自分を左殺しと思い込んでいるプロ野球選手
番外編4「埼玉の某県立高校野球部の思い出」
プロ野球選手になっても、母校の野球部のことは気になるものだ。特に野球名門校出身の選手などは、記者の人からよく母校の現状について質問が飛んできていた。それにしても、今年は特にその質問が多い感じがする。夏の甲子園大会が百回の節目ということもあるのだろうか?
「そんなにちゃんとは見れてないんですけど、こないだの試合なんか良かったですよね。なんか、穴のないチームっていうか。どうせならこのまま勝ち進んでもらって優勝しちゃえって感じですね! 優勝したら、なんかプレゼントしますよ。なんかね--」
ちょうど俺の近くで取材応対している洗川なんか、全国制覇経験者である。負けたら終了の厳しいトーナメントを最後まで勝ち抜くというのは、途方も無い偉業のように思えた。
洗川のコメント取りがひと通り終わったか、記者の何人かが俺の方に足を向けた。
「山﨑選手は、夏の甲子園の思い出は?」
正直、どう答えていいものか。
「いやぁ。俺、出てないですからね。甲子園。弱い県立の高校だったので。部員もそんなにいなかったしなぁ……」
それでも、せっかく取材してもらっているんだ。記憶を掘り起こしてみよう。
別に大した選手じゃなかった。
野球が好きで、中学では迷わず野球部へ。同級生は気の置けない奴らの集まりで、上下関係もさほど厳しくなかったので、ただただ楽しく部活をしていた。練習終わりで、通学路の途中にあった友達の家に寄って漫画読んだり、今にして思えば何の変哲もない時間を送っていた。プロ野球選手はあくまでも夢。遠くにある夢だった。なれるとは思っていたのだが、特に根拠のない思い込みだった。どこにでもいる、普通の中学生だったんじゃないか。
それでも、中学の県大会ではけっこう打てて、いくつかの私立高校から軽く声を掛けられた記憶がある。ただ、走攻守すべてにそこそこで、スカウトの人達にとってもそこまで魅力的な選手ではなかったのだろう。あまり熱烈に誘われることはないまま、親の希望もあり、自転車通学圏内の県立高校に進学することになった。もちろん、普通に受験して入った。
高校でも野球部に入ることに迷いはなかったが、その環境は中学の頃とは大違いだった。
先輩達が、とにかく厳しかった。少しのミスでも容赦なく怒鳴られたし、胸倉掴まれてグラウンドに叩きつけられたことも一度や二度ではなかった。また、先輩の荷物は全て一年生が運ばなければならないなど、まるで奴隷のような扱いをされることも度々あった。ここまでくると、厳しいで済ませていいものでもない気がする。先輩達の優越的な吊り上がった笑みに吐き気がした。今思い返しても腹が立ってくる。
そんな有様だったので、入部当初三十名ほどいた一年生も最初の一月で半分辞め、夏の県大会が始まる頃にはそこからさらに半分近く減っていた。まさか、野球名門校でもない、県大会で三勝出来れば上出来クラスのチームで、ここまで厳しいとは……
その頃の俺は、中学時代とのあまりのギャップに戸惑い、状況に適応し切れていなかった。野球がしたくない、練習に行きたくない。そんな気持ちになるのは初めてだった。
それでも、俺は練習に参加し続けていた。この状況を変えたいと思っていた。とにかく、楽しく野球がやりたかったし、こんなことで野球を嫌いになりたくないと思っていたのだった。ふるい落とされなかった同期部員に支えられていたのも大きかった。
練習終わり、自転車を引きながら、こう語り合っていた。
『今は耐えよう。俺たちの年代になったら、野球部を変えよう』
伝統は変えてはいけないものもある。例えば、アイロンズに通底する市民球団という誇りは守り続けなければならないと思う。だが、悪しきものも間違いなく存在する。厳しさも大事ではあるが、半ば下級生イジメのようになっている『伝統』は、要らない。必要悪ですらない。一人一人意思ある人間を、強権的に跪かせて言うことを聞かせるのが躾なのか? 先輩達は、社会常識を叩き込んでやってるくらいに思っていたかもしれないが、そんなのは社会非常識である。常識じゃない。これは、今になってさらに強く思うようになってきている。
最近様々なスポーツの現場で似たような問題が発覚しているが、どうも根っこはどれも似たようなものなのではないか。先輩、コーチ、監督、会長……立場は違えど、あらゆる『上に立つ者』が、本来競技とは関係のない行為を強いている。ガンになっているのは、優越感、支配欲、権力欲といった、スポーツとは何ら関係のないものなんじゃないか。
もちろん、当時はそこまで考えてはいなかったが、理不尽を強いられるのも嫌だし、誰かに強いるのもまた嫌だった。そんな考えを持てたのは、中学時代の野球に楽しませてもらえたお陰だったのかもしれない。プロ野球選手にでもなれば、楽しいだけでやっていくのは難しい。辛いことも多い。ただ、プロになるまでは、楽しくやれるにこしたことはないと思う。何故なら、アマチュアだからだ。仕事じゃない。
夏の県大会で敗れ、三年生が引退してからも、直近の三年生の影響が色濃い二年生が俺達に厳しく当たった。引き続き耐え続けた。翌年、俺達が二年生になると、新三年生の矛先は入部したばかりの一年生に向かった。まるで去年のビデオを観ているみたいだったが、違った点と言えば、二年生が一年生のケアをしていたことだ。
『今はしんどいだろうけど、なんとか夏の大会が終わるまでは耐えてくれ。あの先輩達が最後だ。俺たちは、こんなことはしないから』
理想としては、後輩の壁となって先輩達の『躾』を止められたら良かったが、それは出来なかった。先輩達の優越感を侵すことで、その凶悪性がどのような方向でエスカレートするかが読めなかったからだ。これ以上のコトが起これば、現実的に野球を続けられなくなる可能性が出てくると思われたのだ。野球部はイジメの舞台となっていたが、それが露見してはいなかった。後輩達を守る代わりに野球部が崩壊するかもしれないと考えると、目に見える形で後輩を助けることはできなかった。
結果として、一年生の中途退部者は数名単位で済んだ。声掛けの効果が多少はあったのかもしれない。俺達の時もこうして二年生が声を掛けてくれていたら、どうだったのだろう。
三年生が引退して、俺達の年代が最上級となった。俺は自身で志願してキャプテンを背負った。ここが、野球部をガラリと変えるタイミングだった。
自分の荷物は自分で持つ。練習は全員均等に、雑用はさせない。ミスしたら大声で励ます--当たり前のことを当たり前に。楽しさを、雰囲気の良さを醸造することに拘った。
すると、劇的な変化が生じた。部員全員の動きが明らかに向上したのである。考えれば当たり前のことだ。いつ怒られるか分からない、という状況の中、体を強張らせてプレーするより、ミスして元々、思い切り良く、楽しくプレーする方が、身体は断然動くものだ。
新生野球部の舵取りは上手く運んで、良い環境の中で競争が発生した。そもそも、それまでは競争の概念があまりなかった。三年生は、たとえ二年生より野球の質が低いとしても、不動のレギュラーとして試合に出続けていた。監督は野球の素人であり、練習内容にもレギュラーメンバーの選定にも関わっていなかった。優越権を持つキャプテンが選ぶのだから、下級生がレギュラーになれる機会などなかったのだ。
二年生はちょうど九人で、ポジションもそれぞれバラついていたが、秋の地区大会では、一年生が三人もレギュラーに食い込んだ。純粋にプレーの内容を見極めた結果だった。
実戦でも違いはすぐに現れた。地区大会を勝ち抜き、秋の県大会に進出し、そこでも関東大会まであと一歩に近づく八強進出。試合に勝てるようになると、さらに練習にもハリが出た。
やはり、楽しくやることは間違っていないのだと思えた。いよいよ俺達の世代が三年生となり、変化の正しさを証明するための仕上げをしようと、内心張り切っていた。
それは、甲子園に出ること。
このやり方で聖地に辿り着ければ、この野球部はもう間違えない。誰かを虐げるような悪しき過去に二度と立ち返らせたくない。そんな風に考えていた。
最後の夏、俺達は快進撃を見せた。ハツラツとグラウンドを駆け回り、バントなどせず、連打で得点をもぎ取っていく。誰かが打つと俺も! と続いていく。観ている人達も楽しかったと思うが、やっていた俺達はもっとたのしかった。あの時、ベンチには笑顔が溢れていた。
それでも、終わりはやってきた。準決勝で、甲子園常連の私立高校と当たった。全国レベルのピッチャーには手も足も出ず、たまの好打も鍛え上げられた守備陣に阻止される。打線も役割が明確に定められており、リードオフマンが出塁し、得点圏まで送って、プロ注目の主軸打者が一振りで仕留める、といった型がしっかりと出来上がっていた。あれは、強かった……
俺の最後の夏は、県大会四強という結果で終わった。県立高校としては上出来の部類だが、それでも悔しさばかりが残った。楽しい野球で県立高校が甲子園まで行ければ、これを新たな『伝統』として根付かせられたはずなのに--
試合後、学校のグラウンドに戻り、俺は三年生を代表して引退の挨拶に立った。何を言ったかよく覚えていないが、最後の言葉だけは忘れない。
『…野球は楽しくやるものだと思う。楽しくなければやらなくていいんだよ。楽しくやり続けることを大事にして、二年生と一年生には、これからも続けてもらいたい……』
「…今年も予選で負けましたけど、でも、面白い試合したみたいですね。十五対十三ってスコアで」
とんでもない試合してますね! そう驚いた記者の人達を見て、俺もおかしくなった。
「勝つのも大事ですけどね。すぐにコロっと負けたらつまんないし。でも、一番大事なことは、試合を楽しむことですよね。俺みたいにたまたまプロ野球選手になれたり、社会人で続けられる人は少ないので。永遠に野球が出来るわけじゃないから、辛い、しんどい思いして野球やってる時間なんて勿体ないと思うんですよね……」
高校卒業後、大学に進学。大学リーグ戦で成績を残したことで、俺はプロになれた。だが、高校で野球がつまらないと思ってしまっていたら、大学では普通に勉強をして、就職する道を選んでいたかもしれない。
思い返せば、人生は紙一重だ。瞬間瞬間の判断、行動で、行く末は大きく変わる。
世の中の至る所に今もいるだろう、今の状況に迷っている人が、自分の中の正しい軸を見つけて、一歩足を踏み出せることを願いたい。
…過去を振り返るのはこのくらいにして、バットを振らなきゃな。