Neetel Inside ニートノベル
表紙

自分を左殺しと思い込んでいるプロ野球選手
エピローグ「二〇二三年十月一日の山﨑太郎」

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「山﨑選手……現役生活お疲れ様でした!!」
 平和記念公園のベンチに座っていたら、アイロンズ帽を被った少年が走り寄ってきた。そしてそれだけ言って少年は身を翻して母親らしき女性のもとに駆け戻って行った。その女性は、遠くから俺に一度二度と頭を下げてから、山﨑さんもプライベートなんじゃけえ迷惑かけたらいけん、と少年をたしなめていた。
 そうなのだ。この街は。広島はこうなのだ。俺は埼玉県民だったので最初は戸惑った。こんなふうに一方的に話しかけられたことは幾度となくあった。別に珍しいことじゃない。この街の人たちの多くは、サインも握手も求めなかった。ただ、親愛の情のようなものを込めて、さっきみたいに言葉をくれた。もっともそれは、俺が中途半端な選手だったからかもしれないけれど。ここに居たのが、それこそチームの主砲横村とかなら、あの少年も帽子のつばにサインをするよう頼んでいたに違いない。
安芸島アイロンズと広島は切っても切り離せない関係だということを、プロ野球選手としてこの地で暮らさなければ、俺は一生知らないままだっただろう。この深すぎる、時として馴れ馴れしくなりすぎるホームタウンとの関係性が合わない選手も実際に存在した。その選手は、FAで関東の球団に移籍してしまった。それだけではなかったにせよ、かと言ってそれが移籍の理由に全く関係していないとも思えなかった。この街ではおちおち出歩けない、とよく愚痴っていたのを憶えている。
「さすがスター選手だね」
 隣に座る妻が呟いた。
「数年タダ飯喰らいを続けてきたスター選手だけどね」
 俺は心からの本音を妻に吐き出した。だってどこからどう見てもそうだし、事実としか言いようがない。
「どこのニュースサイトでもまだトップページに残ってるよ、ホラ」
 手にしたスマホの画面を見せてくる。『電撃引退! 元首位打者で東京五輪代表の安芸島・山﨑 最終打席で本塁打』との見出し文。タップすると、手首を摩りながらホームベースを回る昨日の写真が目に飛び込んできた。
 さらば、“左殺し”──その一文から始まる、長めの記事だった。恐縮する。
「『故障の影響もあり活躍期間は短かったが、安芸島アイロンズの黄金時代を現メジャーリーガーの洗川らとともに築き上げたその姿を、ファンは忘れることはないだろう』だって」
「…よく書いてくれてるな」
「洗川さんのインタビュー記事もあるよ!」
「あ、そう」
「『日本で出会った中で一番インパクトのあるバッターでした。左投手を殺しまくってた頃なんか、完全にゾーンに入ってましたね。めちゃくちゃ頼りになりましたけど、でもちょっとヤバいなって思ってベンチから見てました(笑)』──日本に帰ったらご飯に誘います、だって」
 洗川からは電話ももらっていた。わざわざ日本のいい時間に合わせて電話してくれて、彼はポストシーズンを目指してシーズンの佳境を戦っている中なのに、申し訳ないなと思った。
『ねぇ、ザキさん。本当に辞めんすか? 後悔しない?』
『しないよ。手首痛いから無理だし』
『痛いから辞めるなんてらしくないでしょ! 思い込んで色々喋っちゃって引っ込みつかなくなってるだけでしょ? 続けたかったら続けりゃいいじゃん』
『…契約してもらえないよ』
『別にアイロンズじゃなくてもいーでしょ。独立含めりゃ野球やれるとこなんて今はいっぱいありますよ。それにザキさんには商品価値もあるんすから。元首位打者だし、元オリンピック代表だし、元左殺しだし』
『お前笑って言ってんじゃん……飲んでんのか? ないよ、ないない』
『まぁ、アレですよ。辞めるって言った手前言い出しにくいかもしれないっすけど、また野球したくなったらすればいいんすよ。プロレスラーとか何度でも復帰するじゃないですか』
『…プロレスラー?』
『明日起きたらきっと、そんなに痛くないですよ。手首』
 最後に洗川の言ったことは、なんと当たっていた。思いのほか痛くないのだ。昨日プロ野球での仕事を完全に終えたはずの、俺の左手首が。でもそれは言えない。だって、言ってしまえばどっちらけになってしまう。総ツッコミを食らいかねない。
 また癖が出たのだろうか? こんな時にも。強く思い込み過ぎてしまう、俺の──良いんだか悪いんだかよく分からない癖が。もう駄目だ、出来ないと思い込んでしまっていたのだろうか? 実は、長期の療養を経て、そしてリハビリと実戦を重ねて、左手首のコンディションは意外と整ってしまったりしたのだろうか? まさか。
 どうしよう。迷い始めてきた。
「ちょっと飲み物買ってくる」
 妻を残して近くのコンビニに入ると、スタンドに刺さっているスポーツ新聞の見出しが目に入る。
『最後も“左殺し”! まだやれるぞ!』
『余韻を残す劇的引退弾!』
『まだできる』
 目を背けた。俺は完全燃焼したつもりだったのに。いや、実際昨日は完全に燃え尽きた感じだった。精も根も尽き果て、なんとか最後にほんの少しだけ意地も見せられ、多少は満足してプロ野球選手生活を終えられたと、涙とともに車に乗り込んだのが、九月の最終日じゃなかったか。
 それが、十月になった途端にこんなグラつくか?
「ありがと」
 妻が好きなカフェオレを手渡すと、微笑んでキャップを開けた。
 アイロンズからは、来年の二軍打撃コーチのオファーを受けている。昨日の取材でははぐらかしたが、俺はそれを受諾する気でいる。いや……いた? いや…………いる。
 もはや俺一人の人生じゃない。配偶者がいる。一人だったら、あるいは自分の“本当の気持ち”に従うこともできるかもしれない。だが、プロ野球選手としては終わっても人生は続く。生活は続くのだ。生活が。生きていく糧が、必要だ。
「…こんなふうにあなたとのんびり過ごすの初めてかも」
「そうかな」
「だって、今まではオフでも必ず何かしらのトレーニングはしていたでしょう? 完全に何の予定もないって日は一日もなかったよ」
「確かに……」
 そう言われてはっとした。“なにもやらなくていい”なんて、物心ついてからあっただろうか? 少なくとも、本格的に野球を始めてからはなかったんじゃないか。つまり、二軍コーチとして正式にチームに帯同するようになるまで、なにもやらないでいてもいいのか?
 それ、どうするんだ?
「そう言えば、身体は平気なの?」
「…めちゃくちゃ痛いよ、手首」
「ペットボトル持ってて大丈夫?」
「…もう酷使はしなくていいからさ」
「顔見せて」
 妻は、両手で俺の顔を掴んで、ぐっと自分の方に引き寄せた。初めてではないのに、妙に心がざわつく。
「…本当に燃え尽きてる?」
「昨日言ったじゃん、終わったって」
「終わった人の目じゃない気がするなぁ……手首も、別に痛くなさそうだし」
 この人には俺がどこまで見えるんだろう? かつて、この人のことを、俺は“菅原さん”と呼んでいた。付き合い始める前から、自分の深いところまで見られているような、不思議な感覚を覚える女性だった。
「一つだけ覚えておいて。私は、あなたをずっと応援してる。それは変わらないから。たとえどんな道を選んだとしても。そして、その道がどんなに険しくて辛い、他人から見て無謀で無意味に感じられるようなものだとしても……あなたが“そうしたい”なら、そうして」
 そう言って、笑うのだ。
「ずっとずっと、応援してる」
 本当に正しいのは自己評価より他者評価だ。ましてやそれが、最愛の女性の評価なら──俺はまだ、応援されるに足る人間なのだ。
「ちょっと走ってくる」
 妻は、頷いて手を振った。
 身体は動く。心も動く。思い込め。俺はやれる。まだやれる。
 今は色々なしがらみを振り切って生きよう。
 俺は、プロ野球選手の山﨑だ──。


あとがき

 2023年の9月30日か10月1日になったらエピローグを書こうというのは最終回を書いたあたりから考えていました。とりあえずこの日を生きて、書ける状態で迎えられてよかったです。たまたま休みだったのも。
 ただ、実際はデイじゃなくてナイトゲームだったし、相手も巨人じゃなかったですね。そこは外しました。無念です。ただ、ホームゲームだったのは当たりました。あと勝ってました。そこはよかったです。

 辞めさせる気満々で最終回を迎えたのですが、その後書いた番外編で山﨑のファンの女性(収まりがいいので結婚させてしまいました)のエピソードを書いたあたりで潮目が変わった感じがあります。あと、単純にいちエピソードとして読んだ時、この展開の方が絶対に面白いだろうと思ったのでこうなりました。アイロンズはたぶん契約してくれないと思いますけど、国内他球団が拾ってくれるでしょうか。独立なら作中で洗川が言っていたように商品価値があるので、どこかはオファーを出すでしょうね。どんな道を歩むにせよ、プレイヤーとしての山﨑の人生は、どうやらまだ続くようです。

 今年最初に書いた小説です。意外と書けた気がします。仕事は忙しくなってきました。ある意味で懸案だった(いやさっきまで書いてて楽しかったですが!)左殺しがこれで完全に終わったので、できればまたなにかやりたいのですが……相当ラクにできる、時間も労力も要らないのをなにか……。無理かもしれませんが。
 とりあえずこれで終わりです。足かけ6年お付き合いいただいた方もいらっしゃると思います。ありがとう。いい思い出になりました。
 エピローグ楽しんでもらえたらうれしいです。

       

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