Neetel Inside 文芸新都
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腐蝕三角標識
柴田水平太のはなし

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 柴田水平太ことスイヘーはお風呂が嫌いだ。
 そのうえ雨でも傘を差さないものだからすっかり頭が禿げ上がってる。近頃の雨といえば酸性雨とは名ばかりの、工場の排風孔から吹き上げられた怪しげな菌類が混じった培地片だ。そんなものを何年も直に浴び、かつ洗浄されるわけでもないスイヘーの頭部はプラチナめいた輝きを放つ、厚い被膜で覆われていた。
 彼の頭に積層した光学シールドじみた垢は、顔面に近づくにつれ薄くなり、かつて眉毛が生えていた眼窩のちょっと上のところで途切れている。このことから察するに、さすがのスイヘーといえど顔くらいは、願わくはそれなりの頻度で洗浄しているのだろうと推測できた。

 彼がこの都心部にやってきたばかりの頃はふさふさした髪が彼の頭部を覆い、太い眉が彼に愛嬌をもたらしていたに違いない。顔の中心から離れた両目は、今となっては爬虫類を想起させるばかりだが、その瞳の穏やかな光に気づけば彼もかつては好青年だったのだと想像できた。

「今年で24になんですよ」
 職場で彼がそう言ったとき、周囲は大いに驚嘆したものである。
 そして新人の幾人かが、次の日辞職を申し出た。
 もちろん、他の職場の人間は毎日洗浄機に入り有害微生物を洗い流す、もしくは防菌繊維の衣服を身にまとうなど「スイヘー化」対策をしていたわけだが。

 その頃、ある種の恒温槽と化した彼の頭部では、繁殖した産廃粘菌どもが彼の脳神経が発する微弱な電位差と同期して不規則な燐光を発するようになっていた。蛍光タンパク質を発現しているということは、スイヘーの頭で繁殖している粘菌群にはその遺伝子上流に人工的な塩基配列が組み込まれており、十中八九それら謎の遺伝機能が発現されているのだ。悲しいかな、彼の職場には彼の頭部の可能性について論じれる知識のある労働者はいなかった。

 成長した粘菌がはじめて彼のシナプス発火と同期した日、職場の上司はついに彼を呼び出した。普段は部下の容姿にとやかく言わない上司だったが、頭を奇体なイルミネーションで装飾するのだけはいただけなかったのだ。
 言いたくはないが、俺たちの職場にだって監査という概念があるのだ。その概念には、ここ都心部の工業特区に限っては従業員のバイオ・コンディションも項目に含まれている。
 そう告げられた時、スイヘーの穏やかな瞳に悲哀が宿る前に、彼の左側頭部が、感情を司る側頭葉の辺りが鈍く光った。それを見た上司はそんな彼を問い詰めることができなかった。監査の日は連絡を入れるから、その日は休めと、上司はため息をついて話を納めた。
 スイヘーの側頭部に、眩い煌めきが走り、上司はそれを眺めてなにがしか自分が満足するのを感じるのだった。

 言葉より先に頭部の燐光が感情を表すようになってしまったスイヘーだが、決して無口な人間信号機だったわけではない。それなりにしゃべった。職場にしろ、私的な空間(主に飯屋)にしろ、スイヘーのちょっとかすれた笑い声が響いていたものである。

 趣味という趣味はもたないスイヘーだが、仕事の帰りにジャンクフードを買い、路地の猫と戯れるのが日課だった。
 工業特区の表通りにしろ裏通りにしろ、大抵はじめじめしているのだが、運よく乾燥している空間もある。工場の外壁から生えているパイプが熱をもっている、工場内の気圧を調節する装置があることが条件だが、そんな小道をスイヘーはよく見つけられたものである。スイヘーが見つけた通りは、むしろ乾燥しすぎな上に肌が妙にピリピリするので、何かしらよくない物質が散布されていることが推察された。が、その小道の先住民たる猫どもにとっては些細な問題だったようだ。もちろん頭皮だけ異様に厚いスイヘーも同様である。
 夕方、壁から飛び出た調圧扇の箱の上でまどろんでいる猫と一緒にぼんやり空を見上げる。故郷の空を思い出すのだろうか、猫どもにスナックをぱらぱらとふりかけながら昔自分の住んでいた土地のことを独り言ちるのだ。

 父も母も、それに妹も故郷で暮らしていると聞いたことがある。景気が悪くなり、彼が帰りの渡航費すら稼げなくなってからもう4、5年経っただろうか。家族はスイヘーの頭が人知を超えた豆電球と化していることを知らない。
 お袋は泣くんじゃないかな、そう呟きながら猫をなでる彼の頭に哀しみとも諦めともつかない模様が浮かぶ。
 猫がそれを引っかこうとするのをひょいとかわして彼は笑った。

 この時代、この都心部にはこんな工業特区があといくつかあり、その劣悪な環境には、スイヘーのようなへんてこな形態で適応している住民達がいたのだ。
 彼らがミュータントと呼ばれて差別が始まる日まで、彼らが「健全」なヒューマンとは別な生き物であるとアイデンティティを獲得する日まで、彼らが1つの「民族」として自治区を築くまで、まだいくばくかの時間が残されていた。

 今はもう、互いに隔絶し交信することさえ叶わないが、あの進化の黄昏時、変異遺伝子が集団中を漂流していた束の間、私達がともに笑い、会話を交わした時もあったことを思い出し、これを記す。

 <柴田水平太のはなし・完>

       

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Neetsha