶色に染めた前髪を分け、でこ出しにした笹倉の髪型とは対照的である。
言われた神田は、前髪ごと額を両手で押さえる。しばらく首をかしげてから、思いついたように言った。
「キノピオみたいな?」
「は? キノピオ?」
「あれ、どっちだったっけ。鼻伸びる人」
「……ピノキオって言いたいの?」
「そうそれ。おでこ出すって、あれかな? ピノキオみたいに、ぐーんと、おでこが伸びるっていう」
「なに言ってんの?」
こいつとは、会話がかみ合わない――いつものことではあるが、笹倉はうんざりとした気持ちになった。
「あ、髪の話。……髪の毛どうするかって、あんまり考えたことないんだよね、わたし」
だろうと思ってたよ。
吐き捨てかけた台詞を飲み込み、笹倉は会話を終わらせた。
一年のときからクラスは一緒。しかし笹倉は、神田のことがあまり好きではない。
あのぎょろっとした目が苦手だった。神田は人の目をまっすぐ見て話す。物怖じをすることもなく、大きな瞳をぐりぐり動かし、相手の目に視線を合わせる。気味が悪いとすら思った。
その挙動と言動を総合して、クラスでは"不思議ちゃん"というあだ名がついた。当然、そのあだ名はクラスでの神田が浮いていたことを意味する。友達などひとりもいないだろう。
あれは自分とは違う世界の人間だ、と笹倉は認識していた。
髪をいじるという概念をまず考えないと神田は言うし、スカートの丈だって膝下まである。たぶん短くするのがおしゃれだと知ってすらいないのだろう。
笹倉は違う。
中学のときからおしゃれには敏感だったし、髪だって高校に入ってすぐ染めた。笹倉は友達に囲まれている。告白だってされたことがあった。
あれとは住む世界が違うのだと、そんなふうに考えていた。
ただ――髪をいじったことなどないと、そう言うわりには、綺麗な黒髪をしているな、と――時々、目を引かれることはあった。
それだけだった。笹倉は、神田のことがあまり好きではない。
好きではない、のに――
「お悩み相談の相手が、よりにもよってあんただけってか……」
どうやらこの花が見えているのは、今のところ神田だけらしい。
憂鬱のあまり机に突っ伏していた笹倉のもとに、神田はちょろちょろと寄ってきて……笹倉の左腕から生える花を、興味深げにのぞき込んでいた。
朝、目が覚めると左腕からピンク色の花が生えていた。
発狂寸前の頭を抱えて笹倉は食卓に走りこんだが、父も母も妹も、花が見えていないようだった。
平静を装って身支度を済ませ、家を出る。道行く人々の中に、腕から花を生やしたイカレ女を見て目の色を変える者などひとりもいない。
自分ひとりだけ狂ったのかと、おそるおそる教室まで来てみたところ――神田には、花が見えていた。
笹倉は神田と仲がいいわけではない。ただクラスが同じだったというだけだ。
しかし、他に近寄ってくる人間もいないこの現状で、笹倉の話相手は神田以外にいなかった。
「あんた、この花何かわかる?」
「わかんないけど、何かはわかる」
「……意味わかるようにしゃべってよ、"不思議ちゃん"」
投げやりな気分になっていた。あたしもとうとうこの不思議ちゃんと同レベルになっちまったのか、と。
笹倉は刺々しい態度を取ったが、神田はけろりとしたものだった。
「何の花かはわかんない。わたし別に花とか好きじゃないし」
「はっ。そーいうの好きそうなキャラしてんのにね」
「でも、それが何かはわかるよ」
「あっそ。で? 何なの?」
「恋」
「はあ?」
「花っていうのはね、恋をすると咲くものだよ」
「……ばっかじゃねえの。気持ち悪ぃ」
そのとき胸に湧き上がった感情がなんなのかわからなかったために、台詞には一瞬の間が空いた。
が、笹倉はすぐに理解した。この感情は落胆だ。
"不思議ちゃん"である神田の口から、『恋』なんて俗な言葉が出たことを、期待外れだと感じていた。
「そういうおまじないがあるんだよ。おまじないの呪文を唱えて、一晩寝ると……その人のことが好きな人の身体に、花が生えるっていう。その人たち同士にしか見えない花。そういうの」
「……あんたそれ適当言ってない? んなおまじないほんとにあんの?」
「あるよ。わたしちゃんと調べたもん」
「どっちにしても馬鹿じゃないの。なに? あたしのこの花そのおまじないで生えてきたってこと? んなアホな話信じんの?」
「信じんのって……」
言ってから笹倉自身も思ったし、神田はきょとんとした表情を浮かべた。
信じるも何も、笹倉の腕から花が生えているこの光景は現実だ。神田と笹倉以外には見えない、奇怪な花。
「……んじゃ、どうすりゃいいのよ。除草剤でも注射すればいいわけ?」
「嫌なの?」
「嫌だよ。嫌でしょ腕から花生えてんのとか」
「おしゃれじゃない?」
「ねーよ歩くときめっちゃバサバサする。裾とかめっちゃ花粉ついた」
「わ、ほんとだ」
忌々しげに呟く笹倉のシャツの裾を、神田はべろんとまくり上げた。
普段腹を出す服も着る笹倉はへそ周りの処理をきっちりとしていて、神田は黄色くなった裾よりもそちらに目を向け「わあ」と感嘆の声を上げた。
笹倉は神田の腕を取り、手首に強烈なしっぺを叩きこんだ。
「あんたのさあ……、そういうとこが気持ち悪いって言われてんの、わかってる?」
「外側に生えてればよかったのにね……。あれ、あの、手の甲側」
涙目で手首をさする台詞が、『歩くときめっちゃバサバサする』からの続きだと気づくのに少しかかって、笹倉は心底からため息を吐いた。
この女は距離感の取り方がおかしい。クラス分け当初からずっと、誰に対してもこんな具合だ。
だから、クラスでも浮いてしまう。
それがいい、と裏で言っている男もいる。そういうところがかわいい、あの黒髪もきれいだし、目だってぱっちりしているんだし、友達いないし、チョロいんじゃないか――
馬鹿な男もいるものだ、そう笹倉は思うが――その思考は、やがて男や女といったものではなく、もっと根源的な疑問へと向かっていく。
恋。
惚れた腫れた、好いた嫌った――笹倉には、恋というものがいまひとつよくわかっていない。誰かを好きになったことがなかった。
友達を作るのも、おしゃれに気を遣うのも、そうするのがうまいやり方だと周りを見て判断したからだった――
神田は、きょろきょろと周囲を見回している。
その肩で、長い髪がさらさらと揺れる。光沢のある、豊かな黒髪。
「……なにしてんの?」
「さささんのお友達。まだ来てないのかなって」
「……」さささんって何、あんたそれあたしのこと言ってんの。そう毒づいてやろうと思ったが、声にはならなかった。
あたしのお友達、ね。
笹倉のかつての友達は、まだ学校に来ていない。
クラスの誰も、笹倉と神田のほうを見てはいなかった。自嘲の笑みが口の端からこぼれる。
――友達が多く、身だしなみに気を遣う笹倉は、男子にモテた。よく告白もされた。しかし――
そういうことがしたいわけではなかった。
そういうつもりでおしゃれをしているわけではなかった。
でも、周りから見た笹倉は、そういうのがOKな人間に見えたようだった。
そういうのはずっと断ってきた。今回も同じように断った。でも今回は相手がまずかったらしい。
笹倉の友達の中で、一番力のある――中心にいるタイプの女子。その女子には好きな男子がいて、この前笹倉が蹴った告白が、その男子からのものだった。
不況を買ってしまったようで、つまり笹倉はハブられた。
最近ではもう休み時間はずっと机に突っ伏している。
笹倉の冷たい目をものともせず、神田は拳を握りしめて熱弁した。
「わたしはね、お友達がやったんじゃないかなーって思うんだ。最近、さささん、お友達とあんまりうまく行ってないみたいだし。お友達のほうが、仲直りしたくて――」
「――ちょっと待って」
そこで笹倉は気づいた。
神田の話など半分聞き流していたが、そこでやっと、大事なことに気がついた。
「ちょっと待って。あんたさっきなんて言った? "その人のことを好きな人に生える"って言った?」
「え、うん」
「……なにそれ。あたしが呪文かけた相手のこと好きってこと? あたしに好きな人がいるから生えたってこと!?」
おまじないの呪文を唱えると、その人――唱えた者――のことが好きな人に、花が生える。
好きになられる側ではない。笹倉は人を好きになる側だ。
――あたしが?
矛盾していると思った。
「……あんたさ、ほんと適当言ってんじゃないの? ほんとはあんたがあたしになんか呪いみたいなのかけたんじゃない?」
「呪いなんてかけてないよう。わたしも昨日おまじないはやったけど、でもさささんに生えるわけないし……」
「は?」
またも聞き捨てならない台詞を聞いて、笹倉は神田を問い詰めた。
「……やったの? あんたが?」
「う、うん……」
神田は気まずそうに眼を逸らすと、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「わたし、なんか周りの人とうまく話できてないみたいだから。もしかして、誰からも好かれてないのかなって、ちょっと不安になった。だから、誰かわたしのことを好きな人が、どこかにいてくれたらなって、確かめたくて、それで昨日試してみたの。そしたら……」
意外だと笹倉は思った。
この不思議ちゃんも、周囲との人間関係を気にしていたのか――
「最初は嬉しかったんだけど、でも、さささんに生えるのはおかしいもんね。さささんかっこいいし。わたしのことなんか、あんまり好きじゃなさそうだし」
いつもは大きく見開いている目を、今だけは自信なさげに細めて。
「だから、きっとさささんの友達がやったんだよ、おまじない。さささんと仲直りしたくて。さささんがまだ好きでいてくれてるか確かめたくて――おまじない、かけたんだよ、きっと。わたしに見えてるのは、ほら、なんかの勘違いで……」
神田はそう言い終えると、あはは、と気まずげに苦笑した。
恋。
花というのは恋をすると咲くものだと神田は言った。
笹倉には恋というのがよくわからない。人を好きになる感覚というのがわからない。そんなもの必要ないだろうとすら思う。
そんな自分が――好きだというのか?
この、"不思議ちゃん"の、神田を。
綺麗な髪をしているとは、思った。目で追ってしまうことはあった。野暮ったいスカート。ぎょろりと大きな目。髪をいじるなんて考えたこともないという。
住む世界が違うと思っていた。
住む世界が違う、この"不思議ちゃん"は――
恋だの、友達だの、おしゃれだの、そういったしがらみに、囚われることもなく――
つやのある輝きを髪に宿して、自由に生きているのだろうかと、考えることは、あった。
それを恋とは言わないと思う。
それが恋だとは思えない。
自分が、神田のことを好きだとは、思えない。
でも、花は生えてきた。
名前も知らない花が、自分の腕の中で、自分の身体の中に、何かを養分にして――咲いている。
やがて始業のチャイムが鳴り、神田は、ひとつ提案をした。
「嫌なら、ちぎっちゃえばいいんじゃない? その花……」
「……できるかよんなこと。怖いじゃん」
「怖いの?」
「……」
怖いに決まっていると笹倉は思った。どうして怖いのだろう。
「これ引っこ抜いたら……、なんか、血管とか……」
「……大事なとこも、ずるずるって抜けそうな気がする」
ぼそりとつぶやかれたその言葉を、神田は聞いたのかどうか。
自分の席へ戻る神田の背を見ながら、笹倉は思い出す。結局、この花はどうしたら抜けるのか、神田は何も言っていない。
――自分の中の養分が枯れたら、花も勝手に枯れていくのだろうか?
根拠など何もない思案を巡らせ、笹倉は机に突っ伏した。左手をまっすぐに伸ばして、花がよく見えるようにする。
右手で頭を抱えながら、考えた。
「……これ、結局何の花なのよ……」