2017年12月17日更新作品から
セックスマスタータイゾー http://sekumasu.web.fc2.com/index.html
ナイーブオイル先生作品。
漫画として面白いのは第四話ぐらいまで。
後は馴れ合いだけの駄作になってしまった。
ぐろめ先生に描かせたぜつりん勃起のパロディあたりから「ごめんなさい」と言いつつあらゆる新都社漫画からの引用が多すぎて、くどすぎる。無節操な馴れ合い&パロディがメインとなってしまった。コメント欄でも「ごめんなさい」が多すぎた点は酷評されてたと思うが、私も当時ノイズが多すぎるとかそういうコメントをした気がする。正直、見るに堪えない。
第八話では私もパロディされてて、私自身はいじられるのが大好きなので嬉しさはあるけど、やはりちょっと寒いなぁと感じちゃった。パロディされた当人でもそう感じるんだから、私のことなんか全然知らない人からすればもっと寒いだろう。
馴れ合いも程々にね!というのがこれほど当てはまる漫画もない。
いや、馴れ合いの極致のミシュガルドやってるお前がそれを言うのか!と思われるかもしれないが、ミシュガルドとセクマスにおけるパロディは全然違う。ミシュガルドはシェアワールド企画であり、シェアされた設定を元に独自の創作を作り出すというもの。馴れ合いやコラボはあるけど、創作はしている。何も産み出さないパロディや人真似だけのものとは明確に違うのだ。
我々、新都社作家・読者は、他の新都社漫画を読んでいるという前提もあるし、作家・読者の距離が近いので、互いの作品に互いのキャラをコラボさせるのも多いし、交流ということで当人たちは楽しいと思う。でも、別にシェアしてるわけじゃないからね。無断引用も程々にね。よく知らないナイオイ先生にパロディされて、その漫画が好きな読者が不快に思ったりというのも多分あっただろう。
実際、私も「本当にあった後藤健二の話」で2012年~2013年あたりにかけてそういう新人コラボという企画をやって他の漫画の作品のキャラを自作品にモブキャラとして出しまくるというのをやったことはあるし、やってて結構楽しかった。エッセイ漫画だから創作キャラを出すのはモブキャラにしてもちょっとやりづらいはずなのにそのへんは気にせずガンガンやった。で、批判もされた(笑)
パロディはあくまでモブキャラか添え物に留めて置くべき。メインにしてはいけない。本筋に関係してはいけないのだ。加減というか距離感って大事だと思う。
つまり、ナイオイ先生は節操なしにやりすぎたのだ。
バランス的には第一話から四話までなら丁度良いというか、程々の塩梅のパロディで、それなりに読める。特に第二話の「五万でやらせて!」の疾走感たるや、秀逸といっていい。
そんなに長くも複雑でもない話だし、第二話ぐらいのテンションで最後まで駆け抜ければ名作と評価されていたかもしれない。
最初はちょっと光るものがあって良いなと思っていたものが、どんどん余計なものが混じって濁っていって、ぼろぼろになってツギハギだらけになっていくのはちょっと哀れというか、非常にもったいないなぁというところだ。
次回作ではこの経験を糧にして頂ければと。
以上です。