私は首を吊って自殺しようと思う。
誰か止めてくれる人がいるかい?
きっといないだろう。私が生きていることで喜びを覚える人はいないのだから。
むしろ、私が死ぬことで多くの人が少しずつ得をするんじゃないかと思う。
気持ちの悪い男が一人この世界からいなくなることで、たくさんの生命が清々しさを感じると思う。
でもね、私は別に不幸とか絶望という気持ちを持って死のうと思うわけじゃない。
それは強がりでも何でもない。
私は希望を抱いて明るく死のうとしている。
子供のころよく教えられたことがある。自殺した人は成仏できなくて地獄逝きになるとね。
でも私はそれについて疑問に思うことがある。
お父さんやお母さんが私にそのように教えたのだけど、それは一体誰から伝え聞いたことなんだろうってね。
神様がお父さんのところにやってきて、内緒話として教えてくれたことなのだろうか。
それなら、どうして私のところにやってきて、天国行きのチケットを授けてくれないのだろう。
お父さんにはえこひいきするのに、私にはちっとも何もしてくれないなんておかしいじゃないかってね。
宇宙はダークマターとダークエナジーに包まれた未知暗黒の世界なんだと親切な物理学者のおじさんが教えてくれた。
お父さんとお母さんが教えてくれた地獄逝きの話より、私はそちらのほうが真実めいているように聞こえたね。
実際、宇宙で観測できることは全体の5パーセントしかない。
それも、ただの質量とエネルギーという2つの概念でしか観測できないんだ。
残り95%のうち、ほんの数パーセントに地獄や天国があったとしても何ら不思議じゃないと思う。
大阪から東京までバスで移動するように、首を吊って地獄に堕ちて、蜘蛛の糸を伝って天国まで移動することができるんじゃないかと思う。
そういう意味では、お父さんやお母さんが言った地獄逝きの話が本当だとしても、別にいいかなと思う。
地獄にいたほうが天国を夢見ることができる。
でも、それなら今すぐ死ぬ必要があるかと言われると困ってしまう。
今すぐ死ぬのと、今から50年後に心筋梗塞で死ぬのと、死後の世界のスタート地点に差がつくのだろうか。
物理学では、時間と空間で世界を考えるそうだ。
だから、今すぐの私は若いけれど、50年後の私はヨボヨボのおじいちゃんというわけだ。これが物理学だよ。
どこかに定住しているというなら、空間座標は今も50年後も変わらない。この場所で死ぬとしても、物理学的には若くして死ぬかおじいちゃんとして死ぬかの違いでしかない。
死後の世界はどうなっているのだろう。もし、この世界と同じように時間と空間で決められているなら、若くして死んだ方がいい。
蜘蛛の糸を伝って天国までよじ登るのも若い方がずっとやりやすいじゃないかというわけさ。
私がもう1つ疑問に思っていることがある。
それは、いい行いをした人は天国に行けるという話だ。
いい行いというのがどういうことなのかってことが、私にはずっと疑問だったんだ。
たとえばね、芥川龍之介の蜘蛛の糸だと、これまで悪行を積み上げてきたカンダタが蜘蛛を一匹助けただけで仏様の慈悲を受けることができた。
若くして死ぬ人は、食べ物をそんなに食べずに死ぬことになるから、助かる動物の数は蜘蛛一匹の比じゃないと思うんだ。
いい行いを全生命にまで広げていけば、マザーテレサが私よりいい行いをしたとはいえないと思う。むしろ、私はマザーテレサを超える善人として認められたっていいと思う。
この世界は食物連鎖で成り立っているから、非道な行いを殺生に求めるなら、どんな生命だって極悪非道な存在になる。
ならば、話を縮小して、人間レベルって話にしてみよう。私はエゴだと思うけれどね。
人間社会で法を犯してきた人間が地獄に堕ちて、そうでない者が天国に召されるなら、死後の世界はひどくつまらないものだと思えてしまう。
結局、人間が支配しているってことだろう?
どうして自殺するのかって、それはこのエゴにまみれた人間の支配から逃れるためだ。
それなのに死後の世界まで人間が支配しているなんて、そんなのはやってられない。一体全体、どうすればこの支配から逃れられるのか。
でも、死後の世界が人間の支配下にあると決まったわけじゃない。観測もできない死後の世界を少なくとも生者が支配することなんてできないはずだ。
昔、ひいおじいちゃんが臨死体験をして、死後の世界のことについてよく話していたんだ。
でもね、臨死体験なんて人間が勝手に決めたことに過ぎないんだよ。実際に死んだのかどうかは人間が定めた死の定義に該当するかどうかでしかない。
実は死んでいなくて夢を見ていただけとしても何ら不思議なことじゃない。
臨死体験が死後の世界を映し出すというのはいくらなんでも考え方としてむちゃくちゃだ。
でも、この現実世界そのものがむちゃくちゃだから、そういう考えに正当性があったとしても不思議じゃないというのはあるね。
知ってるかい?
宇宙は今から100億年前に誕生して、数十億年はガスと塵がうずまくだけの空間だったそうだよ。
ガスも塵も物質だから、当然力学の法則にしたがって運動を続けているはずだろ。
蹴り上げたサッカーボールがいきなり自分の意思で空を飛びまわったりしないように。
でもね、そんなガスや塵から確かに生命という存在が生まれたんだよ。しかも力学の運動方程式に束縛されたという限定条件の中でね。
今日の夕ご飯は何にしようかなと意思決定に悩む人間が、今なお力学の方程式に縛られているなんてとても想像できないだろ。
でも、たしかにガスと塵が万有引力に惹かれあって、結果として生命になったんだよ。
サッカーボールをけり続ければ、いずれサッカーボールが何かしらの生命体になるかのようにね。
でも、究極的に考えれば別に不思議なことでもないのかなとも思う。
0と1だけで数列を作るとき、その数は2の自乗の自乗の自乗の自乗の……と続いて行って、ほとんど∞みたいなものになるだろ。
ガスや塵が複雑にぶつかり合っていくと、人間みたいに複雑な動きをするものが地球上に70億ばかり存在してもまあ、そういうこともあるだろうと言える。
でもね、だとすると少し安心できることもある。
人間に世界を変える力なんてないってことだよ。結局、運命は決まっている。ガスと塵の力学的運動のように人の人生は決まっている。
あれこれ考え、悩み、いかにも選択的に生きているように見えるけど、それもひっくるめて1つの力学なんだよ。
私たちは力学的法則にしたがって生きているに過ぎない。生まれたときから1つの方程式ですべての未来が決まっているんだよ。
そう考えると、色々とあきらめもつく。
あのときこうしていれば……というような後悔もなくなる。あのときこうしていれば……という選択的なオプションは力学の方程式になかったのだから。
私がこうして死ぬことになるとしても、それは力学の方程式で定められた結論なんだよ。
死をDという文字にすると、ある数式の結果、Dという結果がいまこの時刻に発現することになったに過ぎないのさ。
私の死ぬ準備は整った。
ただ、すぐに死ねる気分になれなかった。
私を支配する物理の方程式が、私を自殺させない気分にしてしまったらしい。
でも、今死ななくても、何も変わらないのだけれどね。
死ぬ前に、一つ豪勢にでかいことでもしてみるか。
クレジットカード限度額までお金を借りて、宝くじか競馬の馬券でも買ってみるか。
それとも、台所にある刃渡り10センチの凶器で人でも殺してみるか。
どうせ死ぬと決心した人間にできないことはない。
しかし、同時にそんなことをしても無意味ということもまた死ぬことを決心した人間に与えられるブルーな気持ちなんだよ。
こういうときは適当に散歩するのがいい。
私は出かけることにした。
そういえば、精神科でもらった薬を飲むのを忘れていたな。
私は精神科に通っている。双極性障害という診断結果を受けたよ。
でも、私には自分が病気なのかどうかもいまいちよくわからない。
沈鬱になるときはあるよ。でも、それは誰も同じなんじゃないかと思うんだよね。
自分だけが特別沈鬱になっているわけじゃない。
でも、そうやって沈鬱になる人間があちこちにいたとして、どうして彼らは毎日真面目に仕事をして、いわゆる人間らしい生活ができるのかと言いたいね。
単純に人間として強いからなのか、沈鬱というのは口から出まかせに過ぎないのか。それとも、私が甘えているだけか。
こういう議論というのは不毛を極めるばかりだ。
結局、どうしてイチローは大リーガーになれて、私は大リーガーになれないんだみたいな話になって、それは野球のうまさが違うからだよという結論にしかならない。
それを、私は甘えていたから大リーガーになれなかったんだと言われても困り果ててしまうばかりだ。
強者の理論というのは困ったもので、やつらのペースに合わせていたら誰もろくに生きられはしない。
ああ、だからこの国は少子化になっているのかな。強い人間に合わせようとすると、結局無能は滅びることになる。
それが社会のためになるとみな信じて疑っていないのだろう。
でも、歴史を見てみるとね、自分は強いと思っている人間が勝手に侵略をけしかけていたずらに世界を不毛にしているだけにしか見えない。
エジソンの大発明がなかった時代でも、人々は幸せに暮らしていた。
強者が世界のため、社会のために貢献したなんて、私は真っ赤な嘘だと思う。
むしろ、強者がすべてをないがしろにした。
細々としかし幸せに生活していたところに、強者と驕り高ぶる人間が侵略して、すべてを奪ってしまった。
強者がやったことは結局、弱者の幸せを奪っただけに過ぎない。
でも、この世界ではそれが合法なのだろうよ。
馬がライオンに食われて、馬が文句を言ったところでどうにもならない。弱者が滅びるのは仕方のないことなのだろう。
でも、立派な弱者もいる。いや、弱者というには失礼かもしれないが、たとえば、人間誰しもが嫌うゴキブリは遥かな昔から生き続けている。
恐竜が絶滅したって、ゴキブリはまるで問題なく生き延びていた。
ゴキブリはサシで対決したら、そんなに強くないだろうよ。攻撃力はほとんどない。
スピードだって、蛇なんかに比べると決して速いわけじゃないしね。
タイマンで勝負してもまず勝ち目はない。
でも、ゴキブリは逃げ回り、耐え抜き、それでいてどの生命よりも長く生きている。人間より長く生き続けるんじゃないかと思うよ。
人間がゴキブリホイホイですべて駆除しようと思っても、やつらは決して死ぬことがない。
逃げ回ることで生きているやつもいる。
人間だって同じであっていいだろ。逃げることを忌み嫌う社会だが、生きるために逃げ回るのはむしろゴキブリがその正しさを証明している。
日々を泥棒と廃棄食料で食いつなぐホームレスはゴキブリ的で、私はもっとも長く生存できる人種だと思ったね。
逆に強者と驕り高ぶる人間は恐竜にでもなったつもりで、核戦争を起こしてそのうち滅びてしまうんだ。
人間ほどおごり高ぶる存在はいない。
たとえば、百獣の王と言われたライオンですら、サバンナでは決して驕り高ぶれるわけではない。
集中力を高め全身全霊で戦わなければ、草食動物であるはずのキリンにも踏み倒されてしまうのだ。
彼らは自分自身の立場をわきまえている。だからライオンは群れで行動する。
それに対して、人間はどうだろうか。おごり高ぶり、自分が圧倒的な存在になったつもりで街を闊歩している。
人を見下すことは超一流である。自分がそんなに偉いのかと言いたいね。
人間なんてたいしたことない。刃渡り10センチのナイフで奇襲すれば、年商100億のふんぞりかえった社長も死ぬことになる。
弱いくせにおごり高ぶることだけは一流なのだ。
人間の愚かさというのは、そういうところにある気がする。すべての生命が持つ生きるために必死というステータスを人間だけは脱ぎ捨ててしまっている。
自分はゆとりがある。この社会で力があると思い込んでいる。
私は心底人間というものが嫌いだ。自分が人間であることすら恥じている。
この国は強者だけが生きられる国だ。
自分は強いとおごり高ぶることができるものだけがこの地に立って生きることを許される。
私は日本という国は思いのほか早く滅びると思っている。
それも崩壊寸前とささやかれるようないわくつきの国家よりも早くだ。
何が我が国を滅ぼすかというと、それは傲慢さだ。
この国にはびこる傲慢さは人間から慈しみの心を完全に奪ってしまった。
この国の国民のたちの悪いところは、おごり高ぶるばかりで、その知性も力もまったく欠如しているということだ。
笑ってしまうのは、日本人で初めて……なんて言葉がメディアのいたるところに踊っているところだ。
日本人で初めてなんてまるでおごり高ぶる材料にもならない。日本人だけ世界の特別だと思っている。
あまつさえ、知性は乏しく、テレビで紹介される間違ったダイエット方法を盲信し、痩せないとテレビ局に苦情を言っている。
あらゆる能力が欠如しているのに、権利の主張だけは一人前で、傲慢さをむき出しにして生きている。
私はふと思うことがあった。
地獄逝きになるのは私だけで済まされないとね。もっと多くの者が地獄逝きにならなければならぬと。
私はこの世界を変えるために、ただ自分だけが地獄へ堕ちるだけではダメだと思った。
もっとも、世界を変えるなんてただただ虚しいだけなのだがな。