Neetel Inside 文芸新都
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月がきれい
7.「穂波殊は勇者である(またぞろ。)」22/01/25

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 穂波殊の物語は始まらない。
 彼女が学校に行くことはないし、どこかに出かけるということもないので、今日もひがな一日おうちの中で大部分をベッドに横たわり天井を見たり、スマホをいじったり、そしていつしか眠って過ごすという日々を数週間続けている。
 ええ、気まずいですよ。独り言は虚しく部屋の片隅の暗いところへ消えていくばかり。
 これってどうすればいいんでしょうね?答えを求めても、飼い猫のツネさんは答えてくれない。
 耳鳴りがしそうなほど静まり返った家の中はまるで時間が止まっているかのようなのに、外の世界では目まぐるしい変化が起こっているらしいと、彼女は考える。らしい?これは現実だ。
 体調を崩して入院してしまった病弱な友人の見舞いには一度行ったきりで、もう一度伺うタイミングを失ってしまった。
 高校生ながらカメラマンとして活躍している友人は、一声かける暇も持たず、学校を休学してしまった。
 二人ともに留年している留年仲間が学校からいなくなってしまってはあの名状し難い構造をしている学校社会で生きていける気がしないので、こうして引きこもり生活を続けている。
 だから、私は、一向に行動しようとしない穂波殊の代わりに、思念体として世界を逍遥しなければならない。
 彼女の通っていた教室から。
 教室にぽっかりと空いた持ち主不在の三つの机。三人ともに留年生のもの。
 日に日に冷たくなっていく秋の空気に比例してか、帰りのホームルームもどこか静寂を守っていた。
 終礼のあと三々五々解散していく人混みを縫って、このクラスの担任こと竹屋先生に穂波殊について問うと、いつもの優しい表情が寂しく映った。
 「三人も不登校を出すなんて先生失格なのかもね……」

 ここから千キロも北にある、冬を迎えつつある小さな空港に降り立った。
 メッセージアプリでのやり取りで、留年生の一人である六角巴がこのあたりにいるという情報を突き止めた私は、いてもたっても居られなくなっていたから。
 彼女のどこか自由で、良い意味で適当で、あらゆるものが彼女の中で並列であり関心を持っていないところが、枠にはめ込もうとする学校教育という場所においては異質でいびつで、逆に信頼感を生んでいた。
 リムジンバスで町中へ向かったあと、列車に乗り換え、左手に海、右手に湿原を眺めながら、東京とはまるで違う風景の中を突き進んでいく。
 レンガを一つ置いたような平べったい駅に降り立ち、そこからバスに乗り込んだ。
 町を経由する度、乗り物を変える度に、建物の背が低くなり、その代わりに空が広くなっていく。
 ここで、一つの後悔が二つの後悔に変わったのは、嘘をついたことと、もっとマシな嘘をついていればよかったということ。
 バスを降りても尚続く、目的地までの長い歩きの道のりに、都会と同じ感覚で行動しようとしたことが間違っていたことを身を持って知った。
 今、私が歩いている延々と続く長い直線。私は、この風景を撮ってきてほしいと巴に頼んだ。それは本心ではなかったのだけれど、突然ではないと聞けないことはあるから。
 息も絶え絶えは言い過ぎにしても運動不足の身にこの距離は辛く、展望台の真下に着いたその丁度、巴からのメッセージが届いた。
 「なにやってんだお前」
 すかした声で、呆れ顔をしつつも満更でもない態度で、巴が見下ろしている。
 送られてきたメッセージは写真で、よれよれになりながら歩く私が、ファインダーに捉えられていた。
 「ここまでよく来たな……。学校はどうしたんだ?休んだ?それでここまで……。随分悪くなったみたいだけど、私みたいに留年するぞ」
 そういえば、と二の句を継ごうとして、笑い声が消えた。
 「あいつ、殊は?やっぱり、引きこもってるんだろうな……でもさ」

 白いレースが風になびいて、日だまりを少しずつ解かしていくように、少し暖かくも少し冷たい風が、部屋の中へ入り込んでいく。
 ベッドの上で両手に携帯ゲーム機を手にした少女は、来客の訪れを察すると、照れた顔を浮かべながらそれを枕元に隠した。
 「久しぶりだね」
 何事もなかったかのように、少女――、広幡詩季は、小さくはにかんで見せる。
 学校のこと、留年生のこと、特に、穂波殊のことについて彼女は知りたがっているようだった。
 留年生という、部活動でも、生徒会でもなく、一つの負の属性でしかない弱い枠組みであるはずなのに、それ以上の何かを感じているようだった。
 きっと、病気もなく二人ともが二年生になっていれば、全くの他人として今日という日を過ごしていたのだろうと思う。
 それが良いことなのか、悪いことなのか。
 「私が再入院したせいで、殊ちゃんに悪いことをしちゃったって思ってるんだ。一人にさせたから」
 
 穂波殊と関係のある、あまり多くのない人々がそのあと口々にするのは、「穂波さん、殊、殊ちゃんには、学校に行ってほしい」というものであって、それはなんだか、希望や願いに近いものがあった。
 そして、私は穂波殊の家の前に立っている。
 学校に行くという、穂波殊の物語は始まるのだろうか。

       

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