Neetel Inside 文芸新都
表紙

僕たちは恋してない
Child play(4) -出逢-

見開き   最大化      

 清水早苗先生は、僕たちが二年生に進級した時にちょうど赴任してきた、新任の教師だった。
 最初にクラスのみんなの前に立った時の、
「私は皆さんよりもこの学校では後輩に当たります。色々と皆さんから教わることが多いかと思いますが、負けずに色々なものを与えていけるように頑張っていきたいと思います」
 という挨拶が、いかにも真面目な先生らしくって。
 肩口できれいに切り揃えられた黒髪や、ぴしっと着こなしたスーツなど、最初から近づきがたいくらいに『先生』っぽい固さを前面に押し出した先生だった。
 だから初めは――当たり前だけれど――想像すらしていなかった。
 僕と先生が、男女の関係になってしまうなんて。
 先生は大学卒業後初めて教壇に立つというのに、その授業に危なげはほとんどなく、生徒にも分かりやすい教え方で人気もそこそこ獲得し、よくある新人の先生イジメなんかの対象には候補に挙げられもしなかったようだ。
 順調に教師や生徒の間にも溶け込み、けれどどこか『先生』としての一線はちゃんと確保していて。ぶっちゃけて言えば、先生はうまくやっていたのだ。
 少なくとも、あの頃の僕に先生はそう見えていた。
 その見方が変わり始めたのは、今からもう一年以上前にもなるだろうか。
 夏休みまであと少しだというのに、じめじめと梅雨から抜け出しきれていないような、蒸し暑い日のことだったと思う。
 僕は試験中だというのに運悪く日直の番に当たってしまい、面倒な掃除の後に面倒な日誌を適当にまとめ、先生の印をもらいに面倒にも図書準備室の前まで来ていた。
 当時は先生が普段こっちにいることすら知らず、一度職員室まで行って先生がいないことを隣のクラスの担任から話を聞いた後で、図書準備室まで歩いた。
 ちなみに、教室は四階で職員室は一階、図書準備室は三階である。
 それだけでかなりの時間をくってしまった僕は、正直かなり苛立っていた。
 早く家に帰って、一夜漬けまがいの勉強に精を出さなければならないというのに、時間ばかりか体力まで無駄に消費してしまったのだから。
 だから僕は、かなり強めに二回ノックをした後、
「失礼しますっ!」
 ぶっきらぼうにそう告げて、中の反応も聞かずに扉を開けてしまった。
 言い訳をさせてもらうなら、この準備室の中がどうなっているのかなんて知らなくて、まさか本の他には机が一つ置いてあるだけの、小さな個人スペースみたいなものだとは思いも寄らなかった。
 だから、それも仕方のないことだったのだ。
 そこにいた、いつも『真面目そう』な清水先生の意外過ぎる格好に、僕が扉を開けた格好のまま呆然と立ち尽くしてしまったとしても。
「……え?」
 先生は椅子に浅く腰掛けて大きく足を広げ、シャツのボタンを上から二つ目までだらしなく空けて、駅前で配っているような小さいうちわでパタパタと胸元を扇いでいた。
 先生にとって幸運だったのは、先生はエアコンからの風を真正面から受けられるように体をずらしていたらしく、僕の立っていた扉の位置からはその姿が完全には見えていなかったこと。
 先生にとって不運だったのは、体の位置をずらしてしまっていたせいで、反射的に変な方向に体を捻ってしまったことだ。
「うわっ! ちょっと……キャアー!」
 よっぽど浅く腰掛けていたのだろう。慌てて立ち上がろうとしてバランスを崩した先生は、背中から滑り落ちるように椅子から落下し腰を地面にしたたかに打ちつけた。
 その挙句、反射的に起き上がろうとした瞬間にタイトスカートが嫌な音を立てたのを、僕は確かに聞いたのだ。
 端的に表現するならば、ビリビリとかまぁそんな感じの音を。
「い……っつー……」
 多分、僕がもう一歩か二歩室内に踏み込んでいたなら、言葉では言い表せないくらい酷い姿の先生を見れただろう。しかし残念ながらその光景は、図書準備室に連なる背の高い本棚たちに阻まれて目にすることは敵わなかった。
 ようやく正気に戻って、どうしたらいいか迷った僕が選んだのは、そのいたたまれない感じの空気から逃げ出すこと。
「す、すいません。僕ちょっと外に出てますから!」
「え? ちょっと待って!」
 先生の静止の言葉を無視して、僕は図書準備室を出て手早く扉を閉めた。
 その扉に背を預けて、ようやく人心地に付く。
「なんだったんだよ、今の」
 入ってから出るまでの全てを嘘だと思いたい。それほどに意外で、意味不明で、ハチャメチャな数分間だった。
 結局日誌も先生に渡せていないままで、もういっそこのまま帰ってしまおうかとか考えていると、ゴソゴソと衣擦れのような音がしていた図書準備室の内側から、ノックの音が僕を呼んだ。
「えっと片瀬……君? まだそこにいる?」
 僕の名前が疑問形なのは、ちゃんと顔を確認する前に僕が外に出てしまったからだろう。
「あ、はい。いますけど」
 少しだけ扉が開いて、隙間から先生が顔だけを覗かせる。シャツのボタンは一番上まできっちり閉められていて、僕はそれを見て少しほっとしてしまった。
「あの、悪いんだけどね。家庭科室から裁縫道具をちょっと借りてきてくれないかな?」
 何に使うのかは言わない。想像は付くが、絶対に聞かないでくれと訴えている目を裏切ることは僕にはできない。
「……はぁ」
 僕は大きくため息を、わざと先生に聞こえるように吐き出す。これから職員室で鍵を借りて、家庭科室で裁縫道具を引っ張り出して、ここまで届けて――――帰りが何時になるのだろうか、想像するのも鬱になる。
 だから、これくらいの嫌味は許して欲しい。なにしろ、明日のテストを丸々諦める決心を固めたのだ。
 先生の方をちらりと見ると、怯えた子犬のように僕のことを見上げている。
 もしかすると僕は、この時すでにこの人のことを教師として見ていなかったのかもしれない。
「分かりましたよ、ちょっと待っててくださいね」
 階段に向かって走り出した僕の背中に、「廊下は走らない!」と声がかかる。
 下手をすれば、図書室にいる生徒が気付くかもしれないというのに。廊下の端から端まで届くような大声で。
 僕は思わず綻んでしまった口元を押さえながら、歩幅を全く緩めずに階段を駆け下りていった。

     

 前に彼女に言った通り、それはただの偶然。恋愛のきっかけなどになるはずも無く、ただそれだけのことで終わった。
 それはそうだ。先生にしてみればあの出来事は、真っ先に消し去りたい出来事に違いないのだから。
 その一件は、翌日に先生から『本当にお願いだから、誰にも言わないで!』と土下座されそうな勢いで頼まれたため、今でも僕の胸の中だけに秘められている。
 新任三ヶ月にも満たない先生が、あんなだらしない格好で涼んでいたと知られるのは、もしかしなくても体裁が悪いに決まっている。
 学校という箱庭の中での情報網は意外にできがいい。クラスの友人、部活や委員会の先輩後輩、仲のいい教師にまでその範囲は広がっていて、タチが悪いのは知られると当人が困りそうな噂ほど早く広まるという事だ。
 僕が先生との約束を今でも守り通していることに、特別な理由は無い。
 人の恥部を明らかにすることで笑いを取るという手法を僕が好まないという事もあったが、単にそこまではっちゃけた事を話すような相手もいなかっただけの話だ。
 だから、もしもきっかけというのならその後の話。
 夏休みも終わりに近付いた頃、僕は毎日のように学校の図書館に入り浸っていた。
 もちろん先生に会いに来たなどというたわけた理由ではなく、夏休みの宿題をするために来たのだ。
 情けない話だが、家にいて宿題だけにひたすら集中するという事は難しい。我が家・我が部屋には誘惑というか、娯楽が多すぎる。
 マンガやテレビなど手ごろのものから、テスト間近の部屋を掃除したい症候群のごとくどうでもいいことまで楽しそうに見えてくるから始末が悪い。
 その点、図書館は優秀だ。普段読書に欠片も勤しまないものには誘惑などどこにもなく、興味は無いが暇つぶしにパラパラ見る、という行為に小説というものは全く不向きだ。
 その日、珍しく図書館には僕のほかに客はいなかった。
 いつもは僕以外にもノートを広げて宿題を取り組むもの、夏休み終盤の暇になった時間を読書で潰そうとしているもの、部活の練習の合間に涼みに立ち寄ったものなど、少数だが人はいるものなのに。
 だから、そんな血迷った行動に出たのかもしれない。
「清水先生、いらっしゃいますか?」
 この前と同じ、ノックを二回。今度はしばらく待った。
 重ねて言うが、僕は先生に会いに学校に来たわけではない。だからそこで返事が無ければ、黙って帰るつもりだった。
「……都合よく今日が当直だなんて、あるわけない……か」
 返事は無かった。試しに扉を引いてみたが、もちろん鍵がかかっていた。
 僕がそのドアをあの時と同じにノックする気になったのは本当にただの気まぐれで、むしろ返事の無いことにほっとしていた。
 いたら何を話すつもりだったのかも決めずに、何も考えないで行動していた自分に対してため息を吐く。
 これも重ねて言うのだが、ここで僕は完全に帰るつもりだったのだ。
「あれ、片瀬君?」
 ホント、なんて偶然なんだろう。
「どうしたの、私に何か用事だった?」
 顔だけを使って振り向くと、久しぶりに見る先生がそこにいた。
 こんな暑い日だというのにキチっとしたスーツに身を包んで、暑さなど感じないかのように整った表情で僕の顔を見つめている。
 まだ僕の体は扉の方に向いていた、言い訳などとてもできそうもなくて、
「いえ、特に用事は無かったんですけど、暇だったんで少しお話でもできたらと思いまして」
 今思えば馴れ馴れしいことこの上ないが、その時には冷静を装うことに精一杯で内容についてどうこう考える余裕は無かったのだ。
「そう? とにかく、中に入ろうか?」
 先生も多少不思議そうな顔をしてはいたが、特にそこには触れずに僕を中へと促した。先生は職員室の机まで書類を取りに行っていただけだったらしい。そんな小さな用事でも鍵まで閉めていくところが、先生らしいと思った。
「清水先生って、いつもこちらにいらっしゃるんですか?」
「ん、どういう意味?」
「いや、他の先生たちは普通に職員室にいるじゃないですか。この前もそうでしたけど、清水先生っていつも図書準備室にいる印象があって、そういうのって珍しいんじゃないですか?」
「あー、確かにそうね……」
 先生は小型の冷蔵庫から麦茶のポットを取り出した。パックを入れて自分で作るタイプのものだ。冷蔵庫もそうだが、見回すとこの前着たときには無かったものがいくつか増えているようだった。
「うちの学校って全面禁煙じゃないでしょう? 職員室が煙くってこっちで仕事とかしてたんだけど、そうしたらこっちの方に荷物が溜まっちゃって自然とこっちにいる時間が長くなって……って感じかな?」
 セリフの終わりと同時に、先生は僕のそばの机に麦茶を入れたコップを置く。
 全面禁煙化が叫ばれるこのご時世でも、うちの学校から教師用の喫煙所が消える様子はない。校長が喫煙者なのがその原因であるという事は、生徒の間でも有名な話だった。
「でも、不便じゃないですか? こっちだと他の先生ともコミュニケーション取れないし……」
「そんなこと無いよ。普段の短い休み時間やお昼は職員室に戻ってるし、こっちにいるのなんて放課後ぐらい」
 ガラスのコップに入れられた麦茶を口に含む。キンと冷えた液体を流し込んでやっと、自分の喉がカラカラに渇いていたことに気付いた。
「それにほら、ここって冷房も効いてるし図書館にも近いし、居心地がいいのよね」
「……その冷蔵庫ってもしかして?」
「うん、私物。この前電気屋に行ったら決算前で安くてね、勢いで買っちゃったの。内緒よ?」
 そう言って笑う先生は、人生に不安など何一つないように見えた。
 あんなにだらけていた所を一度見られているというのに、態度も何も変わりない、『先生』であることになんの疑問も持っていないように……。
 多分そのおどけた笑い方が、ほんの少しだけ似ていたから。
 外見も性格もなにもかも違うのに、何が起こっても落ち着いているような『大人』な態度が癇に障ったから。
「清水先生って、思ってたほど真面目じゃあないんですね」
 ほんの少し、語調を強めて言った。
 普段はこんな生意気な事なんて言えない。逆に教師には嫌われないように、目立った生徒だと思われないように、常に気を使っているのに。
 多分、前の出来事があったせいだ。
 今先生の立っている『安定』という土台に一本だけ刺さった楔を、僕ならいつでも打ち込めるという安心感。
 少し考えれば、僕が握っている秘密などそこまで影響力のあるものでもないと気付けたはずなのに。とてつもなく危ういはずの優位性は、しかし昂ぶった僕の背中を置くには充分だった。
「教師の罰則って詳しくないんですけど、そういうのって他の先生に見つかったらどうなるんですか?」
「え……?」
 コップを置いて、前に踏み出す。
「こんなに堂々としてるんですから問題ないんですかね? でも新任三ヶ月で個室に冷蔵庫まで置いてるなんて、調子乗ってるって思われるかもしれませんよね」
「ちょっと、片瀬君!?」
 物が多すぎるせいで実際以上に狭い図書準備室では、二・三歩歩いただけで息のかかるような距離まで詰め寄れてしまう。
 先生はすでに机に半分座っているような体勢で逃げ場は無く、僕は今どう見ても先生を襲っているようにしか見えないだろう。
「ねぇ、冗談でしょ? 何か気に障ったのなら謝るから、こういうことは止めよう?」
 怯えきった顔、震える手は恐怖からか体の前に出すだけで僕を押し返すでもなく、細い肩は押せばすぐに倒せてしまいそうに見えた。
「…………止めた」
 顔を少し引いた。先生は愚かにも安堵した顔を上向けて、
「片瀬く――」
 僕は、自分の名前を呼びかけた口を塞いだ。
 一瞬で離す。初めて自分からしたキスは味など分かるわけもなくて、罪悪感だけが身を包む。それでも、
「口止め料とか、そんなんじゃないですから」
 みっともなくも捨て台詞まで吐いて、僕は図書準備室からゆっくりと出た。
 扉を閉めたところで、我慢しきれずに走り出した。ただひたすらに誰もいない校舎の中を駆け抜けて、いつの間にか校門の前で息を切らして、そこでようやく自分のやってしまった事の馬鹿さ加減に気が付いた。
「はぁ……はぁ……はっ、クソッ!」
 苛立ちをぶつけた。
 どこも似ているところなど無いはずなのに、外見も性格も何一つ同じところなど無かったのに。僕はキスをした瞬間、確かに先生と彼女を重ねていた。
 学校を見上げる。息も絶え絶えに、このまま真っ直ぐ家に帰ることしか出来ない。惨めな負け犬のような気分だった。
 何に負けたかすらも、分かっていないくせに。

     

 新学期が始まっても、先生は何も言ってくる事は無かった。
 他の教員からも何も言われないということは、僕のしたことは誰にも話されていないのだろう。
 まるで『秘密を握ったのはお互い様だ』とでも言うかのように、先生は僕に対して不可侵の態度を取り続けた。
 僕はその意図について詳しく聞きたい衝動にたびたび襲われたが、自分にしか非がないと分かりきっているのに僕から何か行動する勇気など出てくるわけも無い。
 なにしろ、他の人を想って唇を奪ってしまったのだ。しかも、勢いに任せて無理やりに。
 許されるならいっそ土下座でもして謝ってしまいたいくらいに、僕はひたすら気に病むしかなかった。
 それこそ、きっかけさえあればすぐにでも図書準備室に向かっただろう。
 でも、夏休み直前に日直を済ませてしまい、現国の補修を受けるわけでもない僕が先生に会いに行くのは不自然以外の何者でもない。
 そんな悶々とした状況が、一ヶ月ほども続いた。
 さすがにそれだけの期間が経てば思考も楽観的な方へ向き始める。
 先生はあのことを、子供の戯言だと認識してくれたのではないか。
 そうとも、誰かに言うつもりなんてあるわけが無い。彼女はこれを『お互い様』だと思っているんだから。
 だから、僕ももう忘れてしまっていい。彼女のことをぶり返したなんてみっともないことは忘れてしまって、無かったことにしてもいいのだ。
 どこか心にしこりのようなものを感じながらも、僕はそんなことを自分に言い聞かせるようになっていた。
「片瀬君、ちょっといいかな?」
 しかし、そうは問屋が卸してくれなかったようだ。
 授業の終わり。先生はまるで何も気に留めることも無いような自然な表情で、僕に話しかけてくる。
「な、なんでしょう?」
「あのさ、先週に配った進路希望のプリントあったでしょ。伊藤先生に言われたんだけど、片瀬君のだけまだ出てないって。悪いんだけど、今日中になんとか形にして図書準備室まで持ってきてくれないかな?」
 進路希望のプリント? 身に覚えならある。それは確かに先週に配られたはずのものだ。しかし、僕はそれを普通に提出したはずだった。
 一瞬だけ思案して、すぐに得心が行く。
 この年、先生はまだ僕らのクラスの担任ではなく伊藤先生のサポートとして副担任に就いていた。プリントの回収を言いつけられるのも分からないでもない。
 なるほど、これは遠回しで自然を装った『お呼び出し』なわけだ。
「分かりました、あとで伺います」
 僕にはそう答えるしかない。
 思い返せば、まるで今とは立場が逆のやり取りで笑えてくる。
 本当にその時期、僕は押されっぱなしだったのだ。

 ノックを二回、これも三度目になる。
「どうぞ」という返答を待って図書準備室に入ると、先生は椅子ではなく机に腰掛けて僕を真正面から見据えた。
 その姿はまるで夏休みのあの時の、僕が出て行く前の情景そのままだ。それを見て僕はさらに及び腰になってしまう。
「よかった、来てくれて」
「あんな呼び出し方されて……来ないわけにいかないでしょう」
「そうだね」
 口元は微かに吊り上っていて、笑っているように見えるが何を考えているのか読み取れない。
 それでも僕は、ずっと言わずにいてしまったこと―――言わなければならなかったことを口にした。
「この間は、本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げる。
 ここに呼び出されたのは何らかの罰を与えられるためかもしれない。口止めの見返りに何かを要求されるのかもしれない。
 それでも、ここで何の謝罪もせずにいることは最低だと思ったから。
 じっと頭を下げている僕に、先生は少しきょとんとした表情を見せた後になんと笑い出してしまった。
「ははは、ちょっと何それ? 私、そんなつもりで呼んだんじゃないよ」
「は?」
 驚いて顔を上げる。先生は本当に見当違いだったらしい行動をしている僕を見下ろして、本当に愉快そうに笑っている。心底誠実な空気を作って謝っている人間を前にして、はたしてその行動は教育者としてどうなんだ。
「じゃあ、どういうつもりで僕を呼んだんですか?」
 思わず不機嫌さが声に出てしまった。
「『どういうつもり』は、こっちのセリフ」
 しかし、返ってきた言葉もまた不機嫌さを含んでいて。
 先生が腰を預けていた机から離れて、僕に向かって一歩近付く。僕は扉を背にした状態から動けない。この前とは、本当に立場が逆転していた。
「口止め料じゃない……ってこの前言ってたじゃない。あれはどういうつもりだったの?」
 何故、今それを聞くのか。無かったことにしてくれないのなら、この一ヶ月はなんなんだったのか。
 近付いてくる先生を真っ直ぐ見られずに目を逸らす。
「捨て台詞みたいなものじゃないですか。カッコ悪いから、思い出させないでくださいよ」
 本当にカッコ悪い。謝ったのは最初だけで、後から出てくるのは強がりばかりだ。
「セリフの事じゃないよ。分かってて言ってるでしょ?」
 詰め寄る先生の影に振り向くと、驚くほど近くに先生の顔があった。眉を吊り上げて下から強気に見上げる先生の顔は、やはり年上の女性のそれで。急激に鼓動が早くなるのを意識した。
「ちょっと……癇に障っただけです」
「癇に障ったら、君は相手にキスするの?」
「いや……」
「まぁ、言いたくないのならそれでもいいけど」
「え?」
 気が付けば、首に手が回っていた。
「んんっ……!」
 扉に体ごと押し付けられ、ガタンといやに大きな音がする。唇に触れる柔らかい感触に驚く間もないまま、ぬるりとした舌が無理やり口の中に割り込んできた。
 ひたすらにかき回される咥内の感触は、まるで快感の押し売りだ。
 目を見開いたまま、目の前にある真っ赤な顔の先生をただ見ていることしか出来ない。
 ぷはっ、なんて言って顔を離した先生は、呆然としている僕に完全に女の顔でこう言った。
「君が私に言ったんだよ?……あれから色々考えたんだけど、私って本当に『真面目そう』なだけだったみたい」
 そうだ、その時になって僕はやっと分かった。
 無関心な態度をとり続けた先生を、一ヶ月も長々と気にしていた理由。
 先生とのことを無かったことにしてもいいと考えた時に、どこか心にわだかまりがあった理由。
 僕は、先生をこのまま手放してしまいたくなかったのだ。
 彼女と似ても似つかない年上の女性。彼女を引きずっていると自覚してしまったからこそ、きっと僕は先生に惹かれた。
 でも、それは好意なんかではない。
 先生を支配下においておきたかった。彼女に拒絶された僕。僕を置いていなくなった彼女。その圧倒的な劣等感を埋めてくれるのは彼女の代役であるしかない。でも、彼女が僕をもう見ないことは嫌というほど自覚している。
 僕と先生、双方にとって災難だったのは、先生は僕にとって都合の良すぎる存在だったこと。
 似ている必要なんか無い。年上というそれだけで良かった。目上の人間を思い通りに抱いた時、僕はこれ以上ないほど心地よく満たされていた。
 だから、依存した。僕たちは互いが互いにハマっていった。
 蜜壺に落ちた蟲のように、茨に絡め捕られた哀れな男のように。
 そんな、どうしようもない僕と先生の始まり。そして今まで。


 そんなことを、思い出していた。
 代わりを見つけて満足していたはずなのに、あんなにも恋焦がれていた貴女が、――今さら――傍にいるだけで僕は狂ってしまう。
 振り向いて、詰め寄って、痛いかもなんて考えもせず肩を掴んで引き寄せて。
 思い切り、深く口付けた。
 あの時、先生にそうしたように。

       

表紙

犬野郎 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha