自分を左殺しと思い込んでいるプロ野球選手
第五打席「プロ野球の光」
プロ野球は、つくづく光と闇の世界だ。
夏頃まで俺は、プロ野球界の闇と一体化して、とっぷり浸かっていた。夏場の由宇での二軍練習は、炎天下で肌は焼け焦げたが、そういうことではないのだ。どんなに陽の光を浴びても、自分の将来は暗く見えた。
--それがどうだ。今の俺は過去の俺からどう見えるだろう。信じられるだろうか。
眩しくて目の前が見えない。だけどそれは太陽じゃなく、カメラのフラッシュ。意味がまるで違う。俺は今まさに、プロ野球の光の中にいる。
日本シリーズMVP。この言葉が、全く実感をもって響いてこない。最近まで二軍で燻っていた、大卒四年目の崖っぷち男が? まさか。
それでも、これは夢じゃない。フラッシュに包まれて、インタビュアーから向けられたマイクに、言葉を紡いで乗せている。これは、俺が過去に見てきた"誰か"の姿そのものだ。スターという人種の--
日本シリーズMVP、山﨑太郎。
今日の夜は騒がしくなる。そう、思った。
今日の夜は騒がしかった。
今年のプロ野球日本一になった、我が安芸島アイロンズ。今年何度目かのビール掛けが終わった後には、民放各局のスポーツニュースに連続出演。普通俺のようなランクの選手に出演の打診はされないが、日本シリーズMVPである。そりゃあ、呼ばれないわけがない。
マスコミ関係から解放されたのが、ようやく日付の変わったあたり。共に日本一を勝ち取った仲間達は、これから夜の中洲へと消えていこうとしている。
「山﨑さ〜ん! タクシーきましたよ! 行きましょうよ〜っ!!」
俺より遥かに給料の高い、"不動のレギュラー"様の洗川がタクシーの窓を開けて叫ぶ。MVPの賞金を当て込んでのことか。
「月給五百万以上のスタープレイヤーさんと同じ車に乗るのは畏れ多いよ!」
「ちょっ、サラッと人の給料バラさないで下さいよ! どこで誰が聞いてるか分かんないんスから! ツイッターとか怖いから!」
「誰も聞いてないよ……ホント悪い、今日はもう疲れた」
俺はそう言い残してホテルに向かう。振り返らずに背後に手を振って--
早く一人になりたかった。今日--昨日か、振り返りたかった。ようやく、ホテルの部屋にたどり着けた。
スマートフォンでラジオを聴けるアプリがある。最近、過去の番組を後追いで聴ける機能が出来た。俺はこれを活用して、アイロンズ戦の中継を聴き返していた。テレビのニュースでは活躍した場面しか流れないが、ラジオなら一部始終を確認することが出来る。
自分の行動が、他者からどう映っているかの確認。冷静に考えると凄いことだ。全世界に公開されているということが。ホームビデオじゃないのだから。
信義を重んじ、中継は広島の放送局のものしか聴かない。今日の試合のゲスト解説は、引退したばかりの園田さん。今日という日に、園田さんが解説担当というのは不思議な縁を感じてしまう。
『山﨑選手ですが、彼のポストシーズンでの活躍は、とても嬉しいですね。彼は私と入れ替わりで一軍に上がってきた選手なので、打席でも特別な思いで観てしまうのが正直なところです』
そんな思いで観ていてくれているのか、と嬉しいような、恐縮するような。スーツを脱ぎ、ネクタイを解いた。
『昇格してからの彼の活躍は凄まじいものですが、ただ一点言わせてもらうなら、もう少し右投手が打てるようにならないと……それだけですね。右を克服出来れば即レギュラーだと思いますから、すごくもったいなく感じてしまうんですよね……』
分かってます、すんません。本人を目の前にしているわけでもないのに、つい頭を下げてしまう。靴下を脱いだ。
『彼が左投手を打てる要因というのは、これまで培ってきた技術ももちろんあると思いますが、何よりも"自分は左投手を打てるんだ!"という強い自信が好成績に拍車をかけていますね。山﨑選手は気持ちでプレーするタイプの野球選手だと私は思っているのですが、今は本当に心の状態が良いのでしょう』
そうなんでしょうね。多分、今が人生最高の状態だと思います。シャツのボタンを外した。
これ以上は、もう、ない。
『--最高の場面でまた回ってきましたね……! このポストシーズン、彼はこんな場面でばかり打席が回ってきます。そしてことごとく結果を残してきました。こうした短期決戦で賞を獲る選手というのは、本人の実力以上に、巡り合わせというのがあるんですよね。ここで逆転の一打を放てば、日本シリーズMVPも見えてきますね』
きた。第四打席。九回表、六対三とリードされている状況。アイロンズは粘りを発揮して、ツーアウトながら満塁まで漕ぎ着けて、俺まで繋いでくれた。確かに、ここで運の巡りの良さを感じたものだ。さらに、相手が左投手だということも。プラムズも、当然俺の左成績の良さは認識しているが、マウンドには通算二百五十セーブを記録している大黒柱が鎮座していた。交代という選択肢は存在していなかったはず。
ホームランなら、大逆転で九回裏を迎えられる。そうしたら、今度はウチのクローザー、エディソンの出番だ。最速百五十八キロの豪速球で見事封じてくれるはず。そのビジョンまで描けていた。
人生最高の舞台。そんな瞬間に、自分でも恐ろしくなるほど冷静で、良く見えていた。
『いやー、山﨑選手、ボールが良く見えていますね! 悠然と見送っています。ポストシーズン好成績の要因ですよね、これが。打つべきでないボールと打つべきボールが完全に分かっているというような……それが決まって、こういう勝負を決めるような場面で発揮されるわけですから……ちょっと、信じられないですね』
俺だって信じられない。まるで、最初からボールになると分かっている気がしたのだ。それが本当にボールになる。マウンドの相手投手と俺、双方等しく、極限状態にいたはずなのに。いや、追い詰められていたのは俺の方だったはずなのに。どうして、こんなに落ち着いていられたんだろう。
ツーボールノーストライク。状況が整って、取るべき選択肢はシンプルになった。もし俺をこの状況で歩かせたら、六対四で二点差になってしまう。満塁の状況で二点差では、もう全く安心感はない。だから、相手は俺を歩かせられない。
なら、どうする? 相手は、どうする?
この瞬間、打席では不思議と、意識が自分の体から離れていたような感覚を覚えていた。こんなことをインタビューでは言えない。気が狂ったと思われそうで……
人生最高の瞬間。俺の頂点。
こんなことは、もうない。
これからの俺のプロ野球生活は、この瞬間に近づくためにもがき続けるためにあるんだろう。そう、思う。
ストライクを取りにきた、甘い球。
振り抜いた。実況アナウンサーの叫びが耳をつんざく。そりゃあ、そうだ。打った瞬間、確信したもの。やはり、観ていた皆もそうだったんだ。
日本シリーズで飛び出した、プロ入り初ホームラン。レギュラーシーズンの成績ではないから記録はされないが、一軍で打ったホームランとしてはこれが初めてになる。通算ホームラン〇本の選手が日本シリーズでホームランを打ったことなど、かつてあっただろうか?
ダイヤモンドを回る一分足らずの時間で、俺は、こんな瞬間は今だけだし、もうないだろうと考えていた。
夢ではないけど、夢かもしれないという、そんな感覚。
『…参りました。山﨑は、天才ですね……(アナウンサー:園田さんは来年アイロンズ二軍の打撃コーチに就任されるそうですが?)来年、山﨑を指導することはないでしょうね。来年はスタートから一軍の戦力として活躍してくれると思います。この二ヶ月ほどで、彼はそう確信させてくれるほどの輝きを見せてくれましたよ。間違いなく、近い未来のアイロンズを支える男になってくれます!』
園田さん、本当にそうですかね? そう思っていて、良いんですかね?
スター。天才。チームを支える選手。
なんて似合わない。でも……そう思っていて、いいのか。
ホテル一階のコンビニで調達しておいた、三百円以上の缶ビールのタブを開けた。麦の香りが堪らず、一気に喉の奥に注ぎ込む。
「んぐっ、んぐっ……ッハァー! 美味ェ!」
勢いをつけて飲み干した。こんなに美味いビールは生まれて初めてだった。それは、単に値段の高いビールだからじゃあないだろう。
プロ野球の光の中。それがこんなに心地の良いものだと、これまで俺は知らなかった。