月がきれい
3.「幸せ」18/02/26
幸せ
白い日傘を差した少女が、夏の照り返しで蒸し上がったアスファルトの上を一歩、その一歩を確かめるように歩いている。建物の影に入り、日傘を折りたたむまで、階上で窓からその姿を眺め続けた少女は、嬉しいのか口元に笑みを浮かべて、ブラシを手に取り髪を梳かし始めた。
しばらくしてから、水色のブラウスにデニムを履いたラフな格好の小さな少女は、「来たよ」と静かに告げて、ベッドに歩み寄り、トートバッグから包みを取り出した。
「これ、売店で売ってたキャラメル。前に食べたいって言ってたでしょ」
手に持ったそれを見て、ベッドの上の少女は目を輝かせて、笑顔を浮かべた。
「うわあ、リンちゃん、ありがとう。お姉ちゃんから病院の食事以外だめって言われてるからさ、甘いもの、ほんとに食べたかったの」
そう喋りながらフィルムの包みの角を立てようとしているのを見て、一拍おいてから「貸して、開けてあげる」と言った。
「いつ退院なの?」
「うんとね、頭は特に問題がなかったら、今週の水曜日にはお家に帰れると思う」
「そっか……、良かった。学校に早くおいでよ、みんな心配してる」
一つ二つとキャラメルに手を伸ばす少女をよそに、椅子に座ったリンという少女は、バッグからハードカバーの本を取り出すと、読書に耽り出す。季節は夏に入ったばかりで、無機質な個室の天井の空調機に取り付けられたファンが小気味よく周り続けている。ちら、ちらと、リンは本から目を離して、病床の彼女に目をやり続けて、キャラメルを食べる終わるのを待っているようだった。
最後の包みが開けられたところで、本を閉じて、
「こういうことって、よくあったんだってね」と尋ねた。
「うん、高校に入ってすぐから」
リンは一つ溜息をついて目を閉じた。
「そういうこと一切、知らなかったから。教えてくれたら、いろいろ力になってあげられたのに。どうして?」
少女ははにかんだ。
「リンちゃんには迷惑かけられないな、って思って」
「もう迷惑かけてるじゃん」
「えへへ……、それも、そうだね」
カーテンから覗く青空を傾ぎながら見つめ、でもね、と少女は続ける。「あの本栖湖で出会えたことが奇跡のようだったから。それを私の病気のせいにしたら、何かやだな、って」
「なにそれ、よく分かんないよ」 リンは薄く笑った。
「……もう一度、キャンプしたかったね」
「退院したらできるよ。上高地のキャンプも、ツリーハウスで泊まる話も、夏休みの予定はまだ何も決まってないし」
「いやね、リンちゃんと、冬のキャンプがしたかったの。あれ、おかしいかな、キャンプはこれから夏にやるものなのに……」
頬を濡らし始めた少女に、リンは淡々と語りかける。
「また、できるよ。だからもう無理しないで」
「私ね、日に日に体が透き通っていくような感覚になるの。今年は大丈夫でも、きっと、いつか、透明になって、リンちゃんにも忘れられる」
「私は覚えてる」
「本当に?」
「薪を炊き上げた時の(おき)熾の匂いも、一緒に肩を並べて寝袋で寝た時のテントの中の匂いも、一緒に食べたお鍋の夕餉の匂いも……」
「ご飯や薪と一緒にされたら困りますよ、リンちゃん」
「テントって誰かと一緒に寝ると人の匂いが色濃く感じるなんて知らなかったから。あれは、いい匂いだったし……」
少女は泣いた後の腫れぼったい目を薄く引き伸ばした。
「あのさ、だから、私は、なんでもする。いい大学に入って病理学者になって……、今はそんなに頭が良くないけど」「うん」「それがだめなら、世界中のパソコンを並列接続させて、原因を解析させるよ……今は、マイニングのせいでGPUが不足してるけど……」「うん……」「それがだめなら、わたしが全部支える。手が使えなくなるなら、手の代わりになる。足がなかったら支えるよ……。魔王だったら世界の半分をあげる……」
「もういいよ、それで十分だよ」
リンは立ち上がってバッグを手に取った。中座するのだろうかと、ずっと視点を追い続けると、トートバッグの中を弄り、夏には不似合いなケープコートを取り出して羽織りだした。
「そういえば、周りの人、いないね」
少女は、左奥の患者は検査で異常な数値が出たため他病棟へ移されたのだと言った。隣の患者は恢復に向かい先週退院し、左隣の患者は知らないと言う。
「それなら、大丈夫だね。ちょっと体ごと窓の方を向いて」
そっと間仕切りのカーテンレールを引っ張って只、二人きりの空間を作ると、シルエットだけが浮かび上がり、
「分かる? 冬の匂い……」
「うん、懐かしい……あったかい……」
「あったかいね……」
「あっ! 今日、お父さんが来るんだった!」
と少女が声を上げると、リンは間仕切りを開けながら「私、そろそろ帰ろうかな」と返した。
ばいばい、と手を振る少女の声を背中を受けながらリンは病室から離れていく。
「あっ……、以前は鰻をご馳走して貰ってありがとうございます」
「いつも娘と仲良くしてもらってるからこのぐらいは。こっちこそありがとうね」
開け放たれたドアから漏れてくる声から、帰り際にリンは少女の父と会ったのだろう。
すぐに少女の父はやってきて開口一番に、
「どうしたんだい、なでしこ。涙なんか流して。リンちゃんと喧嘩でもした?」
目を丸くした父親を前に、
袖で涙を拭いながら、なでしこは言う。
「ううん、幸せ」
しばらくしてから、水色のブラウスにデニムを履いたラフな格好の小さな少女は、「来たよ」と静かに告げて、ベッドに歩み寄り、トートバッグから包みを取り出した。
「これ、売店で売ってたキャラメル。前に食べたいって言ってたでしょ」
手に持ったそれを見て、ベッドの上の少女は目を輝かせて、笑顔を浮かべた。
「うわあ、リンちゃん、ありがとう。お姉ちゃんから病院の食事以外だめって言われてるからさ、甘いもの、ほんとに食べたかったの」
そう喋りながらフィルムの包みの角を立てようとしているのを見て、一拍おいてから「貸して、開けてあげる」と言った。
「いつ退院なの?」
「うんとね、頭は特に問題がなかったら、今週の水曜日にはお家に帰れると思う」
「そっか……、良かった。学校に早くおいでよ、みんな心配してる」
一つ二つとキャラメルに手を伸ばす少女をよそに、椅子に座ったリンという少女は、バッグからハードカバーの本を取り出すと、読書に耽り出す。季節は夏に入ったばかりで、無機質な個室の天井の空調機に取り付けられたファンが小気味よく周り続けている。ちら、ちらと、リンは本から目を離して、病床の彼女に目をやり続けて、キャラメルを食べる終わるのを待っているようだった。
最後の包みが開けられたところで、本を閉じて、
「こういうことって、よくあったんだってね」と尋ねた。
「うん、高校に入ってすぐから」
リンは一つ溜息をついて目を閉じた。
「そういうこと一切、知らなかったから。教えてくれたら、いろいろ力になってあげられたのに。どうして?」
少女ははにかんだ。
「リンちゃんには迷惑かけられないな、って思って」
「もう迷惑かけてるじゃん」
「えへへ……、それも、そうだね」
カーテンから覗く青空を傾ぎながら見つめ、でもね、と少女は続ける。「あの本栖湖で出会えたことが奇跡のようだったから。それを私の病気のせいにしたら、何かやだな、って」
「なにそれ、よく分かんないよ」 リンは薄く笑った。
「……もう一度、キャンプしたかったね」
「退院したらできるよ。上高地のキャンプも、ツリーハウスで泊まる話も、夏休みの予定はまだ何も決まってないし」
「いやね、リンちゃんと、冬のキャンプがしたかったの。あれ、おかしいかな、キャンプはこれから夏にやるものなのに……」
頬を濡らし始めた少女に、リンは淡々と語りかける。
「また、できるよ。だからもう無理しないで」
「私ね、日に日に体が透き通っていくような感覚になるの。今年は大丈夫でも、きっと、いつか、透明になって、リンちゃんにも忘れられる」
「私は覚えてる」
「本当に?」
「薪を炊き上げた時の(おき)熾の匂いも、一緒に肩を並べて寝袋で寝た時のテントの中の匂いも、一緒に食べたお鍋の夕餉の匂いも……」
「ご飯や薪と一緒にされたら困りますよ、リンちゃん」
「テントって誰かと一緒に寝ると人の匂いが色濃く感じるなんて知らなかったから。あれは、いい匂いだったし……」
少女は泣いた後の腫れぼったい目を薄く引き伸ばした。
「あのさ、だから、私は、なんでもする。いい大学に入って病理学者になって……、今はそんなに頭が良くないけど」「うん」「それがだめなら、世界中のパソコンを並列接続させて、原因を解析させるよ……今は、マイニングのせいでGPUが不足してるけど……」「うん……」「それがだめなら、わたしが全部支える。手が使えなくなるなら、手の代わりになる。足がなかったら支えるよ……。魔王だったら世界の半分をあげる……」
「もういいよ、それで十分だよ」
リンは立ち上がってバッグを手に取った。中座するのだろうかと、ずっと視点を追い続けると、トートバッグの中を弄り、夏には不似合いなケープコートを取り出して羽織りだした。
「そういえば、周りの人、いないね」
少女は、左奥の患者は検査で異常な数値が出たため他病棟へ移されたのだと言った。隣の患者は恢復に向かい先週退院し、左隣の患者は知らないと言う。
「それなら、大丈夫だね。ちょっと体ごと窓の方を向いて」
そっと間仕切りのカーテンレールを引っ張って只、二人きりの空間を作ると、シルエットだけが浮かび上がり、
「分かる? 冬の匂い……」
「うん、懐かしい……あったかい……」
「あったかいね……」
「あっ! 今日、お父さんが来るんだった!」
と少女が声を上げると、リンは間仕切りを開けながら「私、そろそろ帰ろうかな」と返した。
ばいばい、と手を振る少女の声を背中を受けながらリンは病室から離れていく。
「あっ……、以前は鰻をご馳走して貰ってありがとうございます」
「いつも娘と仲良くしてもらってるからこのぐらいは。こっちこそありがとうね」
開け放たれたドアから漏れてくる声から、帰り際にリンは少女の父と会ったのだろう。
すぐに少女の父はやってきて開口一番に、
「どうしたんだい、なでしこ。涙なんか流して。リンちゃんと喧嘩でもした?」
目を丸くした父親を前に、
袖で涙を拭いながら、なでしこは言う。
「ううん、幸せ」