今の関係の元凶である、ユキこと雪崎美冬と初めて言葉を交わしたのは三ヶ月前。
ちょうど、ナツキとシュウが付き合っているのを知ってかなりのショックを受け、鬱々としていつもイライラしていたような時期だった。
ナツキに連れられて教室まで訪ねてきたユキは、俺を前にするとまず軽く会釈のように頭を下げた。
正直、その時の俺にはユキを紹介された理由に、さっぱり見当もつかなかった。当たり前だ。俺とユキとはそれが初対面だったんだから。
実は、ユキの名前だけは前にナツキに聞いたことがあった。最近、おとなしくて仲間外れになっていた子と話をするようになったとか、そんな内容だったと思う。ただ、その子が俺に会おうとする動機があるとは思えなかったのだ。
「何の用?」
その頃、ナツキの顔を見るだけで気分がざわついていた俺は、廊下に呼び出されるなりナツキに向かってぞんざいに言い放った。
会釈したユキには一瞥もくれない。何の用だったとしても興味が無かったし、話を真面目に聞く気も無かったからだ。
「んー、この子がちょっとハルと二人で話がしたいって言うから」
不機嫌そうな俺をまるで気にしていない風に、ナツキは飄々とそう言った。
「俺さ、今日ちょっと気分悪いんだ。できれば今度にしてくれない?」
眉根を寄せて、苛立ちを隠そうともしない。
「え、そうなんだ。どうするユキ、話って今度でも大丈夫?」
何の悪気も無さそうに隣のユキに話を振るナツキを見て、俺はハッと、どうして自分の中にこんなにも苛立ちが募るのかを理解した。
それは、デリカシーの無い行動だと思ったのだ。
もちろん、ナツキには俺がなんで苛立っているかなど知る由もない。せいぜい、本当に具合が悪いせいだと思っている程度のはずだ。
でも俺にしてみれば、彼氏ができたのを知ってショックだった……それでなくても顔を合わせ辛い好きな人から、あろう事か友達を紹介されるというシチュエーションなのだ。
耐えられなかった。そんな事を気にせずにできるほど、ナツキは俺のことをなんとも思っていないのだと改めて見せ付けられること。
そして、こんな小さな事で八つ当たりのように振舞うほど不安定になっている自分にも。
「えっと、ユキ……さん? 今言った通りだから、用ならまた今度にしてよ」
できれば二度と来ないで欲しかったが、流石にそこまで口には出さない。だが、初対面の人に向けるような顔では無かったことだけは確かだ。
怯えられるかもしれない。そのせいで、ナツキに嫌われるかも。そんな考えが頭を掠める。ナツキに彼氏ができた今では、両方とも杞憂に過ぎないというのに。
しかし、ユキの反応は予想外のものだった。怯えるとか怖がるとか――そこまで行かなくとも、普通ここまでぞんざいな対応をされればどんな人間にでも悪印象を持つものだが、ユキの表情は初めにちらっと見たときと寸分も変わっていない。
俺に話があるというのに、俺の機嫌などどうでもいいかのような、興味がないとでも言いたげな無表情だった。
「本当に少しの時間で結構です。貴方にとっても……悪い話しじゃないと思います」
それ自体も奇妙な言い回しだと思ったが、それよりも俺が気になったのは、その眼差しだ。
冷静で、冷徹で、話に聞いていたおとなしいという表現とはどこか違う、妙に強い光を湛えた瞳が俺を見据えていた。しかも、そこに含まれた意志はけっしてプラスのものではなさそうな予感がする。
顔は俯き気味で、決して大きな声でもない、しかし強く俺を見つめるその視線には、外見からは全く読み取れなくとも、どこか今俺が抱えている苛立ちにも似た強い感情が込められているような気がした。
その勢いに押されたのか、単に気が変わったのかは今ではもう思い出せないが、とにかく俺はユキの話を聞く気になった。そのくらいは付き合ってもいいと思わせるぐらいの力が、その眼差しにはあったのだ。
「……分かった。じゃあ場所を移そう。このまま廊下で話すような内容じゃないんだろ?」
ユキは頷いてナツキに向き直ると、
「ありがとう。ここからは二人で話すから、ナツキちゃんはもう教室に戻ってて」と、先ほど俺に向けて言ったよりも幾分か柔らかい口調で告げた。
ナツキは下世話な想像でもしているのだろう、エロ親父のようなニヤニヤ笑いを貼り付けて、「分かってますとも」とでも言いたげに手を振る。
「そうだね、じゃあ後はお若い二人にまかせてってことで。ユキ、後で報告聞かせてよねー」
去っていくナツキに手を振り返しながら、ユキは教室に入って見えなくなるまでナツキを見送っていた。
「ユキさんってナツキと仲良いんだって? アイツ、ああいうおふざけ多いだろ。結構困らされてるんじゃない?」
本気で言ったわけじゃなかった。ナツキのああしたふざけた行動だって、今のような状況じゃなければ程よく場を和ますユーモアになっていたはずだ。
さっきまで無下に扱っていたのが気まずくて、一息入れるようなつもりで聞いただけだった。視線がまだ教室の扉に向いているユキに、まともな反応を期待した訳じゃない。
「そんなこと……ないですよ」
でも、帰ってきた声は驚くほど優しくて、
「えっ?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
不意に窓から吹き込んだ風が、ユキの腰まで届く長い黒髪を撫でる。
下手をすれば、目元まで隠れてしまいそうな野暮ったい前髪が風で持ち上げられ、思いのほか整った顔立ちがあらわになる。
「ああいう朗らかで、それがふざけてたって、場をいつも明るくしてくれるところ。そういうの、ナツキちゃんの凄くいいところだと思います」
それは、これから三ヶ月間付き合うことになる彼女の、最初で最後に見た心からの笑顔だった。
俺はその瞬間、ほんの一瞬だけユキに見とれていた。ナツキのことも、シュウのことも、全部忘れて……。
「それから、ユキはあだ名です。私の名前は雪崎美冬、これからよろしくお願いします」
●
ユキに連れられてきたのは、屋上だった。
うちの学校の屋上は、昼休みと放課後の短い時間だけ生徒に開放されている。
ネズミ返しの付いた背の高いフェンスに沿うようにベンチがあちこちに並べられ、色とりどりの花が植えられた花壇まで設置されているここは、春や秋など外で過ごしやすい季節には大人気の昼食スポットだ。
廊下でそれなりに話しこんでいたせいで、昼休みのちょうど折り返しになる時間帯だったおかげだろう。昼食を終えて引き上げていく連中と入れ替わるように、できるだけ人気のない場所にあるベンチに座ることができた。
周りには、友人や彼氏彼女で仲睦まじくお昼の一時を楽しんでいるやつらが、まだちらほらと残っている。
ふと、もしかしたら自分たちもそんな風に見えるのかもと、どうでもいい考えが一瞬だけ頭を掠めた。
腰を下ろして一息つくと、ユキは大真面目な顔で切り出した。
「私と、お付き合いをして欲しいんです」
突拍子もないセリフではあったが、まぁそんなことだろうとは思っていた。
あまりにも予想通り過ぎて、次の言葉を発した時の俺は半笑いだったかもしれない。
「まさか、俺のことが好きだから……なんて言わないよな?」
「もちろん、違います」
軽い冗談のつもりだったのだが、ユキは眉一つ動かさずに答える。
冷静に考えれば冗談みたいなことを言っているのはユキの方だったのだが、あまりに真顔で返されたせいで、その時の俺は自分が悪いような気にすらなってしまった。
今思えば、あまりに理不尽だ。
「ナツキちゃんと、シュウ君が付き合いだしたのは知っていますよね?」
「あ、ちょっと待って。さっきから思ってたんだけど、敬語は止めないか? 同学年なのに不自然だろ」
自分のセリフを途中で止められたユキは一瞬ポカンとした顔をしたが、特に異論も無かったのか話を続ける。
「私とシュウ君は、幼馴染なの」
その一言で、なんとなく察した。
「要するに、私とあなたは同じってこと」
そういうことだ。
ユキはおそらく、シュウのことが好きだったのだろう。
この時の俺はシュウとの面識がほとんど無く察することしかできなかったが、後々ナツキから紹介されたシュウはナツキの幼馴染である俺を警戒してこそいたが、その人柄や外見など、人から好かれる要素は十分に持っていた。
まるっきり俺と同じ環境で、幼馴染をぽっと出の他人に取られてしまったと、そういう事だろう。
その苛立ちと後悔、やり切れない気持ちは、俺に分からないわけがなかった。
「それは……なんとなく分かった。でも、それで俺らが付き合うって言うのは話が飛躍しすぎてないか?」
そう、理解できたのはあくまでも環境と感情の話。それと俺たちが付き合うという話には、全く繋がりがない。
「余ったもの同士で慰め合おうって言うことか?」
ユキは、ゆっくりと首を横に振る。
「これは、言わば協定みたいなもの」
「協定?」
「そう」とだけ言うと、一瞬考えるように顔を俯けた。その間は、まるで迷っているようだったが、結局ユキは意を決したように話を続けた。
「私たちが付き合っていれば、その繋がりでナツキちゃんとシュウ君が遊ぶ時に一緒に付いて行ったり、どこまで進んでるとかの情報も聞きだすことができる。もう相手がいる人が、まさか自分の相手を好きだとは思わないから」
それは、言わば監視のための提案だった。
確かに、ほとんど面識の無いシュウにナツキとどこまで進んでいるかなんて聞けるわけが無いし、ナツキに直接聞くなんてのも論外だ。気が無いことを上手く隠しながらそんな詮索ができるほど、俺は器用じゃない。
でも、彼女がいるという前提なら話は別だろう。
ユキとシュウが幼馴染ということは、ユキのことを相談するという名目でシュウに近づくのも容易だろうし、ユキとかなり親しげだったナツキに恋愛話を振るのもやりやすくなる。
だが、それに意味はあるのだろうか?
二人の現状をよく知ったところで、俺たちに何ができる?
二人が付き合ってしまった時点で、手遅れじゃあないのか。
俺は疑惑を込めた視線でユキを見据えた。
「もちろん、別れさせたりできるなんて思ってない。でも、自分の知らないところで好きな人が何かされちゃってたりしたら、私には耐えられないから……」
『何か』。その意味するところは分かる。しかし、それなら逆に……いや、それこそ知らない方がいいのではないか。何かあったことを知ってしまった後、何気なく接してきたナツキのことを今までと同じ態度で接することができると、俺には思えなかった。
だから、ユキの『協定』とやらには応じない。俺はこの時にそう決めた。
「何か勘違いしてないか?」
「え?」
自分のセリフで落ち込んだのか、顔を俯けていたユキは不思議なものを見るような目で俺を見る。
何故か胸に沸き起こった軽い罪悪感を押し殺して、俺は突き放すように言った。
「俺がナツキを好きだって前提で話してるみたいだけどさ、俺は別にナツキのことなんとも思ってないから。さっき分かるって言ったのも、長く付き合ってた友達が知らない奴と遊んでる時の寂しさみたいなもんでさ、恋愛感情なんかじゃないよ」
ズキリと、胸が痛んだ。
そう思い込ませようと自分に向けた言葉が、大事なものを自分の不注意で壊してしまった時のように、やるせない思いを呼び起こす。
「アンタの、勘違いだって」
ダメ押しのように続けた言葉。胃が締め付けられるように苦しくって、舌はカラカラに乾いていた。
「もう昼休みも終わりだろ、俺はもう教室に戻るよ」
立ち上がる。ちらりとユキを見ると、呆然とした様子でコンクリートの床を眺めていた。
ユキにしてみれば、それがあの二人に介入できる最後の手段だったのだろう。
初対面の男と付き合ってまで、そんなことを自分から言い出してまで、諦めきれない想いがあったのだろう。
それでも俺には、そこまでする気力が無かった。話を聞くきっかけになった彼女の瞳に込められた想いは、俺のそれとはまるで釣り合わないほど重い。
ナツキが誰かの隣を歩いている姿をずっと見続ける覚悟なんて、俺には無い。今でさえ、顔を合わせることさえ苦痛だというのに。
「柊さんも、もう付き合ってるやつらに変なちょっかい出すなんて止めた方がいい。それが好きな人ならなおさらだ」
そして一歩。前に踏み出した時に、押し殺したような声が聞こえた。
「………のせ……ゃない」
「は?」
振り向いた俺に、ユキは俯いたままで叫んだ。
本当に良かったと思う。昼休み終了間際のこの時。もう屋上にはほとんど人がいなかったこと。
「あなたが、ナツキちゃんをちゃんと捕まえておいてくれなかったからじゃない!!」
さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら。ユキは張り詰めた声で立ち尽くす俺に詰め寄った。その目の端に、涙すら浮かべて。
「ナツキちゃんがいつも話すのは、ハルっていう幼馴染のことばっかりだった!いつも楽しそうに、嬉しそうに話すから……だから、ナツキちゃんはあなたの事が好きなんだと思ってたのに!」
ナツキが友達に俺のことを話してた? いつも? 楽しそうに?
そんな事は初耳だった。たとえそれが俺のことが好きという事には直結しなくても、俺は揺さぶられていた。それが事実だということは、ユキの表情がどうしようもなく証明していたから。
「それなのに、紹介されてすぐのシュウ君と何事も無くくっついちゃうし……。私、訳が分からなかったんだから!」
握った拳で、ユキが俺の胸を叩く。力なんて全然こもっていないはずなのに、ズキズキと内側から刺すような痛みが襲ってくる。
胸に置かれた腕を、俺はそっと掴んだ。
俺の顔を見上げたユキの表情が、一瞬の後に苦痛で歪む。それを見ても、手の力を緩めることなんてできなかった。吐き出された言葉の中のただ一点。その疑問を口にする。
「紹介されて……って、誰に紹介されたんだよ」
ハッとしたユキの顔を見て、確信した。
「言えよ。ナツキにシュウって奴を紹介したのが誰なのか」
「それは……」
「言えよっ!」
声を荒らげる。おかしいとは思っていたんだ。
頻繁には会っていなかったとはいえ、ナツキに付き合うほど仲のいい男子がいれば、心当たりくらいは出てきていいはずだったのに、シュウという男の名前は付き合い始めるまでナツキの口から聞いたことさえ無かった。
春休みの二週間ほどの間、そんな短い期間に急速に距離を縮めるなんて、現実的な話じゃない。何かきっかけがあるはずだったんだ。
「……私よ。付き合うはずなんか無いって、そう思ってたから」
ユキの腕を握って立ち尽くしたまま、気づいた。
俺たちは、本当に同じだったんだ。この結果は自業自得だった。嘆く資格すら、持っていなかった。
「分かった」
「え?」
涙も拭わずにいたユキの顔を真っ直ぐに見つめて、俺は覚悟を決めた。
俺は、こいつに対して責任を取らなければならない。そして、こいつにも俺に対して責任を取って貰わなければならない。
「さっきの話、乗るよ。君と付き合う」
こうしてこの時から、俺たちの心底下らない、『協定』とやらが始まったのだ。